続日本100名城

よしだじょう

吉田城

愛知県豊橋市

別名 : 吉祥郭、峯野城、歯雑城、今橋城
旧国名 : 三河

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吉田城
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トク

㉗【関ケ原の26人】(14)池田輝政 (吉田城はなぜ後堅固?) (2023/02/10 訪問)

(14人目)池田輝政「吉田城」の続きです。
なぜ輝政は後堅固にしたのでしょうか? 私は鉄櫓下の豊川沿いの腰曲輪に立ち考えてみました。

ここから見上げると石垣は結構高いですね~、高さ12.7mあるそうです(写真①)。当時はさらにこの上に塀があったと考えられるので、トータル20m近くあった事になります。さらに近づけば櫓や狭間などから鉄砲で一斉攻撃されるので、ちょっとここから攻めるのはまず無理ですね。豊川に高石垣と鉄櫓、吉田城は確かに後堅固(完璧)です!

(ここで私はある理由が思い浮かびました😯!)
輝政の父の池田恒興は、小牧長久手の戦いの時、夜陰にまぎれ木曾川を渡り、まさかの背後から犬山城を攻め落とし落城させました。犬山城は背後に木曽川その上の断崖絶壁の上に築かれています。敵もまさかここから攻めてくるとは思わなかったので手薄だったのでしょう。輝政も後々その事をおそらく聞き、またここも川から本丸までが近いので、「意外とここは弱点(盲点)になるかもしれない!」と思ったのではないでしょうか?(これはあくまで私の推測ですが・・)。

(でも待てよ🤔? 私はそこで新たに2つ目の疑問が?)
輝政の父の恒興は、犬山城攻めの直後に長久手で輝政の兄(元助)とともに討死しました。つまり輝政にとって家康は父と兄の仇(かたき)です。そして秀吉から吉田城を与えられ、田中吉政と同様に家康との戦を想定し、このように城郭を整備していたものと思われます。その一方で、家康の次女「督姫」を自分の正室に迎えています。そして最終的には東軍につきました。(え~!父や兄の仇の娘と結婚?)(その一方で着々と舅(しゅうと)と戦をする準備?)(でも結局は東軍に?)何かこれって矛盾が多すぎませんか?

池田輝政という男は一体何を考えていたのでしょうか?
次は(姫路城)に続きます。
 

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トク

㉖【関ケ原の26人】(14)池田輝政 (吉田城の輝政石垣と豊川) (2023/02/10 訪問)

(14人目)は「池田輝政」です。
関ケ原当時の居城「吉田城」を訪れました。

まず池田輝政の遺構を探しました(ありました~!)。鉄櫓(くろがねやぐら)下の北西面の石垣です。輝政が築いた野面積の石垣が見事に残っていました(写真①②は鉄櫓、写真③は鉄櫓下の輝政の石垣)。

また輝政時代のものではないですが、櫓台や他の石垣などには刻印がありました(写真④⑤⑥は千貫櫓石垣と刻印説明)。名古屋城の天下普請で余った石垣が転用されたようです。あちこちで発掘調査の途中なのか工事中なのかわかりませんが、ロープが張られ立ち入りできない場所やブルーシートに覆われた場所が多々あり、近くまで行けない所が多かったのが残念です。

今川氏から城を奪った徳川家康は、酒井忠次を城代に任命します。家康関東に移封後の1590年、秀吉の命により池田輝政が15万石で入り総石垣化を始めます。本丸を中心に半輪郭式に二の丸三の丸に堀を加え、城下町の整備も行い、総構えのの城郭にしていきます(写真⑦⑧説明)。

しかしその半ばここから出陣。小山評定を経て関ケ原の前哨戦では、織田秀信の籠る岐阜城を落とし、関ケ原では吉川広家のすぐ横に陣を張って広家をけん制し、桃配山にいる家康の背後を守っていました。しかし結局、毛利秀元と吉川広家が動かなかったため、輝政も最後まで動く事はありませんでした。

家康から岐阜城攻め落とした功績は大きいと、三河(吉田)15万石から、播磨(姫路)52万石に大幅加増されます。そして、西国ににらみをきかせるような城の築城を家康から命じられ、あの豪華絢爛な姫路城を築城します。吉田城もその後は譜代大名が入れ替わりに入り、余った石材を使って残り部分や輝政時代の石垣の積み直しが行われ、総石垣化が完成されていったようです。

鉄櫓は午後3時という早い時間で閉館します(私は知らずに間に合わず)。しかしその時間以外でも、スタンプは隣の豊橋市役所東館13階の展望室にも置かれていますので、そちらで押して吉田城を上から一望するのもオススメです。私もそこから眺めて見ました(写真⑨⑩)。

そこで眺めていると・・ん?(待てよ🤔? 私はここである疑問が・・・)
輝政はなぜ後堅固にしたのでしょうか? 背後には大きく深い豊川があります。このような川がある背後から攻めるのは難しいので、あまり堅固にする必要はないと普通は思ってしまうのですが・・・ 気になったので、もう一度下に降り、今度は豊川の側から眺めて見る事にします。

次も(吉田城)続きます。
 

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侍ホリタン

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねて、吉田城 (2022/07/19 訪問)

浜松城からの転戦です。今川方の吉田城を徳川家康公が攻略、酒井忠次公が城主となっています。豊臣政権下に15万石の城主となった池田輝政公によって石高に見合った城郭に改修されました。
駐車場は公園内の野球場横に無料の駐車場があります。私が訪問した時には石垣の修復工事(令和5年1月31日終了予定)を行っていました。

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POYO58

石垣、枡形虎口 (2023/01/29 訪問)

吉田城は石垣の縄張りがすごいですね。特にすごいのが本丸です。
本丸は石垣から熟慮すると多聞櫓に囲まれ4つの櫓がたち、3つ門が設けられていたことがわかります。また大堀切が本丸への行手を阻んでいるため、なかなか本丸に辿り着けませんね。さらに三河のお城に多いのですが、堀切底から登りにくくするため石垣が用いられています。
石垣の縄張りとして特にすごいと思ったのが北側ですね。豊川に面する方ですが、まず川沿いに建っていた川手櫓で豊川から攻める敵を撃退でき、ここを越えられても跡ちょっとで本丸なのに北多門の枡形によって圧倒的に撃退されてしまうんですね。またここを通らずに本丸へいく方法はないですね。腰曲輪の石垣と二の丸と本丸を繋ぐ堀切がうまく邪魔しています。
また南側も強いですよ。南多門の枡形虎口は石垣が高く敵が丸見えに。さらに内枡形なので結構手強いですね。

なかなかの難攻不落度です。初めての方でも行きやすく、櫓台と門跡がしっかり残っているので城らしさが感じられると思います。

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城郭情報

城地種類 半円郭式平城
築城年代 永正2年(1505)?
築城者 牧野成時
主要城主 牧野氏、戸田氏、小原氏、酒井氏、池田氏、竹谷松平氏、深溝松平氏、水野氏、小笠原氏、久世氏、本庄松平氏、大河内松平氏
近年の主な復元・整備 池田輝政
主な関連施設 模擬鉄櫓、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀
住所 愛知県豊橋市今橋町他
問い合わせ先 豊橋市産業部観光振興課
問い合わせ先電話番号 0532-51-2430