先日、石垣山城の井戸曲輪の東側が崩されているのでは・・という話を書きました。ちょっと思う所があるので そこから話を膨らましてみたいと思います。
破城といっても、いろいろあるようです。熊本県の宇土古城の場合は廃城に伴って、念入りな儀式が行われたとされ、城門付近の横堀から多数の石塔の部材が発掘されているようです。これは丁寧な方ですね。
多くの山城は「島原の乱」の後、石垣の隅部などを崩されています。一揆勢などに使われないようにということですね。中でも石垣山城はけっこう念入りに破城が行われ本丸周囲の石垣もかなり壊されています。もし敵対勢力が石垣山城に籠ったとしても、石垣を修復する前に、小田原城の手勢がすぐに本丸まで到達できると思います。水の手から侵入して、本丸まで一気にいけますよ。
水口岡山城や佐和山城は石垣をほとんど持っていかれてしまって、かわいそうな状態になっています。朝田さんが言う所の、完ハキャというやつで・・やれば出来るみたいですね。
ちなみに近くの安土城や観音寺城の石垣は比較的原型を留めていますが、これは後述で・・
佐賀県の名古屋城も石垣を結構念入りに崩してあります。でも江戸時代260年あったのに、残されている石垣も多い。これは推測ですが、非常事態を考えて完全破却までには至っていないのかもしれません。中国に攻撃的な政権が誕生、もしくは欧州の国が中国を占拠して日本を攻めてくる場合に朝鮮を経由して来る可能性があります。その際に防衛、もしくは攻撃の拠点とするために、保険としてある程度の形状を残してあるのかもしれません。
江戸の平和が崩れて、戦国の世が再来したときのことを考えると・・薩摩の麓や仙台の要害も立派な城だし。各藩も補修して使えるのなら山城を残しておきたいのでは・・? まあ詳しい所は破城を行った本人に聞いてみないとわかんないけど・・
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