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ばばんちゃん

まだ修復が終わってません (2025/04/11 訪問)

本丸までも結構歩きます。昔はほぼ砂利道で車椅子などはキツイだろうと思ってましたが、今は道の真ん中が舗装されています。

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イオ

明瞭に遺る二重横堀 (2025/02/03 訪問)

詳細は不明ながら野上荘荘官・寺中氏の城と伝わり、高野山勢の影響の下、野上八幡山本陣と一体となって機能したと考えられるようです。

野上八幡山本陣東側の平坦地からストックを頼りに急斜面を下り、埋谷池の堤を渡って東に谷を上った先が寺中城です。堤の上はススキと笹が生い茂っていますが、藪はすぐに終わるので覚悟を決めてGo!

寺中城は楕円形の主郭と東接する長方形の副郭からなり、主郭は中央部にうっすらと土壇らしきものがあり、北辺を除く三方を低い土塁で囲んでいます。主郭土塁の外周には二重の横堀がめぐっていて、内堀と外堀の間の土塁は分厚く高さもありました。二重横堀は主郭の東側に回り込んで、副郭との間の堀切になっています。副郭は広さはあるものの削平が甘く、東側に緩やかに傾斜していました。副郭の南側には主郭・副郭間の堀切から分岐した外堀が続き、副郭東端の堀切(南方向へは竪堀)と繋がっています。

主郭と副郭だけの小さな城ながら、二重横堀と土塁は明瞭に遺っていてなかなか見応えがありました。ちょっと訪れにくい城ではあるものの、野上八幡山本陣とあわせて挑戦してみてはいかがでしょうか。
 

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todo94

万博翌日の攻城② (2025/05/11 訪問)

一津屋城からの転戦です。徒歩にてアプローチしました。一津屋城も古墳でしたが、河内小山城に向かう途中には、古市古墳群の一つ・雄略天皇陵もありました。生憎、スルーしてしまいましたけれども。そして、河内小山城は世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産の中では最も北に位置する津堂城山古墳です。南方の前方部から後円部へと登って行って菖蒲園の方に下りてしまったため、津堂八幡神社をスルーしてしまいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:沓掛城 (2025/05/16 訪問)

二村台七丁目バス停から徒歩15分くらいで、沓掛城址公園入口(35.069562、137.021652)に着きました。

14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地を治め、1560年(永禄3年)桶狭間合戦では前日に今川義元が入城し、織田攻撃の準備をした城と伝えられています。
「桶狭間の戦い」後には織田信長より勲功一番と称された簗田政綱の居城となりました。
慶長年間(1596-1615)に廃城になったようです。

沓掛城址公園として綺麗に整備されており、本丸を囲む空堀と土塁の遺構が素晴らしい。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=28030歩、歩行距離=19.6Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、前後駅から電車で豊橋駅に向かい、コインロッカーから荷物を取り出した後、大垣駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:吉川城 (2025/05/16 訪問)

東山保育園北バス停から徒歩20分くらいで、石碑付近(35.005085、136.927880)に着きました。

1397年(応永4年)に吉川入道が築城。その後花井勘八が居城、1580年(天正8年)に廃城になったと伝えられています。

国道155線沿いに石碑と城内にあったという辨財天が祀られています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=沓掛城を目指す為、上野台バス停に向かい、その後、バス➡電車➡バスを乗り継いで二村台七丁目バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:溝口城 (2025/05/16 訪問)

三菱重工南バス停から徒歩5分ちょっとで、公園付近(35.248810、136.914431)に着きました。

天正年間(1573年~1592年)初期、溝口富之助の居城とされています。

小さな公園に石碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=吉川城を目指す為、三菱重工南バス停に向かい、その後、バス➡電車➡バスを乗り継いで東山保育園北バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:清洲城 (2025/05/16 訪問)

新清洲駅西口にある織田信長像を確認してから徒歩15分くらいで、土塁跡(35.206553、136.844100)➡清洲城惣堀跡入口(35.205031、136.841764)の順番に巡りました。

清洲城は今回2回目の攻城です。前回は6年半前の2019年2月10日に来ました。
前回は模擬天守、清洲古城石垣、清洲公園を廻りましたので、今回、模擬天守には入らず外観のみを確認しました。

新清洲駅西口にある信長像はロータリーに2体、通りに3体ありましたが、なんか三国志ぽい信長でした。
土塁跡の痕跡はありません。石碑があるだけです。
清洲城惣堀跡ですが、よくわかりません。高低差があるようなないような。
攻城時間は35分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=溝口城を目指す為、清洲城惣堀跡近くの丸ノ内駅から名鉄電車とバスを乗り継いで三菱重工南バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:西溝口城 (2025/05/16 訪問)

蜂須賀城から徒歩30分くらいで、石碑前(35.220076、136.765007)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、溝口勝政によって築かれたと云われています。
溝口勝政の子が溝口秀勝で若狭国高浜城主➡加賀国大聖寺城主➡越後国新発田城主となり江戸時代を通じて新発田藩として続きました。

成願寺に石碑が建っているだけで、何もありません。
ちなみに、野崎バス停からのバスが遅延した為、勝幡駅周辺の勝幡城復元模型、幼少期の信長像、吉法師石絵、路面表示を見学できませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=清洲城を目指す為、稲沢市コミュニティバス千代田/平和線(平和支所行)の野崎バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、新清洲駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:蜂須賀城 (2025/05/16 訪問)

前日、豊橋駅で購入した名鉄電車全線1DAYフリーきっぷを利用して、青塚駅に着きました。
青塚駅から徒歩10分くらいで、蜂須賀小六正勝公旧宅跡碑前(35.203896、136.769048)に着きました。
西溝口城に行く途中、ちょっと寄り道して円竜院前の蜂須賀小六正勝公旧宅跡碑を確認しました。

蜂須賀城は今回2回目の攻城です。前回は6年半前の2019年2月10日に来ました。
前回攻城時は、蓮華寺周辺の蜂須賀城址碑、蜂須賀小六正勝公顕彰碑と青塚駅前の蜂須賀城址碑の写真を投稿していました。
今回、本当は蓮華寺奥にある蜂須賀正勝公&蜂須賀家正公の合同墓碑をお参りしたかったのですが、時間がなく、断念しました。
攻城時間は2分くらいでした。次の攻城先=西溝口城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:吉田城 (2025/05/16 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、喜見寺砦(城びと未登録 愛知県豊橋市)と吉田城を攻城しました。
喜見寺砦(城びと未登録 愛知県豊橋市)から徒歩15分くらいで、三の丸口門跡から進入し、鉄櫓前(34.770594、137.392997)に着きました。

吉田城は今回2回目の攻城です。前回は7年半前の2018年11月24日に来ました。
鉄櫓、石垣、空堀などを見ながら散策しました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=蜂須賀城へ向かう前に、ホテルに戻り朝食を食べました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:喜見寺砦(城びと未登録 愛知県豊橋市) (2025/05/16 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、喜見寺砦(城びと未登録 愛知県豊橋市)と吉田城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩10分弱で、喜見寺前(34.764821、137.387852)に着きました。

喜見寺は室町時代の1390年創立の曹洞宗の寺院です。
そしてここは、1564年に徳川家康が吉田城を攻略する為に砦を築きました。

入口を見る限り、とてもお寺に見えませんが、門の奥に墓地が見えます。遺構は残っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=吉田城へ徒歩で向かいました。

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しんちゃん

菊池遺産! (2025/05/09 訪問)

案内板によりますと、菊池十八外城の一つ増永城は菊池初代則隆の子、西郷政隆が築いた平城で、西郷氏代々の居城として正面に迫間川を擁し、台城・正光寺城と連携して玉名・鹿本方面からの侵入に備えた城とされています。
五輪塔は「西郷さんの墓」と呼ばれており、土塁跡(竹林)・井戸が残っているようです。西郷隆盛(西郷どん)は城主の末裔とされ「西郷南洲先生祖先発祥之地碑」が城址東に在る羽根木八幡の境内に立てられています。

初代城主・西郷太郎政隆は菊池氏初代則隆の子で菊池一族とされ、26代西郷九兵衛昌隆の時、薩摩に移り住んだという記録が有り、初代西郷政隆から数えて32代目が西郷隆盛(西郷どん)とのことです。

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翡翠

中津城 (2024/05/04 訪問)

駐車場から見た中津城もとっても良かったです。おっくんとくろかんくんが、お出迎えしてくれました。

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しんちゃん

「がもう」じゃなくて「かもう」 (2025/05/08 訪問)

蒲生城は標高160mの龍ヶ山の丘陵を利用した、周囲8km余りの県内有数の大規模城郭とされています。二の丸近くに駐車場があり、そこまで車で行くことが出来ます。二の丸から北上して行くと馬場跡にいたり、そこから本丸に入ります。本丸は五段の連郭になっていますが、整備されているのは一部で、残りはヤブになっています。最北の段を本丸の主要部として、その北側に土塁が残っています。
本丸と二の丸を仕切る道の周囲は断崖絶壁となっており、かなりの高さがありました。
保安4年(1123)宇佐八幡宮の留守職・藤原教清の子・舜清によって築かれたとされています。その子孫は蒲生姓を称し、18代範清の時に菱刈重豊の支援を得て島津貴久しますが、島津義弘の奮戦で重豊は自刃し、範清は城に火を放って祁答院氏を頼って逃れました。
これで430余年にわたる蒲生氏の支配は終わりを告げ、あとには比志島美濃守が地頭として入りました。

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しんちゃん

悲しきセブン党の末路 (2025/05/09 訪問)

わたくし今だにWin7などを使用しているシーラカンス野郎でございます。好きなんですよセブンが・・。
これまで「城びと」もセブンで、なんとかやって来れたのですが、最近仕様変更があったのか、いろいろ不具合が出てくるようになってきてしまいました。けっこうギリギリまで粘るたちで、地デジに切り替わるときもギリギリまでアナログ放送を見ていました。
好きなんですよ、マイナー路線ってやつが・・。ゲーム機も メガドラ→サターン→ドリームキャスト→消滅 という、まるで
「異世界おじさん」のような・・。セブンだとなにが困るかと言うと
①編集が出来ない
②グーグルマップが紙芝居みたいになってる
③「いいね」がつけられない
けっこう不便です。おまけで「ぴーかるさん」のアイコンだけへんな表示になってます。なんで?
セブン党にとっては世知辛い世の中です・・イレブン買うしかないか(へなへな)。。

馬渡城は別名・蛇塚城といい、城址は個人宅になります。この日は結構雨が降っていて、一声かけようにも人気が全くないので、通りすがりに外から城址にあった古墳を撮らせていただきました。城主の蛇塚定家(蛇塚九郎)は打越城主・林原与三隆益の孫に当たるため、この城は打越城より後に築かれたと考えられています。近くにある七城温泉ドーム一帯は「陣の内」と呼ばれ、当時は兵舎があったと推測され、現在は模擬天守風の建物が建っています。

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朝田 辰兵衛

碑は仮設置中です… (2025/06/08 訪問)

現在,碑は仮設置中です。定位置は,todo94さんの投稿画像を参照ください。仮設置中の場所が分かりやすいように,トイレも一緒に写し込みました。
現在の碑の場所は社への下り口で,もしかしたら虎口かな…と。トイレの設置と公園整備で改変されている可能性もあるので,何とも言えませんが…。

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トク

花菖蒲 (2025/06/11 訪問)

梅雨に入り、雨が一週間も降り続きうんざりする今日この頃、こんな雨でもどこか気軽に行ける場所はないか探していると、福岡城の花菖蒲園で花が咲いていると知り、見に行ってきました。花菖蒲園は、福岡城内の南西にある「南丸多門櫓(現存櫓)」の下にあり、なかなかの風情がありました。下之橋御門の紫陽花もきれいでした。
 

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カズサン

八丁目城-2/2 南曲輪・八幡館編 (2025/06/06 訪問)

 八丁目城-1/2 本曲輪・愛宕館編の続です。

 八丁目城本曲輪・愛宕館を終えて大手道を降りて大手口まで戻る、左手の登城路を南曲輪(八幡館)へ進み登る、南曲輪までは4段の曲輪が在り、祠と墓石の曲輪、巨木の江戸ヒガン桜が植わってる曲輪、江戸ヒガン桜は樹齢450年、稙宗、晴宗、輝宗、実元、成実の時代には植わっていたかも?、帯曲輪、南曲輪・八幡館と多段で曲輪が重なっている。
 本曲輪には忠魂碑と小さな祠が祀られている、本曲輪の案内板には「八丁目城の第2の曲輪、南端は物見とした」と記されてる。
 遊歩道は草刈がされて歩きやすい。

 比高も低く草刈整備されて見学しやすく成って居ます、常の環境保全に感謝です。

 旧松川小学校は体育館が松川地区体育館として住民の活用施設と成って居る、西隣には松川いきいき交流センターとしてゲートボール場に成っており当日もゲートボール競技を住民が楽しんでいました。
 最近はゲートボールよりグラウンドゴルフが盛んなのですが、まだまだ根強いものが有る様です。
 
 この後はしんちゃんが紹介投稿してる、南東に1.5km程の【陸奥 土合館】を目指します。
 

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カズサン

八丁目城-1/2 本曲輪・愛宕館編 (2025/06/06 訪問)

 多賀城復元外郭南門と東北歴史博物館で約3時間半充分堪能して、東北道沿いの未踏の城は?と探し、直近のしんちゃん投稿の八丁目城は比高も比較的低く足腰の弱い私でも登城できるのではと目的を定めました。
 多賀城ICから東北道南下約100km超、福島市の福島松川SICを降りて東に約1km程の旧松川小学校跡体育館を目指す。

 駐車場:松川地区体育館(旧松川小学校)下のグラウンド、もう一段下の駐車場、利用。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さん城びと投稿者グーグルマップに依る。

 県道52号線沿い旧小学校入り口に白い「八丁目城址」の標柱が立っている、グラウンドの駐車エリアに駐めて、いざ登城グラウンドの北東隅の坂道脇に、古木手造りの「八丁目城址」標柱と解説板がある、表には文章解説、裏には八丁目城址案内図、坂道を登って東横に「まつかわ西幼稚園」、北に大手口、大手道が北上に真直ぐ伸びて居る、草刈されて歩きやすい、大手口の指示案内板に北に愛宕館(本曲輪)西に八幡館(南曲輪)と出ている、北の本曲輪を目指す、両脇は多段曲輪の様ですが、畑耕作が続いていた畑跡かも?、現在は草が茂っている、多段曲輪の切岸が連なり見ごたえあり、愛宕神社下の階段を登って帯曲輪、東側に愛宕神社鎮座、奇麗にして祀られている、帯曲輪から虎口階段を登って本曲輪(愛宕館)内部へ、カラスが二羽鳴き叫びうるさい、この時期はカラスの繁殖中?以前青森県の七戸城でカラスに襲われた経験があり、急いで下城。
 
 歴史は案内板に依ると
 八丁目城は伊達稙宗桑折西山城の支城として築かれた。伊達稙宗と子息晴宗と争った天文の乱の頃には稙宗が在城、勝利した晴宗は清野備前守・遠江守父子を城主に据えた。
 遠江守が晴宗の子輝宗に切腹させられた後、復帰した堀越能登守はやがて伊達氏に背き、二本松畠山氏に通じたが天正2年(1574年)大森城主伊達実元(サネモト)(晴宗の弟)が、この城を奪回した。
 実元が八丁目城に隠居した後は、その子成実(シゲザネ)が、また天正14年以降は政宗の重臣片倉小十郎景綱が、大森城主として八丁目城を支配した。
 天正18年の秀吉の奥州仕置により破却廃城、おおよその城構えは残されて現在に至る。

 八丁目城-2/2 南曲輪・八幡館編に続く。
  

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イオ

野上八幡山本陣(和歌山県紀美野町小畑) (2025/02/09 訪問)

野上八幡山本陣(城びと未登録)は、野上荘を領する高野山勢が戦国期に野上八幡宮背後の八幡山に築いた陣城で、根来寺勢との抗争の舞台となったようです。

寺中城に向かう道中に位置することから、ついでに登城しました。南麓の野上八幡宮内から主郭まで舗装道が通じているようなので車で行くつもりでしたが、道が思ったより狭かったことにひるんで野上八幡宮の駐車場から徒歩で登城しました(結果から言えば、道が狭いのは境内付近だけなので、車で問題ないと思います)。

いくつかの分岐を経て電波塔の横を過ぎたところに野上八幡山本陣の主郭が広がっています。主郭は駐車場兼広場として整備され、奥の櫓台には八王子厳島神社が祀られていました。神社奥の腰曲輪の脇を下って行くと堀切があり、堀切の先が副郭…ですが、柵で囲まれた通信施設によって占められています。通信施設の北側を回り込むと、副郭東辺には土塁があり、竪堀が南側に設けられていました。副郭から少し下って尾根の鞍部を上ったところには平坦地が広がっていて、駐屯地とも考えられます。この平坦地から東に急斜面を下りて行くと寺中城の登城口(埋谷池の堤)に至ります。

主郭は駐車場兼広場、副郭は通信施設に改変されていて、明瞭な遺構は数えるほどですが、西側から寺中城に向かう場合はどうせ野上八幡山本陣を通り抜けることになるので、ちょっと意識を向けてみるのも悪くないかと。
 

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