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しんちゃん

東海コンプ山の巻 岐阜県コンプ 東海四県フルコンプ達成! (2024/10/13 訪問)

岐阜県コンプ一番槍達成 これで東海四県フルコンプ達成です。
7月から東海4県「鬼攻め」を開始しましたが、8月に80近い母が体調を崩し、城攻めどころじゃなくなりました。
9月になって体調を戻してきてくれました。「カロリーメイト」の缶に入っているのや「メイバランス」を飲むことができたので回復が早かったです(ホッ)。
9月半ばから城攻め再開。三重県、岐阜県を怒涛の勢いで攻め落としました。やはり、しっかり足場固めをしておかないとですね。
けっこうリピートが多かったですけど、新たな視点で得るものもあったと思います。高原諏訪城は何度でも訪れたくなる良い城です。

神岡城は正式名称「東町城」といいますが、神岡城のほうがカッコいいですね。永禄7年(1564)に武田信玄の命で江馬盛時が築いたとされ、現在は模擬天守が建っており、神岡町のシンボルになっています。最上階は展望所になっていて、傘松城や飛騨の街並みを見ることが出来ます。うん‥飛騨は良いところです。
岐阜県制覇で
美濃国 540000石
飛騨国 38000石
合計57万8千石をゲットしました。 美濃国は案外大国なんですね。飛騨国は苦労のわりにはオヨヨです‥。そういうゲームなんですよ。東海四県 / 十ヶ国を制覇したので「しんちゃん」領の石高は、およそ合計260万石になりました。※1
徳川家康が関東に移封した時の石高(255万石)より少し多いですね。東海四県、案外石高多いのね‥といった感じです。

※1 あくまでしんちゃん脳内です(笑)。城びとの数だけ領土はあります! また攻め方も人それぞれ、楽しんだモン勝ちですよ。

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しんちゃん

東海コンプ火の巻 愛知県コンプです! (2024/06/15 訪問)

足助城に行ってきました。これで愛知県コンプです。というか‥城びとに参戦した時点でほぼ「いった」の状態でした。
もう一回ひとしきり回って写真を集めてきたので時間がかかったのですね。ちなみに愛知の城郭は千数百回っていますが、まだ訪問していない城もあります。案外愛知県も城が多いんですよ。
意外だったんだけど、愛知県の掲載コンプも私が一番槍のようです。でもほぼほぼ回っている方が数人いるので(すぐわかります)比較的コンプしやすい県だとは思います。愛知にも比高300m以上の山城もありますが「城びと」には無いので、頑張ればコンプできると思います。
足助城は良い城です。戦国時代の山城を再現してある、まさに等身大のジオラマといった感じの山城ですね。キテレツな模擬天守が多い中、こういった発想は素晴らしいと思います。
香嵐渓は秋がシーズンの盛りですが、足助城は年中オススメです。近くのうどん屋の定食もすごくリーズナブルでした。シーズン中は知りませんが、この時は千円以下だったと思います。このボリュームでですよ! 私は大満足です。

尾張国 571737石
三河国 290715石
合計86万2450石をゲットです。 案外三河も侮れませんね、まあ地元ですし岡崎城や吉田城、長篠城、古宮城、長篠・設楽原古戦場もありますしの~(手前ミソ!)。


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しんちゃん

東海コンプ林の巻 三重県コンプ一番槍! (2024/09/29 訪問)

今日は選挙の日ですが、入れる相手がいない‥。私はけっこう「保守」なので自民党にいれてたんだけど、今回ばかりは‥。
外国の人達と仲良くやるのは大事だけど、乗っ取られちゃ意味がないと思うぞ。
さて9月、10月と三重県、岐阜県をガン攻めでコンプして参りました。私の場合は
訪問→写真撮る→城びとに掲載で、コンプの対象になります。山城は主郭まで制圧して「いった」になります。まあ人それぞれ事情もありますが、私はこの方式で行きたいと思います。

南北朝末期に川面氏がここに城を築きますが、九鬼浦から勢力を伸ばしてきた九鬼氏の傘下に入ったとのことです。断崖絶壁の要衝に築荒れており、主郭からは大王崎灯台が良く見えます。

三重県制覇により
伊賀国 100000石
伊勢国 567105石
志摩国 17854石 (以上 慶長3年期)
をゲットしました 計68万5千石になります。
志摩少ねぇ~(涙) 静岡分と合わせて116万石になりました。

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しんちゃん

東海コンプ風の巻 静岡県コンプ! (2024/07/15 訪問)

静岡県コンプして参りました。7月ごろクソ暑い中、車中泊しながら伊豆を周ってきたんですね。いやいや‥伊豆は暑かったです。
ずっごく意外だけど静岡県は私が掲載コンプ一番槍みたいです。でも事実上の初コンプは姫街道さんだと思います。
伊豆はなかなかハードルが高いようですね。下田城の近くに叔父の家があるので、数十年ぶりに訪ねてきました。ほぼ初見の従兄弟がびっくりしてました。いやはや、お騒がせ‥ご容赦を。
下田城は北条氏の海城で豊臣秀吉の小田原征伐に備えて改修を受けています。別名「鵜島城」で叔父はそちらの名で呼んでましたね。
小田原征伐の際には、伊豆衆の筆頭・清水康英を水軍の総大将とし、下田城を守らせています。
現状・下田公園で無料の駐車場もあります。途中、いくつもの記念碑が有り、居館跡の大広間の南には開国記念碑もあります。
展望台が複数あり、最初の展望台を訪問した後に大堀切を越えて主郭を目指します。

みなさん、かなりいい所まで行かれているので、せっかくだからコンプまでされてはどうでしょうか。
私、コンプで遊びを一つ考えてみました。静岡県を制覇したので
遠江国 255160石
駿河国 150000石
伊豆国 69832石
をゲットです。合計47万5千石獲得です。駿河と伊豆、思っていたより少ない。いや、伊豆はこんなもんか。
どうやら苦労した場所ほど石高が少ない遊びのようですね。

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しんちゃん

機動戦士へたれガンダムⅡ 愛・戦士編 (2024/09/16 訪問)

そこに愛はあります。福島県福島市へたれガンダムの続きです。
興味の無い方には、ただのへんちくりんな鉄の立像にしか見えないと思います。作者である地元のアマチュア鉄作家の男性はこの像の完成の翌年ごろに亡くなってしまったので、この像は遺作の意味合いもあります。
2009~2010年頃に製作されたとされ、その特異の外観から「へたれガンダム」として地域の方々や多くの人に愛されています。
一度は錆びついてしまったものの、除染作業員の方々やファンによって二度の塗り直しがされています。ガンダムが手にしていたビームライフルは一度、盗難にあいますが福島工業高等学校の3年生6人と教諭によって、放課後1週間かけて新たなビームライフルが製作され寄贈されました。以前のライフルの形状を受け継ぎながら、細部はさらに造りこまれています。まさに愛のなせる業です。
ボヤ事件が起きた際にも被害をまぬがれ、「地域の守り神」と称されるまでになっています。
賽銭箱も置かれ、地域の神社より賽銭が多いようです。また正月にはしめ縄が巻かれたりしているそうです。
へたれガンダムは既に神の領域にまでさしかかろうとしているようですね。

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城⑦ (2024/10/13 訪問)

七松城からの転戦です。JR神戸線の甲子園口駅から徒歩にてアプローチしました。日野神社では子どもからお年寄りまで大勢の方々が清掃をされていました。ご苦労様です。日野神社御由緒にも瓦林城について、触れられていました。この日の午前中の攻城はこれまで。ここから三宮に向かい献血ルームmimamoにて献血をしてまいりました。神戸での献血は3度目ですが、最初は三宮センタープラザ、二度目はミント神戸15でしたので、mimamoでの献血は初めてです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:箸尾城 (2024/09/28 訪問)

箸尾駅から徒歩10分弱で、石碑/説明板横(34.565399、135.751625)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、箸尾氏によって築かれたと云われています。
箸尾氏は興福寺一乗院方の民で、筒井氏、越智氏、十市氏と並んで大和四家に数えられるほどの勢力を持っていたそうです。

箸尾城は教行寺箸尾御坊の東側一帯に築かれていたそうですが、現在は石碑と案内板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。宿泊先の王寺駅に戻りました。
本日の攻城徒歩=40128歩、攻城距離=28.08Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:田原本陣屋 (2024/09/28 訪問)

田原本駅から徒歩10分弱で、水仙会館付近(34.555108、135.794110)に着きました。

1635年(寛永12年)平野長勝によって築かれました。 平野氏は5,000石の旗本交代寄合で、初代は賎ヶ岳七本槍で著名な平野長泰です。
平野長泰は賎ヶ岳合戦の後、河内・近江で3,000石を領し、1595年(文禄4年)2,000石の加増を受け、大和国十市郡七か村5,000石を領しました。
田原本は寺内町が発達しており、当初は教行寺によって経営が行われていましたが、二代長勝のとき、田原本陣屋を築いて入封し、教行寺は箸尾へ退去しました。
その後も代々旗本交代寄合として続いましたが、1868年(明治元年)平野長裕のとき、新政府の計らいによって実高に高直しされ、11,000石となり諸侯に列しましたが、わずか一代であったそうです。

田原本陣屋は現在の田原本町役場付近に築かれていたそうですが、時間の都合で行っていません。
水仙会館にあろ説明板を確認して撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=箸尾城を目指す為、西田原本駅から電車で箸尾駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:十市城 (2024/09/28 訪問)

新ノ口駅から徒歩20分ちょっとで、城址碑前(34.533040、135.803329)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、十市氏によって築かれたと云われています。 十市氏の出自は詳らかではないようですが、南北朝時代は大乗院方の民であったそうです。
十市遠忠のとき龍王山城を築くなど最盛期を迎えましたが、遠忠が没すると勢力を失い、松永氏、筒井氏に従って没落しました。

十市城は現在、畑に城の一部と伝えられ石碑が建っています。
電車の時間がせまっている為、攻城時間は1~2分くらいで石碑の写真を撮って速攻撤退しました。次の攻城先=田原本陣屋を目指す為、笠縫駅から電車で田原本駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:今井環濠 (2024/09/28 訪問)

畝傍駅から徒歩15分ちょっとで、石碑前(34.506407、135.783253)に着きました。

今井環濠は、天文年間(1532~1555年)に今井兵部豊寿が一向宗道場を中心に寺内町が建設したことに始まるようです。
今井の御坊(称念寺)を中心とした城塞都市化して本願寺に呼応して織田信長に抵抗しますが、1575年(天正3年)に明智光秀を通じて信長に降伏しました。
今井町は、信長により赦免され自治特権が許され、江戸時代は幕府直轄領となり南大和最大の在郷町となったそうです。

今井環濠は町を堀と土塁が囲み、9ヶ所に門が設けられていたそうです。
電車の時間がせまっている為、攻城時間は5分くらいで石碑と説明板の写真を撮って速攻撤退しました。次の攻城先=十市城を目指す為、八木西口駅から電車で新ノ口駅に向かいました。

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じゅんじん

16年ぶり (2024/09/08 訪問)

飛騨牛を食べに高山へ。焼き肉前に行きました。石垣美しいし眺めもよきでした。
もちろん飛騨牛最高✨🐮

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とばつびしゃもん

毘沙門天の城 (2024/09/10 訪問)

15年ぶりの登城。春日山城跡ものがたり館で映像、展示を観覧。謙信公の館は柿崎屋敷にあったことが想定されるとの展示資料を目にしてへぇ~。館隣接の東城砦と史跡を回ってから本城へ。大手道入口を通過し春日山神社下の駐車場に車を駐車し、長い階段を登って登城開始。
謙信公銅像を右手に見ながら進み、景虎屋敷と米蔵のある三の丸、二の丸を攻める。本丸は混雑中で一旦通り越しその先の井戸曲輪から鐘楼跡を経由し、景勝屋敷、柿崎屋敷へ進む。柿崎屋敷は最も大きな曲輪のひとつで、城内唯一の池か水堀があったことからここに謙信公の館があったとの見解もうなずける。ここでUターンして本丸へもどり上越の町と日本海を一望。
下りは護摩堂、毘沙門堂、お花畑、直江屋敷を通って千貫門へ。千貫門の内側には道のように見える2本の空堀があり侵入者を沢に落とす巧妙なしくみになっていたとか。
春日山神社までもどり1時間半。見どころ盛沢山でまだまだ攻城継続したかったところ高田城へ向かう。

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イオ

ごんぼ汁

丸岡城には直接関係ありませんが、先日のお城EXPOでの平章小学校6年生の丸岡城についての発表の際にもらったパンフレットに、食チームによる「ごんぼ汁のレシピ」が掲載されていて「ぜひ作ってみてください!」とあったので挑戦してみました。

ごんぼ汁は福井県の郷土料理で、丸岡ではしょうゆ味のだし汁にたっぷりのささがきごぼうとうす揚げ、にんじん、ねぎを入れるのが特徴なんだそうです。買っておいた竹輪を家内に使われていたため蒲鉾で代用した以外は、ほぼレシピ通りに作りましたが、ほんのりと甘みのある具だくさんの汁もので、これからの寒い時季にはぴったりの身体のあったまる料理ですね。普通に一杯食べた後、ご飯に「ぼっかけて」もう一杯いただきました。平章小学校6年生・食チームのみなさん、レシピの紹介ありがとうございました。
 

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スティクラ

北陸旅最後に高岡城へ (2024/10/26 訪問)

北陸旅の最後に高岡城に訪城。
今は公園になっていて、公園内の神社は結婚式や七五三関連のひとで多かったり、芝生でのんびりしている人がいたりと地元で親しまれている公園のよう。
桜が有名な公園らしいが、もみじも多く、これから紅葉の季節は綺麗になりそう。

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ぴーかる

山崎城 (2024/10/05 訪問)

【山崎城】
<駐車場他>殿ダム展望所駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>曲輪・石垣・堀切・竪堀
<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅1城目。山崎城は室町時代に南因幡を支配する国人領主の因幡毛利氏が築城したとされます。因幡毛利氏は安芸の毛利氏とは同族別系で大江広元を同じ始祖としています。山崎城には分家筋の山崎毛利氏が居城しますが天文年間に本家に攻撃され落城し城は本家のものとなったようです。
 登城口は<35.446643, 134.341278>にあり尾根上150m程までコンクリート階段舗装がしてあります。現地説明板には東側に家老屋敷と呼ばれるところと、西側に城の中心部があると書かれています。東の家老屋敷は確認できませんでした。山頂部の城郭部分は主郭から北へ100m程細長い尾根曲輪があり北端に小さな出曲輪があります。登城口からは北から入り、まず出曲輪から攻めます。出曲輪の北に堀切土橋があり左手東側斜面に3条程の竪堀があります。出曲輪の平坦部は北東側が土塁状に上がっていて斜面に荒積みの石垣が残っていて見事な遺構です。北東隅部のみに石垣が残っていることから私は櫓台跡ではないかと思いました。南へ城跡の大看板がありその南に堀切土橋、土橋の側面には石垣があります。土橋の南が主郭の北側の腰曲輪兼、北の虎口曲輪のような削平地になっています。
 主郭は南北に長く北に上記の虎口曲輪、南に少し下がって扇状の曲輪、さらに切岸があって下段の腰曲輪があります。西側は城跡看板や東屋の資材を運ぶ車両幅の通路に改変されています。主郭の東から南にかけての斜面には大石が多く転がっており、中には人工的な感じで集中している箇所もあるので当時は相当な石垣、主郭全体を鉢巻き石垣で取り巻いていたと推察します。なかなかの見応えで斜面にへばりついて、横移動しながら楽しみました。
 先達の方々で石垣遺構を投稿されている方が居なかったので簡易な城跡かと思いきや、不意打ちの良い遺構に出会いビックリ、なかなかの城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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スティクラ

調度丸まで (2024/10/26 訪問)

バスで資料館前まで行った後、資料館へ。
受付の人に調度丸までルートを聞くと、旧道(歩行者用登山道)は、危険だから車道から行った方がいいとアドバイスをもらい、車道から調度丸へ。
比較的緩やかな登り坂。資料館前から調度丸がある駐車場まで4kmほどを1時間弱で到達。
駐車場では、無料ガイドの方が3名。

駐車場から調度丸まで歩いて2分。

復旧活動が進んで、城跡まで行けるようになったら、また訪れたい。

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しんちゃん

佐賀は九州の中心だったのか‥ (2014/01/07 訪問)

佐賀って九州の中でも地味なイメージがあります。福岡は都会だし、長崎はおしゃれ、熊本にはクマモンがいるし、鹿児島は桜島。
佐賀城もすごいんだけど近世城郭としては少し地味なイメージがあります。なんでだろう? 吉野ヶ里のインパクトが強すぎるからかな?
でも朝田さんの投稿に会った鳥栖ジャンクションはまさに九州の大動脈ですね。九州縦貫自動車道と九州横断自動車道が直行する位置にあり、これだけ見るとなんと、佐賀が九州の中心のように見えてきます。
地味な県だと思っていた佐賀が実は九州の中心だったとは‥佐賀城は実は九州の中心に位置する近世城郭だったのですね。おみそれいたしました。
佐賀城は鍋島氏の城で、明治7年(1874)の佐賀の乱で本丸御殿、鯱の紋、鯱の紋続櫓・以外の建造物を焼失しています。一度は通り壊された本丸御殿も復元され、移築されていた「御座間」も元の位置に戻されています。なかなか訪れることが出来ませんが、また訪問した際にはじっくり見学したいと思います。

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しんちゃん

平戸藩と山鹿素行 (2014/01/08 訪問)

平戸城の築城は古くは松浦鎮信による日之嶽に築いた城とされます。慶長18年(1613)に火災に会い、長らく平戸藩は「城なし」の状態でしたが元禄15年(1702)に再築城を願い出て翌年に許可が下りました。
二の丸の乾櫓が天守代用とされ、今は模擬天守が建っています。また狸櫓と北虎口門(搦手)は現存の建造物として残っています。
四代藩主・松浦重信は「武家時記」の作者である山鹿素行と親交が有り、平戸に招こうとしますが果たせず、後に一族の山鹿高基・義昌を藩士として迎え入れます。平戸城築城指導は義昌によって行われ、山鹿流軍学に基づく縄張りが成されているとのことです(wiki参照)。

話は変わりますが、白峰教授が論文の中で「武家事記」記載の関ヶ原の合戦図と、参謀本部の作成した「日本戦史関ヶ原役」を比較しています。非常に細かい部分まで丁寧に説明してくれているので、明治に神谷道一氏が書かれた「関原合戦図志」が「武家事記」を参考にしていることが良くわかります。
神谷氏は「武家時記」記載中の矛盾点も修正し、自らの視点を南宮山の布陣に反映させるなど非常に真摯に歴史に向かい合っています。
残念ながら、「武家事記」の内容そのものの信憑性が乏しいので、「関原合戦図志」の布陣図も正解とは思えないのですが、参謀本部に都合よく改修された現在の関ヶ原の布陣よりは、よほど好感が持てます。

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しんちゃん

ありし日の津山城 (2013/12/15 訪問)

慶長8年(1603)に津山藩が立藩し、森忠政が18万6千石で入封し、現在の様な近世城郭として整備がされたそうです。小倉城を模したとされる層塔型の天守を始めとして、広島城すらしのぐ77棟の櫓が立ち並んでいたそうです。
「ありし日の津山城」の絵画を見ると、高石垣の上に櫓や天守がびっしりと立ち並んで、非常に壮麗な城郭であったことが伺えます。集合アパート感が良く出ていて、ある意味では姫路城以上に美しい城であったかもしれません。本丸御殿の焼失後、廃城令で次々に競売にかけられ、これほど美しかった城も備中櫓(再建)をのぞいては石垣を残すのみです。
今は桜の名所となっています。

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しんちゃん

古代のロマン (2013/12/15 訪問)

鬼ノ城の投稿です。これも以前投稿した写真を選抜して使用しています。ご容赦を。
西門から回って南側から反時計回りに回って一周できます。特に前半部に多くの遺構が集中しています。自分は第五水門あたりまで行って引き返しましたが、そこまで行ったのなら一周してもたいして変わらん。今にして思えば回っとけ、回っとけといった感じです。
若かったなあ‥(今よりは)。
城めぐりを始めた初年に訪問してます。だいたい2013~4の2年で百名城と続百名城(まだやってない)は7割ぐらい回りました。比較的著名な城を回ると、あとからそれが続百名城になるといった感じですね。
百名城も96まではすんなり集まるけど、アイヌの城と沖縄が残ったまんま。首里城焼けちゃうし、どこかでエイやで訪問するしかなさそうです。鬼ノ城は百名城の中でもインパクトありました。吉野ヶ里もですが、古代ロマンいいですね。
手塚治虫の火の鳥が飛んできそうなビジュアルも最高ですよ。

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