水城は続100名城ですが、いざ訪れるとわずかな土塁があるだけなので(あれ?なぜここが🤔?)と思われる方が多いのではないでしょうか? 実はここは664年に天智天皇が、日本という国の国家存亡をかけ、唐・新羅連合軍を迎え撃つために大規模な土塁と壕を築いた場所でした。しかし濠は鎌倉時代に埋め立てられ、土塁は明治から昭和にかけ道路や鉄道で寸断されたため、現在はその一部だけが静かに残っています。
西鉄「都府楼(とふろう)」駅西口からコミュニティバス(国分線1時間毎)に乗り、「水城跡東門前」(写真⑩)で下車すれば、スタンプ場所で資料館や展望台もある「水城館」(写真④)の前まで直接行く事ができます。JR水城駅は「西門」にあたりスタンプはありますが土塁断面(写真⑧⑨)があるだけで、そこからだと東門まで徒歩40分の迷いやすい道を歩く事になり、公共交通で来られる方はこちらの都府楼駅からのルートを、私はオススメします(写真⑩)。また都府楼駅へ戻りそこから東へ10分程歩くと、大宰府政庁跡があります。ここの大宰府展示館には政庁の模型や大野城の(100名城スタンプ)もあり、途中には「令和」の語源となった坂本神社(大伴旅人の屋敷跡)もあります。政庁前からさらに菅原道真を祀る大宰府天満宮へ行くコミュニティバス(まほろば号30分毎)も出ていますので、併せて回られたら大宰府の歴史を感じ、万葉の世界へ浸る事ができるのではないかと思います。特に梅の季節は最高ですよ!
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【水城の歴史】(ここから先は補足です)
663年天智天皇(中大兄皇子)は、百済の要請で出兵するも白村江の戦いに敗れます。ここで天皇は、唐・新羅の連合軍は、次は必ずこの日本を攻めてくると危機感を持ち、日本を守るため一大国家プロジェクトを立ち上げます。まず対馬に金田城を築き防人を配置し、ここに最前線の石塁基地を築きます。もし対馬が突破されれば博多湾に上陸するであろうと想定し糸島にも防人を配置、そして最終防衛ラインをここ大宰府に定めました。つまり天皇は、ここを唐・新羅連合軍を迎え撃つための決戦地と考えていたようです。
本陣を大宰府政庁に置き、その政庁を囲むように長さ1.2km高さ9m幅70mの長大な版築土塁と、さらに幅60mの外壕と内壕を備えた防衛ラインを築きます。これが「水城」です。そしてその両端は「大野城」と「小水城・基肄城」という山岳砦に繋ぎます。つまり水城で敵の侵攻を食い止め、その間に両側から挟み撃ちにするという作戦を、天智天皇は考えていたのではないでしょうか?(図⑦)。
しかし結局は、唐と新羅は白村江の後に不仲となり、日本を攻めて来ませんでした。私はここに立つと、当時の防人や西国兵士や百済から連れて来られた数万人の兵士たちが、この水城や大野城や基肄城をわずか2~3年の突貫工事で完成させ、敵がいつ来るかと待ち構えていた姿があった事を、想像してしまいました。
平安時代に入ると鴻臚館(現福岡城)から大宰府へ向かう官道が整備され、ここ水城館の場所には官道の大宰府への関所「東門」があったそうです(図③⑤⑦)。大伴旅人は任期を終え京に戻る時、ここで愛する女人との別れの歌を詠んだとか。菅原道真も赴任した時にここで歌を詠んだそうです。ならば紫式部(まひろ)もここで歌を詠んだのではないか🤔? などとまた想像してしまいました。
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