宮本武蔵の続き(12)です。
この頃、細川忠興はある悩みを持っていました。剣術師南役として客分に迎えた小次郎ですが、横暴な振る舞いが多く藩の秩序を乱していたのです。しかし藩内には誰も勝てる相手がいないのでどうしようもありません。小次郎より強い者が現れれば何とかなるのではと忠興は密かに考えます。
ちょうどその頃、新免流の弟子たち(中津)と岩流の弟子たち(小倉)で、どちらが強いのかというけんかが始まります。ならば小次郎と無二斎の師範どうしで勝負し決着をつけようではないかという話になりますが、年老いた無二斎がこれを拒否したそうです。
この時、新免氏を預かる家老の松井興長が、新免流を継ぐ者で、京都であの有名な吉岡一門を破った宮本武蔵という男がいるという噂を聞き、興長は無二斎を通じて武蔵を小倉に呼び寄せます。武蔵は無二斎から困っているという知らせを受け、小倉に向かいました。忠興と興長は、この武蔵があわよくば小次郎を倒してくれれば・・・、いやいっそ亡き者にしてくれれば・・・、と頭をよぎったのかもしれません。
武蔵が小倉に着いた頃には弟子たちの争いはエスカレートしていました。そしてついに武蔵が無二斎の代わりに決闘することになりました。しかし当時決闘は幕府の御法度、表立ってする事はできません。ましてや細川家が公認した事が幕府にばれると、大問題になってしまいます。よってその決闘は非公認の私的なものとされ、細川領外の関門海峡に浮かぶ「船島」(当時は長州藩領)で行われる事になりました。しかし密かに忠興は、門司城代の沼田延元に見聞させていたようです。
巌流島の正式名称は、今も昔も「船島」です。下関側からは唐戸から毎日、門司側からは門司港駅前から土日祝のみ船が出ています。どちらも所要10分程(約1時間毎)です。私は門司側から上陸しました。坂本龍馬もお龍(おりょう)を連れて訪れた事があるようですね。これは私も初めて知りました。
次は、巌流島の決闘(後編)、今まであまり知られていない「決闘の真実」に迫りたいと思います。
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