続日本100名城

なかつじょう

中津城

大分県中津市

別名 : 扇城、小犬丸城、丸山城
旧国名 : 豊前

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中津城
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トク

㊱【関ケ原の26人】(16)黒田長政 (中津城:黒田の石垣2) (2023/01/05 訪問)

(16人目)黒田長政(中津城)の続きです。
中津城の石垣の話を続けます。

私の一番好きなのはこの石垣です(写真①)。城の北東部(河口に最も近い所)は最も軟弱な地盤の部分であるため、横向きに長い石をこのように奥深く入れる事で、強度を増すようにしていたようです。少なくとも2m以上はありそうです。

また、南側の内堀沿いの石垣(穴太積)には「輪どり」と言い、中央を少しふくらませる事により、負荷を分散し強度を増すようにしていたようです。(写真②)これ、よ~く見ないとなかなか気づきませんよね!

どちらも、あの時代にしては、すばらしい発想だと思いました。さすがは官兵衛様!お見事でござる🤔!

城の南側の内堀沿いにある「中津市歴史博物館」では、「輪どり」のある見事な穴太積の石垣を眺めながら、シアターで石垣の解説を聞き、カフェを楽しむ事ができます(写真③④)。私も見学で疲れた後、ゆっくり石垣を眺め、当時の石垣職人がどんな風にしてこのように積んだのか? そんな姿を想像ながらコーヒーを飲み、タイムスリップした時間を過ごしました。

次は関ケ原(黒田長政陣跡)へ続きます。
 

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トク

㉟【関ケ原の26人】(16)黒田長政 (中津城:黒田の石垣1) (2023/01/05 訪問)

(16人目)黒田長政(中津城)の続きです。

関ケ原から話はちょっとそれますが、中津城の石垣の話をちょっとさせて下さい。まずは有名なYの石垣から。ではここで問題です!

【問題】
中津城の北面では、2つの異なった石垣が見られる事で有名です(写真①)。Yの部分を境に右と左で異なった石垣である事がお分かりになると思います。どちらが最初の築いた黒田官兵衛の石垣で、どちらが後に入った細川忠興の石垣でしょうか?🤔

【解答】
右の四角く削って整えた方が黒田の石垣、左の一見雑に野面風に積んでいる方が細川の石垣です。何か時代的に見て逆のような気もしますが、黒田時代の石垣は、川の上流にある7世紀の古代遺跡「唐原山城」の神籠石にあった角を削られた石をそのまま使ったのでこのようになったそうです(写真③)。

この他にも、城の西側(川沿い)にある黒田時代の石垣にはL字型の切り込みが入っているところがたくさんあります(写真②)。ここも唐原山にあった石を使っているようです。この不思議なL字が何を意味するのか? 実は私もわかりません😩すいません(説明写真④⑤)

次は中津城の中でも私の好きな石垣の話です。
(中津城:黒田の石垣2)へ続きます。
 

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トク

㉞【関ケ原の26人】(16)黒田長政 (中津城:黒田官兵衛資料館) (2023/01/05 訪問)

(16人目)黒田長政の続きです。

中津城の天守入口前には「黒田官兵衛資料館」があります。ここには官兵衛に関する資料や、黒田家が豊前に入った時の様子、また九州の関ケ原での官兵衛の様子などが説明展示されています。ここにおもしろいエピソードが書かれてあったので皆さんに御紹介します。

これは、長政が関ケ原の後に中津へ凱旋し、父の官兵衛へ戦勝を報告した時の会話です。

【長政】
父上、喜んで下され。家康様はこたびの私の働きを、私の手を握ってよくやったとほめて下さいました。
【官兵衛】
その握った手は、右であったか左であったか?
【長政】
右手でございます。
【官兵衛】
ならばその時、そなたの左手はいったい何をしておったのじゃ!
【長政】
・・・・・・?

官兵衛は空いている左手でなぜ家康を殺さなかったのか! と長政に言いたかったようです。実はこの時、官兵衛にはある野望がありました。よって、家康にほめられて浮かれている長政を戒めたようです。
(何と厳しい父親!さすが官兵衛🤔)

次は、(中津城:黒田の石垣)に続きます。
 

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ぴちょまる

中津城 (2023/02/17 訪問)

姫路城の黒田時代の石垣が野面積みなのに対し、中津は、打込ハギっぽい石垣が黒田時代で、
野面積みの方が後の細川時代のもの。
黒田時代の石垣の形が整っているのは、川上の古代山城「唐原山城」から持ち出したためとのこと。
江戸時代に描かれた「中津城下図」には、天守はなく鉄門付近に三重櫓が描かれているのみだったらしい。
鉄門跡は確かに絵図面通りの形で残っているものの、現在は埋められていた。石の種類、積み方が異なるので
辛うじて見て取れる。

というわけで、現在の天守がある場所は、本来は隅櫓のあった場所で、萩城をモデルにした模擬天守ということらしい。
ハミ出ているようにも見える模擬天守の形が面白い。

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城郭情報

城地種類 梯郭式平城
築城年代 天正15年(1587)
築城者 黒田孝高
主要城主 黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏
文化財史跡区分 県史跡(中津城跡)
近年の主な復元・整備 細川忠興
天守の現況・形態 独立式望楼型[5重5階/1964年築/RC造模擬]
主な関連施設 模擬天守、二重櫓、塀、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(水堀)
住所 大分県中津市二の丁
問い合わせ先 中津城
問い合わせ先電話番号 0979-22-3651