(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の前哨戦で陣を敷いた、「大垣城」を訪れてきました。
入口には、関ケ原後に入った戸田氏鉄の銅像が出迎えてくれます(写真①)。
石田三成はここ大垣での決戦を当初考えていました。(大垣城-岐阜城-犬山城)で防衛ラインを構築し、清州城に入るであろう家康をここで迎え撃とうと考えていたようです(説明写真⑥)。しかし、織田秀信が守る岐阜城がわずか1日で陥落し、犬山城の竹中重門などの守備隊もあっけなく城を明け渡し東軍へ寝返ったため、目算がくるってしまいました。さらに翌日、今度は家康は深夜の内に清州から岐阜を迂回して移動、翌朝に大垣城の北方の美濃赤坂に陣を敷きます。朝になり、赤坂に家康の馬印が見えた東軍諸将は驚きます。そしてその動揺を鎮めるべく、島左近が杭瀬川で一矢を報います(写真⑤)(詳細は(5人目)島左近と(21人目)徳川家康を御参照下さい)。
私は、大垣城にいた三成から、家康がいる赤坂の陣や一矢を報いた杭瀬川がどのように見えたのか? それを知りたくて大垣城を訪れ、天守に立って眺めてみました。しかし・・・? ビルなどが立ち並び眺望はあまりよくありませんでした(ん~よく見えん😎:写真⑧)。しかし当時は建物などはないので、ここからならよく見えたと思います。岐阜城も遠くにほんのかすかに見えました(写真⑦)。
その後、家康は今から佐和山城へ向かうとうわさを流し、東軍は赤坂から関ケ原へ移動します。赤坂で十分腹ごしらえをした後、寝返った吉川広家の前を悠々と余裕で行軍します。
それを見た西軍(三成・秀家・行長・義弘ら)は軍議を開き、三成の妹婿の福原直高(大分府内城主)に大垣城の守備は任せ、急ぎ関ケ原へ移動し迎え討つ事に決しました。しかしこの時とるものも取らずに出陣したため(空腹のまま)、また東軍に見つからないようかつ東軍より先回りしようと、遠回りの南宮山南側の伊勢街道を雨の中に深夜駆け足で行軍したので、体力の消耗もかなりあったようです。
三成はなぜそこまでして、急ぎ関ケ原へ移動しようと考えたのでしょうか?(まさに家康の思うツボ!)。 関ケ原の西の大津には立花宗茂ら2万の精鋭の軍勢がおり、あと1日で関ケ原へ到着する所まで来ていました。翌朝ゆっくり出立し、背後から行軍すれば挟み撃ちにもできたはずです。またそのさらに西の背後の大坂城には、毛利輝元本隊の軍勢も控えています。中山道を行く秀忠の軍勢がどこまで迫っているのかも気になったからなのでしょうか?(しかしこの時、秀忠軍はまだ信濃で立ち往生の真最中)。
私は大垣城の天守に立ち、関ケ原の方向を眺め考えてみました(写真⑧)。関ケ原の西の端には秀頼が出陣した時のための陣城として玉城を築いていました。「玉城を家康に奪われれば、秀頼様や輝元殿が出陣できなくなってしまう!🤔」そう思ったからなのでしょうか?
いやそれだけではないと思いました。この時、その玉城の麓の山中村には大谷吉継がいました。「このままだと吉継が危ない!!!😲」 本当は、この無二の親友を・・・守りたかったのではないでしょうか?・・・
次は、関ケ原(石田三成 陣跡)を訪れます。
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