唐津城には、青い空と青い海がとてもよく映えます。唐津藩初代藩主の「寺沢広高」も、本当はこんな天守を夢見ていたのではないかと、ふと思ってしまいました。
ところで、天守下の石垣がはらんできたため、16年をかけて発掘調査を兼ねた積み直し工事が行われていましたが、昨年に終了し現在はきれいな直線的な石垣がよみがえっています。その時の発掘調査では、何と天守石垣下の二ノ丸から、地面の中に埋もれていた野面積の石垣と金箔瓦が発見され、さらに本丸北東側の石垣からも金箔瓦が出土したそうです。という事は・・・🤔?
その様子を伝えるパネル展が唐津城内で行われていました。残されている文献から、豊臣秀吉から朝鮮出兵の兵站(物資や兵員の輸送)の責任者に任ぜられた寺沢広高は、唐津【唐(=中国)へ渡るための津(=港)】と名付けられたこの地を与えられ、1594~98年にかけて満島山に築城して(唐津古城)ここに港を整備し、その役目を果たしました。そして秀吉死後は家康から本領安堵され、1602~08年に名護屋城を解体してその資材を使って唐津城を建て替えたとされてきました(唐津新城)。その時に天守台は築きましたが天守は建てられず、本丸に御殿が建てられたようです(正保絵図より)。
今までは、その古城の存在を示す物が見つかっていなかったため、その文献の古城の内容に疑問が持たれていましたが、今回の発掘調査で発見された石垣は、その古城の存在を示す証拠となり、文献の記述は正しかったという事が証明されました。それだけでなく、広高は古城の天守または御殿のあった場所と石垣の上に、何と土を盛ってそれらを埋めてしまい、さらにその上に石垣を積み上げてかさ上げした場所を本丸とし、その本丸に新たな天守台と御殿を建てて唐津新城を完成させたという事になります。
ならば、この発見された金箔瓦は、秀吉時代に建てた広高の唐津古城の瓦なのでしょうか? 広高は秀吉からの信頼はかなり厚かったと思います。金箔瓦の使用を許されていたとしてもおかしくありません。それとも関ケ原後に、名護屋城を解体した資材で唐津新城を築城する時に、名護屋城の金箔瓦をそのまま使ったものが埋もれていたのでしょうか? または二ノ丸で見つかった金箔瓦は前者で、本丸で見つかったのは後者なのでしょうか?
私は天守最上階から名護屋城の方向を眺めていると、何やらロマンを掻き立てられてしまいました😊。
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