じゅらくだい

聚楽第

京都府京都市

別名 : 聚楽城、聚楽亭、内野御構
旧国名 : 山城

投稿する
木村長門守重成公旧舘地の石碑(弘誓寺)
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

イオ

武家地屋敷跡めぐり (2025/03/08 訪問)

(続き)

聚楽第の周囲には豊臣政権有力諸侯の屋敷が配されていました。もちろん往時の屋敷は残っていませんが、屋敷跡に石碑や説明板が立てられていたり、福島町(福島正則屋敷跡)や左馬松町(加藤左馬助嘉明屋敷跡)など、町名に痕跡が残っていたりするようなので、可能な限りめぐってみました。

木村長門守重成公旧舘地(京都市上京区長門町)
聚楽第南西部の弘誓寺が木村重成の屋敷跡で、山門外側左手に石碑が立てられています。また重成の官職名が町名に残っています。

豊臣秀勝邸跡伝承地(京都市上京区弁天町)
西部の土屋町通沿いの小さな祠の前に石碑と説明板が立てられています。この豊臣秀勝は秀吉の姉の子で浅井三姉妹・江の再婚相手の秀勝です。

上杉景勝屋敷跡(京都市上京区弾正町)
上杉景勝・直江兼続屋敷跡推定地(京都市上京区長尾町・直家町)
上杉景勝屋敷の比定地は2か所あり、有力なのは北東部の一条戻橋西入ルの弾正町(景勝の官職・弾正小弼にちなむ)ですが、南東部の毛利輝元屋敷(森中町)に東接していたとされることから長尾町(上杉氏の旧氏にちなむ)とする説もあるようで、それぞれの比定地に石碑と説明パネルが設けられています。また、長尾町説では南接する直家町に直江兼続屋敷があったと推定しています。直家町は宇喜多直家屋敷跡とも云われますが、直家は聚楽第築城のずっと前に亡くなっていますし、江戸初期まで直家町は「なおい」町と呼ばれていたらしく、「なおえ」が転じて「なおいえ」と伝わったとしても不思議はないかな、とも。

黒田如水邸趾(京都市上京区如水町)
北東部の一条通沿いに石碑が立てられています。また法名の如水が町名に残っています。

加藤清正邸跡伝承地(京都市上京区主計町)
東部の一条通沿いに石碑と説明板が立てられています。また加藤清正の官職名(主計頭)が町名に残っています。石碑は六角柱になっていて、正面の「加藤清正邸跡伝承地」の右面には「応仁の乱 洛中合戦勃発地」、左面には「藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡」、その左面には「筑前福岡黒田屋敷跡」と記されており、平安期以降の千年もの間、この地が様々な歴史の中心地だったことがよくわかります。

千利休居士聚楽屋敷趾(京都市上京区晴明町)
北東部の晴明神社が千利休の屋敷跡であり最期の地でもあります。四神門の南脇に石碑が立てられていました。また境内の晴明井は、利休が秀吉にふるまったり最後の茶を点てるのに用いた名水と伝わります。晴明神社もいつか行ってみたいと思っていたので、あわせて参拝しました。

この日の武家地屋敷跡めぐりはこんなところで。徳川家康邸跡を見落としてしまったのは悔やまれますが、その辺はまたの機会に。町名に名残を残すのみの屋敷跡はまだまだあるでしょうけど、考えてみれば、わずか8年しか存在しなかった城の屋敷跡が400年以上も後までその名を残し続けているわけですから、聚楽第が往時の京の人々にどれほど強烈なインパクトを与えたかを考えさせられました。


> しんちゃんさん

城めぐアプリの合戦イベントはお察しのとおり前田軍でした。特に前田利家が好きなわけでも、佐々成政が嫌いなわけでもありませんが、金龍紀行とかやってる身としては羽柴方の前田軍だよなぁ…ということで。ただ、そういう消極的な理由で参戦したのではあまり必死になれないんですよね。軍功もそこそこ止まりでした。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

堀跡をたどる (2025/03/08 訪問)

豊臣秀吉が京での拠点として平安京大内裏故地に築いた城館で、関白の城として豊臣秀次に引き継がれましたが、秀次切腹事件を受けて破却されました。

本丸と南二ノ丸、西ノ丸、北ノ丸の周囲を堀で囲んだ平城で、各曲輪を削平して堀を埋め立てるなど徹底的に破却されたため、地表面に遺構はほぼ見られません。そのため6年前は西堀跡と東堀跡の2つの石碑を見ただけで満足してしまいましたが、遺構はなくても痕跡はあちこちに見られるようですので、今回は聚楽第の堀跡をたどってみました。

ハローワーク西陣北側の聚楽第址石碑が本丸東堀跡、正親小学校北側の聚楽第址石碑が本丸西堀跡にあたり、辰巳公園北側には発掘調査で確認された本丸南堀石垣の説明パネルが設けられています(読みづらくなっていますが)。本丸の南東隅部には聚楽第の井戸と伝わる梅雨の井がありますが、堀の推定ラインによれば堀の中になるため後世のものとも考えられるようです。梅雨の井から南に約150mの松永稲荷社には聚楽城鵲橋乃旧蹟の石碑が立てられています。鵲橋は南二ノ丸の堀に架けられていた橋でしょうか。松永稲荷社から西南西に約250mの松林寺は山門から境内は一段低くなっていて、南外堀跡とされます(石碑もあります)。境内の南側はまた一段高くなっていて、なるほど堀跡とされるのも頷けました。また、北ノ丸北堀跡のマンション駐車場奥にも高低差があり、聚楽第の遺構とされる石垣が見られました。

この日は阪急レンタサイクルでの登城ですが、自転車でも堀跡をたどるのは思いのほか時間がかかり、聚楽第の巨大さを身をもって体感しました。さて、堀跡に続いて…というか並行してですが、周辺の武家地屋敷跡をめぐりました(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

かつての豊臣家の政庁であり邸宅 (2024/04/19 訪問)

聚楽第は豊臣秀吉により天正14年(1586)2月より天正15年(1587)9月にかけて築かれたとされています。天正19年に秀次の邸宅となり、秀次居城時に北の丸が増築されたようです。文禄4年(1595)に秀次が高野山で切腹すると徹底的に破壊されたとされています。
形態としては広大な本丸に南二の丸、西の丸、北の丸が付随していたとされ、周囲は堀で囲まれ、南西に外堀を二つ配しています。豊臣家の邸宅兼政庁とはいえ豪華な平城の造りをしていたようです。石碑はいくつかあるようですが、本丸東堀跡あたりの石碑を掲載させていただきます。ハローワーク西陣の道路向かいにあるやつです。
妙覚寺の門と、西本願寺の飛雲閣には聚楽第から移築されたという伝承があるようなので掲載させていただきます。飛雲閣だけは破壊をまぬがれ京都新城に移築されたということでしょうか?あくまで伝承です。
本丸跡北側に小笠原藩邸跡の石碑と、東側に佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑が有りました。他にも周囲には様々な大名の屋敷が有り城下町を形成していたようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ひろし

地元に愛されている城跡 (2023/02/18 訪問)

このサイトを情報源に、石碑のあるところへ訪問しました。
ちょうどその角のお宅の前に、小学生向けでしょうか?簡単な説明文もあり、もう1つの石碑のことも書いてありました。

またそのお宅の方がたまたま外に出てみえて、親切にいらいろ教えてくださいました。

遺構はなくとも、地元の方に大切にされてるお城なんだと感じました。

+ 続きを読む

城郭情報

分類・構造 平城
築城主 豊臣秀吉
築城年 天正14年(1586)
主な城主 豊臣氏
廃城年 文禄4年(1595)
遺構 石垣
再建造物 石碑、説明板
住所 京都府京都市上京区下石橋南半町他
問い合わせ先 京都市産業観光局観光部観光企画課
問い合わせ先電話番号 075-222-4130