いくぼじょう

飯久保城

富山県氷見市

別名 : 伊久保城、飯窪城、伊窪村山城
旧国名 : 越中

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小城小次郎

在地勢力狩野氏とともに (2023/04/23 訪問)

一向一揆に追われて加賀を逃れた狩野氏が越中で構えた拠点らしい。神保氏や上杉氏に仕えた狩野氏はいつの頃にか飯久保を離れ、飯久保城もそのまま歴史の闇に消えた。今は地元の方が草刈りや遊歩道整備を行ってくれている。

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ぴーかる

飯久保城 (2023/04/01 訪問)

【飯久保城】
<駐車場他>①城飯久保公民館 ②竹ドーム入口横の空き地<36.805205, 136.958580> ③高速道路高架下<36.805470, 136.952191>
<交通手段>車

<見所>堀切・尾根曲輪・枡形虎口
<感想>1泊2日北陸山城攻めの旅4城目。飯久保城は加賀の在地領主であった狩野氏によるもので、加賀の一向一揆から落ち延びてこの越中国氷見に定住した1488年以降に築城したと思われます。氷見の南部を支配して詰城の鞍骨山城(城びと未登録)・惣領砦(城びと登録城)を築いて拠点としていました。狩野氏は守護代の神保氏に仕えていたようで、その後は佐々成政に仕え秀吉が越中国に攻め込んでいた時に落城しその後廃城となったようです。
 登城された投稿が無いのでここは拙文ながら頑張って詳細に。登城口は飯久保八幡宮横からと東方向の上記の竹ドーム(公会堂)からの2か所あります。私は八幡宮から登城し、尾根を通って竹ドームに出ました。八幡宮の鳥居から進み、右手の階段を登ると八幡宮、直進の山に入ると登城道となります。比高が60m程しかないので少し登ると土塁が見えてきて大手の枡形虎口があります。虎口から先が鬱蒼としてきて、湧き水地がありますが笹薮化しています。湧き水地のある谷のような小さい曲輪のような鬱蒼とした斜め地の上の段がもう主郭になります。主郭は15×30m程の小さな曲輪で東と南に高土塁があります。土塁の北東端が櫓台になっています。主郭内部と周辺も鬱蒼としてあまり整備されていません。城びとのポイントが主郭の南側に置かれていたので、主郭の南側が気になりましたがここも行ける状態ではありませんでした。主郭の東側土塁の東側が深い堀切になっており、堀切先に曲輪があります。ほぼ笹で埋まって踏み跡道しかないですがやや広めな曲輪と思います。そこから尾根曲輪と薄くなっているが連続堀切が続いて鉄塔の建てられている削平地の手前に明瞭な堀切がありますのでここまでが城跡かと思いました。現地説明板にも東西400mとありましたので合致するかと。その堀切を北に下っていくと地元の集会で使われるような竹組の屋外公会堂があり麓に出ます。
 鬱蒼としていたので明瞭さには欠けているが、この城が狩野氏の本城とする意見もあるようだが、主郭をはじめ広い曲輪が見受けられなかったので私の意見はこの城は砦レベルの規模で惣領砦も1㎞程しか離れていないことから東方向を守る惣領砦と連携した砦と感じました。

<満足度>◆◆◇

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:飯久保城 (2022/07/31 訪問)

守山城からの転戦です。飯久保八幡宮入口(36.805140、136.954456)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、狩野氏によって築かれたと云われています。
狩野氏については詳らかではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)には飯久保城に在城しており、神保長職に従っていたようです。
その後、越中を支配した上杉謙信、佐々成政に従いました。
1585年(天正13年)佐々成政が羽柴秀吉に降ると狩野氏もまた飯久保城を明け渡して退去したと考えられています。

路駐場所が狭く民家前だったので登城せず、飯久保八幡宮に参拝して引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=惣領砦に向かいます。

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居眠狂四郎

飯久保城 (2014/10/19 訪問)

惣領砦至近。こちらも比較的明瞭に遺構が残ります。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 狩野氏
築城年 長享2年(1488)以降
主な改修者 佐々氏?
主な城主 狩野氏、三善氏
廃城年 天正13年(1585)以降
遺構 曲輪、土塁、堀切、竪堀、枡形虎口
再建造物 説明板
住所 富山県氷見市飯久保字向山
問い合わせ先 富山県埋蔵文化財センター
問い合わせ先電話番号 076-434-2814