昨日、明るいうちに神戸大阪京都を越えようと明石海峡大橋を走っていたら、事故渋滞の案内が・・・。
若狭経由で北陸へと、ルート変更。
旗日の今日は、県庁はじめ官公庁が休みなので絶好の登城日和(?)。
藩主が御座所の西三の丸から本丸へと入るのに使われた廊下橋が復元されている。
ある研究によると、いまは消滅した橋や城も含む数だが、かつて18か所もの廊下橋があったそうな。
復元ながら高松城・府内城・和歌山城などは、ちゃんと屋根もある廊下橋である。
その他は屋根なども無く普通の橋になっているが、絵図や記録には残っているそうだ。
「エッ! あの城の、あの橋も廊下橋だったのか!」。
そういえば今回の旅、5城目の佐伯城にも廊下橋があった。(ちょっとイメージとは違ったが・・・)
天守曲輪から眺めると、復元された廊下橋や外枡形の様子がよくわかる。
しかし過去に起きた福井地震のせいなのか、それとも別の原因なのかは分からないが、
この天守曲輪の足元の石垣が大きく孕んでいるのがとても気にかかる。
天守台はどうかといえば、液状化で陥没したのか中央はへこみ、石垣は大きくうねっている。
天守曲輪には控天守台というものがあり、これも大きく損壊している。
それにしてもこの控天守台とは、何? 小天守台なのか?
建物が建っていたのか? いずれ建てるつもりで準備して造ったのか?
本丸内部四方すべてに長い雁木が取囲んでいて、これほど大規模に造られた雁木を初めて見た。
復元図によれば四方すべての雁木の上部は、多門櫓や土塀で全面を固めている。
さすが越前宰相の城。
大手門傍の雁木と石垣の接合面も、隙間を小さい石で埋めるのではなくちゃんと一体加工していた。
(写真のナメクジが這っている石はヒビが入っているが、その下は無傷)
さて、北の庄城址まで歩き発掘された石垣を見てきた。
この場所は勝家が自害した北の庄城の、どの部分にあたる場所なのだろうか?
北の庄城の石は福井城に再利用されたらしいが、見てきた福井城はほとんど切り込み接ぎ。
目の前の石たちは、自然石。
ほとんどは外堀などの石垣に姿を変えたのだろうが、いまはそれも埋め立てられ道路や住宅の下に。
もし本丸に使われたことがあっても、表に出ない土台に使われたのだろう。
「いまは地中深くに埋もれておるが、いつか姿を見せるぞ。待っておれ。」 と思っていてくれればいいが。
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