かこがわじょう

加古川城

兵庫県加古川市

別名 : 糟屋の館、糟屋氏館、糟谷城、加須屋城
旧国名 : 播磨

投稿する
①称名寺山門
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:加古川城 (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)から徒歩15分くらいで、称名寺入口付近(34.768278、134.8310973)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に加須屋氏(糟谷)によって築かれたと云われて、播磨守護代である糟屋氏代々の居城でした。
糟谷氏は相模国大住郡糟屋荘発祥で藤原氏の末裔のようで、1184年(寿永3年・元暦元年)源頼朝に属して平氏討伐に功を挙げた有李が、播磨国印東郡南条郷を得たことに始まるそうです。
加古川城は播磨守護代である糟屋氏代々の居城で、「賤ヶ岳七本槍」に数えられた糟谷武則の居城でした
1577年(天正5年)には羽柴秀吉を中心に毛利氏討伐の軍議がこの城で開かれました(加古川評定)。
このとき三木城主・別所長治の代理で出席した別所吉親が秀吉と不仲となり、三木合戦の原因となったそうです。
この三木城合戦で糟谷氏は別所方と羽柴方に別れて、羽柴方についた糟谷武則は後の賤ヶ岳合戦で七本槍の一人と数えられ、加古川城を居城として35,000石を領したが、関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となりまし。

現在城址は称名寺の境内となっているようですが、朝早い為、山門は閉まってました。。
山門の屋根に高砂神社でも見た屋根に鬼がいました。それと山門前の砂地になぜ瓦の破片があるか謎です?
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=神吉城に行く為、加古川駅から電車で宝殿駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

土砂降りの雨が上がったので…🌥 (2024/06/23 訪問)

土砂降りの雨が上がったのですが,中途半端な時間だったので,神社仏閣城をチョイスしました。「まだ閉門前だろ…」ということで。
加古川城へは称名寺を目指します。JR加古川駅から,徒歩約20分で到着。他の方より遅かったのは,ことごとく信号に引っかかったせいかな…と思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

加古川評定と賤ヶ岳の七本槍 (2023/12/30 訪問)

加古川城の歴史は古く、寿永3年(1184)糟谷有季が印南郡南条郷を与えられ、その時に加古川城を築いたと考えられています。鎌倉時代には播磨の守護所であったとされ糟谷氏は守護代の職にあったのではないかと考えられています。同族と思われる糟谷氏は六波羅検断職にありましたが六波羅探題の滅亡に際して一族共に近江・蓮華寺で自害してしまいます。播磨の糟谷氏は行き残ったものが赤松氏に仕えたとされています。
天正5年(1577)羽柴秀吉が毛利討伐の議を「糟谷の館」で開いたとされ、これが加古川城とされています。12代当主の糟谷武則は秀吉に味方し加古川城は三木城攻めの重要な拠点になったようです。武則は後に賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ七本槍の一人とされ加古川城主として3万5000石を与えられています。
城跡は現在称名寺の境内になっており、お城の櫓のようなイケてるお堂が建っています。門前の溝がお堀に見えて仕方がないです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

加古川評定 (2022/10/08 訪問)

 JR加古川駅から徒歩約15分で城址といわれている称名寺に行くことができます。糟屋武則が城主を務めたこともある城です。遺構はありません。
 境内には南北朝時代、塩治高貞が加古川で追手に襲われた際、主君を守ろうとして奮死した従臣7名を供養するために建立された七騎供養塔があります。塩屋高貞は人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩治判官のモデルとなった人です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 糟屋有数
築城年 寿永2年(1183)
主な改修者 糟屋氏
主な城主 糟屋氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 消滅
再建造物 説明板
住所 兵庫県加古川市加古川町本町