かたはらじょう

形原城

愛知県蒲郡市

別名 : 稲生城、海岩城
旧国名 : 三河

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小城小次郎

400年、形原を見守り続けるお妙さん (2023/01/28 訪問)

古図で見ると今の姿からは想像もできない大きなお城だがよくよく見れば航空写真からかつての城域が浮かび上がってくる。若殿の命を身を挺して守ったとされる乳母を祀る「お妙塚」は今も形原の街並みを見守っている。

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しんしんちゃん

乳母の身代わり伝説のある蒲郡の出世城 (2023/06/10 訪問)

久々に形原城跡に行ってきました。
形原城の歴史は平安時代末期 新羅三郎義光(甲斐武田氏の祖)の孫清光の弟
下司次郎師光(もろみつ)によって築かれたとされています。(現地案内板による)
その後、形原松平氏の城となり6代 家信の時代に徳川家康に従って上総国五井5000石から
下総佐倉4万石にまで出世しています。
蒲郡の出世城ともいえる城なので、ご縁がありますようにとお賽銭(5円)を投入させていただきました。
鳥居の裏には家信の乳母 お妙の塚もあります。
幼いころ素行の良くなかった主君の身代わりとなって刺客の手にかかったそうです。
家信の頑張りの影にはこの乳母の存在が大きかったのではないでしょうか。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:形原城 (2022/08/03 訪問)

本證寺からの転戦です。西浦駅より10分ちょっと歩き、三協樹脂㈱城山工場手前の形原城跡標識(34.790787、137.185141)に到着しました。
標識に従い進むと、「古城稲荷社」の鳥居があり、その先に二郭があり「お妙塚」が祀られています。
付近に稲荷社のある東古城、北古城、南古城などの地名が残り、その城域は広範囲のようです。

築城年代は定かではないようですが、平安時代末期に新羅三郎義光の孫、清光の弟である方原下司次郎師光が本城を築いたのが始まりとされています。
その後、松平信光の四男與副(ともすけ)が宝飯郡形原に居して形原松平氏の祖となりました。形原松平氏は與副の後、貞福・親忠・家広・家忠・康信と続きます。
四代・家広のときには今川氏に属していましたが、桶狭間合戦の後に家康に仕えたようです。
しかし、これに怒った今川氏当主・今川氏真によって人質であった妻子をみせしめに形原城から見下ろせる稲生の浜で串刺しにして処刑されたそうです。
天正9年(1581年)北条方の間者に13才の又七郎(後の六代家信)が暗殺されようとしたとき、乳母のお妙が身をもってこれを救った。亡骸は塚に手厚く「お妙塚」に葬られました。
天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に従い、六代松平家信は上総国五井に5,000石を領して移りました。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後、旧領の形原へ移され旗本になりました。元和4年(1618年)には10,000石を与えられて大名に列し、その所領は形原藩15,000石となりました。
さらに翌年には摂津国高槻へ20,000石で加増転封となったそうです。これにともない形原城も廃城となりました。

稲荷神社って、赤い鳥居がズラっと並んでいるイメージを持つのは自分だけでしょうか?
城跡は住宅化によりほぼ壊滅状態ということのようです。ただ、主郭と二郭だけが辛うじて残っており、二郭の石段下横には説明板がありました。
石段を登った所が主郭です。神社の社殿と説明板、城址碑があります。
三河湾、渥美半島を望むことが出来ます。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=深溝城を目指す為、電車で西浦駅から三ヶ根駅に向かいます。

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小城小次郎

周辺が大きく削られているのが痛々しい (2021/09/02 訪問)

丹波亀山藩主として明治を迎える形原(かたのはら)松平家はもともと今川氏との結び付きが強かったが人質を犠牲にして松平元康の元に参集したという。稲荷神社となった主郭の一部を残して周辺が大きく削られているのは痛々しい。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 松平与副
築城年 長享年間(1487〜1489)
主な城主 形原松平氏
廃城年 元和5年(1619)
遺構 曲輪
指定文化財 市史跡(形原城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県蒲郡市形原町東古城37、38
問い合わせ先 蒲郡市博物館
問い合わせ先電話番号 0533-68-1881