キャンプ帰りに寄った一夜城
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2025/05/18 07:43
石垣山一夜城 (2025/04/27 訪問)
キャンプ帰りに寄った一夜城
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2025/05/18 07:39
桜と小田原城 (2024/04/07 訪問)
学生時代の友人とお花見兼城拝観
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2025/05/18 07:32
忍城 (2022/09/22 訪問)
バイクツーリングでお城巡り
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2025/05/18 07:29
ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり㉑ (2025/04/28 訪問)
利府城からの転戦です。2025年4月25日(金)にオープンした多賀城ガイダンス施設は、カレンダー通りでない貴重な平日休みに訪れたいと思っていました。土日よりは観光客は少なかったはずですが、駐車場はほぼ埋まっていましたし、若い方も結構訪れていました。先ずはガイダンス施設にて映像を視聴します。プロジェクターではない巨大液晶パネルが使われていて、素晴らしく美しい映像を楽しむことができました。内容も高橋克彦著「風の陣」のクライマックス、及び、「火怨」の冒頭で描かれた呰麻呂の乱での炎上や貞観地震の被災と再建にも触れられていてとても良かったです。再建された外郭南門はなかなか観光客が途切れず、シャッターチャンスがすぐには訪れませんでした。そして門をくぐったその先には、2024年に国宝に指定されたばかりの多賀城碑が鎮座しているのでありました。南大路は黄土色の舗装が施されていて見た目が一変していました。南大路の脇には排水暗渠の説明板がありました。
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2025/05/18 00:34
2025/05/17 23:57
島原城 (2025/05/16 訪問)
とても綺麗なお城でした。周りも歩きましたが、結構広いです。石垣も良かったです。
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2025/05/17 23:47
初富山です (2025/05/01 訪問)
富山城まで今回は行く事が出来ないと思ってたのですが、なんとか行く事が出来ました。石垣も良かったです。
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2025/05/17 23:30
2025/05/17 22:24
亘理要害 (2025/01/01 訪問)
亘理城は亘理氏によって築かれたとされ、天正19年(1591)亘理氏が涌谷に移封になった後は、片倉小十郎景綱が入りました。慶長7年(1602)に片倉氏が白石城に移った後は伊達成実が入り、要害としての改修を行い城下町の整備も行っています。
亘理神社のある丘地に本丸が置かれ、西に馬場と称される郭が配され、土塁も残っています。かつては北西に大沼があったようで、堀の役割も担っていたようです。東の平地には二の丸が配され、周囲を濠(水堀)で守っていたようです。本丸の周囲も濠で守られていたので二重の堀があったことになります。
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2025/05/17 22:00
天文の乱で敗れた伊達稙宗の隠居城 (2025/01/01 訪問)
丸森城は天文の乱(1542~1548年)で子の晴宗に敗れた伊達稙宗が隠居の地とした城です。稙宗の死後は稙宗と関係の深かった相馬氏が城を継承しますが、稙宗の隠居領を奪還しようとする孫の輝宗と争いになりました。長い争いの後、天正11年(1583)丸森城は伊達氏に奪還されます。
城址近くまで車道が通じています。愛宕神社のある郭か、その東の大きな郭が本丸と見られます。愛宕神社東側には大きな堀切があり、周囲には岩が転がっています。西手に下って行くと途中に絵が彫られた岩がありました。後世に掘られた物でしょうか。複数の郭や堀切が有りますが、土塁などの遺構は見当たりませんでした。
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2025/05/17 15:19
もう少し活用できそうな気がする (2024/10/12 訪問)
豊岡城には杉原氏が、豊岡陣屋には京極氏がそれぞれ豊岡藩主として在住しておりほぼほぼ江戸時代を通じて城下町として栄えた豊岡だが町の中心にある城跡は改変が多くてお城らしさを感じにくいのがちょっと勿体ないか。
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2025/05/17 15:13
豊岡との越境大合併を経て京都に還った久美浜 (2024/10/12 訪問)
久美浜代官所の別名の通り天領支配の代官陣屋で明治に久美浜県庁が置かれた場所でもある。久美浜県は丹後国だが明治4年の馬国の豊岡県との越境合併を経て京都府との合併を再選択し、現在は京丹後市となっている。
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2025/05/17 12:22
初茨城県 (2025/05/05 訪問)
人生初、茨城県!
東京駅から常磐線の特急列車で土浦駅へ。
駅からは徒歩にて、「土浦市観光協会・まちかど蔵」で続100名城のスタンプ押印後、城下町大手門跡を通過しながら
亀城公園へ。町なかもきれいに整備されており風情もありゆったりとした気持ちで歩けました。
子どもの日にお邪魔したこともあり公園で遊ぶ親子も多くみられました。
太鼓櫓は堂々としていて、現存物は見る物(者)を圧倒させてくれます。
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2025/05/17 10:40
謎の陣城 (2025/01/01 訪問)
遠倉館は詳細不詳の城館で、伊達政宗の陣城と言う伝承があるようです。城址まで林道が付いていますが、道が少し狭いので歩いて訪問しています。ミニ四駆なら問題なく主要部まで到達できると思います。事務荷ー欲しいなあ。
北側の丸森町から続いている道の方が、舗装されている良い道のようですね。古城盛衰記さんの記事だと北側から普通に主郭まで車で行っています。この人たちは普段何の車に乗っているのだろうか?
主要部まで、しばらくの間歩きますが館跡には特にこれと言った遺構はありません。上下二段になっていて、上段にはスマホの中継所らしき施設。下段には神社があって駐車も可能です。一応標柱も有って「馬上十一騎槍鉄砲百五十人組の陣地の跡ではと推定される」と表記があります。その根拠とは?
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2025/05/17 10:14
亘理権太夫藤原経清 (2025/01/01 訪問)
諸説あるようですが、中島館は亘理権太夫藤原経清の居館であったとされています。経清は「前九年の役」で源頼義に従い、陸奥の俘囚長・安倍氏を攻めた人物で、後に頼義によって処刑されてます。中島館には国道6号線沿いに道が付いているので、車での訪問で有れば比較的アクセスは容易です。道沿いに進んでいけば程なく館跡に到達します。東側にスロープ状の土橋が付いていて、そこから入ります。土橋の周囲に見えるのは堀の後でしょうか? ちょっと記憶が薄まって来ています。コンパクトな構造をしていますが、戦国期には砦として転用されたのではと思います。
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2025/05/17 09:58
坂元要害 (2025/01/01 訪問)
坂元城は亘理郡一帯を治めていた亘里氏の家臣「坂本三河」が元亀3年(1572)に築いたとされています。天正19年、亘里氏が涌谷に移ると、坂元氏もそれに従い、以降 後藤・黒木・津田と城主が替り、元和2年(1616)に大條宗綱が伊達政宗より城を拝領して以来、明治維新までの252年もの間。大條氏の居城となっています。
人里近くにあるものの城址は当時の面影を比較的良く残しています。本丸は坂元神社、二の丸は坂元小学校となり、さらに北側には三の丸を備えていました。本丸と二の丸は直に接し、周囲は水堀で囲まれていたようです。縄張りを見ると北に備えを置いているように見えますが、北は仙台になるので、なんじゃこりゃといった感じです。要害とはいえ、どう見ても立派な城で、うるさい徳川幕府が存続を許していたのが不思議です。本丸の西側に大堀切が残り、その西の山中には大條氏の墓所があります。
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2025/05/17 09:09
クリーク (2025/03/02 訪問)
午前7時に佐賀駅を出発。
おとなりの伊賀屋駅で下車して徒歩で向かいました。
水田の緑鮮やかな道をひとり歩く時間はこの上なく贅沢で穏やかな気持ちになります。静寂の中で時折長崎本線の列車が音を立てて走り去る様子を見ていると、この移動時間も含めてお城めぐりが好きなんだなぁと改めて思います。
最初に見つけたのは水路をふたつ超えたところにあった「姉川城跡 下馬口跡」の案内。
その先の「姉川農村公園」に姉川城の案内板がありました。
〈クリーク〉を知ったのもお城めぐりを始めてからで、初めは何のことやら全くわからなかったのですが、みなさまの投稿や書籍、Googleマップ等で理解を深め、また、環濠集落にいくつか赴いているうちに少しずつイメージを捉えられるようになってきました。
姉川城の入口、構口と小路に行き当たりました。左手の島には天満神社。
[屋根のない博物館]のコピーが示すとおりのいにしえの空気を感じる大小の「島々」。600年以上の時を役割を変えつつ在り続け、今この姿を見せてくれていることに深く感じ入るともにそこには数多の人々の様々な関わりがあったことを思います。
歴史を受け止め伝えていくことが城びとのひとりとして出来ることなのかなと思いました。
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2025/05/17 08:53
伊東祐尭 (2025/05/06 訪問)
清武城は周囲に宅地のある丘陵上に築かれていました。ある程度近くまで車で寄った後、広めのスペースに駐車し、城址には歩いて向かいます。最高部が主郭で、案内の標識もあるので迷うことはありません。道中の民家には立派な土塁も残っています。
主郭の周囲に郭を配し、住宅地や農地などに転用されているようです。それ以外の遺構は民家脇の土塁が残っているようです。
伊東氏48城の中でも重きをなす城で、文安3年(1446)都於群城主となった11代祐尭は四方に勢力を拡大し、日知屋・門川・清武・田野の伊東氏族を吸収し、戦国時代になると日向平定を目指し、土持氏を延岡まで追いやり、島津氏と対峙しました。
文明17年(1485)飫肥の島津攻撃に出陣する子の祐国を見送った後、祐尭は清武城で病死しています。清武城の北の道路わきには伊東祐尭公の墓所があります。
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2025/05/17 08:32
伊東氏48城の一つ (2025/05/06 訪問)
曽井城は野崎病院のある丘陵上に築かれていて、東西約400m、南北約300mの城域を持っていました。南西部に主郭があったとされ、南側の一段高い場所は櫓台のような雰囲気です。北側の一段低い場所は二の丸とされ、それぞれの郭跡に病院の施設や駐車場などが築かれているようです。北側の道路から病院の駐車場まで到達でき、駐車場の脇に新しい案内板が設置されていました。
おかげで普請者扱いされずに済みますが、病院の敷地内なので、散策などはせずに戻りました。
見落としましたが、病院の北東に位置する曽井公民館の脇に登城路の一部が残っているようです。
曽井城は南北朝時代(1375~81)頃に伊東氏の一族(曽井氏か)によって築かれ、戦国期は伊東氏48城の一つとなり、伊東義祐没落後の島津氏による支配を経た天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定の後、伊東祐兵に与えられました。その際の改修工事では黒田官兵衛が総指揮を取ったと伊東家の家請に記されているそうです。その後、江戸幕府の一国一城令によって廃城になっています。
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