かこがわじょう

加古川城

兵庫県加古川市

別名 : 糟屋の館、糟屋氏館、糟谷城、加須屋城
旧国名 : 播磨

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すごくイケてるお堂
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しんしんちゃん

加古川評定と賤ヶ岳の七本槍 (2023/12/30 訪問)

加古川城の歴史は古く、寿永3年(1184)糟谷有季が印南郡南条郷を与えられ、その時に加古川城を築いたと考えられています。鎌倉時代には播磨の守護所であったとされ糟谷氏は守護代の職にあったのではないかと考えられています。同族と思われる糟谷氏は六波羅検断職にありましたが六波羅探題の滅亡に際して一族共に近江・蓮華寺で自害してしまいます。播磨の糟谷氏は行き残ったものが赤松氏に仕えたとされています。
天正5年(1577)羽柴秀吉が毛利討伐の議を「糟谷の館」で開いたとされ、これが加古川城とされています。12代当主の糟谷武則は秀吉に味方し加古川城は三木城攻めの重要な拠点になったようです。武則は後に賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ七本槍の一人とされ加古川城主として3万5000石を与えられています。
城跡は現在称名寺の境内になっており、お城の櫓のようなイケてるお堂が建っています。門前の溝がお堀に見えて仕方がないです。

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加古川評定 (2022/10/08 訪問)

 JR加古川駅から徒歩約15分で城址といわれている称名寺に行くことができます。糟屋武則が城主を務めたこともある城です。遺構はありません。
 境内には南北朝時代、塩治高貞が加古川で追手に襲われた際、主君を守ろうとして奮死した従臣7名を供養するために建立された七騎供養塔があります。塩屋高貞は人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩治判官のモデルとなった人です。

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ぴーかる

加古川城 (2022/01/15 訪問)

【加古川城】
<駐車場他>称名寺専用駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>加古川城は承久の乱後の1221年後に糟屋有教によって築城されたとされる。鎌倉時代には糟谷氏は播磨守護代となり、加古川城は守護所となった。時代が下って1577年、羽柴秀吉が毛利討伐の為の軍議がここで行われ(加古川評定)、別所氏の離反がここで決定的となる。この時の12代加古城主の糟屋武則は秀吉の小姓頭となり、賤ヶ岳の戦いで七本槍の1人となり最盛期には12000石の大名となるが糟谷氏は関ヶ原合戦で西軍に付き改易される。糟屋武則の晩年は諸説あり不明瞭で加古川城は1615年廃城となる。
 現在の城跡地は称名寺となっていて遺構はほぼ残っていないようで周囲にある水路が何らかの跡かと思われるものがある。平地にあり、当時は五十間(約90m)四方の方形平城であったようです。

<満足度>◆◇◇
<グルメ>加古川グルメと言えばかつめし。「本家かつめし亭」にて特選かつめしのご飯大盛を食しました。ご飯にビーフかつ、デミグラスソースをかけたものです。ソース多め無料です。

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勝野武士

加古川評定の舞台。吉親ェ… (2019/01/19 訪問)

高砂城と高砂町探訪を済ませたついでに寄ってみました。
個人的には十数年以上ぶりの訪城となりました。

築城年はかなり古く、遅くとも承久3年(1221年)以降には築かれていたようです。
この地は西国街道(山陽道)を監視出来るような立地でした。実際、明治に入るまで防備上の観点から加古川に橋が架けられることはなかったので、街道での防備上それなりに重要な地点だったようです。
加古川の水運も監視できますし、渡し船の船着場の跡もすぐ近くですし。

さて、話を戻しましょう。
どんな城だったかというと、『播磨鑑』によれば五十間(約90m)四方の規模であったらしい。城壁には狭間が空けられ、堀をめぐらして逆茂木を設けて、敵が容易に接近出来ないようにしていたらしい。
『播磨鑑』を真に受けると、城というより方形の居館に近かったようです。

また、江戸時代後期の絵図『播州三木城地図』に「加古糟谷城跡」として書き込まれてるようで、それによると堀と空堀で囲まれた三つの曲輪を持つ城であり、二十間(約36m)四方の一の曲輪、二つの櫓を持つ二の曲輪、それらとは独立した二十間(約31m)×四十間(約72m)の出曲輪から成っており、大手には階段、外周には土塁が作られていたという、『播磨鑑』とはまた違った内容も。

もっとも、『播磨鑑』の古い記述が享保4年(1719)。
んで、廃城が元和元年(1615)。
実に104年も経ってから書かれた文献なので、信憑性としては何とも微妙…。
『播州三木城地図』に至っては時代がさらに下る資料なので、言わずもがな。

発掘調査もされていないようで、はっきり言って実像が謎だらけの加古川城ですが、やはり有名なのは加古川評定でしょう。
詳細は省きますが、別所長治の代理として出席した別所吉親が秀吉を見下して軍議を決裂させたばっかりに、結果的に『三木の干殺し』の憂き目に遭うんですね。そして吉親は一人徹底抗戦の姿勢を貫こうとして開城間際に城兵に殺されちゃうという、何とも因果応報な結果に…。

播州攻めでいち早く秀吉に味方した糟屋氏。武則の代になると賤ヶ岳七本槍で有名となるほどの活躍ぶりで秀吉に大いに貢献。最終的に播州加古川一万二千石の大名に出世するのですが、時流を読み誤って関ヶ原で西軍に与して敗北、改易されてしまいます。
そして元和元年(1615年)6月15日付けで破却。廃城となってしまうのです。

現況ですが、称名寺一帯が城跡とされています。
残念ながら、表立って明確な遺構はほぼ皆無といって良い状況です。
しかし実際に訪れてみると、称名寺周辺に溝や水路など、思わせぶりな痕跡が。
地図を拡大してみると大きめの水路がしっかり書き込まれており、何らかの関係がありそうな??
山門の左右とかも微妙に起伏があります。
…まぁ、公的な調査資料がない以上、ほとんど推測しか出来ない現状です。

車で訪城の際は、称名寺門前の駐車場を利用すると良いでしょう。但し、あくまでお寺の駐車場なので、必要以上の長居は良くないかもです。
ニッケパークタウンの駐車場をお借りして寺家町(商店街が西国街道の加古川宿にあたります)探訪のついでに徒歩での訪城が無難です。
また、称名寺周辺は住宅密集地でもあるので、特に写真撮影などの際はくれぐれも不審者に間違われないようにw

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 糟屋有数
築城年 寿永2年(1183)
主な改修者 糟屋氏
主な城主 糟屋氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 消滅
再建造物 説明板
住所 兵庫県加古川市加古川町本町