宮本武蔵の続き(9)です。
2年ぶりに中津城へ行ってきました(写真①②③)。すると何とビックリ😱!
内部は華やかにリニューアルされていました。入口には綺麗な花が咲き、趣深い庭園になっていました。そして城の内部はトロピカルなムードが漂うような緑に飾られていました。夏だからでしょうか?(写真④⑤⑥)。でもそのせいか入場料が400→1000円に値上げされていたのには、ちょっと引いてしまいましたが(笑)。ここは公営ではなく、奥平氏の子孫が経営する城なので、値上げはしょうがないのかな? その代わり今回は奥平資料館だけでなく、入口にある黒田官兵衛資料館の方もじっくりと見学させて頂きました(写真⑧)。
姫路城で妖怪退治の終わったたけぞうは、父の無二斎が黒田官兵衛に仕えるため中津へ行くのでおそらく同行し、そこから九州の関ケ原へ出陣したと思われます。
秀吉が中国地方を制圧すると、竹山城は宇喜多秀家の領地となります。ここで関ケ原の前年の1599年、竹山城主の新免貞重は家督を子の宗貫に譲り、宗貫も宇喜多秀家に従ったため、無二斎は宗貫には従わず(宇喜多を好まず)離反したのではないでしょうか。秀吉が死ぬと、宇喜多家では家臣の内乱が起き、多くの家臣が離反したと伝わっています。無二斎もその流れの一人だったのかもしれません。宇喜多秀家もその穴埋めとして、家老の明石全登に命じて急遽浪人をたくさん雇い、その軍勢で関ケ原へ行ったので、一枚岩ではなかったようです。この内乱がなければ福島正則や井伊直政に簡単に敗れる事もなかったかもしれませんね(ネバたらですが)。
無二斎は中津で、黒田官兵衛が兵を集めている事を知ります。黒田の精鋭部隊は、この時ほとんどが長政とともに岐阜の関ケ原へ行っていました。官兵衛はある野望をいだき、中津にある金蔵の金銭を全て使って諸国から浪人を集め、独自に戦の準備をしていたのです(写真⑩)。
吉川氏の小説やドラマでは、たけぞう(武蔵)は宇喜多秀家に従い西軍として岐阜の関ケ原にいた事になっています。しかし黒田家に残る資料の中から、当時中津から出陣した者の名簿が発見され、そこに新免無二の名がある事から、父の無二斎がここにいた事は間違えないようです。
秀吉の中国攻めの時、新免貞重は竹山城をいち早く黒田官兵衛に差出し、官兵衛とともに利神城攻めに加わっています。その時に家老の無二斎は官兵衛と面識ができ、その縁あって浪人となった無二斎はたけぞう(武蔵)を誘い、官兵衛を頼って中津へ行ったものと推測します。
そして1600年9月9日、九州の関ケ原が始まります。熊本島田美術館に残る武州伝来記には、たけぞうは黒田軍として、安岐城(あき)・富来城(とみく)の戦いに参陣していたと記されています。そして富来城では、たけぞうが負傷したという逸話が残されているようです。
次は、その痕跡を探しに(富来城)を訪れます。
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