「桃太郎さん♪、桃太郎さん♬~・・」岡山駅10番ホームに流れるこの発車の合図を聴きながら、JR桃太郎線(吉備線)に乗り20分、備中高松駅に到着です(写真⑨)。そこから高松城へは、徒歩で10分程でした。
備中高松城は2度目ですが、確かに以前より資料館がきれいになっていました(写真①)。そして城の本丸(中心部)へ立ってみました(写真③)。当時は360°田んぼだったので、確かにここは湿地帯の真ん中だったという事がよく確認できます。時は移り、昭和60年にも洪水で水没した事があるそうです(写真④)。
1582年備前の宇喜多直家の調略に成功した秀吉は、備中に入りまず境目七城の冠山城を加藤清正・藤堂高虎・直家の子の宇喜多秀家らに攻めさせます。落城すると秀吉軍3万の軍勢は、東から北や西まで高松城を見下ろせる山々に布陣、七城の中心である高松城を取り囲みます。そこで官兵衛の発案で、秀吉は堤を築き水攻めを敢行しました。
吉川元春・小早川隆景の毛利の軍勢が陣を敷いた南の山々を眺めてみました(写真⑤)。到着した時にはすでに高松城は水没していたそうです。そして城主「清水宗治」の切腹をもって城兵5千の命は助けるという和議の条件を受け入れ、宗治は果てました(写真⑥)。
宗治が自刃した場所へ行ってみました(写真⑧)。船で城から漕ぎ出し、秀吉から見えるこの場所まで来て、この句を詠み船の上で切腹したようです。
浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の
名を高松の 苔に残して (写真⑦)
この様子を見ていた秀吉は、「見事じゃ! 宗治は武士の鑑である」と称賛したそうです。
私は備中高松城の本丸のベンチに座り、岡山駅で買った「きびだんご」を食べながら、ここが水没している姿を想像していると、ふと疑問が。あれ? そういえば秀吉や秀長も「きびだんご」は食べたのだろうか🤔?(写真⑩)。
次は、ここから秀吉や秀長の陣跡まで歩き、そこから備中高松城を眺めてみようと思います。
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