今年も浜松市細江町気賀みをつくし文化センター主催の歴史講座第14弾、「遠州における豊臣兄弟の足跡」と題して講演会が有りましたので受講してきました。
昨年も受講しておりもう14回を数える程に成りました、小和田先生が静岡にいらっしゃるお陰で身近に講演を聞ける事が出来ます、小和田先生は静岡大学名誉教授、文学博士、日本城郭協会理事長、関ヶ原古戦場記念館館長でもあり日本中世史、戦国史の専門家でも有られます、我ら城好きには日本城郭協会理事長としてお城の各種イベント、城びとに寄稿されて大変馴染みも有り身近な存在です。静岡県浜松市在住者としては大変ありがたい限りです。
開催場所:静岡県浜松市浜名区細江町気賀369 みをつくし文化センターホール
講演講師:静岡大学名誉教授・文学博士 小和田哲男氏
講演日時:令和8年1月18日(日)13時30分から15時20分内質疑応答20分
今年の大河ドラマが豊臣兄弟で大変タイムリーな講演でした、会場450名の満席老若男女で先生の人気がすごい処でしょう。
今年の大河ドラマ時代考証「柴裕之編著」の「豊臣秀長」に記されている羽柴家系図がスライドで写しされて講演が始まりました、秀吉秀長の両親が法名で系図で示されたことは柴裕之氏の功績とおっしゃっていました。
秀吉と秀長は父が違うのではないか?と巷間言われていましたが最近の研究では姉のともさん、秀吉、秀長、妹の旭姫は同じ父の兄弟であるとの事。
遠州での秀吉は15歳から18歳を針売り行商の後、松下加兵衛に仕えていたのは有名な話です、松下屋敷の近くに秀吉の鎌研池も有名です、秀吉が鎌の研ぎ具合を確かめるために葦の葉を切った事で遠州七不思議に数えられてる片葉の葦伝説も披露、現在池は公園整備で分からにかも?(太閤素生記より解説も有り)
松下屋敷を出奔した後、信長に仕え、小者から足軽、足軽組頭へねねとの結婚、この頃には秀長も呼ばれている一緒に働き始めた模様、秀吉の妻ねねの名称は、以前おねと時代考証で呼びましたが、ねね呼称が史料で「ね」としか発見されて無く、昔の女性の名には頭に「お」付けて居たので「おね」としたと、この度「ねね」の呼称なる史料が出て「ねね」としたとの先生の話。兄秀吉の出世により永禄4、5年頃には呼ばれたようです。
美濃斎藤家家臣の調略には秀吉の名が出て来る、墨俣一夜城、清須城百間石垣の話は史実か否か、一夜城は木曽川川並衆等の付き合いなども有り、何らかの働きはあった、清須城には当時石垣は無かった、発掘でもまだ見つかっていない。秀長も一緒に働いている。
秀吉の北近江支配、伊勢長島一向一揆との戦い従軍、手取川の戦いで蟄居中の秀吉の代わりに秀長播磨へ、山陰地方は秀長、山陽地方は秀吉と分かれて毛利勢と戦う。
秀吉の天下統一の戦いを共に戦う。賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻め、四国攻め。
浜松城主時代の家康と秀長、家康を臣従させる秀長は妹旭と母のなかを説得か?、聚楽第内に家康の屋敷を建てさせた秀長、作事は藤堂高虎、小田原攻めと秀長、秀長は病床にて出陣してないが、秀忠を人質とするように家康に勧めた秀長。
永禄4年(1561年)秀吉25歳、秀長22歳頃から天正18年(1590年)秀長がナンバー2として支えていたと。
質疑応答も約20分程、小学生の質問から声の大きい高齢者まで楽しい会話でした。質問の一つに元気な秘訣を問われて、山城に登るためにとジムでのトレーニング、各種のお仕事、毎日の晩酌と登る応答にはなごみましたが?
先生と同県で在住して身近な環境が有り難い事です。
気賀関所が西隣ですので関所の写真、近くの満開白梅の写真も投稿します。
+ 続きを読む










