地質学雑誌に記載された西本昌司氏のレポートによって本丸搦手馬出の石垣の石の配置図を見ることができますが(ネットでも閲覧可)、訪問時は本丸搦手馬出は工事中で周辺は立入が禁止されていました。そのおかげで周辺の石垣も遠景でしか見ることが出来ない。
いずれにせよ搦手馬出しの周囲には水堀があるので北面は対岸から見ることになるだろう。次の課題にしよう。
城内には青松葉事件にかかわる石碑があります。これまでの訪問時にはスルーしてきたのですが、青葉松事件とは慶応4年(1868)1月20~25日にかけて藩主・徳川慶勝によって佐幕派の藩士(重臣含む)14人が処刑された事件です。
慶応3年10月に大政奉還が行われ、徳川慶喜はまだ将軍職を勅許された状態でしたが薩長は討幕に動き、慶喜が江戸に戻ってすぐに青葉松事件が起こりました。処罰された有力な重臣・渡辺新左衛門家の別称が「青松葉」だったため青松葉事件の名称で呼ばれるようになりました。
徳川義勝は元は高須藩の出身で、高須藩は尾張徳川家2代徳川光友の次男・義行によって再興され尾張徳川家御連枝として四谷松平家が継承していました。尾張徳川家の嫡子が途絶えた時にこれに養子を提供する役割を果たしており、義勝の弟の容保は会津藩を継いでいます。青葉松事件で殺害されたものの中には前藩主に近い者が多く、佐幕派以外の人物も含まれていることから藩内の権力闘争に利用されたっとの見方もあるようです。岩倉具視が絡んでいるともされ、ドロドロしていて気味が悪くなってきますね。
鳥羽・伏見の戦いの前に落ち目の幕府を見限って立場を鮮明にしたようにも見えますな。
+ 続きを読む