日本100名城

ひろしまじょう

広島城

広島県広島市

別名 : 鯉城、当麻城、在間城
旧国名 : 安芸

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広島城
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天守無しがアツい

カープの由来は広島城 (2024/03/10 訪問)

(2回目の訪問、2007年)
広電で紙屋町東にて下車。そこから10分ほど歩いて広島城を目指した。炎天下をひたすら歩き、広い敷地内を本丸向かって進み、そして本丸に入城した

城の展示はどこもそうは変わらないと思うが、毛利氏が栄えていた頃の広島を中心に展示がなされていた。当時の鎧に刀剣、槍、それに広島出身の思想家、医学に通じた者など広島が生んだ偉人は結構いるようだ。

「広島城に仕えた家臣」が城について解説するという映像展示もあり、楽しめながら理解できるものだった。兜、鎧を実際に着用できるイベントもあり、着てみると結構重かった。全部つけると20kgはありそうで、行軍がいかに大変かが分かるような気がする

武家屋敷に庶民の家を再現したものもあり、畳に襖、小さな木製テーブルとまさに和風。どちらも生活は質素だったようで御飯に汁物、おかず一品が普通の食事だったそうだ

現代のように肉を食うことはまず無かっただろうし、冷房設備も皆無なため、「夜寝る時は寝苦しかったんじゃないかな?」と思えた。そう気付くと今の生活は便利に思えるから、文明の進化には感謝せざるを得ない

最上階の1つ下の階には「鯉城とカープ」というテーマで、この広島城とカープ(広島東洋カープ)につながる展示がなされていた

そもそもチーム名が何故そうなったかというと、広島城の発掘にて鯉の銅像が発見されたように、この街にて鯉は広島のシンボルとして見られており、広島にプロ球団が誕生した時も鯉以外にふさわしいチーム名がないということで「広島カープ」になったそうだ

チームが発足した時の新聞コピー(何回かユニフォームは刷新されているので)各代のカープユニフォーム、(カープの優勝)記念碑といった名物を紹介した地図などが展示されていた。

カープ=鯉ということは承知だが、カープの由来は広島城にあったことは初めて知った自分。広島城は別名鯉城とも呼ばれており、その名をいただいたカープは地元市民に親しまれる存在となっていったと言えよう

最上階には展望室があり、椅子に座って飲み物を飲んだり外の景色を眺めたりしながらくつろいだ。外から見える周辺の街並みは緑が多くて綺麗だったが、5Fビルから見下ろす感覚で、下を見ると怖かった。「これくらい見たから次に行くか」と思い、記念メダルを買った後また暑い外を歩いた

(3回目の訪問、2024年)
(HP)https://www.rijo-castle.jp/

広島城には2007年にも訪問したことあるのですが、当時は御城印のシステムが無く、つまり未入手でした。その補完並びに久々の見物という意味合いで3回目の入城(ちなみに1回目は小学生の時なのですが、当時つけていた日記帳を紛失してしまい、内容もほぼ覚えてないので割愛😅)

まず(1枚目の)門を潜ります。それから右手に扉があり、どうやらそこから門内の通路を見学できるようです。けれど時間に余裕の無かった私はそこは諦めて本丸へと向かいました🏯

本丸は大人500円。午後に他用を控えてる関係で、展示物をじっくりとは見ずにサクッと見て回ることにしました

2枚目は歴代藩主を務めた毛利家の人々を描いた巻物。毛利元就〜輝元の代において中国地方一帯を治める大大名に成り上がった。輝元は112万石を所有していたわけですが(家康に次ぐ多さかな)、関ヶ原の戦いに敗れて石高を大きく減らし、長門国と周防国だけに…拠点は萩に

巻物の中に敬親(たかちか)の顔もあります。彼は吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎がいた時の藩主。松陰の山鹿流講義を褒め称えたり、晋作を四国連合艦隊との講和会議における大使に任命したのも敬親と思われます

そして…お約束の御城印…2階の売店で扱っていました。広島城(スタンダードタイプ)、鯉城(カープバージョン)、そしてしろうニャ(ご当地キャラ?)…他に金色の1000円タイプもありましたが、1枚300円の3種類(広島城、鯉城、しろうニャ)を選びました

3枚目がそれを収納した様子。写ってるのは広島城と鯉城のみですが、しろうニャもその後ろにちゃんと収めてますのでご安心ください。「袋はいらない…そのまま手渡しでOK」と店員に口にすると、「何ていい人なんでしょう😂」とリアクションされました…別にそんなことないのに…余計な袋は資源の無駄になるし、かさばってゴミになるだけだから断ってる

余談ですが、この御城印の撮影って実は結構難しいんですよね…御城印帳に入れた状態だと、どうしても本体が閉まろうとして動いてしまう。だから手で押さえながらの撮影。もしかしたら、帳にはしまわずに、御城印だけ並べて撮影のほうがいいのかな?

4階には(4枚目の)「刀の重さを体験しましょう」というコーナーがあり、私も振ってみました。するとそこそこの重量があり、ただ持つだけならともかく、これを振るって敵と斬りあう…となると、やはりムズイのではないかと思います⚔️

重さは1kgちょっと…バットより重いそうです。ここで使用されてるのは模造刀。あくまでレプリカですが、重さは本物と同じだそう。そう言えばウチにも鎌倉で買った模造刀あったな…🗡️ 品質保持のため箱にしまいっぱなしだけど、今度また握ってみようかな

最上階ではWi-Fiの通りが良かったため、そこで歩数計アプリのゲージ消費、買い物アプリの記録をつけました。そしてそこからの景色を手短に見てから急ぎめに階段を降りて天守を後にしました…

2-3分後…「やべ、そう言えば天守撮り忘れてた。そんなに写真撮らない自分でも、さすがに天守撮らないのは心残り…仕方ない。戻って1枚撮ろう😅」と考えて店主の前まで戻り、撮影したのが5枚目。とりあえず撮り逃さないでよかった

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2020/11/16 訪問)

※瀬戸内・広島・岩国への旅行の1行程で登城
※能島城、岩国城とともに登城
※往路は航空機で松山へ。そこから全行程レンタカー利用。帰路は岩国空港より航空機

1日目:松山空港>松山城(車窓)>渦潮観光船>能島城(村上ミュージアム)>しまなみ海道>竹原(泊)
 能島城(続百名城スタンプ 村上海賊ミュージアム9:00-16:30月休)
 ※能島城には上陸せず(上陸ツアーなどあります)

2日目:竹原>呉>広島(泊)
 広島城(百名城スタンプ 天守入口9:00-17:00)
 ※原爆ドーム、平和記念公園、宮島などと併せて訪問
  (当日は原爆ドームも宮島の大鳥居も修復中でしたが…)

3日目:広島>宮島>岩国城・錦帯橋>東京
 岩国城(百名城スタンプ 天守受付9:00-16:30)
  ※錦帯橋や山麓庭園などもぜひ

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しんしんちゃん

年末滑り込み訪問 (2023/12/31 訪問)

広島城は九か国112万石の大名となった毛利輝元によって天正17年に普請がなされました。中州に城を築く工事は大変な苦労を伴うものだったらしく川を堰き止め、島を普請するところから始めなければならなかったようです。
関ヶ原の合戦の後、福島正則が入り城下の整備に尽力しますが幕府から石垣の無断修理を咎められ(いいがかりに近い)信濃国高井郡および越後国魚沼郡4万5000石に減封されたうえ正則の死後、遺体を勝手に火葬にしたとして改易されてしまいます。(酷すぎる)

大晦日の夕暮れ滑り込みに近いかたちで訪問してきました。天守が閉まっているのは知っていますが山口に行く前に寄っておきたかったのです。大晦日で護国神社の前は屋台の準備で忙しそう。屋台のオッサンの顔が恐いです。さすがは本場ですね(何の?)
二の丸周辺を散策し表御門を拝見。この日はこれで退散しました。この後、大晦日の夜と元日はすごい人だかりになるのでしょうね。

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くうくう

毛利輝元が築き福島正則が受継ぎ江戸期は浅野家12代が城主を務めた

国史跡。日本三大平城の一つ。城の構造は大坂城を参考とし縄張は聚楽第に範を取ったと云う広島城は、往時は3重の堀をもち最大で88の櫓があった(内二重櫓35)。が、原爆投下で灰燼に帰す。五重の大天守は1958年外観復元された。平成に入り二の丸の平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門の再建、整備された。

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概要

郡山から広島に本拠を移した毛利輝元が築いた城。聚楽第を模したとされる、内堀に囲まれた巨大な本丸と馬出を兼ねた小さな二の丸が特徴的。天守は望楼型の五重五階の大天守に2基の小天守を連ねた連結式で、原爆による倒壊後、昭和33年(1958)に大天守のみ再建された。

城郭情報

城地種類 輪郭式平城
築城年代 天正17年(1589)
築城者 毛利輝元
主要城主 毛利氏、浅野氏、福島氏
文化財史跡区分 国史跡(広島城跡)
近年の主な復元・整備 福島正則
天守の現況・形態 複合連結式望楼型[5重5階/1599年築/焼失(空襲)]、複合連結式望楼型[5重5階/1958年再/SRC造外観復元]
主な関連施設 大天守、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓、表御門、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(水堀)
住所 広島県広島市中区基町
問い合わせ先 広島市市民局文化スポーツ部文化振興課広島城活性化担当
問い合わせ先電話番号 082-504-2869