しかたじょう

志方城

兵庫県加古川市

別名 : 観音寺城、船原城、市易城
旧国名 : 播磨

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しんしんちゃん

観音寺が本丸跡 (2023/12/30 訪問)

志方城は赤松円心の四男・氏則によって築かれたとされています。戦国期の城主は櫛橋氏とされ伊則の時に三木城の別所長治の与力として戦い落城したとされています。観音寺が本丸跡とされ西に二の丸、北の志方小学校も郭の跡とされています。観音寺の東側に水堀跡(空堀跡)と見られる場所があり、かつては皿池のあたりとも水彫りで繋がっていたようです。

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黒田官兵衛妻の実家 (2022/10/08 訪問)

 黒田官兵衛の妻の実家として知られている城で、観音寺の境内が本丸跡と伝わっています。遺構はないと思われます。

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イシテル

播磨の歴史を巡る御城印:その2 (2022/05/04 訪問)

志方城は黒田官兵衛の妻:光(てる)の所縁の城。天正六年(1578)、羽柴秀吉の攻略で落城。
今は本丸跡は観音寺の境内、二の丸が志方小学校、西の丸が旧志方町役場のあたりと言われています。
本丸のあった観音寺の山門裏に城址標と説明板がありますが、説明板が樹木で隠れて見え難い....。
志方城の御城印は、加古川市立総合体育館で購入できます。

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ぴーかる

志方城 (2022/01/15 訪問)

【志方城】
<駐車場他>観音寺専用駐車場3台程度あり。
<交通手段>車

<感想>現地説明板によると志方城は現在の観音寺を本丸とし北の志方小学校が二の丸、旧志方町役場あたりが西の丸であったようです。城主の櫛橋家は伊朝を祖として代々赤松氏の重臣となっていた。櫛橋則伊は赤松政則に重んじられ1481年北にある天神山城を築城し、1492年に志方城を築城します。その後四代続いたのち櫛橋氏は秀吉の播磨攻めに際し別所氏に味方したために攻略される。伊定の娘光(てる)は黒田官兵衛の奥方であったことから残った一族は博多藩士となっている。遺構は観音寺山門脇に内堀が残っています。

<感想>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 櫛橋則伊
築城年 明応元年(1492)
主な城主 櫛橋氏
遺構 消滅
再建造物 碑、説明板
住所 兵庫県加古川市志方町志方(観音寺)
問い合わせ先 加古川観光協会
問い合わせ先電話番号 079-424-2170