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2025/08/16 11:41
2025/08/16 11:38
2025/08/16 11:37
土の近世城郭 (2014/02/02 訪問)
戦国時代、本佐倉城城主である千葉氏によって、何度か佐倉城の築城が試みられましたが色々事情があって完成には至りませんでした。
慶長15年(1610)に土井利勝が入封し、元名3年(1617)に佐倉城は完成しました。
近世城郭でありながら、石垣を用いていない土の城です。ローテクバリバリな気がしますが、これはこれで良いのではないでしょうか。
土井利勝は於大の方の兄・水野信元の庶子とされますが、出自については色々な説があるようです。
城内にはタウンゼント・ハリスと、ハリスとの交渉に当たった佐倉城主堀田正睦の銅像があります。そういや、設楽の歴史資料館にも米との交渉に当たった岩瀬忠震の銅像が有ったっけ。
ペリーとトランプって何となく似ていませんか?
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2025/08/16 11:32
2025/08/16 11:26
【赤色立体地図かるた】
歴史的 模擬天守建つ 洲本城
(れきしてき もぎてんしゅたつ すもとじょう)
1928年に建てられた日本で最初の模擬天守。
模擬天守には賛否あるかとおもいますがさすがに100年近くそこにあるというのは凄いです。
眺望も良く石垣が素敵な城でした。
登城時は雨、しかも時間がなく登り石垣は目の当たりに出来なかったので再訪したいです。
近いし。
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2025/08/16 11:24
2025/08/16 11:12
【赤色立体地図かるた】
水軍の 城から始まる 新宮城
(すいぐんの しろからはじまる しんぐうじょう)
徳川御三家紀州藩の支城ですが元は熊野水軍の城でした。
ここも未訪です。
那智の滝や速玉大社までは行ったことあるのですが・・・
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2025/08/16 11:09
2025/08/16 11:04
2025/08/16 10:56
2025/08/16 10:05
2025/08/16 10:01
2025/08/16 09:34
2025/08/16 09:09
【赤色立体地図かるた】
長慶が 畿内見渡す 飯盛城
(ながよしが きだいみわたす いいもりじょう)
ここも未訪、近いので早めに行きたいです。
ハイキングコースとして賑わっているようです。
河内をめぐる戦乱の焦点となった城ですが戦国時代には三好長慶が拠点とし、畿内一円に勢力を持っていました。
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2025/08/16 08:48
【赤色立体地図かるた】 (2019/11/21 訪問)
①「恵那山と ツーショットの 苗木城」(えなさんと つーしょっとの なえぎじょう)
②「岩山に 石垣寄り添う 苗木誠」(いわやまに いしがきよりそう なえぎじょう)
③「木曾川に 聳える山城 苗木城」(きそがわに そびえるやましろ なえきじょう)
苗木城へは浜松から国道257号線で一本道、高速道を新名神、東海環状、中央道経由で近いのですが中々行けて居ません、写真が平成23年と令和1年登城で残って居ましたので今回の【赤色立体地図かるた】企画で投稿させて頂きます。
苗木城は何と言っても木曾川にそそり立つ岩山に築城され、景観は近くの恵那山、見下ろす木曾川渓谷が絶品です。駐車場、史料館も有り探訪、見学には持って来いの場所です。
かるたの読みが絞れず3文投稿します。
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2025/08/16 08:45
【赤色立体地図かるた】
光秀が 丹波を抑えて 周山城
(みつひでが たんばをおさえて しゅうざんじょう)
ここも未訪です。
信長の命により丹波を平定した明智光秀が築城しました。
丹波と京、若狭をつなぐ周山街道の防衛拠点でした。
光秀が秀吉に敗れた以降は廃城となったそうで当時の遺構が良好に残るそうです。
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2025/08/16 08:06
【赤色立体地図かるた】 (2011/06/04 訪問)
「圧巻の 五段石垣 七尾城」(あっかんの ごだんいしがき ななおじょう)
14年前の平成23年6月4日、東海北陸道を夜走行し朝一番で富山城登城開館時間を待って復興天守の富山市郷土博物館へ入場、展示閲覧と情報収集、安田城を紹介されて安田城初登城。その後七尾城へ初登城、小丸山城初登城、能登白米千枚田、能登輪島へ郷土料理とスナックカラオケ、1時間1万発の圧巻輪島大花火を見学堪能した思い出の日でした。
先に車で山頂の駐車場へ、調度丸では写真で良く紹介されている、野面積み五段の石垣に圧倒されました、長年探訪を願って居た七尾城の五段石垣にやっと巡り合った瞬間で感激一入、寺屋敷からの登城虎口に当たるのか石垣群、虎口の間から五段石垣を望むと視界一面に石垣群が溢れて何とも言えません、五段石垣を登って桜馬場、遊佐氏屋敷跡、本丸へ虎口登り石垣階段、三段の本丸石垣、本丸内部へ、神社鳥居と祠は土壇に在り天守台の跡なのか?裏を廻って遊佐屋敷、九尺石の巨石、城門の鏡石に相当かな?温井屋敷跡、二之丸跡で探訪終了。資料館へは時間を過ぎて居り入れず、感激の探訪でした。
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2025/08/15 23:41
2025/08/15 22:48
【赤色立体地図かるた】 (2017/05/04 訪問)
「城郭に お台場付けた 松前城(じょうかくに おだいばつけた まつまえじょう)」
逆説で
「お台場に お城が付いてる? 松前城(おだいばに おしろがついてる まつまえじょう)」
松前城は新しい城で、完成は安政元年(1855)になります。津軽海峡を通過する異国船を監視するのが目的と見られ、幕命で福山館を拡張する方針で築城がされています。海岸には16砲台、33門が置かれ、松前城の三の丸にも7門の大砲が設置されていました。
近世と近代が混じりあったような城で、三の丸には石垣ではなく土塁が据えられていたと思いますが、城郭の主要部は石垣で築かれ、三重の層塔型の天守が置かれています。
砲撃戦だと・・・
天守は本丸を狙う時の的になると思う・・
石垣は砲撃が直撃すると、破片で周囲の兵士を傷つけてしまう・・
いろいろ思う所はありますが、五稜郭よりはだいぶマシか・・
歳三さんたちが松前城を攻めた時は、幕府軍艦・蟠竜丸が津軽藩の旗を掲げて松前湾に侵入し、松前城に砲撃を加えるも、松前城側は海岸の砲台と三の丸の砲台で反撃をし、蟠竜丸は沖に逃れたそうです。ひょっとしてこれは日本初の軍艦と城郭の砲撃戦ではなかろうか・・
五稜郭はかなり正確な五芒星(ペンタグラム)の形状をしているので、稜角の位置が三箇所わかれば、全体の正確な形状と位置が把握できると思います。砲撃戦が進化したこの時代に、これは無いな・・と思います。
着弾計測の技術も進化していると思うし、名人だったら思ったところに砲弾を降らして来そうだし、相手の好きな所へ砲弾を落とせるのってヤバいと思う。しかも石垣で囲まれているし、砲台に大砲が乗っかっていないし・・
正直 歳三さん達も「ハズレだ・・」と思ったかもしれません。
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