本丸と三の丸の間のお堀の中の島のような二の丸がとても特徴的❗
明治以降の歴史もとても興味深いお城です。
本丸内に神社もあり、御朱印好きには二度おいしいかも。
城内の日本酒アイスは風味が良くてとてもおいしいのですが、残念ながら未成年には販売できないそうです。
耐震基準の問題で、あと2年ほどで天守閣には登れなくなるとの話でした。
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2023/09/18 22:10
2023/09/17 17:38
広島城朝駆け (2023/08/16 訪問)
広島城の縄張りは、本丸・二の丸・三の丸・外郭と三重の堀で構成され本丸の北西部に五重五階の大天守と、三重三階の小天守二基から成る複連結式で築かれています。東西1.3km、南北1.3km、櫓の数は88基あったといわれています。
三重三階二基の小天守と南渡櫓は明治時代の初期に撤去され、大天守と東渡櫓は残されていましたが、原子爆弾によって建物すべてが倒壊・焼失しています。
現在の天守は、コンクリート造りで復元され、二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓はに木造で復元されています。
広島城を築城したのは、豊臣政権の五大老の一人、毛利輝元公で太田川のデルタ地帯に目を付け、1589年から築城を開始させ、1599年10年の歳月をかけ完成させていますが、翌年の関ヶ原の合戦で西軍の総大将であった毛利氏は広島城を出て萩城へと移り、替わりに入封したのが、東軍で活躍した福島正則公で今に残る広島城の遺構は、ほとんどがこの頃のものとされています。
1615年、城の修復に際し武家諸法度に違反したとして、信濃高井野に転封。続いて徳川家康公の娘婿にあたる浅野長晟公が入封し、幕末まで続いています。
8月15日は大分の日出城を朝駆けし、大分より幾つか城を巡りながら広島に移動。広島の平和記念公園、原爆ドームなどを巡り、翌16日、16時には豊橋に野暮用があり、朝8時には広島を出発しないと帰宅するのが難しく仕方なく広島城を城朝駆け(>_<)
三回目の訪問ですが、一度も天守内に入ったことが無く、また、内堀越しに見る天守の姿が格好良く見所だと思っていますが、今回は泣く泣く諦めました。宮崎県に初上陸したく無謀な計画で城巡り&観光をしたことが、まずかったかなと後悔しています。次回は、入念な計画のもと、広島城を訪れたいと思っています。
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2023/08/04 22:02
広島と呉(その②)「大和ミュージアム」
広島の続きです。翌日はJRで30分程の呉に行きました。
呉駅の改札口から連絡通路を5分程歩いた所に大和ミュージアムがあります(写真①)。道を挟んだ向かい側には大きな潜水艦が見えます(鉄のクジラ館)。これは海上自衛隊の博物館です。時間に余裕あればこちらも見られる事をオススメします。(写真②)
戦艦大和はこの呉で建造され呉を母港としていました。ここでは映画のセットで使用された実物の1/10(=26m)の大模型や、大和に関するあらゆる資料、零戦や魚雷、36インチ主砲弾、また沖縄特攻で亡くなられた乗組員3,056名の名簿や写真などが展示されています。(写真③④⑤⑥⑦)
現在のミュージアム前の海は、海上自衛隊の最大艦で、大和と同じ大きさ全長260mの護衛空母「加賀」の母港となっており、大和が建造されたドックの横に接岸されていました。また最新のイージス艦や潜水艦なども多数接岸されていました。ミュージアムの横からは軍港クルーズがほぼ毎日運行されており、これらの艦を真近で見る事ができます。(写真⑧⑨⑩)
私は母からよく戦争の体験を聞きました(当時今の中学生の年齢)。旗を持たされて出征兵士を見送った事、学校では授業がなく農家の芋堀りの手伝いをしながら合間に歴代天皇の名前を全部覚えさせられた事、別府湾の沖合いに停泊していたミッドウェイ出撃前日の日本海軍の空母4隻を眺めた事、電車で高崎山の下にさしかかった時に米戦闘機グラマンに機銃掃射されたが弾があたらず運よく助かった事、終戦前は毎晩のように防空壕に隠れた事、大分空襲の後の府内城の周りは焼野原で何も無く食料を求めて歩き回った事・・・などなど。
これら自衛隊の艦が出撃する事のない、平和な世の中が続く事を祈りたいものです。
お城に関係ない話が多く大変すいませんした。
次は輝元の話に戻ります。
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2023/08/04 21:40
広島と呉(その①)「広島城と原爆ドーム」
昨年は終戦記念日の前に、西郷隆盛を追って鹿児島城に行き、その足で鹿屋・知覧の特攻基地まで足を延ばし平和について考えました。今年は広島城を見学した後、向かいにある「平和記念公園(原爆ドーム・平和記念資料館)」を見学して近くのホテルに宿泊し、翌日はさらにJRで30分の呉まで足を延ばし「大和ミュージアム」を見学してきました。その様子をお伝えします。
私はまず、広島城の天守最上階から爆心地を眺め、当時の事を想像してみました(写真⑥)。1945年8月6日午前8時15分、たった1発の原子爆弾で約14万人の方々が亡くなられたそうです。今ではビルが立ち並び緑の公園がとても多い、この美しい広島の街並みを見ていると、当時の悲惨な様子などは、戦争を知らない我々にはなかなか想像し難いものがあります。その当時ここから見た景色は、いったいどんな景色だったのでしょうか? 原爆投下直後、天守は爆風で倒壊したのではなくまだ残っていたらしいです、しかしその数時間後、ついに耐えられず天守は自壊(倒壊)したとの事です。
そこから原爆ドーム(写真①②③)と平和記念公園(写真④)を見学し、平和記念資料館を訪れて来ました。外国人の方々が大変多かったのにはビックリしました。6月の広島サミットの前に展示がかなり一新されたと聞いていましたが、核戦争の悲惨さがとてもよく伝わる内容になっていました。皆さんも是非一度は見学されてみて下さい。ここに来ると当時の景色や被爆した人々の様子が実によく分かり、当時の事を知る事ができました。
【余談】広島城天守再建
耐震化に問題があるため、広島城の天守は2025年度中に閉館が予定されているようです。耐震補強も考えられたようですが、広島市と有識者で構成する会議にて解体し木造にて再建される方向で進んでいるようです。現在の広島城を見学されたい方は、それまでに訪問された方がいいかもしれません。ここも、今後の動向に注目ですね!
次は呉に向かいます。
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郡山から広島に本拠を移した毛利輝元が築いた城。聚楽第を模したとされる、内堀に囲まれた巨大な本丸と馬出を兼ねた小さな二の丸が特徴的。天守は望楼型の五重五階の大天守に2基の小天守を連ねた連結式で、原爆による倒壊後、昭和33年(1958)に大天守のみ再建された。
明治維新以降、近世城郭としての役割を終えた広島城の姿や役割の変化を振り返る企画展を開催。太平洋戦争終結までの広島城の様子を資料や写真で明らかにし、近代都市広島の歩みに与えた影響について解説します。開催日時:7月22日(土)~10月1日(日) 観覧料:一般370円
※ 内容は変更となる可能性があります、予めご了承くださいませ。
城地種類 | 輪郭式平城 |
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築城年代 | 天正17年(1589) |
築城者 | 毛利輝元 |
主要城主 | 毛利氏、浅野氏、福島氏 |
文化財史跡区分 | 国史跡(広島城跡) |
近年の主な復元・整備 | 福島正則 |
天守の現況・形態 | 複合連結式望楼型[5重5階/1599年築/焼失(空襲)]、複合連結式望楼型[5重5階/1958年再/SRC造外観復元] |
主な関連施設 | 大天守、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓、表御門、石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、石垣、横堀(水堀) |
住所 | 広島県広島市中区基町 |
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問い合わせ先 | 広島市市民局文化スポーツ部文化財課 |
問い合わせ先電話番号 | 082-504-2501 |