かんきじょう

神吉城

兵庫県加古川市

別名 : 真名井城、奈幸子城
旧国名 : 播磨

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①常楽寺山門
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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:神吉城 (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
宝殿駅から徒歩30分くらいで、常楽寺南側駐車場(34.794493、134.829361)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、赤松則村の子孫の赤松範次によって築かれた城で、範次の子である元頼が神吉氏を称すると以後代々、神吉氏の居城となりました。
神吉頼定が城主の1578年(天正6年)に「三木合戦」が起こると、頼定は同じ赤松氏一族の別所氏に味方したため、織田信忠・明智光秀・佐久間信盛・荒木村重ら約3万人で攻められ落城しました。

自分は徒歩で攻城しましたが、周辺道路はすごく狭いので、車で攻城する人はとても注意が必要です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=志方城へ向かう前にホテルに戻って朝食を取る為、神吉バス停からバスで加古川駅に向かいました。

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しんちゃん

裏切りにてあえなく落城 (2023/12/30 訪問)

神吉城は赤松氏の一族の神吉氏によって築かれたとされています。初代城主は赤松円心の子孫の赤松範次の子・元頼で神吉氏を称したとされています。河岸段丘である神吉集落全域に築かれており、中の丸(本丸)跡である常楽寺を中心に東に東の丸、北に二の丸、西に西の丸が築かれ、周囲に大きな空堀を有していたようです。また本丸の周囲にも空堀が配されていたようです。
天正6年(1578)三木合戦が始まると、城主神吉頼定は別所氏に味方し、三木の大村坂では羽柴軍に勝利するものの、6月23日の神吉合戦では2000の守兵で3万の攻め手と戦ったそうです。この合戦の際、頼定の叔父・神吉貞光が佐久間信盛の調略を受け頼定を暗殺し、城は落城したとされています。

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神吉頼定 (2022/10/08 訪問)

 三木合戦の激戦地として伝わる城です。常楽寺付近が本丸跡と伝わっています。遺構はありません。

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イシテル

播磨の歴史を巡る御城印:その3 (2022/04/10 訪問)

神吉城は、天正六年(1578)の羽柴秀吉の播磨攻めで約3万の大軍の包囲をわずか千名ほどの城兵で抵抗し何度も攻撃を撃退したが、度重なる攻撃に城兵は討死、落城となったと伝えられている。
東西57間(約104m)、南北43間(約78m)の規模であったとのこと、勇敢な播磨武士の心意気が伺えます。
現在の常楽寺が中の丸。御城印も常楽寺で購入できます(御城印をいただきに5月4日に再登城)。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 赤松範次
築城年 南北朝時代
主な改修者 神吉氏
主な城主 神吉(赤松)氏
廃城年 天正6年(1578)
遺構 土塁、横堀(空堀)
再建造物 説明板
住所 兵庫県加古川市東神吉町神吉
問い合わせ先 加古川観光協会
問い合わせ先電話番号 079-424-2170