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赤い城

宇喜多直家生誕の城 (2024/10/13 訪問)

登城口に砥石城入口の案内板があり、登城路はハイキングコースになっています。
少し急ですが歩きやすく山頂部の本丸には10分ちょっとで到着、見晴らしも良いです。
本丸は広く、説明板も設置されていました。
野面積みの石垣の案内板があり、僅かに当時の石垣が残ります。
その奥の石垣は江戸時代に建っていた金比羅宮の石垣です。

主郭から奥の尾根に進み出丸へ向かいます。
笠松神社の手前に案内板があります。
やや入口がわかりにくいですがこの案内板とピンクリボンに沿って行くとすぐに道がついています。
まずは堀切、浅くなっています。
さらに尾根を進んでいくと出丸手前に堀切があり、その先の城塁を登ると出丸、さらに奥に向けて段になって曲輪が続いていました。

直家生誕地ですが島村盛貫の奇襲により祖父の能家が自害、父の興家と脱出した城です。
その後各地を転々とした後奪還しました。

近くには高取山城もあり徒歩圏内なのですが次回に回すこととしました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:信貴山城 (2024/09/28 訪問)

奈良交通バスの信貴大橋バス停から徒歩15分くらいで、空鉢護法堂参道口(34.610008、135.670322)に着き、そこから空鉢護法堂(信貴山の主郭で最高所)を目指しました。

築城年代は定かではないようですが、河内国との国境に近い要衝にあることから南北朝時代頃から砦や陣が設けられたようです。
本格的な城郭を築いたのは木沢長政で1536年(天文5年)の頃と云われています。
木沢長政は河内国守護職畠山氏の家臣で飯盛山城主となるなど重用されたが、主君畠山義堯を裏切って細川晴元に接近しました。
1542年(天文11年)河内太平寺合戦で長政は討死し、二上山城とともに信貴山城も落城しました。
1559年(永禄2年)松永弾正久秀が大和へ入国すると、多聞山城とともに信貴山城も改修して拠点としました。
1564年(永禄7年)三好長慶が飯盛山城で病没すると、松永久秀は三好三人衆と将軍足利義輝の暗殺するなど畿内での勢力を増したが、三好三人衆と仲違いしたことにより、大和より追い出した筒井順慶が三好三人衆と結んで筒井城の奪還を計ります。
三好家中で孤立した久秀は高屋城主の畠山高政と結んでこれに対抗しようとしたが、上芝での戦いに敗れ、その後、三好三人衆の陣があった東大寺の奇襲に成功した久秀でしたが、信貴山城は三好・筒井軍によって攻め落とされました。
1568年(永禄11年)足利義昭を奉じて上洛した織田信長に久秀はいち早く降り、その加勢を得ると信貴山城を取り戻しました。
1570年(元亀元年)筒井順慶の勢力が盛り返すと、翌1571年(元亀2年)には辰市城合戦で大敗を喫し、その後、筒井順慶も織田信長に帰順し、その斡旋もあって和睦となりました。
その後、将軍足利義昭が画策した信長包囲網に加わり反旗を翻しましたが、1573年(天正元年)甲斐の武田信玄が没すると包囲網も破綻し、久秀は多聞山城を明け渡すことで信長に降り、信貴山城へ退きました。
1577年(天正5年)久秀は佐久間盛信に従って本願寺攻めに加勢していましたが、再び毛利輝元や上杉謙信、本願寺など反信長勢力に荷担し信貴山城に籠城しました。
信長は筒井順慶などを主力とする大軍を送り込み、久秀が所有している名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると勧告するが久秀はこれを拒否。久秀は天守に籠もって自爆して果てました。

なんとか松永屋敷までは行きたかったのですが、バスの時間がせまり石碑の写真を撮って撤退です。
後で気づきましたが、登るのに一生懸命で遺構の写真を一枚も撮っていませんでした。何をしに行ったのやら。。。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=高安城を目指す為、信貴山門バス停から近鉄バスで高安山バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:立野城 (2024/09/28 訪問)

王寺駅から近鉄生駒線を利用して信貴山下駅で下車。そこから徒歩15分で、墓地登り口(34.601154、135.687793)に着きました。
信貴山下駅から舗装された登り坂を15分歩くのは、結構きつかったです。

永禄年間(1558~70年)興福寺の立野氏が築城したとされます。のちに松永久秀軍に落とされ、信貴山城の東南を固める出城となりました。

城山台団地の城山台第2児童公園及びその上の墓地が城址のようです。
墓地から城山台第2児童公園へは直接行けないので、一旦降りて回り込む必要があります。
標識などはなく、城址感はありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=信貴山城を目指す為、徒歩で万葉荘園前バス停へ向かい、そこから奈良交通バスで信貴大橋バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:椿井城 (2024/09/28 訪問)

下垣内城から徒歩20分くらいで、椿井城登城口(34.620531、135.711453)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、島氏によって築かれたと云われています。
島氏は平群一帯に所領を持った在地豪族で、もともとは西宮城を居城としていたようです。
石田三成に仕えた島左近清興はこの島氏の出で、筒井順慶に従って松永久秀を敗り、大和守護職へと導いたが、順慶が没すると家督を継いだ筒井定次とは折りが合わず辞去し、やがて石田三成に仕えたそうです。

南郭の主郭・副郭とも眺めは最高です。主郭の石垣は草が生い茂り、落葉も斜面に堆積しているので見学の際は注意して下さい。
南郭から北郭への進入口は藪化しており進入できません。というか、北郭へは進入禁止のようですので見学は断念しました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=立野城へ行く前に、一旦ホテルに戻り朝食を食べる為、電車で竜田川駅から王寺駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:下垣内城 (2024/09/28 訪問)

西宮城(城びと未登録 奈良県平群町)から徒歩2~3分くらいで、平郡中央公園(34.624027、135.703072)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、島氏によって築かれたと云われています。 谷を挟んで南に西宮城があります。

西宮城は平群中央公園の一角にあり、南の谷を挟んでと西宮城相対します。
当初単郭の城館と見られていた下垣内城は東西二郭の副郭で、間に8m程の堀切があったそうです。
現在は東屋があるなだらかな丘陵になっており、遺構らしき地形は見ることができませんが、東屋の柱に案内板が設置されています。
トイレもありました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=椿井城へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:西宮城(城びと未登録 奈良県平群町) (2024/09/28 訪問)

ホテルでの朝食前に西宮城(城びと未登録 奈良県平群町)、下垣内城、椿井城の3城を攻城しました。
宿泊先のホテルから王寺駅に向かい、近鉄生駒線の始発で竜田川駅に着きました。
竜田川駅から徒歩10分くらいで、冒険広場(34.622817、135.702903)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、島氏によって築かれたと云われています。
1460年(長禄4年)畠山義就の軍勢が島城へ押し寄せましたが、筒井順永の後詰により撃退しています。この島城が西宮城か椿井城と考えられているようです。
島氏は後に椿井城を築いて居城とし、筒井順慶、後に石田三成に仕えた島左近清興が著名です。

西宮城は平群中央公園の一角にあり、北の谷を挟んで下垣内城と相対します。
公園にある案内板によれば、時計台のある所が堀切で土橋が架かり、東側が主郭、西側が副郭であったようです。
案内板の写真も撮りましたが、ピンボケで投稿できません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=下垣内城へは、ここから徒歩で向かいました。

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じゅんじん

マンション群の公園 (2024/10/13 訪問)

公園内に説明板があります。

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じゅんじん

学校です (2024/10/13 訪問)

運動会やってました。校門にいた人からの視線が冷ややかでした…

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じゅんじん

7年ぶり (2024/10/13 訪問)

調布市役所からレンタルチャリでまわりました!7年ぶりでも変わりません!

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しんちゃん

未開の遺構を残す城 (2024/10/05 訪問)

比自山城は「道標なく未整備」の城とのこと。イヤ~な予感がするねえ。地形図を見て西蓮寺の北の民家の合間から進んだけど、西蓮寺の墓地の脇から行った方が楽です。道しるべの矢印が落ちてたり、倒れてたり先行きが怪しい。西に進んで二つの池の間を通って城址に向かいます。
土塁のある郭はヤブに覆われていて、なんとか主郭への道をさがして進む。半分強引に主郭のある扁平地にたどり着くと間に堀切が有って南北に城跡が分かれています。おそらく北側が主郭だと思いますが、まずは南を訪問します。

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しんちゃん

ボヤボヤ  (2024/10/19 訪問)

なんか菩提山城の投稿なのに、やたら竹中陣屋の投稿が多いな‥と思ったら、ひとくくりにされているわけか。ごっちゃにしすぎじゃね?
じゃあ両方回らないといかんわけね‥まずは陣屋の方から。
実はすでに菩提山城は攻略済みだったりします、この日は雨になるとの予報だったので、高速を併用して急いで垂井町に来て、菩提山城を攻めています。以前来たときは主郭からは素晴らしい眺望が見え、親子連れも結構来ていたのに、霧が酷くて人っ子一人いない。おまけに山頂からの眺望は真っ白‥。でも城の遺構はなんとか確認できました。やはり城山に行かないとね。

竹中氏陣屋は竹中半兵衛重治の嫡子・重門が菩提山城を配して築いた陣屋です。案内板によると、陣屋門は明治新政府の発令した「幕府建造物破壊令」を生き延びた貴重なものとのこと。というか‥明治政府、そんな命令出してたのか。廃城令のことですかね?

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しんちゃん

見所は背後の堀切と、石垣の箇所。土岐氏にまつわる悲劇の城。 (2024/10/19 訪問)

この日は午前中から雨でして‥高速を併用して急いで関ヶ原に到着、菩提山城を攻略して古戦場記念館についたころには雨が降って来てました。せっかく関ヶ原祭りをやっているのに雨で武将たちの演武は中止(のはず)。なんとも間が悪い話です。
小島城に着いたころには、だいぶ雨も収まって来ていたので、一気に攻略にかかります。
駐車場から城址まではそれほど距離はなく、道らしきものを見つけて主郭を目指します。とにかく郭が多く、なかなか主郭にたどり着かない。主郭はそれほど広くは無く、背後に大堀切があり土橋がかかっています。どうも最高所は主郭というよりは防御施設で、下の方の建物が有った場所が主要な部分だという気がします。
案内板、確かにけっこう難解ですね。南朝方の城だった小島城を北朝方の土岐頼康が落とし、要害の城として改築したとあります。丈和2年(1353)後の二代将軍・足利義詮が京を追われた際には後光厳天皇を奉じて小島城に入り、二か月の間、付近に小島頓宮を設営したたとのこと。頼康は美濃伊勢三河・三国の守護となり、隆盛を極めましたが、嫡子無いまま滅し弟・頼雄の子康行が土岐氏を継承します。しかし土岐氏の勢力の拡大を危惧した三代将軍・足利義満の遣わした軍勢により二度にわたる攻撃を受け、城内の婦女子を自ら手にかけた後、落城したとされます。康行以下、十九の首級は京に送られ義満の御前で首実検に供せられたそうです。
足利家の恩人らの首を前に悦に入る,義満のドス黒い笑顔が目に浮かんでくるようですね(オイオイ)。

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しんちゃん

ハイキングコース (2024/09/28 訪問)

阿坂城は椎ノ木城と白米城に分かれています。応永年間に北畠満雅が北朝の足利勢を防ぐために築いたとされています。戦国期には永禄12年(1569)織田信長軍の侵攻を受けた際に北畠家臣・大宮入道合忍斎が立て籠もりますが、木下藤吉郎秀吉らに攻められ、落城したそうです。城址までかなり距離がありますが、道は比較的なだらかで傘を差しながらでも歩けそうです。地元の方の格好のハイキングコースになっており、けっこう年配の方も来られてます。
各所に扁平地(郭)のような場所が有り、門跡のような場所を越えて城址に近づいていきます。堀や竪堀もけっこうあり、戦国期の山城だということを実感します。

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ぴーかる

雑賀城 (2024/09/28 訪問)

【雑賀城】
<駐車場他>津屋公園の南にある和歌浦交番(Googleストリービューにある)が無くなっていたのでそこが駐車スペースになっています。
<交通手段>JR紀三井寺駅から歩きましたが、先達の通りJR和歌山駅から和歌山バス和歌浦バス停が良いでしょう。

<感想>電車で和歌山ちょこ城巡り、写真消えた旅4城目。津屋公園から登り口があります。登り道の分岐を左左に行くと妙見山の石碑がある御堂にたどり着きここが城跡のようです。御堂のある曲輪は周囲が緑色片岩の石積みがありますが、遺構情報に石垣が無いので後世のものと思われます。南側に港の眺望が望めます。曲輪の北側は高い切岸になっていて、城跡だったことが北側から分かります。北側は尾根曲輪になっていて、近世に造られた緑色片岩の壁や消防塔が残っていますが、当時の尾根曲輪だったように思います。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

その実態は→ 「城好き」です。 (2024/10/14 訪問)

城キチだったり勇者だったり、その実態は→「城好き」です。まあ、その度合いにもよりますが。
特に勇気は無いです。「無理」と思ったら引く、「行ける」と思ったら行きます。熊出没注意の看板にしても、
「マジで熊多いよ!すっごく危険だよ!」と書いてあったら入らないと思います(笑)。正直、危険がゼロの山城は無いわけだし、いきなり熊が出るかもしれないし、落雷や滑落の危険もあるので、経験で危険を最小にしていくしかないですね。
豊橋に電気柵用のテスターはなかったです。そうだよね、獣害もないわけだし‥通販で買おうかな。タイガーのクイックテスタを検討中です。内部にマイナスの電極があるのでアースを設置する必要がない便利なタイプです。4段の柵だと地面までアースが届かない場合もあるのでアースレスは心強いです。
タイガーの担当者に聞いてみたところ‥「電気ジャーですか?」「いえ‥電気柵のテスターですが?」すみませんタイガー違いでした。
改めてタイガー株式会社の方に聞いたところ、いろいろ教えてくれました。基本的にどの電気柵にも対応しているけど、土の地面の上に立って計測する必要があるようです。仕事柄、たまに柵に触れることもあるようですが、すっごく痛いそうです。
それを聞いてクイックテスターが欲しくなりました。できれば痛いのは避けたいです。

高堂城は1.8kmのハイキングコースになっています。最初の0.6kmは林道になっていて4駆なら楽にいけそうですが、倒木があるので無理ですね。歩いたほうが無難です。何のための林道なんだか‥。しばらくいくと狼煙台があり大堀切が尾根を遮断しています。
そこからしばらくいくと変なキノコがありました(それはどうでも良い)。さらに行くと馬止場があって主郭に道が続いています。

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ぴーかる

秋月城 (2024/09/28 訪問)

【秋月城】
<駐車場他>駐車場はなし。隣の産直市場で買い物して駐車するのが良いでしょう。
<交通手段>JR和歌山駅から徒歩

<感想>電車で和歌山ちょこ城巡り、写真消えた旅3城目。太田城水攻めの堤から徒歩で来ました。ここはちょうど遺構は無くなって残っておらず、城跡碑すら無いので周辺を3枚程撮影し終了した。産直市場で梅干しを買いました。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

南美濃未踏の城探訪の帰路に寄りました (2024/10/14 訪問)

 休日で城山小が閉まっており残念だった駒野城探訪の後、南東に木曽三川公園経由約13.6km程の小木江城を目指し初探訪。

 駐車場:道の駅立田ふれあいの里の駐車場を利用。
 参考資料:城びと投稿の皆さん、グーグルマップに依る。

 グーグルマップを見ると道の駅立田ふれあいの里から鵜戸川を挟んで東隣接地に富岡神社・小木江城跡が在り道の駅活用が大変便利。
 津屋城跡探訪の後駐車場で携帯食(カロリーメイトと一口羊羹を探訪時携帯)を食べただけでしたので、探訪前に道の駅で遅めの昼食。
 観光案内所が有ったので覗いて情報・資料を漁り小木江城の情報はと探すが無し、近接の大野城(愛西市)勝幡城(稲沢市)セットのパンフレットを見つけましたので入手。

 駐車場から歩いて東へ約100m程鵜戸川に架かる森川橋を渡ってこんもりとした森に富岡神社・小木江城跡が在ります、現地では小木江城は古木江城跡と記されて、グーグルマップの史跡マークも古木江城跡を記されている。鵜戸川東岸の轍の付いた草道を通り南の鳥居から入城。石鳥居と左右に石灯籠が有り西脇に案内板と城名石碑が有るが二つとも「古木江城跡」と記してる。
 南の鳥居から北の石垣基壇の上に小振りな本拝殿が鎮座、お参りして周辺見学。

 案内板によると、元亀元年(1570年)織田信長が長島一向一揆勢力との対峙に弟信興に小木城を築かせ、同年11月大勢の一向一揆勢に囲まれ、6日間戦いましたが兵力が少なく城に攻め込まれ櫓に上がって自害(信長記)また城外で討死したと(地元伝聞)11月21日の事だそうです。このことも有りこの後長島一向一揆との戦いは苛烈を極めたのでしょう。

 小木江城周辺、道の駅立田ふれあいの里の都市公園と一体と成った整備事業が進んでいます、道の駅は拡張整備は来年春ごろ、東の蓮田は蓮田を含めて大きく広く整備されて再来年の春頃に完成するように案内がされて居ました。
 そのころには小木江城・富岡神社エリアも奇麗に整備されるのでしょうか?計画図には空白地になっていましたが?
 どうでしょうか?

 この後は湾岸弥富IC経由浜松へ、休日の事故渋滞で湾岸は混んでいました。
 
 

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しんちゃん

城キチだったり勇者だったり、その実態は?

イオさん、勇者なんて立派なものではないです。
城にいきたい気持ちの方が強くて、つい柵をツンツンしてしまうのです。高電圧低電流が一瞬流れるだけなので死にはしませんが、やはり痛いのは避けたいです。ゴム靴を履いていても流れるのは知りませんでした。柵用のテスター購入を考えるきっかけをいただいたイオさんに感謝しています。
ちなみに今、東海四県制圧を実行中です。あとは城びとに載せるだけの状態です。
そんなわけで、ちょっと鬼投稿が続いているのでご容赦願います。

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イオ

車両通行止 (2024/10/20 訪問)

ようやくの山城シーズン到来で、お城EXPOにあわせて米原の山城に行こう! ということで、朝イチでやってきました八講師城。標高486m、比高は310mありますが、林道を車で直下まで行けるらしいので、梓河内集落内の案内表示に従って林道の入口にさしかかると……車両通行止の立て看板とバリケードが! 道の真ん中でなく車一台分ほど右に寄せて置かれているし通っても良いのでは? とも思いましたが、勝手な解釈で突破するわけにもいかず、「車両」通行止ということは歩いてならOKなのか? とも思いましたが、片道5.5km(往復11km!)を歩く根性も時間もないので今回は断念…。土砂崩れだの路面崩落だのといった標示はなかったので一時的なものなんでしょうけど、一応 注意喚起まで。なお、柏原からの林道でも行けるようですが、未確認です。


ところで……通行止めといえば、先日は阪内城で電気柵に行く手を阻まれましたが、ストックで電気柵を突破する勇者現る!(笑) テスターは持ってない(使ったこともない)ですし、勇者ならざる小心者の私はおとなしく迂回路を検討することにします…。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)6日目:丸山城 (2024/09/27 訪問)

上林駅から徒歩10分くらいで、登り口標識(34.699699、136.161504)に着きました。

築城年代は定かではないようです。1578年(天正6年)北畠信雄は伊賀の領国化を図り、家臣の滝川三郎兵衛に丸山城の修築を命じたが、完成する前に伊賀国衆らによって攻められ落城しました。
その後、織田氏の大軍によって伊賀を制圧、三郡は信雄に与えられ、これによって信雄は家臣滝川三郎兵衛雄親に再び丸山城を築かせたと考えられているようです。

丸山城の主郭まで見学路が設けられています。
丸山城山頂主郭には一段小高く方形の土壇があり、この上に丸山城の石碑が建てられています。
主郭の西側面には横堀、北東側に虎口、南にも桝形虎口が見られます。
写真はたくさん撮りましたが、ピンボケ写真が多く投稿に耐えられません。よって、駅や電車の写真も投稿させていただきました。
攻城時間は35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず上林駅から松阪駅に向かい荷物をコインロッカーから取り出した後、奈良県の新王寺駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=25891歩、攻城距離=18.12Kmでした。

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