設楽原歴史資料館のある場所は周囲より高い丘地になっていて、なかなかの広さがあります。このあたりからなら合戦が良く見えますね。
丘地の西側の麓に甘利郷左衛門信康の碑があります。信康は武田二十四将の甘利信忠の弟で、兄の死後は甘利家の名代を務めていたとされています。江戸時代に書かれた「甲斐国志」には長篠(設楽ヶ原)の戦いで戦死したと書かれ「甲陽軍鑑」にも山県隊に「あまり衆」が属していたと記載が有るようです。地元の伝承によれば左翼の柳田前激戦地を担当し、旗色が悪くなり退却戦に至ると敵の防御陣地構築に協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷門扉に寄りかかり立ったまま切腹したそうです。
「かるたでつづる設楽原古戦場」の解釈では、山県らと共に左翼(南側)に陣し徳川軍に対したとされ、勝楽寺前から竹広表まで奮戦し中央の隊とも力を合わせ第三の柵まで破る勢いであったが、山県・原が討死するとじりじりと押されダンドウ屋敷付近で立ったまま無念の切腹をしたとされています。
左翼に位置していたのであれば「かるたでつづる設楽原古戦場」の解釈の方がすっきりします。切腹の際も、こちらは地元の住民を恨んででは無く、敵の作った堀と柵が無かったら家康の本陣も崩すことが出来ただろうに・・という解釈になっています。
天神山陣所は内藤修理亮昌豊が陣を張った場所とされ、昌豊の墓もあります。武田勝頼が戦中にここへ陣を移して昌豊とともに指揮を取ったともされ「武田勝頼公指揮の地」の石碑もあります。
東郷中こども園の北側の広場にあり、子供たちの遊び場になっていますが、北側の林に入ると陣地らしい扁平地が広がっています。
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