みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

トク

【宮本武蔵】(12)小倉城(巌流島の決闘(前編)) (2025/06/18 訪問)

宮本武蔵の続き(12)です。

この頃、細川忠興はある悩みを持っていました。剣術師南役として客分に迎えた小次郎ですが、横暴な振る舞いが多く藩の秩序を乱していたのです。しかし藩内には誰も勝てる相手がいないのでどうしようもありません。小次郎より強い者が現れれば何とかなるのではと忠興は密かに考えます。

ちょうどその頃、新免流の弟子たち(中津)と岩流の弟子たち(小倉)で、どちらが強いのかというけんかが始まります。ならば小次郎と無二斎の師範どうしで勝負し決着をつけようではないかという話になりますが、年老いた無二斎がこれを拒否したそうです。

この時、新免氏を預かる家老の松井興長が、新免流を継ぐ者で、京都であの有名な吉岡一門を破った宮本武蔵という男がいるという噂を聞き、興長は無二斎を通じて武蔵を小倉に呼び寄せます。武蔵は無二斎から困っているという知らせを受け、小倉に向かいました。忠興と興長は、この武蔵があわよくば小次郎を倒してくれれば・・・、いやいっそ亡き者にしてくれれば・・・、と頭をよぎったのかもしれません。

武蔵が小倉に着いた頃には弟子たちの争いはエスカレートしていました。そしてついに武蔵が無二斎の代わりに決闘することになりました。しかし当時決闘は幕府の御法度、表立ってする事はできません。ましてや細川家が公認した事が幕府にばれると、大問題になってしまいます。よってその決闘は非公認の私的なものとされ、細川領外の関門海峡に浮かぶ「船島」(当時は長州藩領)で行われる事になりました。しかし密かに忠興は、門司城代の沼田延元に見聞させていたようです。

巌流島の正式名称は、今も昔も「船島」です。下関側からは唐戸から毎日、門司側からは門司港駅前から土日祝のみ船が出ています。どちらも所要10分程(約1時間毎)です。私は門司側から上陸しました。坂本龍馬もお龍(おりょう)を連れて訪れた事があるようですね。これは私も初めて知りました。

次は、巌流島の決闘(後編)、今まであまり知られていない「決闘の真実」に迫りたいと思います。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

梶原一族と小牧長久手の戦い (2025/06/01 訪問)

鎌倉を追われた梶原景時の孫・梶原景親が鎌倉前期に築いた城で、以降約380年にわたる梶原氏の居城となりましたが、梶原景義が織田信長に従って本能寺の変で討死し梶原氏が断絶すると、羽黒城も廃城となりました。その後、小牧長久手の戦いの際に小牧山城に対する羽柴軍の陣城として改修され、山内一豊や堀尾吉晴らが守将となっています。

住宅街の道から路地を入ったところの羽黒城址公園に駐車して登城開始。公園には羽黒城址の説明板、ベンチ、東屋が設けられ、説明板背後の前方後円墳(羽黒城古墳)が主郭部にあたります。主郭部の北裾には周濠を改修したと思しき横堀をめぐらせ、北西方向に伸びていました。古墳の前方部が主郭と考えられ、墳丘頂部には羽黒城址の石碑が立てられています。

羽黒城南西部の興禅寺は梶原屋敷と呼ばれた居館跡で、北辺に羽黒城の土塁が遺っています。また興禅寺には梶原景時をはじめとする梶原一族の供養塔や五輪塔が祀られていました。羽黒城から北に約100mの史跡庭園には、梶原景季が源頼朝から拝領し、宇治川の先陣争いで活躍した名馬・磨墨を祀った磨墨塚があります。磨墨にちなんだ馬の形の遊具(ジャングルジム+すべり台)もありました。

羽黒城から南南東に約700mの羽黒八幡は、小牧長久手の戦いの前哨戦とされる八幡林の戦いの古戦場にあたり、社叢林北辺の道沿いに「八幡林古戦場と野呂塚」の説明板が立てられています。八幡林の戦いはこの地で野営していた森長可を酒井忠次・榊原康政らが奇襲した合戦で、説明板から名鉄小牧線の踏切を渡った先には、包囲された長可を脱出させるべく奮戦し討死した野呂助左衛門・助三親子を祀った野呂塚があります。

…と、梶原一族と小牧長久手の戦いに何かと縁のある羽黒城散策でした。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

日帰りドライブで北陸の城めぐり① (2025/09/27 訪問)

9月最後の土曜日、午前1時過ぎに家を出て安房トンネル、国道471号経由で北陸へと向かいました。かほく市のすき家で朝食をとり森公民館へ。そこには西田幾多郎博士の銅像が立っていました。ここは博士の出生地で、近くには墓もありました。森城には八幡社が建っています。参道の両脇には土塁が伸び、堀底道、竪堀のような趣です。主郭にも微かな土塁が認められました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

城山公園 (2025/08/09 訪問)

愛知環状鉄道の北岡崎駅から徒歩で15分弱。
城跡は城山公園となり城山稲荷神社が鎮座します。
遺構は残りませんが少し高い位置にあり、それらしさは感じます。
公園には石碑も立っていました。

徳川四天王のひとり、酒井忠次の生誕地で岡崎城から北に向かう足助街道沿いに位置します。

ここも自動リアのための再訪でした。
近くの大樹寺も行けば良かったかな😌

写真が少ないのでお昼に行った岡崎城近くの平岩城の説明板と家康像も投稿しておきます。

【見どころ】
 ・高低差


+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

龍潭寺 (2025/08/10 訪問)

「おんな城主直虎」から8年。ようやく訪問が叶いました。気賀駅に降り立った時の感動たるや……!
井伊谷城までは行けませんでしたが、気賀の関所と龍潭寺へ行きました。井伊氏歴代墓所にお参りしたあとは田圃の中の伝・井伊共保出生の井戸へ。
この日も天浜線フリーきっぷを使って田園地帯を行ったり来たりして楽しみました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

住職が脅かしてくる (2025/06/30 訪問)

6月も終わりとなると昼間は32度くらいある。正直暑い、熱中症は心配だけどせっかくここまで来たのだから行けるだけ行ってみることにした。
城址に近づいていくと城山登山道のパネルがあった。「城山たんけんたい」という小学生らしい集団が写っている。今の時代はそのまま掲載できないのでモザイクをかけさせてもらった。
案内に沿って進んで行くと住職に「私有地ですよ」と声をかけられた。案内に沿ってきただけなんだけど・・
話をすると、立入禁止というわけではないが、この住職 いろいろと脅かして来る。熊が出るぞとか、猿の集団が住んでるぞとか・・最近研究者が数人来たけど登城道が分からず引き返したとか言ってる。城の研究をしているのだったら、最低限の登城スキルを身に着けておくべきではないだろうか・・この時期未訪の城を良く回っていたせいか研究者や専門家が山城に撃退されたという話を現地で良く聞いた。
最近はどこにでも熊が出るので、調査中に襲われる危険もあるだろう。私の様な城キチは遺構を見て帰ってくるだけなので、まだ気楽な方かもしれない。ひとしきり住職の忠告を聞いた後「有難うございます、城山に入ってもよいですか?」と笑顔で聞いてみた。
住職は「こいつ話通じないな~」という顔をしている。そりゃ熊も猿も好きじゃないけど、そんなこと言ったら島根の未踏の山城など回れないのだ。いつもの通り城山にGOだ。
住職に教えてもらった橋を渡って山に取りつく。このまま真っ直ぐ谷間を登って行くのが正解だが、左の丘陵に直接取りついたので難儀した。けっこう急だし、けっこう登る。尾根に取りつくと竪堀の様な道が見えてきたのでそのまま主郭に向かった。

最も無難なルートだと、住職に教えてもらった橋を渡って谷間の底をまっすぐ進んで行くと良い。ヤブを突っ切り、ガレ場をまっすぐ進むと出丸に続く道が有るはずだ。尾根の左手(西側)にもう一つ北の尾根に続く道が有ると思うので、そこから尾根沿いに登って行けば比較的楽に登れるはずだ。解らなかったら、登れる所から登って行くしかないが結構大変だ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

お茶壺屋敷 (2022/01/04 訪問)

静岡市の井川、大日峠の近くに御茶壺屋敷はありました。案内板によると家康公は駿府城内で茶会を催すために安倍川郡井川の名主・海野弥兵衛と柿島の名主・朝倉六兵衛の両名に新茶を茶壺に詰めて風味を損なわないように保管と管理を命じました。
両名は夏でも涼しいこの地に御茶屋を造りました。お茶をしまっておくための蔵とはいえ家康公に献上する大事なお茶なので周囲の守りはしっかりしていたようです。周囲に土塁も残っていますね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

修善寺周辺 (2022/01/10 訪問)

日枝神社の麓、信功院跡には修善寺の八塔司の一つ信功院がありました。建久4年(1193)源頼範は当地に幽閉され、翌年に梶原景時率いる五百騎に攻められ自害したとされています。大河ではゼンジにばっさりやられていますね。
城びとであれば大河の「ウソ」はわかると思いますが、うちの母はそのまま信じてしまっているようです。そのつど「大河は嘘つきなんだよ」と教えていますが、マスコミ全体が半分サギ氏みたいなもんだと思いますよ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

公園側から眺めると…👀 (2025/08/10 訪問)

背後から眺めると,舌状地形だった雰囲気が感じられると思います。しかし,周辺は宅地と公園が隣接しており,本来の姿とは思えないです…。とくに,公園側のラインは明らかに改変跡。極力公園内をフラット化するために手が加えられている匂いがプンプンします…<笑>。それでも,パネルが設置されているだけでも感謝しなければいけないのかも…。

+ 続きを読む

イオ

金龍紀行のついで(失礼) (2025/06/01 訪問)

鎌倉後期に多治見国長が築いたとされる城館で、国長は後醍醐天皇の倒幕計画に参加して上洛しましたが、密告により京の宿所は六波羅探題の軍勢に包囲され、勇戦するも非業の最期を遂げました。

産業文化センターの駐車場(最初の1時間無料)から登城。昔ながらの商店街の一角に石碑と説明板があるくらいで遺構は消滅しています。墓標のような石碑に手を合わせて多治見国長邸を後にしました。


…ところで、多治見国長邸とは全く関係ありませんが、金森長近は現在の多治見市大畑町の生まれであり、生誕500年の昨年には多治見市で生誕500年まつりや記念講演会などが開催されていたようです。私が金森長近に興味を持ったのがイベント終了後の12月なので仕方ないんですが、参加したかった…。せめて生誕地だけでも訪れようと思っていろいろ調べるも場所が特定されていないのかよくわからず、とりあえず大畑公民館に行き、このあたりで生まれたのかな~という雰囲気だけを感じてきました。
 

+ 続きを読む

todo94

北海道&東日本パス第2弾 江戸城三十六見附めぐりの続き②と大河ドラマ紀行で彼岸中日の墓参三連発 (2025/09/23 訪問)

江戸城の見附めぐりのトリは、虎ノ門。地下の石垣展示もしっかり拝見させていただきました。これで漸く15箇所目。まだまだ遠い道のりですが、残りの門は既にチェック済みのものがかなりあるんですよね。お城EXPOの後に狙ってみてもいいかもしれません。

早朝から見附めぐりをしていたのは、寺が開くまでの時間調整の意味もありました。まずは上野の徳本寺。かなり前にべらぼう紀行に取り上げられた世直し大明神の墓があります。墓参には300円が必要です。線香を2束、渡されます。彼岸の中日だったので、墓参の方々がかなりいらっしゃいました。続いて光明寺。ここには北川歌麿の師・鳥山石燕の墓があります。最後に新宿の成覚寺。紀行で取り上げられたばかりの恋川春町の墓です。豆腐の角に頭をぶつけての死はインパクトがありました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

良い山城 (2025/01/06 訪問)

案内板によると五城三郭というのは古本丸・本丸・中城・西城・北城・常盤曲輪・若狭曲輪・大野曲輪を指すらしい。この若狭曲輪というのが解りづらく、他の縄張図を見ても腰曲輪くらいの扱いでしかない。次訪問するのがいつになるのか分からないが、その時には訪れてみよう。麓には三の丸跡があり、石垣が残っています。那須烏山市野上には裏門とされる神長門がありました。
しかし実に良い山城でありました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

のぶ

安田城虎口 (2025/08/13 訪問)

小さいながらも遺構が整備されていて良い城でした!

+ 続きを読む

T-Shionoya

番外編 ニュルブルク城

今月は出張でドイツのニュルブルクに宿泊。
流石に観光する時間はなく、今回はニュルブルク城の入口まで。

ニュルブルク城は12~13世紀頃の古い城である模様。
丘の上に建ち、堀や土塁はなさそうだが、築かれている防御施設は石造りの高い壁。

またのチャンスがあれば、じっくり確認してみたいものです。

+ 続きを読む

ナギャン

あこがれの五稜郭 (2025/09/19 訪問)

朝早くや夕方に行くと観光客が少ないのでお勧めだ。ものすごいくらいのアジア人観光客や欧米の皆様がいた。天守閣がなくても遊びに来るんだね。
五稜郭は公園になっていてぐるっと回れるのがいい。皇居ランナーみたいに走っている人がいた。犬の散歩にも適している。

堀の中には鴨ちゃんとカモメがいる。カモメは鴨ちゃんを威嚇していた。
ベストシーズンは絶対にサクラが咲いている春がいい。いっぱいの桜が植えてある。きれいに咲くだろうね。あと、水堀の中に睡蓮が咲いているので睡蓮好きにはたまらない。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

南部信直 (2025/09/26 訪問)

 久しぶりの盛岡城です。若い頃、盛岡市へ出張でときどき来ていたので何回か立ち寄っていました。盛岡城跡公園として整備されていて、盛岡駅から歩いても15分くらいで気軽に登城できる城址です。しばらく来なかったので新鮮な気持ちで散策することができました。魅力は高石垣で、盛岡城跡公園バス停付近から彦御蔵方面の石垣が気に入っています。

 昼飯はぴょんぴょん舎で冷麺をいただきました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

うさ

土浦城 (2025/09/21 訪問)

関東唯一の現存櫓門、素敵でした

+ 続きを読む

うさ

世田谷城 (2025/09/20 訪問)

豪徳寺近くの公園になっています。
公園内の写真がアップロードできず申し訳ありません。

+ 続きを読む

南部直義 (2025/09/26 訪問)

 遠野市にある標高 344mの 鍋倉山に築城された県内屈指の大規模な山城です。鍋倉山は遠野盆地平野部に突出した半島状の地形で、東と北には来内川、西には猿ヶ石川が流れ天然の堀としていました。天正年間(1573~1592 年)に阿曽沼広郷により築かれたと伝わる城郭で、その後南部氏の支配となりました。盛岡藩二代藩主南部利直の命により南部(八戸)直義が、八戸の根城から遠野に移り1万2千余石を知行して治めますが曲輪の大規模な改変はなかったようです。現在、城址は整備され曲輪、土塁、空堀等を見ることができます。竪堀もあるようですが、草に覆われていてよくわかりません。空堀の北側に水溜堀があるようですが、見落としたようです。縄張り図を見ると今回は行っていませんが、尾根に堀切などがあるようです。考えていた以上に面白い遺構がありそうですが、もう少し葉が落ちた時期に来て尾根なども含めて散策してみたいですね。
もちろん整備された道を散策するだけも十分楽しめました。三の丸にある櫓風の展望台に入ると音声ガイドが流れます。
 登城口の南部神社へはJR遠野駅から歩いて10分くらいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

北海道&東日本パス第2弾 江戸城三十六見附めぐりの続き① (2025/09/23 訪問)

シルバーウイークの最終日、この日は帰着するだけでよかったのですが、2023年に赤坂見附までめぐってストップしたままの江戸城三十六見付めぐりの続きにチャレンジすることにしました。最初に向かった常盤橋門、こんなに立派な石垣が残っているとは思いませんでした。橋の名前は常“磐”橋なんですね。勉強になります。呉服橋門、鍛冶橋門は説明板のみでした。数寄屋橋公園には、銀恋の碑や数寄屋橋の碑などはありましたが、門自体の説明板はありませんでした。山下門の説明板は暗いガード下に立っていて見つけるのに難渋しました。そして幸橋門に至っては、門に関わる表示、説明などは存在しないようです。都市化によって遺構の残らない見附も多いようですが、せめて説明板くらいは欲しいなと感じてしまいます。(続く)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ27