家康公三城コラボ 茶の薫る御城印の購入のために訪問しました。
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2025/06/20 15:45
2024/08/17 21:20
体に良いと思って飲んでたヤバい奴 (2021/02/23 訪問)
3年ちょっと前の田中城の写真が出てきました。基本的には今と大差無いですが下屋敷の冠木門の色合いや、中の展示物など若干の差異はあります。家康公と言えば薬オタクで知られ、「八味地黄丸」をベースに「海狗腎(オットセイの〇〇)」など数種の補腎剤を加えた「無比山薬円」を愛用していたようです(通称 八之字)。
田中城で鯛の天ぷらを食して体調を崩した際には、「万病円」「銀液丹」という薬を自らに処していたようです。その他にもサイの角を調合した「烏犀円」という調合薬を開発して、大久保長安(駿府記)や池田輝政(駿府記)にも分け与えていたようです。家康公は「烏犀円」は中風に効くと考えていたようですが、実は「万病円」「銀液丹」「烏犀円」にはヒ素や水銀が薬剤として調合されています。
家康公に関しては胃がんという定説が有りますが、自ら調合した薬が体をじわじわ蝕んでいた可能性もあります。
話はそれますが、豊臣秀吉公の死因については私は毒殺を疑っています(ヒ素もしくは水銀で)。
秀吉公の死因に関しては、ガンや梅毒・脚気などの説もあります。元々 世界的にも梅毒の治療薬として水銀が広く利用されてきているので、その毒が体に溜っていたとする考え方も有ると思います。
秀吉公はビタミンB1を豊富に摂取していたので脚気の線は薄いと思います。また梅毒であれば、他の側室にも移っているはずです。
私はやはり毒殺の線が怪しいと思いますが、そうであれば当然 上杉景勝公の会津移封の件が関わってくると思います。
いずれどこかで「関ヶ原」や「会津の城郭」との関わりを含めて、投稿させていただきたいと思っています。
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2024/08/07 21:45
銀液丹、万病円 テリブリー毒薬の世界 (2024/06/22 訪問)
田中城から南に程なく行くと田中城下屋敷があり、敷地内には本丸櫓が移築されており、無料で中を見学することができます。田中城は家康の趣味の鷹狩の際の宿泊所としてよく利用されましたが、元和2年(1616)正月21日、家康公は鯛の天ぷらを食した後に腹痛を起こし、駿府城に戻って静養しましたが、4月17日に亡くなったとのことです。
藤枝市のマイ広報紙によると腹痛の後、万病円30粒と銀液丹10粒を飲んで気分が良くなったと側近に語ったとのこと。銀液丹というのは名前からしてヤバいですが、間違いなく水銀が調合されています。
元々、健康オタクの家康公ですが、中国の医学書「和剤局方」や薬草辞典「本草綱目」を愛読していて、自ら薬研で薬を調合していて、側近らにも分け与えていたようです。家康公は不調の原因を寄生虫によるものと考えていたらしく、水銀の副作用である下痢が効果的と考えていたのかもしれません。万病円と万病丹がごっちゃになっている感がありますが、加賀藩の秘伝の薬剤にも万病円があり、一部の業者に調合と販売を許可したようです。外貨獲得が目的と思われますが、この万病円は中国の丹薬や金丹液(雄黄を含む)の影響を受けているようです。銀液丹の名称から伺えるように、家康公も影響を受けているようですね。
万病円の成分として、牛黄(ごおう)・麝香(じゃこう)・犀角(さいかく)などの強壮剤
マメハンミョウ・ムカデ・トカゲなどの動物薬
朱砂や雄黄といった水銀やヒ素の化合物も含まれているようです。全部だめですね、家康さんの調合した薬。
家康公の死因は胃がんとされていますが、毒物の影響があるのではないかと言われているのは、これらの薬が原因のようです。
ヒ素というのは無味・無色・無臭で暗殺にはもってこいと言われています。ヒ素で殺害されたのではないかと思われている、武将や人物はけっこう多いみたいですね。
個人的には 豊臣秀吉(!)・小早川秀秋が怪しいと思います。後の時代の松平忠長も怪しいですね。彼はなかなか死なないので、結局自害に追い込まれてしまったようですが。そんな気がします‥。
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2024/08/06 01:58
街中に遺構を残す円郭式の城郭 (2024/06/22 訪問)
田中城は天文6年(1537)今川氏によって築かれ、永禄13年(1570)今川を追い出し駿河に入った武田氏によって改修を受けます。天正10年(1582)徳川勢の攻撃を受けるも依田信蕃は堅固にこれを守り、穴山梅雪の説得でようやく開城したとのことです。
慶長6年(1601)に酒井忠利が藩主となり、藤枝宿と共に整備がなされたようです。現在の縄張りはこの頃に整理されたとされ、駿河の徳川家の直轄になってからは、家康の鷹狩りの際の宿泊所になり、15回以上宿泊しているとのことです。
城址はきれいな円郭式の縄張りをもち、全国でもこれだけ丸い縄張りを持つ城は稀だと思います。今でも道路の形状などに、その名残が見られ、県道沿いに南下していくと二の丸跡の南側に馬出しを備えた三日月掘が見えてきます。
本丸跡は私立西益津小学校となり、一之堀は埋まっていますが、その周囲にニ之堀が残っています。
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分類・構造 | 輪郭式平城 |
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天守構造 | なし |
築城主 | 一色氏 |
築城年 | 天文6年(1537) |
主な改修者 | 山県昌景 |
主な城主 | 一色氏、山県氏(武田氏家臣)、依田信蕃(武田氏家臣)、本多氏 |
廃城年 | 明治元年(1868) |
遺構 | 曲輪、移築櫓、石垣、横堀(水堀) |
指定文化財 | 市有形文化財(田中城本丸櫓)、市史跡(田中城址) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 静岡県藤枝市田中1 |
問い合わせ先 | 藤枝市産業振興部商業観光課 |
問い合わせ先電話番号 | 054-643-3078 |