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朝田 辰兵衛

挙母城散策2/2(七州城,又日亭) (2025/08/10 訪問)

雨男ぶり健在。しかも,気温がそこそこ高かったので,動けば汗ビッショリでした。豊田市美術館内が快適だった分なおさらで…。
三河国,尾張国,美濃国,信濃国,遠江国,伊勢国,近江国が見えたそうで,それが「七州城」命名の由来とのこと。七つの尾根の七尾城みたいな感覚だ…。

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朝田 辰兵衛

挙母城散策1/2(豊田市美術館) (2025/08/10 訪問)

挙母城の中に豊田市美術館。豊田市美術館の中に挙母城という方もおられます。面倒くさいので,こんなことにはかかわりたくありません…<笑>。
「モネ 睡蓮のとき展」に行ってきました。時間予約制なのでご注意ください。東京展は激込みだろうな…と思い,豊田市美術館展をチョイスしましたが,けっこう混んでいて驚きました。愛知県民の方,スミマセンm(__)m

※「赤色かるた投稿」中休みです。

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トク

【赤色立体地図かるた】

太閤が 夢見し跡の 名護屋城
(たいこうが ゆめみしあとの なごやじょう)

名護屋城では、石垣の破却跡を見る事ができます。でもよく見ると中途半端に終わっているのが分かります。それゆえ破却中の様子を想像できます。破却を行ったのは唐津藩主「寺沢広高」です。1602年家康の命で天守や御殿などの建物を解体し、それを自身の唐津城の築城に再利用したと伝わっています。そして1615年一国一城令で本格的に石垣の破却が始まりますが、あまりに立派すぎて唐津藩の力だけでは十分に壊せなかったようです。そして子の「寺沢堅高」の代になり、唐津藩の領地である天草でのキリシタン弾圧や、農民による天草一揆がはじまると、もう破却どころではなくなり、最後1637年には天草島原の乱の責任で堅高は切腹し寺沢家は断絶となります。乱の後に代わって入った大久保氏により、幕府の命で再度破却が試みられますが、やはりこれは無理と断念したのが実情ではないでしょうか? とりあえず天端石をとり石垣の隅部を破却して自然に崩し、この上にすぐには建物が建てられない状態にして、そこでもう力尽きたという感じです。また朝鮮との国交回復をしたのは唐津藩ではなく、対馬藩金石城主の「宗義智」で、人質を朝鮮へ返し謝罪する事を条件に交渉がなされているので、名護屋城の破却は、朝鮮との関りというより幕府の一城令によるものが強く、しかも完璧にはほど遠いまま終わったというのが実情ではないかと私は思います。

秀吉の朝鮮出兵には、安宅船が使われました。この船は帆と櫂で進むので、1日せいぜい50kmぐらいの航海が限界ではないかと思います。漕ぎ手を休ませながら天候や風向(夏は南風、冬は北風、春は西風)や潮の流れなどの好条件がそろわないと進めないので、そういった必要性から壱岐・対馬には兵站基地として勝本城や清水山城が築かれました。

今年も「名護屋城大茶会」が11月23-24日に行われます。また名護屋城歴史博物館では、朝鮮出兵の様子などが詳しく解説されており、安宅船の特大模型や、蔚山の戦いを描いた巨大絵図、特に再現された「黄金の茶室」は必見です! 唐津城とセットで訪れられたら、より分かりやすく楽しめるのではないかと思います。詳しくはHPで。
 

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ミヤちゃん

暑かった。でも、天守閣まで登ると良い気分になった。 (2025/08/13 訪問)

前に犬山城に登った事もあり、階段の傾斜が急な事や
梁に頭をぶつけた思い出がありましたが、また頭をぶつけました(笑)
天守まで登った時に汗が滝のように流れました。タオル持参してなかったので、備え付けの扇風機に体を預けていました。
松本城は、階段以外は写真が撮れましたのでそこもポイント高かったですね。御白印も3枚セットで買いました。いい汗かきました( ` -´ )bイイネッ✨
ホテルも近かったので、チェックインもスムーズでした。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

津和野城 赤い瓦の 城下町
(つわのじょう あかいかわらの じょうかまち)

津和野城差し替えます。
津和野は山口県にあると間違えられがちですが島根県の石見地方にある城です。
石見地方は赤い色の石州瓦の産地で城址から見下ろす城下町でも石州瓦が使用されています。
松江のEXPOでブースの方ともお話し、魅せる整備も進んでいるとのこと。
近い内に行きたいです😊

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

尾根筋に 曲輪連なる 岸岳城
(おねすじに くるわつらなる きしだけじょう)

ここも未訪、行きたい城です。
上松浦党、波多氏の最大の城とされます。
縄張図を見るとややカーブした尾根筋に曲輪や堀切が並んでいます。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

松浦党 境目守る 獅子ヶ城
(まつらとう さかいめまもる ししがじょう)

ここも未訪ですがモトさんのレポート読むと「いかなきゃ」と思ってしまいます。
松浦党が築いた城で大友氏や龍造寺氏、後藤氏などの勢力との境界にありました。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

荒城も 今や名城 岡城址
(こうじょうも いまやめいじょう おかじょうし)

滝廉太郎の荒城の月のモデル、岡城。
曲はあまり知らないのでなんとも言えません。
100名城に選出されるくらいの城、未訪なので行ってみたい城です。

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しんちゃん

杉山城 (2014/02/07 訪問)

続百名城の杉山城です。規模はコンパクトですが良く手が入っている。この規模の土の城だと古宮城と同じくらいでしょうか。
どちらも良い城です。古宮城は武田氏に加えて徳川氏の改修も入っているという話ですが、古宮城に改修を加えたのは誰なのか?
井戸郭までたどり着いて、本丸までもう少しじゃんと思っていると、延々と本丸まで外周を迂回させられる・・ここで矢の雨が降って来てオジャンです。
地元の学生さんたちが整備に協力してくれているらしいです。草刈りとかでしょうか、地味ですが草刈りは大事です。
ヤブラーに占拠された城址を見るたびにそう思いますね。

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しんちゃん

越前大野城   ぴょん (2013/08/10 訪問)

最初に訪問した時は夏季だったので、無事に模擬天守に入ることが出来ました。この時には天空の城と言うイメージは無かったのですが、山+天守の組み合わせからの眺望は思った以上でした。個人的にはハムスターとウサギだったらウサギですね、どうでも良い話ですが。

大野城は12月~3月まで冬季閉館になります。思ったより閉館時期が早いので訪問するタイミングは選んだ方が良いと思います。

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しんちゃん

太鼓やぐら・織田家廟所 (2014/07/21 訪問)

かつて柏原陣屋の大手門付近に建てられていた太鼓やぐらは石田大蔵神社の本堂近くに移されています。内部は三階の立派な建物で、藩主の参勤交代からの帰りの合図や、火事・大水の時にも使われたそうです。
最上部には「つつじ太閤」が吊るされていると案内板には記載がありますが現在は非公開です。
柏原町東奥の織田家廟所には織田信休から九代藩主・信民までの藩主と一族の墓があります。

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しんちゃん

足摺岬 (2018/01/05 訪問)

四国で岬と言えば、まず頭に浮かぶのが室戸岬・・そして足摺岬だと思います。かつては那智勝浦と並ぶ補陀洛信仰の舞台であり、自殺の名所でもありました。昔はこの辺を歩いていると地元の人が心配して声をかけてきたそうです。
現在は公園化されて、かつてのイメージは払拭されています。とはいえ展望台から眺めると、切り立った絶壁が見渡せ、おそがい感じもします。公園の入り口あたりにジョン万次郎こと中浜万次郎の銅像があります。
元は漁師の子ですが、漂流中にアメリカの捕鯨船に助けられ、船長にその才能を認められた後は、船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘーブンで語学や数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。
当時の日本人では最も進んだ技術や知識を身に着けた人物だったのではないでしょうか。正直言うと、国学とか山鹿流とかはどこか胡散臭い感じがするので、そんなに好きではないんですよ。面白いとは思うのですが。

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しんちゃん

東京タワーの階段 (2015/12/29 訪問)

東京タワーです。お城とは関係ないですが、好きなんですよ・・高い所が。。
眺望の良さって重要で、人が山に登る理由の一つでは無いでしょうか。お城の天守だって上まで行きたいし、きっと徳川家康も駿府城の天守から富士山を眺望していたと思います。
東京タワーですが、実は階段で展望台の間を移動することが出来ます。昔、マガジンの漫画で主人公が足首を鍛えるために東京タワーの階段を使っていたので、私も登って見ました。けっこう登りますが、山城に登ることを考えるとあっという間です。
今でも登れるのかな? 写真でみるとけっこう不思議な空間が広がっています・・昭和を感じますね。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2022/05/23 訪問)

 「障子堀 オンパレードの 山中城」(しょうじほり おんぱれーどの やまなかじょう)

 箱根越えの伊豆山中城は北条流の畝堀障子堀が曲輪間に張めぐされて畝堀の展示会場の様相を見せています、西櫓、西の丸周囲の障子堀・畝堀は圧巻です、岱崎出丸北側下の横堀には畝が入り横に長い畝堀でこれも見所の一つ、北の丸と二の丸・本丸間にも畝堀が施されている様ですが草が茂り畝の確認は難しい。
 西櫓辺りからは天気が良ければ秀峰富士山を見る事が出来て素晴らしい景観に触れる事が出来ます。
 

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しんちゃん

五箇山・相倉合掌造り集落 (2015/10/22 訪問)

相倉合掌造り集落は住人もけっこういて、安心感があります。菅沼は少し怖かったですね、人を一人も見ませんでしたので。
お昼のお勧めは「五箇山そば」です。山のごちそうと言えば「そば」だけど、五箇山そばには栃の実が入っています。
山菜も大きくて良い。国土の大半を山林で囲まれている我が国は、人が山に入って成り立っていると思います。もちろん登山や登城もその一環だと思います。人が適切に山に入って管理して初めて国の安全や生業が維持されるのだと思います。

五箇山そばの山菜も地元の方が山に入って取ってきているんだろうか。この先も熊に襲われず無事に家に帰ってきて欲しいですね。
見渡すと里山の原風景が広がっていて、心がなごみました。

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しんちゃん

五箇山・加賀藩流刑小屋・相倉合掌造り集落 (2015/10/22 訪問)

寛文7年(1667)加賀藩の流刑地として罪人が五箇山へ送られて来ました。明治維新までの200年間に約150人の罪人が送られてきています。流刑小屋にもいくつか種類があって、集落の中に限って歩ける平小屋、一歩も外へ出られないお縮小屋、小屋の中にさらに狭い檻がある禁錮などが有るようです。写真の小屋はお縮小屋にあたります。
この辺の川の渡しは「篭の渡し」なので一人では逃げることができないようです。
この後、相倉の集落に向かいました。ここは住人がけっこういて、人の気配があります。2013年に訪問した時に、玄関に「おばあちゃんが招き入れても、入らないでください」という貼紙がある家がありました。売店で五箇山そばを食べながら、あのおばあちゃんがどうなったか聞いたら施設に入ったと言ってました。狭い村なので何でも筒抜けなようです。

「五箇山そば」はおおぶりの山菜が入っていて、高野豆腐に栃餅が入っています。この栃の実が重要だと思います。縄文時代からドングリのようにアクを抜いて食べられ、山間部では重要な食糧だったようです。
この栃の実を食べるのは日本だけのようで、古来からの知恵が詰まっています。太古から日本人は山に入り、マタギが熊を獲ったりして生態系の一部を担っていたと思います。完全放置の自然が、本来の自然などと誰が決めたのか?

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2011/06/04 訪問)

 「濠と土塁 睡蓮浮かぶ 安田城」(ほりとつち すいれんうかぶ やすだじょう)

 14年前の6月4日富山城を訪ねて掛かりの方に安田城を紹介され安田城跡資料館に駐車利用、見学後、発掘調査し復元された安田城跡を探訪見学しました。時は6月濠の睡蓮は花開き濠に彩りを添えていました。

 安田城は秀吉の佐々成政征伐戦で秀吉が白鳥城本陣とし前田氏の家臣岡島一吉が支城とし築き布陣したと言われている。中世の平城が田圃の中から発掘調査の上、国指定史跡として保存整備されている。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2025/05/15 訪問)

 ①「東西に 登り石垣 洲本城」(とうざいに のぼりいしがき すもとしろ)

 ②「模擬天守 星霜百世 洲本城」(もぎてんしゅ せいそうももせ すもとしろ)

 今年5月15日に家内の希望の大塚国際美術館と祖谷つり橋観光に付き合いの帰り淡路洲本城に久しぶりに寄り、以前見て居なかった東側の登り石垣を東の丸高石垣下より樹木伐採もされてよく確認する事が出来ました。

 又今年は昭和100年となります、昭和3年に御大典の記念に天守台跡に竜宮城の様な模擬天守が建てられて97年と成って居ます、端折って100年百世として詠んでみました。

 三熊山山上の総石垣の洲本城は何時訪ねても石垣にうっとりと時間の経つのも忘れてしまいそうです、又下の城の石垣、濠も必見で淡路文化史料館には洲本城の展示、資料、情報が有り見学は見逃せません。
 

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todo94

夏のチャシめぐり⑤【城びと未登録】ピリカタイチャシ(北海道稚内市) (2025/08/11 訪問)

樺太記念館を見学しても、まだ時間がたっぷりあったので、8日に続いて再度、宗谷岬に向かいました。その途中、まずは宗谷公園に立ち寄って、間宮林蔵顕彰碑や旧藩士の墓、津軽・会津・秋田藩陣屋之跡碑などをチェックして回りました。そして宗谷公園にほど近い宗谷中学校にはピリカタイチャシの説明板が建っていました。チャシ内に踏み込むことはできませんでしたが、チャシらしい外観は確認することができました。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2020/01/03 訪問)

「壱岐対馬 最短出征 名古屋城(いきつしま さいたんしゅっせい なごやじょう)」

壱岐島・対馬と経由して、ほぼ直線ルートで朝鮮半島に到達しています。なんとも・・戦争の時は最短で出かけて行って、平和な時代には迂回して長崎に来てる。まあ直でやりとりするよりはワンクッション入れた方がお互いに良いのかもしれない。
名護屋城の破却は「島原の乱」の後と考えられています。ここは比較的一揆の場所に近いので、破城は念入りに行われたと思います。
まあ、豊臣秀吉の陣城でもあったし、朝鮮への配慮もあったのかも。

1630年代の島原藩では幕府の役人を巻き込んでフィリピンのマニラ侵攻を計画する動きが有りましたが、「島原の乱」勃発により計画は完全に頓挫し日本は鎖国に入っています。一揆軍はスペインの援軍を期待していた向きもあるようなので「島原の乱」は日本のフィリピン侵攻を妨げたいマニラ総督府の工作も関わっている可能性もあるのではないでしょうか?
だとしたら、彼らの思惑どうりに行き過ぎて少し面白くない。

赤色立体地図は国土地理院地図以上に地形がわかりすぎて少し危険です。「有事」の際には某国が工〇船で大量に侵攻してきて、山中を拠点にしながら都市部に〇スや細〇で攻撃を仕掛けることも可能なわけです。普通の人にはただの「赤くて気持ち悪い地図」だけど、見る人が見れば、どこをどう通れば目的地に行けるかすぐに解ってしまいますね。
国も環境省も熊を野放しのままだし、この国は国民の命を守る気が、全然無いように感じます。城址の形状を見るのには便利なんですけどね。

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