かこがわじょう

加古川城

兵庫県加古川市

別名 : 糟屋の館、糟屋氏館、糟谷城、加須屋城
旧国名 : 播磨

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称名寺山門
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みんなの口コミ

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朝田 辰兵衛

土砂降りの雨が上がったので…🌥 (2024/06/23 訪問)

土砂降りの雨が上がったのですが,中途半端な時間だったので,神社仏閣城をチョイスしました。「まだ閉門前だろ…」ということで。
加古川城へは称名寺を目指します。JR加古川駅から,徒歩約20分で到着。他の方より遅かったのは,ことごとく信号に引っかかったせいかな…と思います。

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しんちゃん

加古川評定と賤ヶ岳の七本槍 (2023/12/30 訪問)

加古川城の歴史は古く、寿永3年(1184)糟谷有季が印南郡南条郷を与えられ、その時に加古川城を築いたと考えられています。鎌倉時代には播磨の守護所であったとされ糟谷氏は守護代の職にあったのではないかと考えられています。同族と思われる糟谷氏は六波羅検断職にありましたが六波羅探題の滅亡に際して一族共に近江・蓮華寺で自害してしまいます。播磨の糟谷氏は行き残ったものが赤松氏に仕えたとされています。
天正5年(1577)羽柴秀吉が毛利討伐の議を「糟谷の館」で開いたとされ、これが加古川城とされています。12代当主の糟谷武則は秀吉に味方し加古川城は三木城攻めの重要な拠点になったようです。武則は後に賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ七本槍の一人とされ加古川城主として3万5000石を与えられています。
城跡は現在称名寺の境内になっており、お城の櫓のようなイケてるお堂が建っています。門前の溝がお堀に見えて仕方がないです。

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加古川評定 (2022/10/08 訪問)

 JR加古川駅から徒歩約15分で城址といわれている称名寺に行くことができます。糟屋武則が城主を務めたこともある城です。遺構はありません。
 境内には南北朝時代、塩治高貞が加古川で追手に襲われた際、主君を守ろうとして奮死した従臣7名を供養するために建立された七騎供養塔があります。塩屋高貞は人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩治判官のモデルとなった人です。

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ぴーかる

加古川城 (2022/01/15 訪問)

【加古川城】
<駐車場他>称名寺専用駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>加古川城は承久の乱後の1221年後に糟屋有教によって築城されたとされる。鎌倉時代には糟谷氏は播磨守護代となり、加古川城は守護所となった。時代が下って1577年、羽柴秀吉が毛利討伐の為の軍議がここで行われ(加古川評定)、別所氏の離反がここで決定的となる。この時の12代加古城主の糟屋武則は秀吉の小姓頭となり、賤ヶ岳の戦いで七本槍の1人となり最盛期には12000石の大名となるが糟谷氏は関ヶ原合戦で西軍に付き改易される。糟屋武則の晩年は諸説あり不明瞭で加古川城は1615年廃城となる。
 現在の城跡地は称名寺となっていて遺構はほぼ残っていないようで周囲にある水路が何らかの跡かと思われるものがある。平地にあり、当時は五十間(約90m)四方の方形平城であったようです。

<満足度>◆◇◇
<グルメ>加古川グルメと言えばかつめし。「本家かつめし亭」にて特選かつめしのご飯大盛を食しました。ご飯にビーフかつ、デミグラスソースをかけたものです。ソース多め無料です。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 糟屋有数
築城年 寿永2年(1183)
主な改修者 糟屋氏
主な城主 糟屋氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 消滅
再建造物 説明板
住所 兵庫県加古川市加古川町本町