続日本100名城

びっちゅうたかまつじょう

備中高松城

岡山県岡山市

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備中高松城
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ホリタカ

清水宗治自刃の地 (2019/12/04 訪問)

城跡は公園になってて、特に遺構はないのですが、近くに清水宗治自刃の地があります。後の世の切腹の作法の手本になったそうな。

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スプラNNNN

水攻めで有名らしい (2019/11/03 訪問)

吉備津神社に行ったついでによった。
水攻めで有名なので、歴史ファンが多いです。

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つちなり

日本人の魂 (2019/10/05 訪問)

備中高松城を語るうえで、清水宗治の存在は欠かせない。

西暦1582年。時は戦国。
のちの天下人・羽柴秀吉は西国の大大名毛利氏を討つべく中国地方に侵攻。備中高松城の城主清水宗治と対峙した。
 備中高松城は周囲を沼地に囲まれていて、非常に攻めづらい。そこで秀吉の軍師黒田官兵衛は「水攻め」を決断する。足守川を決壊させる一方で、3㎞以上に及ぶ堤防を築いた。そして降雨により、瞬く間にお城は湖に浮かぶ孤島となってしまった。
 結局この戦は宗治の切腹をもって決着。毛利氏は織田の軍門に降り、秀吉は「本能寺の変」で討たれた主君信長の敵を討つため、即座にこの地をたった。

 宗治は秀吉から、寝返りなど命を保証する話を持ちかけられていたが、これをすべて固辞。毛利氏への忠義を尽くすため、そして領民の命を守るために自らの命を散らした。
 私はここに日本人が古くから育んできた「武士道」の精神を感じる。戦国時代は武士同士が時には農民や僧侶なども巻き込んで覇権を争った時代。その争いの多くは己自身ではなく、他の誰かのためであったのではないかと思う。だからこそ強くなれたのだと。
 そしてこの精神は、単なる歴史の1ページで終わるものではなく、現代の日本人に脈々と受け継がれている。
 時は流れ20世紀。日本による真珠湾攻撃を目の当たりにしたアメリカ兵は、決して民間人を巻き込まぬように、軍事施設のみを攻撃した日本軍の技術の高さとその心に驚き、敵であるにも関わらず今も「リスペクト」している。
その証に、当時真珠湾で亡くなった日本兵の亡骸を、アメリカ人と同様に海に手厚く葬っている。
人が人を想う心に国も時代も関係ないのだ。

 備中高松城は今では城址公園となっているが、清水宗治を祀る場所は4つある。
 舞を舞い切腹したとされる自刃の地、秀吉が陣を敷いていた石井山に残る供養塔跡、その供養塔を本丸跡に移築した首塚、そして家臣が宗治の遺体を埋めたとされる胴塚。

 備中高松城には天守はなく、石垣もない。しかしそこには日本人の魂が静かに眠っている。

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ぴーかる

蛙ヶ鼻築堤跡・清水宗治公首塚 胴塚 自刃の地 (2019/09/19 訪問)

【備中高松城】
<感想>日帰り備中境目7分の3城攻めの旅、1城目。備中境目7城とは備中における毛利軍の対秀吉の防衛ラインで毛利に味方する豪族がほぼ南北に守る城7つのこと。今回の旅はその内の3城とプラス2城を攻めた。
 備中高松城は2度目の訪城で今回は見逃した蛙ヶ鼻築堤跡・清水宗治公の胴塚・自刃の地をメインに行った。
 最初に蛙ヶ鼻築堤跡に行った。そばに駐車場があるが、狭い道を進むので注意が必要です。築堤跡は秀吉本陣の石井山の南側から少しだけ土塁が残っている。築堤は明治までは結構残っていたそうで、鉄道敷設の際に土砂を持っていったそうだ。秀吉本陣跡に行けば別だが、この築堤跡からでも少し高い位置にあり、城跡方向や築堤の塁線、足守川の水の引きこみ方向が確認できて秀吉・官兵衛の城攻めのダイナミックさが実感でき見に来てよかった。
 そのあと城跡に行って資料館を再見学、前回行かなかった胴塚と見付けられなかった自刃の地をお参りした。見付けられなかったのは前回造り替えの工事中でブルーシートで囲っていたからでした。現在はきれいな石碑があります。「ごうやぶ遺跡」は宗治公の家臣2人が刺し違えて殉じた場所で瓦で作った祠がある。ここもお参りして終了した。

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城郭情報

城地種類 平城(沼城)
築城年代 16世紀後半か
築城者 石川氏
主要城主 清水氏
文化財史跡区分 国指定史跡
近年の主な復元・整備 公園として整備
主な関連施設 高松城址公園資料館
主な遺構 石積、築堤跡
住所 岡山県岡山市北区高松
問い合わせ先 岡山市 北区役所 土木農林分室
問い合わせ先電話番号 086-286-9070