(14人目)池田輝政「吉田城」の続きです。
なぜ輝政は後堅固にしたのでしょうか? 私は鉄櫓下の豊川沿いの腰曲輪に立ち考えてみました。
ここから見上げると石垣は結構高いですね~、高さ12.7mあるそうです(写真①)。当時はさらにこの上に塀があったと考えられるので、トータル20m近くあった事になります。さらに近づけば櫓や狭間などから鉄砲で一斉攻撃されるので、ちょっとここから攻めるのはまず無理ですね。豊川に高石垣と鉄櫓、吉田城は確かに後堅固(完璧)です!
(ここで私はある理由が思い浮かびました😯!)
輝政の父の池田恒興は、小牧長久手の戦いの時、夜陰にまぎれ木曾川を渡り、まさかの背後から犬山城を攻め落とし落城させました。犬山城は背後に木曽川その上の断崖絶壁の上に築かれています。敵もまさかここから攻めてくるとは思わなかったので手薄だったのでしょう。輝政も後々その事をおそらく聞き、またここも川から本丸までが近いので、「意外とここは弱点(盲点)になるかもしれない!」と思ったのではないでしょうか?(これはあくまで私の推測ですが・・)。
(でも待てよ🤔? 私はそこで新たに2つ目の疑問が?)
輝政の父の恒興は、犬山城攻めの直後に長久手で輝政の兄(元助)とともに討死しました。つまり輝政にとって家康は父と兄の仇(かたき)です。そして秀吉から吉田城を与えられ、田中吉政と同様に家康との戦を想定し、このように城郭を整備していたものと思われます。その一方で、家康の次女「督姫」を自分の正室に迎えています。そして最終的には東軍につきました。(え~!父や兄の仇の娘と結婚?)(その一方で着々と舅(しゅうと)と戦をする準備?)(でも結局は東軍に?)何かこれって矛盾が多すぎませんか?
池田輝政という男は一体何を考えていたのでしょうか?
次は(姫路城)に続きます。
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