(続き)
聚楽第の周囲には豊臣政権有力諸侯の屋敷が配されていました。もちろん往時の屋敷は残っていませんが、屋敷跡に石碑や説明板が立てられていたり、福島町(福島正則屋敷跡)や左馬松町(加藤左馬助嘉明屋敷跡)など、町名に痕跡が残っていたりするようなので、可能な限りめぐってみました。
木村長門守重成公旧舘地(京都市上京区長門町)
聚楽第南西部の弘誓寺が木村重成の屋敷跡で、山門外側左手に石碑が立てられています。また重成の官職名が町名に残っています。
豊臣秀勝邸跡伝承地(京都市上京区弁天町)
西部の土屋町通沿いの小さな祠の前に石碑と説明板が立てられています。この豊臣秀勝は秀吉の姉の子で浅井三姉妹・江の再婚相手の秀勝です。
上杉景勝屋敷跡(京都市上京区弾正町)
上杉景勝・直江兼続屋敷跡推定地(京都市上京区長尾町・直家町)
上杉景勝屋敷の比定地は2か所あり、有力なのは北東部の一条戻橋西入ルの弾正町(景勝の官職・弾正小弼にちなむ)ですが、南東部の毛利輝元屋敷(森中町)に東接していたとされることから長尾町(上杉氏の旧氏にちなむ)とする説もあるようで、それぞれの比定地に石碑と説明パネルが設けられています。また、長尾町説では南接する直家町に直江兼続屋敷があったと推定しています。直家町は宇喜多直家屋敷跡とも云われますが、直家は聚楽第築城のずっと前に亡くなっていますし、江戸初期まで直家町は「なおい」町と呼ばれていたらしく、「なおえ」が転じて「なおいえ」と伝わったとしても不思議はないかな、とも。
黒田如水邸趾(京都市上京区如水町)
北東部の一条通沿いに石碑が立てられています。また法名の如水が町名に残っています。
加藤清正邸跡伝承地(京都市上京区主計町)
東部の一条通沿いに石碑と説明板が立てられています。また加藤清正の官職名(主計頭)が町名に残っています。石碑は六角柱になっていて、正面の「加藤清正邸跡伝承地」の右面には「応仁の乱 洛中合戦勃発地」、左面には「藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡」、その左面には「筑前福岡黒田屋敷跡」と記されており、平安期以降の千年もの間、この地が様々な歴史の中心地だったことがよくわかります。
千利休居士聚楽屋敷趾(京都市上京区晴明町)
北東部の晴明神社が千利休の屋敷跡であり最期の地でもあります。四神門の南脇に石碑が立てられていました。また境内の晴明井は、利休が秀吉にふるまったり最後の茶を点てるのに用いた名水と伝わります。晴明神社もいつか行ってみたいと思っていたので、あわせて参拝しました。
この日の武家地屋敷跡めぐりはこんなところで。徳川家康邸跡を見落としてしまったのは悔やまれますが、その辺はまたの機会に。町名に名残を残すのみの屋敷跡はまだまだあるでしょうけど、考えてみれば、わずか8年しか存在しなかった城の屋敷跡が400年以上も後までその名を残し続けているわけですから、聚楽第が往時の京の人々にどれほど強烈なインパクトを与えたかを考えさせられました。
> しんちゃんさん
城めぐアプリの合戦イベントはお察しのとおり前田軍でした。特に前田利家が好きなわけでも、佐々成政が嫌いなわけでもありませんが、金龍紀行とかやってる身としては羽柴方の前田軍だよなぁ…ということで。ただ、そういう消極的な理由で参戦したのではあまり必死になれないんですよね。軍功もそこそこ止まりでした。
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