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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「石に依り 石を拝みつ 熊本城」
(いしにより いしをおがみつ くまもとじょう)

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ダイエティシャン

【赤色立体かるた】 (2021/06/15 訪問)

巻石垣 世にも珍し 鳥取城
(まきいしがき よにもめずらし とっとりじょう)

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ダイエティシャン

【赤色立体かるた】 (2022/06/17 訪問)

天下布武 天に祈りつ 安土城
(てんかふぶ てんにいのりつ あづちじょう)

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RIN1147

丸岡城「36」 (2025/09/15 訪問)

福井県坂井市

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コウマくん

小雪交じり (2024/12/27 訪問)

車で立ち寄りスタンプいただきました

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コウマくん

名城 (2025/09/11 訪問)

大天守に入れないのは残念ですが、圧倒されます。
西北隅櫓と石垣と空堀も見事です

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コウマくん

広大 (2025/09/15 訪問)

とにかく広い。大手門から天守台までも広大です。巨石を積上げた切込接の石垣に圧倒されます。富士見櫓見事でした

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織田信長初陣の地 (2025/09/15 訪問)

 愛知県碧南市にある織田信長初陣の地に行って来ました。津島社に「織田信長初陣の地 伝承地」の説明板があります。
信長公記によると信長の初陣は天文16年(1547年)、平手政秀の仕立てた紅筋の頭巾と羽織を身にまとい馬にも鎧を着せて出陣。今川方が兵を配置していた三河国の吉良大浜へ兵を進め、各所へ火を放ってその日は野営、翌日に那古野城へ帰投しています。
火をつけて荒らしまわっただけのイメージでしたが、地元ではこの戦で織田軍は大敗したと伝わっています。そのことが碧南市中部公民館前の「織田信長激戦の地(旧字十三塚)」という説明板に書かれていました。攻めてきた織田軍に対して家康方の長田重元が迎え撃ち敗走させたということが書かれています。天文16年といえば父親の松平広忠は健在で、家康(竹千代)が人質に出される年なので、説明板の家康方というのは松平方ということでしょう。ただ大敗したのは事実かもしれないと思っています。
 また津島社の由緒を読むと信濃の武将で武田晴信に追われた村上義清とも直接ではありませんが縁があるようです。

 名鉄碧南中央駅から津島社は西へ徒歩約5分、碧南市中部公民館は東へ徒歩約7~8分の場所にあります。
世間は3連休でしたが、諸事情により遠出は控え以前より近くの気になっていた所を散策していました。行ってみると新しい発見があるものです。

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鷲塚城 (2025/09/15 訪問)

 愛知県碧南市にある城址で水野忠重が築いた、もしくは徳川家康が築いて忠重に治めさせたと伝わります。城びとには未登録の城址です。尾城公園に石碑と説明板がありました。
 緒川城主水野忠政の子忠重は、三河一向一揆との戦いで戦功をあげ徳川家康からこの地を与えられました。忠重は刈谷城主水野信元、家康の母である於大の方の弟です。息子は後に活躍する水野勝成です。1575年兄信元は武田勝頼との内通を信長に疑われ、家康の家臣石川数正、平岩親吉に大樹寺で嫡子信政と共に殺害されました。1580年忠重は刈谷城へ入り、鷲塚城は廃城となっています。
実際に城館があった場所は宅地化や伊勢湾台風の復興工事の際に大量の土砂が削り取られ、遺構はありません。現在の尾城公園は、城館跡の西側に位置しています。

 名鉄碧南中央駅から徒歩20分くらいで行くことができます。

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チェブ

蟷螂の釜。 (2025/08/11 訪問)

この日の最後は「小高城」。
ちょっと、モヤモヤした感じで終わります。
脱線注意報が出てますので、ご注意ください。

「小高城」の説明板の前に車を止めて、しばし説明板を読みました。
説明板には、平安時代末期から1602年の廃城までが詳しく記載されてました。
左手に写真③の道。ここを進もうと思ったら、何やら視線を感じます。
写真②、分かるかな~?赤ちゃん蟷螂が戦闘態勢をとってました。
そして相方が1言。
『蟷螂、このままじゃ車で踏んじゃうから、移動させる。お城、観に行ってきなよ。』と。
いつもの事なので進むと畑。やっぱり一緒に行って欲しいと頼もうと戻ると、
『早かったね、蟷螂、移動したから車、乗って』写真⑥。
いろいろプレゼンしましたが、一緒に行ってもらえず退陣しました。

私にとっては、どのお城も、蟷螂の釜なのかもしれないと思った「小高城」攻めでした。
*でも、『サムライの城』は観ましたよ(^_^)v

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しんちゃん

夏こそ飯沼 (2024/12/31 訪問)

いつ訪れても良いのだが、この城は特に夏場がオススメです。気楽に訪問出来るし、堀や土塁などの遺構もしっかり見ることが出来る。体力の消耗を押えながらも、遺構を楽しむことができる・・まさにありがた山ですわ。
飯沼城は戦国時代に桜井尊房によって築かれたとされます。桜井氏は当時周辺で力を持っていた江戸氏に従っていましたが、天正18年の小田原征伐で北条氏が滅びると、秀吉の傘下に入った佐竹義宣によって北条氏方の江戸氏は攻められ、飯沼城も落城しました。

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小城小次郎

山上をぐるっと囲む巨大な横堀 (2025/02/15 訪問)

山頂にぐるっと巨大な横堀を巡らせた豪快な作りは、大田原城をそのまま山の上に持ってきたと言えば伝わるだろうか。大名城郭の大田原・黒羽にも引けを取らないその姿は名門・塩谷氏の誇りの片鱗とでも言えようか。

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しんちゃん

方ノ上城跡・花倉の乱 (2021/02/23 訪問)

方ノ上城は静岡県焼津市にある山城です。標高230mの石合山の山頂付近に築かれており、山城と言うより曲輪付き烽火台といった表現の方が相応しいのかもしれないが、土塁や堀切など山城としての遺構はしっかりと残してあります。
山麓の猪之谷神社の「猪之谷神社誌」には南北朝時代に安倍の狩野氏によって築かれたと記載があるようですが詳細は不明。
天文5年(1536)の花倉の乱においては栴岳承芳(今川義元)の兄・玄広恵探の手勢が占拠し戦ったが、承芳方の岡部親綱の攻撃によって落城したとされています。山城としての戦力に疑問はありますが、山頂からの眺望はすばらしい。

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しんちゃん

井伊直孝公ゆかりの地 (2021/02/23 訪問)

徳川四天王の一人・井伊直政の次男・直孝は静岡県焼津市の中里に生まれました。大阪「夏」の陣では大きな功績を挙げ「井伊の赤牛」の異名を誇ったと中里若宮八幡宮の案内板には記載が有ります。二代彦根藩主となり彦根城を継ぎ、秀忠の遺言で三代将軍家光の後見人に指名されるなど、幕府からも絶大な信頼を寄せられています。
近江の城郭についていろいろ調べていて、何人か詳しい人と話をしましたが彦根城の広さは緒城の中でも群を抜いています。南側の堀などを含めた総構の面積は400ヘクタールほどあるようです。名古屋城より広いでしょう。彦根城は大軍を擁しての決戦を前提に築かれた最初期の城郭と言って良いと思います(大阪城を除く)。ちなみに大垣城では大軍での籠城は無理だと思いますが・・

城の構造から見て井伊家は家臣筆頭格と言って良いと思います。中里八幡宮は寛永6年(1629)直孝によって再建されました。ここから東へ200mほどの場所には「井伊直孝産湯の井」があります。

もひとつ・・1945年の8月15日夜には彦根の空襲が行われる予定でした。あと一日終戦が遅れれば彦根城の姿を見ることは出来なかったと思います。あと10日早ければ広島の悲劇も無かったし、本来の広島城も残されていたのかもしれない。これは言っても仕方がないことなのだが・・

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】

「能登の景 眼下に納めし 七尾城(のとのけい がんかにおさめし ななおじょう)」

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「絶壁に 鉄壁要塞 岡城址」
(ぜっぺきに てっぺきようさい おかじょうし)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「球磨川と 共に幾年 人吉城」
(くまがわと ともにいくとせ ひとよしじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「板敷の 反りに惚れ惚れ 玖島城」
(いたしきの そりにほれぼれ くしまじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「出兵の 胃袋支えた 清水山」
(しゅっぺいの いぶくろささえた しみずやま)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「金田城 彼方の半島を 睥睨し」
(かなたのき かなたのくにを へいげいし)

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