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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 天王山陣所・武田勝頼公指揮の地 (2025/09/15 訪問)

設楽原歴史資料館のある場所は周囲より高い丘地になっていて、なかなかの広さがあります。このあたりからなら合戦が良く見えますね。
丘地の西側の麓に甘利郷左衛門信康の碑があります。信康は武田二十四将の甘利信忠の弟で、兄の死後は甘利家の名代を務めていたとされています。江戸時代に書かれた「甲斐国志」には長篠(設楽ヶ原)の戦いで戦死したと書かれ「甲陽軍鑑」にも山県隊に「あまり衆」が属していたと記載が有るようです。地元の伝承によれば左翼の柳田前激戦地を担当し、旗色が悪くなり退却戦に至ると敵の防御陣地構築に協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷門扉に寄りかかり立ったまま切腹したそうです。
「かるたでつづる設楽原古戦場」の解釈では、山県らと共に左翼(南側)に陣し徳川軍に対したとされ、勝楽寺前から竹広表まで奮戦し中央の隊とも力を合わせ第三の柵まで破る勢いであったが、山県・原が討死するとじりじりと押されダンドウ屋敷付近で立ったまま無念の切腹をしたとされています。
左翼に位置していたのであれば「かるたでつづる設楽原古戦場」の解釈の方がすっきりします。切腹の際も、こちらは地元の住民を恨んででは無く、敵の作った堀と柵が無かったら家康の本陣も崩すことが出来ただろうに・・という解釈になっています。

天神山陣所は内藤修理亮昌豊が陣を張った場所とされ、昌豊の墓もあります。武田勝頼が戦中にここへ陣を移して昌豊とともに指揮を取ったともされ「武田勝頼公指揮の地」の石碑もあります。
東郷中こども園の北側の広場にあり、子供たちの遊び場になっていますが、北側の林に入ると陣地らしい扁平地が広がっています。

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しんちゃん

ぎゃふん (2025/01/06 訪問)

なんと・・イオ殿のカメラの破損は4か月前のことでござったか。ぐぬぬ・・こんなときは  ぎゃふん!

ぎゃふんって・・ いつの時代でござるか! そもそも私生活でそんな言葉使う奴はおらぬでござる。びっくりして忍者言葉になっているでござる。ニンニン
稲積城は那珂川の北に位置する河岸段丘の上に築かれていて、稲積神社の周辺に土塁や空堀が残されているでござる。田んぼや畑になっている場所も多いでござる。天仁2年、那須氏二代・須藤資道によって築かれたとされているでござるが、真偽は不明でござる。

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飛騨市

飛騨の山城まるごと体感!ガイドツアー&講演会

10/25(土)飛騨の山城を丸ごと体感できる特別イベントが開催!

午前は山城ガイドと歩く古川城・小島城ツアーを開催!
山城を巡りながらその魅力や歴史を間近で感じられます。

午後からは、加藤理文氏、萩原さちこ氏による講演が行われます。

現地を歩き、専門家の話を聞くことで、飛騨の山城の奥深さと楽しさを一日で体感できる内容です。ぜひお越しください。


日時
2025年10月25日(土)
9:30~11:30 山城ガイドツアー(小島城ツアー・古川城ツアー)
13:00~15:00 講演会(加藤理文氏・萩原さちこ氏)

※いずれも参加無料、事前申込が必要です。
詳しくは、https://www.city.hida.gifu.jp/soshiki/15/75510.html をご覧ください。

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飛騨市

飛騨の山城まるごと体感!ガイドツアー&講演会開催!

10/25(土)飛騨の山城を丸ごと体感できる特別イベントが開催!

午前は山城ガイドと歩く古川城・小島城ツアーを開催!
山城を巡りながらその魅力や歴史を間近で感じられます。

午後からは、加藤理文氏、萩原さちこ氏による講演が行われます。

現地を歩き、専門家の話を聞くことで、飛騨の山城の奥深さと楽しさを一日で体感できる内容です。ぜひお越しください。


日時
2025年10月25日(土)
9:30~11:30 山城ガイドツアー(小島城ツアー・古川城ツアー)
13:00~15:00 講演会(加藤理文氏・萩原さちこ氏)

※いずれも参加無料、事前申込が必要です。
詳しくは、https://www.city.hida.gifu.jp/soshiki/15/75510.html をご覧ください。

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トク

【宮本武蔵】(10)富来城(九州の関ケ原(後編)) (2025/07/11 訪問)

宮本武蔵の続き(10)です。

たけぞう(武蔵)が九州の関ケ原で戦った痕跡を探しに、富来城を訪れました。

父の無二斎とともに黒田官兵衛がいる中津へ行き、この頃18才のたけぞう(武蔵)は、東軍の黒田兵として出陣します。1600年9月13日に別府の石垣原(いしがきばる)にて、黒田官兵衛は細川家老(杵築城主)松井康之とともに、西軍の大友義統(宗麟の子)の軍勢を破り勝利します(写真⑧⑨⑩)。そしてその翌日から、西軍の残党が残る富来城を10日間にわたり攻撃します。そこには、たけぞう(武蔵)がいたという記述が残っていました(写真⑤⑥)。

富来城は1261年頃に富来氏によって国東半島(くにさきはんとう)の東端に築かれた城です(写真①②③)。今では本丸の一部がわずかに残るだけですが、当時は河口に向かって二ノ丸・三ノ丸とあり、川を天然の堀とし、水運を利用したかなり大きな城だったようです(写真④)。

代々富来氏は大友氏に仕えていましたが、1593年に豊臣秀吉が大友義統を改易すると富来氏も離散し、垣見家純が秀吉から2万石を与えられて富来城に入ります。そして家純が岐阜の関ケ原へ行っている留守中に、官兵衛は富来城を包囲し攻めました。わずか500名で守るこの城を、9000名の黒田軍が10日かかっても落とせなかったので、かなり当時は強固な城だったと思われます。しかし、主君の家純が大垣城で討死したと知らせが入ると、家臣たちは開城し降伏したそうです。

この時の戦いで、塀を乗り越えようとしたたけぞう(武蔵)は、敵から竹槍で刺され足を負傷したと伝わっています。お城にあった説明板に、ここで負傷した事が書かれていました。どうやらたけぞうが負傷した直後に降伏し開城されたようです。でもこの記述以外に、具体的な証拠は何も見つかりませんでした(すいません)(写真④⑤⑥)。

おそらく相当ショックだったのではないでしょうか? 兵法者にもかかわらず剣を抜く前にけがをした自分が情けなかったのではないでしょうか? 「自分はまだ弱い、もっと強くなりたい!」と悟ったたけぞう(武蔵)は、傷が治ると故郷美作の宮本村へ戻ります。しかしそこでは宇喜多の残党で刀を捨てない者、かつ池田氏へも従わない者への刀狩りが行われており、武蔵は間違って村人に通報され、山中に隠れます。そこで隙を見て、平田家の家財一切を姉(無二の実子)に処分するよう託し、もう宮本村には戻れないと悟り、諸国流浪の剣術を極める旅へ出る事にしました。この頃からたけぞう改め、「宮本武蔵」と名乗るようになったようです。各地で道場破りを行い、「60余回決闘して一度も敗れなかった」と自ら語った事が小倉碑文には書かれています。特に京都で足利将軍家剣術指南役を務めた名門、「吉岡一門と対決した」とも書かれており、これは有名ですよね。

次はその、吉岡一門との決闘場所(京都一乗寺)を訪れます。
 

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イオ

とことん?松山城(三之丸) (2025/05/18 訪問)

(続き)

翌朝、まだ暗いうちから起き出して朝食前に三之丸へ。この日の撮影はスマホだけが頼りです。三之丸は堀之内とも呼ばれるように四方を外堀(二之丸石垣の麓は内堀)で囲まれ、北御門と東御門が設けられていました。江戸中期には藩主御殿が二之丸から移され、藩政の中心となったほか、重臣の屋敷も建てられましたが、明治には陸軍の管轄となり、現在は城山公園(堀之内地区)として整備されています。

まず東御門を起点に外堀をたどってみましょう。東御門は失われているものの、櫓台と石垣は一部遺されています。外堀南東隅から振り返ると、外堀越しに天守群と本丸の櫓群が見えます。麓から天守を仰ぎ見ることができる城下町っていいなぁ。「松山や秋より高き天主閣」正岡子規の句が思い出されます(初夏ですが)。白鳥が泳ぐ外堀を眺めつつ南辺から南西隅で折れて西辺をたどり北西隅へ。北西隅には札の辻があったようで石碑が立てられていました。北辺の外堀は北御門跡までで、その先は埋め立てられています。

北御門跡から三之丸に入り、今度は土塁の上を歩きます。土塁上から見下ろすと外堀の水面までなかなかの高さ(約5m)があります。市民の格好の散歩道なのか、午前6時前後ながら土塁上で幾人もの人とすれ違いました。さすがは松山城。そして土塁上をたどって東御門に戻りました。

城山公園(堀之内地区)の北半分は令和9年完成予定で整備工事中でしたが、案内看板によれば、北御門の立体・平面表示や北御門東側の土塁の立体表示、武家屋敷の間取りの平面表示など、発掘調査の成果に基づきかつての姿を感じられるように整備されるようなので、完成後にぜひまた訪れたいものです。

…ということで、見事な高石垣といい、見応えある天守群といい、カメラ破損の傷心を癒してくれた登り石垣といい、さすが日本三大平山城に数えられるに相応しい素晴らしい名城でした。搦手側にも二之丸にも行けませんでしたし(ついでに100名城スタンプも押し忘れ)、整備後の三之丸も見てみたいので再訪はもちろんですが、次回は「?」の付かない「とことん松山城」でめぐってみたいものです。


> しんちゃんさん

カメラ破損のお見舞いありがとうございます。…といっても4か月遅れの投稿なので、いつぞやのカメラ派?スマホ派?の頃の話なんですけどね。保証期間はとうに過ぎていましたが、修理対応期間内だったためレンズ部分を交換して復活し、今も元気に活躍してくれています。それにしても、カメラを破損した時は城めぐりを続ける気力を失うほどに凹みましたが、登り石垣ひとつで気力を回復させるあたり、それ相応には城キチなんでしょうなぁ(笑)
 

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赤い城

東別院と下茶屋公園 (2025/08/08 訪問)

この日の仕事を終え、時間があったので訪問しました。
地下鉄名城線の東別院駅から徒歩5分、東本願寺名古屋別院周辺が城跡です。
この日は境内でイベントが開催されており、多くの人で賑わっていました。
人混みをかき分けて辿り着いた石碑と説明板が立つ場所へ。
境内の端にあるので人も無く写真も撮影できました。

周囲を歩き、隣接する下茶屋公園へ。
ここには堀跡を利用した池や皆さんのレポートにもある名古屋城関連の石があります。

織田信秀が信長に那古屋城を譲りこの城に移りました。
信長が元服した城でもあります。
信秀はその後末森城を築き移ったため14年で廃城になりました。

【見どころ】
 ・名古屋別院の立派な本堂
 ・堀跡を利用した下茶屋公園の池
 ・名古屋城に関連する石垣の石

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todo94

北海道&東日本パス第2弾 仙台市博物館から本丸へ (2025/09/20 訪問)

仙台市博物館で十分満足してはいましたが、せっかくここまで来て本丸をスルーするわけにはいきません。見聞館の展示もしっかり拝見させていただきました。今回も二の丸や堀切跡などへは足をのばしていないので、またの機会にはもう少し広範囲に攻めてみたいと思います。仙台駅へは徒歩で向かいましたが、幸い雨に降られることはありませんでした。泊をとった盛岡ではかなりの雨が降っていました。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の合戦 丸山砦。 (2025/09/15 訪問)

所かわって設楽ヶ原の決戦場に移動しました。決戦場の北端近くに丸山と言う小山があり、この周辺が大宮前激戦地と呼ばれています。はじめは織田軍の佐久間信盛が陣を敷き、武田軍の馬場美濃守がこれを奪い占拠したとされています。
砦と言うには、本当に小さな小山ですが頂部には陣地の石碑がたっています。

この周辺で多くの上州武者が討死したとされ、後世の堰堤の工事中に彼らの携行していた物と見られる「矢立硯」が連吾川の近くで発見されました。矢を入れておく箙(えびら)や鎧の引き合いに入れて携行し、陣中で武士たちの戦功を記録するのに使ったようです。

そこから北上して行くと名高前激戦地の「かるた」の読み札がたっています。「かるた」かぁ・・いや考えるのはよそう(ドドドドンキ♪)なるようになりますさ。
ここでも馬場美濃守信房・土屋昌次らと織田軍左翼の水野信元・佐久間信盛。丹羽長秀らが激しく戦っているようです。このメンツがぶつかった姿を考えるとヨダレが出ますな。そそりますな!
さらに北上すると馬防柵左端にたどり着きます。馬防柵終点・・

長篠・設楽ヶ原の合戦場の周辺は史跡の宝庫です。昔に一通り散策しましたけど結構なボリュームでしたよ。しばらく通いましたね。地の利っていいですな~♪


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しんちゃん

医王寺山勝頼本陣 (2025/09/15 訪問)

武田勝頼本陣の麓の医王寺は永正11年(1514)に寺院として成立しました。三河の高僧・克補契嶽(こくほかいぎょく)に開山を依頼しましたが、初めにこの地に菴を構えたのは琴室契音とされています。創建は戦国時代になるので、ひょっとしたら医王寺は長篠城の詰城か支城の役割も考えられていたのかもしれません。
勝頼の三河侵攻の理由として「信長が本願寺を攻めたので、本願寺の後援をすること」が目的だったとする説がある。言い換えれば、火事場ドロ的なアレで鬼の居ぬ間に三河侵攻の拠点を確保したかったようにも見える。
でも信長からすると「カモがネギしょってきやがったぜ」状態だ。織田・徳川連合軍が来てからの勝頼は完全にダボハゼ状態で、あの武田軍の猛将たちを次々と無駄死にさせてしまっている。もったいないなあ・・もしあと7千人の増援が見込めたら、家康の首くらい取れただろうか? 妄想が止まらなくなるので、これくらいにしておこう。

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T-Shionoya

円郭式の田中城 丸馬出がシンボルだが・・・ (2025/08/14 訪問)

お盆休みに立ち寄った静岡県藤枝市の田中城。

志太平野北部、瀬戸川などが流れる湿地帯の微高地に円郭式の縄張で築かれた城。
北側には東海道が走る要衝の地。

15世紀頃に今川氏の命で土豪の一色氏が屋敷を拡張した徳一色城が始まりとされ、1570年には武田氏が攻略し、馬場信春が改修して田中城に改名。
長篠の戦いで武田の勢力が弱まると、徳川が攻撃を繰り返し1582年についに開城。
17世紀初めに酒井忠利が四之丸を増設し、正門を平島口から大手口に変更。江戸前期は城主が度々変わったが、江戸中期からは本多正信の弟正重系の本多氏が務めたとのこと。

現在、本丸には小学校が建ち城域の大部分は宅地化・農地化されているが、その区画には円形城郭の痕跡が見られ、所々に堀や土塁が点在。
また下屋敷(別荘)跡に本丸櫓や厩などが移築され史跡公園化されている。

実際に訪れると、やはり遺構は少なく、6つを擁したシンボルの丸馬出も新宿二之門前の三日月堀が半分残るだけという点が少々残念。
一方、三之丸に稜堡のような突出部が存在したことを知れたのは収穫で、質素ながら二重櫓が現存する点も貴重なこと。
また旭傳院の山門は予想外に小さく、城内にあった屋敷の門と考えられている模様。

丸馬出が1か所だけでも完全復元できると更に城跡らしくなりそうに感じた、私の城郭巡りの210城目でした。

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左大弁

広いです (2025/09/21 訪問)

秋田駅からバスで約20分。
資料館で1時間、城内を一通りまわって30分の計1時半というところです。
特に城内は広いので、歩き回るだけでも大変ですが、水洗トイレ跡は現代でも通用しそうでした。

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しんちゃん

お城稲荷四兄弟 (2025/01/06 訪問)

瓜連城は延元元年(1336)南北朝の争乱の時代に楠木正成の一族・楠木正家によって築かれたとされてます。周囲を土塁や堀が巡っていることを考えると戦国時代にも使われていたのでは。
瓜連城の鬼門の位置に源太郎稲荷があり、案内板によると長男の源太郎狐は本家のこの里を守り、甚二郎狐は野、紋三郎狐は山、四郎介狐は海を守ることになったそうな。四匹の狐はそれぞれの地で敬われ、土地の守り神となったそうな。
こうして源太郎狐は瓜連城・甚二郎狐は米崎城(那珂市)・紋三郎狐は笠間城・四郎介狐は湊城(ひたちなか市)と、それぞれ郷土の稲荷神社に祀られているそうな。
ほんまかいな そーかいな。

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しんちゃん

お見舞い (2025/01/06 訪問)

「登り石垣」を見てカメラ破損の心のキズが癒されるとは、イオさんもかなりの「城キチ」ですね。カメラは城キチの命ですので、保証が効くと良いですね。
森田城は那須資隆の長男太郎光隆とされ文治3年(1187)ごろに築かれたようです。以降那須十氏の一つ森田氏の居城として続きますが主君の那須氏が小田原征伐に参陣しなかったので宗家と共に改易になったようです。
城址は主郭の周囲に土塁を張り、その周囲に空堀と土塁を設けた比較的シンプルなものです。主郭西側にも腰郭を設けて有りますね。他にもいくつか腰郭があるようですが、主郭の存在感が強いので単郭のイメージがあります。
慶長5年に大田原城主綱清の次男増清が関ヶ原の合戦の功関で森田村を与えられ陣屋を築いて小塙に居住しました。芳朝寺は大田原氏の菩提寺となり麓に墓所があります。「合掌・・」

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左大弁

景色雄大! (2025/09/21 訪問)

脇本駅から徒歩で行きましたが、約30分掛かります。
内館地区だけなら1時間あれば見て回れますが、馬乗り地区まで行こうとすると、+30分は必要な様です。
尚、25/9/21現在熊出没注意となっています。
内館地区だけなら注意は必要ですが、過度に怖がる心配はないかと。
ただ、馬乗り地区まで行こうとすると、山の中を歩くので、怖そうです。

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イオ

とことん?松山城(黒門口登城道~県庁裏登城道) (2025/05/17 訪問)

(続き)

ホテルにチェックインすると、夕食までは自由時間です。他の面々は風呂に入ったりゆっくりしたりするようですが、せっかく徒歩圏内のホテルなのに松山城に行かない手はありません。さすがに搦手側を探索する時間はなさそうなので、二之丸に行くことにしました。

三之丸から見上げると石垣の上に二之丸が、さらにその上には本壇の天守群と本丸の櫓群が覗いています。三之丸を抜けて黒門へ。黒門口登城道は往時の大手道で、かつては櫓門だったようです。黒門から入って左に折れ、突き当りの左側が栂門です。さらに3度の折れを経てたどり着く槻門は城内最大の石垣の上にかつては二重2階の巨大な櫓門が築かれていました。

槻門の先の分岐から左は本丸への大手道、右は二之丸史跡庭園に続いています。右側に坂を上って行くと見えてくる二之丸多聞が史跡庭園への入口になっている…はずですが、門は閉ざされ「本日の入園時間は終了しました」の表示が。あれ? 17時までじゃなかったっけ!? どうやら閉園は17時でも入園は16時30分までだったようです。なんてこったい…。

やむなく分岐まで戻って大手道のほうに向かうと、今度は「樹木伐採作業のため通行止め」の立て看板が。期間の日付を見てみると5月17日から…って今日からやん! とりあえずもう少し先まで行けるようなので、二之丸の四脚門を横目に進んで行くと、近世城郭の大手道とは思えないような細く曲がりくねった山道になり、どこで通行止めになるのかな…と思っているうちに本丸の大手門に着いてしまいました。作業に入っている様子はなく、この日の早朝は大荒れの天候だったために作業開始が延期されたんでしょうね。

さて、二之丸には入れず、思いがけず本丸まで来てしまったので、こうなったら時間の許す限り搦手側を見てやろう! と先ほどよりずいぶんと人が少なくなった本丸の写真を取りつつ太鼓門をくぐったところで、ストラップが千切れてカメラが落下しレンズ部分を破損…。あまりのショックに搦手側どころか城めぐりを続ける気力も失って、修理できるのかな…買い替えるしかないのかな…などと呆然と県庁裏登城道を下っていると、目の前に本丸へと続く登り石垣が! 県庁裏登城道から見られるということを思い返す余裕すら失っていましたが、何とかこの登り石垣を、この感動を写真に残したい、と普段は城めぐりの写真には使わないスマホで撮影しつつ下山しホテルに戻りました(続く)。

当初の目的の二之丸に入れなかったり、黒門口登城道も通行止め…と思ったら本丸まで着いてしまったり、カメラを破損したりと想定外のことばかりでしたが、カメラ破損の沈んだ気分を一気に引き上げてくれた登り石垣のことは一生忘れないと思います。

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todo94

北海道&東日本パス第2弾 Pikmin Bloom Journey2025仙台と仙台市博物館 (2025/09/20 訪問)

22日に休みをとって4連休のシルバーウイークとし、北海道&東日本パスで仙台にやってきました。目的はPikmin Bloom Journey2025仙台です。お題をすべてクリアして最後のスペシャルスポット伊達政宗胸像でポストカードも19種すべてそろえました。仙臺緑彩館が建つここは、片倉小十郎の屋敷跡。仙台城の濠だった長沼を経由して赴いた仙台市博物館は仙台城の三の丸です。ちょうど特別展「徳川十五代将軍展」が開催されていました。前期の目玉は家康の甲冑、金陀美具足でしょう。巨大な金扇と並べられていて何ともゴージャスです。2代秀忠から15代慶喜までの甲冑が一直線に並べられていて、これがこの特別展の目玉とあって人の列がなかなか動かない人気ぶりでした。個人的には、家光のしょぼい絵や大河ドラマにも登場した10代家治の嫡男・家基の絵、慶喜の7歳の時の揮毫「愛敬」や油絵などの方が興味深く、人も少なかったのでじっくりと鑑賞することができました。関連展示の「徳川家と伊達家」も良かったし、支倉常長のミニシアターと国宝群の展示まで十分すぎるほど、仙台市博物館を楽しむことができました。博物館内で昼食をとった後は、大手門脇櫓前の支倉常長像もチェック。ゴールデンウイークに支倉常長の銅像を2体チェックしているので、2025年のうちに国内に3体ある支倉常長の銅像をすべてチェックすることができました。

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しんちゃん

陣陣陣・・陣陣陣 (2019/05/02 訪問)

太閤ヶ平陣から鳥取城に向かって歩いて行くと、たくさんの羽柴方の陣所があります。最初に遭遇するのが羽柴秀長の陣。よく働く弟です。陣所には土塁などの遺構がありますが、写真だけ見るとどれがどの陣の遺構か良く解らない。メモを残しておくべきだった。
鳥取城まで近づいてから引き返し、鳥取城は翌日麓の城から登りました。太閤ヶ平陣から登っても良かったんだけどね~。

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天守無しがアツい

天守台 (2025/09/15 訪問)

本丸の階段を登って天守台へ
発掘調査でここから瓦が出土されなかった…つまりここには天守閣をイメージさせるような建物は存在しておらず、簡素な建物がある程度だったらしい

西櫓台…ここには建物の柱跡さえなく、ここから城および周辺の様子が伺える役目…二の丸が良い角度で見えたので逃さずに撮影

天守台の端から階段を降りると空堀へ…歩けるだけ歩いてみる🚶‍♂️地面が草で覆われた一帯🌱🌱二の丸方面へ向かってひたすら歩くと…なんと二の丸に抜け出る事ができた

その二の丸では…不法投棄に警告する看板が。それを犯す輩がいるらしい…現に和菓子の包み紙がそこに落ちていた

興国寺城には1時間ほど滞在。ちょうどいい時間のバスが無かったので、原駅まで歩いて帰る🚶‍♂️そのついでに三の丸に存在する池と小さな社を撮影。中には入れない様子なので外から軽く手を合わせた🙏

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朝田 辰兵衛

CF大丈夫かなぁ… (2025/07/11 訪問)

以前,佐賀城攻城時にスルーしてしまったので,訪れました。龍造寺隆信誕生地碑に圧倒されますが,水堀の折れが当時の面影を遺しているように思えました。赤松小学校は完全に城域。眺めたりウロウロすると不審者扱いされるので,ただの歩行者を装いました…。

赤色かるたについて…
赤色かるたは,日本100名城かるたよりも数段マニアックだと思います。正直言って,CF大丈夫かなぁ…という心配のほうが先走っております。目標設定を,日本100名城の時よりも下げないと無謀なチャレンジに思えます。
取り下げた4城は,山城ファンにとって魅力的だったので,変更は残念でした…。しかも「たかとりじょう」がダブル選出されており,明確なアソビ心も感じられる仕様となっていました。あくまでも,個人的見解ですが…。

にのまるさんへ…
赤色かるた前ににのまるさんから「新潟⇄新発田は白新線なのか……」というギモンが発せられましたが,計画と実際の工事とのギャップによるものとわかりました。本来なら「新新線」に名称変更されるべき。実際に道路では「新新バイパス」が存在しますョ。
計画時点,白山駅~新発田駅間で白新線というところからスタートしました。
新潟駅~関屋駅間は,信越線の貨物支線を旅客化。関屋駅~白山駅間は,信越線の貨物支線上に白山駅を移転し旅客化。新潟駅~関屋駅~白山駅間は,当時白山駅が起点だった越後線を区間延長。
これで,新潟駅~新発田駅間の工事が竣工しても,「白新線」の名称変更はされなかったそうです…。
そうそう,「空と海」のレス,ありがとうございました。

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