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しんちゃん

修善寺周辺  (2022/01/10 訪問)

伊豆市の修善寺は鎌倉幕府や源氏とゆかりが深く大河ドラマ「鎌倉殿と13人」にもかかわりのある場所も多いです。ここに送られると助からないイメージがありますね、なんとなく高野山と同じ空気を感じます。
修善寺の創立は大同2年(807)とされ、弘法大師と弟子たちに寄って開かれたとされ、その時は真言宗の寺でした。元久元年(1204)に源頼家がこの地で殺害されています。
寛元4年(1246)に宋から渡来した蘭渓道隆禅師が一時駐留した縁で宋の皇帝から勅額が送られ、この時期240年ほど臨済宗の寺として栄えました。戦国時代に荒廃しますが、伊勢宗瑞が韮山城主になった後に寺の再興を行い、その際に曹洞宗の寺になりました。
延徳元年(1489)に入山した隆渓範紹禅師は宗瑞の叔父とされています。

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しんちゃん

北條寺ほか 北条義時ゆかりの寺社 (2022/01/10 訪問)

伊豆の国市南江間にある北條寺は鎌倉幕府二代執権・北条義時によって創建されました。伝承では義時の嫡子である安千代丸が大蛇に襲われ亡くなった時に墓所として七堂伽藍を建立したとされます。鎌倉三代将軍実朝が殺され源氏の嫡流が途絶えた後は、京都より頼朝の姉の曽孫にあたる藤原頼経を迎えて四代将軍とし、義時は執権としてそれを支えました。
義時は元仁元年(1224)62歳で亡くなり北條寺に墓が建てられました。

豆塚神社は伊豆の国市北江間にある神社です。この神社も北条義時と縁が深いとされています。大河ドラマでは義時と八重さんのゆかりの地として紹介されていました。伝承に基づく解釈のようですが、少しムリがありますかね。

珍場神社は伊豆の国市北江間にある神社です。案内板には元久元年(1204)に義時が安千代の死を嘆いて若宮八幡神として祀ったのが始まりとされています。

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しんちゃん

實成寺(じつじょうじ)大見氏居館跡 (2022/01/10 訪問)

伊豆市の實成寺一帯はこの地域の古い豪族大見小藤太成家の居館跡とされています。境内には石垣や石畳がありますがいつの時代の物かははっきりとは解りません。南側にそびえる大見城は詰の城とされています。案内板によると居館跡と諏訪神社の間に帯郭や堀らしきものが残っているようです。
別の案内板には大見氏は桓武平氏を称していたとされ、境内には大見平三家政治の墓が有ります。源頼朝が平氏打倒の兵を挙げるや、大見氏はいち早く参陣し、数々の武功をたて各地に領地を与えられたとされています。中伊豆中学校付近一帯も大見氏の居館が有った場所とされ(初期の館址か?)陣場跡とも呼ばれているようです。

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しんちゃん

コホンと来たら古本丸 (2025/01/06 訪問)

さっき本丸は二の丸じゃないかって書いたばかりだが、本丸の案内板の写真を見ると「本丸(二の丸)」と書いてある。まあ良しとして置こう。本丸と古本丸の間に堀切が有り、いずれの曲輪にも土塁が残っている。
「こほん」とかいたが、まさか「ふるほんまる」ということは無いだろう。最近ブックオフに行ってないな。

「烏山城 コホンと来たら 古本丸(からすやまじょう こほんときたら こほんまる)」
すでに遅かりし・・

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しんちゃん

柏久保城 狩野氏の支城で、伊勢新九郎宗瑞に落とされる (2022/01/10 訪問)

静岡県伊豆市の愛宕山の山頂に柏久保城は築かれていました。「城びとの城ではない」が堀と土塁を残す、なかなか良い城で主郭には「北条早雲城山砦址」の石碑が建てられています。
柏久保城は西に狩野川、南に大見川、北に古川と三方を河川に守られた要害で狩野氏の城でした。明応2年(1493)伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)が伊豆侵攻を開始した時、宗瑞に従う大見三人衆が柏久保城奪還を狙う狩野氏と戦ったとされています。狩野氏が敗れた後は、伊勢氏の韮山城の支城として機能したとされ、北側の深い谷は「新九郎谷」と呼ばれ、北東には「地獄沢」の地名も残っています。
日本画の最大の画派である狩野派の祖・狩野正信は狩野派の祖・狩野宗茂(工藤茂光の子)の子孫とされています。

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しんちゃん

石垣 (2025/01/06 訪問)

吹貫門脇石垣を見てから正門跡を通過。周囲に石垣が残り、内枡形の標識が立っている。R90を右折して、もう一度右折すると本丸へ到着。思ったよりあっさりと本丸に到着できた。土の山城として完成形に至った素晴らしい城だと思うが、本丸周辺に石垣を配し格式を高めて有る。この・・欲張りめ! だが、そこがいい。
見たところ最も守りの堅いのは古本丸のようだ。非常時には古本丸に籠って周囲の曲輪で守るのか・・つまり事実上の本丸は古本丸で、居住に使っていた本丸は、実は二の丸にあたるのか・・? ややこしい・・だが、そこがいい!?
でも江戸時代に居住していたのは麓の三の丸・・人は低い方に流れていくのか?

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石碑 (2025/09/23 訪問)

 赤い城さんが田幡城を投稿された数時間前に現場を訪問しました。城びと先人のレポートから、石碑があることを知り、遠目でも見たいと、小学校を2周してしまいました。カズサンさん投稿の写真が決め手になって、東門のすぐ脇と推定。
 有りました! 遠目に見たくても、木立に隠れて見えない位置なんですね。石碑が見えたと言っても、正面でないし、近寄れないので、「有りました」というところです。

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トク

【宮本武蔵】(11)京都一乗寺(吉岡一門との決闘) (2025/06/06 訪問)

宮本武蔵の続き(11)です。

19才になったたけぞう(武蔵)は、この頃から名前を「宮本武蔵(むさし)」と名乗るようになり、諸国を転々とします。武蔵が21才の時に吉岡一門との決闘した場所、京都一乗寺の下り松へ行ってきました(写真①②③)。叡山電鉄「一乗寺」駅から徒歩10分の所にありました(写真⑦⑧)。

吉岡一門は、室町時代に将軍足利家の剣術指南役を務めた名門です。最初は京都洛外の漣台野で、吉岡家の当主「清十郎」と対戦し一撃で倒します。次はその弟「伝七郎」をも一撃で倒します。面目をつぶされた吉岡の門弟たちは、敵討ちと称しこの場所に武蔵を呼び付け決闘しました。しかし武蔵は、ここで100人以上の門弟を相手にした決闘を制し、全国にその名を知らしめたようです。さらに5分程登ったところにある「八大神社」は、決闘の前に武蔵が祈願した場所だとされ、武蔵の銅像がありました(写真④⑤⑥)。

しかしここから8年間の武蔵の足跡がよくわかりません。この間、60余回戦いをして一度も負けなかったと自ら語っています(小倉碑文より)。24才の時鎖鎌の使い手「宍戸梅軒」や、奈良で槍の使い手「奥蔵院」と決闘し勝ったという話もあります。しかしそれらは、後世になって書かれた二天記に記述されており、直接本人が語った小倉碑文には、有馬喜兵衛・吉岡一門・岩流小次郎との決闘以外、60余回の内容は書かれていないので、真相はわかりません。

でもこれだけ決闘すれば、名声が上がる一方で、あちこちから恨みも買い命も狙われるでしょうね。そのためか、武蔵は風呂に入らなかった(入る事を嫌った)という言い伝えがあります。風呂に入るためには刀を置かねばならず、命が最も狙われやすいからです。なので武蔵は相当臭かったらしいです(笑)。

その後1612年、29才になった武蔵は、当時まだ中津にいた父の無二斎の要請で、小倉へ行く事になります。そこであるゴタゴタに巻き込まれてしまうのです。

次は、小倉城(巌流島の決闘)に続きます。
 

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にのまる

天浜線乗り潰しの途中で。 (2025/08/09 訪問)

「どうする家康」放映時に訪れて以来です。
天竜二俣駅で下車し、最初に天浜線車両基地での乗車体験ツアー(¥900)に参加しました。鉄道歴史館も洗車体験乗車も楽しかったです。

前回は二俣城まで歩きましたが、今回は天浜線乗り潰しの目的もあったので二俣本町までひと駅乗車し、井戸櫓、清瀧寺、信康廟を訪れました。時代小説をよく読んでいた頃は信康にも築山殿にも徳姫にもさまざまな(よくない)感情をもっていましたが、今は事実を正確に知ることが供養にもなるのかなという思いでいます。

信康廟から二俣小学校をぐるっと巻くコースで二俣城へ向かいました。遊歩道はありましたがちょっとした山の中で周囲も険しめ。あれれ?なんだここは?と思ったら付城群の蜷原砦だったようです。

3人連れの鉄旅でお城は行けないかもと思っていましたが、かっこいい石垣を見上げ、天守台に上がり、天竜川を眺めと充分に楽しむことができました。

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赤い城

ご存知、家康生誕の地 (2025/08/09 訪問)

名古屋での仕事の後、折角なので後泊しました。
岡崎に宿をとり朝駆けで登城しました。
2019年に訪れて以来2回目の登城です。

西側から橋を渡り、まずは堀沿いに外周を歩きました。
本丸埋門北袖石垣を見上げながらもここでは登らずさらに進みます。
赤い神橋から東側の菅生曲輪、さらに大手門へ。
ここに駐車場があります。

東隅櫓まで行って再度西側に戻ります。
家康産湯の井戸を見て二の丸へ。
三河武士のやかた家康館がありますが早朝なので開館前、二の丸には家康のしかみ像や本多忠勝の像もあります。

太鼓門を入りいよいよ本丸エリアに。
最大の見どころである青海堀を覗き込みます。
かなり深い😃
降りてみたい、との衝動に駆られながらも当然自重。
本丸へ入る前に辰巳櫓下の石垣に、結構な高さがあります。感激しながら本丸に入りました。

本丸には龍城神社が鎮座し、復興天守が建っています。
皆さんのレポート通り、以前あった2本の松は伐採されて見やすくなっていました。

久しぶりの登城でしたが以前に比べ城にも少し詳しくなっているのか新たな発見も多く楽しむことができました✨

【見どころ】
 ・青海堀
 ・太鼓門の石垣
 ・廊下橋
 ・辰巳櫓下の石垣
 ・本丸埋門の石垣
 ・持仏堂曲輪腰巻石垣

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todo94

北海道&東日本パス第2弾 城カードゲットと初めての共通券 (2025/09/22 訪問)

仙台の光明寺で支倉常長の墓に参った後、赴きました。だいぶ早く到着してしまったので、周辺をゆっくり見て回って開城を待ちました。歴史探訪ミュージアムの売店で城カードをゲットし、三階櫓に登ってから、片倉家中武家屋敷へと向かいました。白石城の共通券を購入するのは今回が初めてでこの武家屋敷も初めてになります。そして、厩口門が移築されている延命寺まで足を伸ばして程よい時間になりましたので、10時開始の立体ハイビジョンシアターも楽しんでまいりました。姉妹による仇討のお話で由井正雪が姉妹に剣術を手ほどきしていました。これまで足早に通り過ぎるばかりの白石でしたので、なかなか新鮮な体験となりました。

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しんちゃん

那須 (2025/01/06 訪問)

烏山城は応永25年(1418)に那須太郎資氏の次男・那須資重によって築かれたとされています。八高山の山頂に古本丸を築いたのが始まりとされ那須氏の拠点として繁栄しますが、豊臣秀吉の小田原征伐の際に遅参を理由に所領を没収され、一時没落しました。
五城三郭と呼ばれる多数の曲輪を有する広大な山城で本丸(二の丸)周辺に石垣が見られるものの基本は土の城です。明治維新まで使われていただけあって、高い完成度を誇り遺構も良く残っています。
七曲りから登城し、太鼓丸を通過すると堀切があり、ここには「車橋」という車のついた引き橋がかかっていたようです。

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しんちゃん

大見城  (2022/01/10 訪問)

静岡県伊豆市の大見城は平安時代末に大見平三家政か、その子の大見小藤太成家によって築かれたとされています。戦国時代にも使用されており、見えづらくなっていますが堀切や竪堀も残っています。
大見城址公園として整備されていて山頂部に本曲輪があり、周辺には多数の腰曲輪があります。二の曲輪には諏訪神社が有り、虎口は南側についているようです。ちなみに井戸は無いようで、籠城が長期に及んだらどうするつもりだったのか?
本曲輪からが狩野氏の領土や伊東氏領を見渡すことが出来、要衝にあったことが伺えます。

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しんちゃん

設楽ヶ原 慰霊の碑 (2025/09/15 訪問)

設楽原歴史資料館の周辺には合戦の犠牲者を弔ったとされる大塚・小塚がありますが他にも慰霊碑や宝篋印塔などもあります。大塚の近くには閻魔堂も有りました。なぜ閻魔? 道中には信玄祖師堂とされる小さな祠もあったりします。設楽ヶ原の周辺には陣所の他に武将の墓や慰霊碑も実にたくさんあります。
愛知県の無形民俗文化財に指定されている「信玄原の火おんどり」は昔、塚から大量に発生した蜂が人々を困らせたので、これを武田軍の戦死者の亡霊と信じて、夜に松明をともして供養したことが発祥とされているようです。しかし、なぜ信玄・・? 勝頼さんの立場は?

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名古屋城の帰りは名駅太閤口地下がオススメ。 (2025/09/25 訪問)

名駅の東側が再開発され「大名古屋ビルヂング」もビックリするほどオシャレになってますが、古き良き建物を知ってる者からすると居心地が悪い。それに比べ駅西側の太閤口の地下街は背伸びをしてない名古屋の雰囲気が残っていて落ち着く。その中でもイチ押しは「お食事処ゆうふく」店構えは決して高級じゃないのに店名は「ゆうふく」なのが笑える🤣 さらにオススメなのが「晩酌セット」、きょうはうなぎの肝の佃煮と鶏の味噌田楽にこんにゃく、マグロに生ビールが付いて1,200円。お客さんが少ないからゆっくり呑める。元々は鰻屋さんみたいなので「ゆうふくな方」はぜひ名古屋名物ひつまぶしをお召し上がりください。

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朝田 辰兵衛

長崎県未投稿城は…🏰 (2025/07/14 訪問)

長崎県未投稿城は,来年のGWで解決したいと思います。飛行機とホテルをリザーブ完了しました。来年は,5月と9月に5連休があります。5月の5連休を長崎県に傾注します。合わせて,西九州新幹線にも乗りたいと思います(GWは混むゾ❢)。長崎で2泊。佐世保で2泊です。
「雨男には任せておけない」と思ったら,どうぞご自由に攻城してください。諫早で,マイカー派の方でも頂上まで行ける山城が未投稿で残っております。琴尾山烽火台です。離島の大島城は平戸からフェリーになります。
もし,どなたかが攻城されて時間に余裕ができたとしたら,赤色かるたのマイナス4城の中から厳選したいと思います。
さしあたり,告知まで。

小田部城ですが,地下鉄七隈線の次郎丸駅から,徒歩約20分です。キャリーバッグを引きずりながらなので,参考タイムということで。小田部城は福岡講倫館高校となっており,向かいの有田集会所/有田宝満神社にパネルが設置されております。

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鉢伏城 (2025/09/13 訪問)

 観音丸城から稜線に沿って道があり、15分ほど登ると、スキー場の建物が現れ、北東から来るリフト終点です。鉢伏の名前の通り、なだらかな頂上の最上部に、堀、土塁で囲われた鉢伏城があります。南側の堀切、土橋、土塁が迎えてくれます。本郭は長径80m程もあり、広いです。敦賀湾方向の眺望がグッドです。敦賀湾までは険しい山並みが激しく下っており、海から木ノ芽峠までの間では、道をつけにくかったのでしょう。
 リフト終点にブランコがありました。流行りの「天空」でしょうか。帰りは、とても急なコンクリート舗装道を木ノ芽峠下までたどりました。

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todo94

北海道&東日本パス第2弾 青森の城めぐりの締め (2025/09/21 訪問)

奥瀬館からの転戦です。国道4号線で分断されてしまっていて、東側に標柱が立っています。ここは土塁遺構とみて良いのでしょうか。国道の西側が本丸とのことで空堀遺構も認められますが、こちらは、私有地で民家も建っていますので郭内の写真撮影は差し控えさせていただきました。正午過ぎにレンタカーを返却し、八戸駅にて青森の郷土料理満載のちょっと贅沢な昼食をとり、盛岡の献血ルームにて血漿成分献血を無事すますことができました。この日の泊は仙台のネットカフェ。翌早朝、支倉常長の墓があるという光明寺にも足を伸ばしてきました。

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HKISD

城村城散策 (2025/09/24 訪問)

菅原神社にお参りして三の丸、二ノ丸、本丸に行きました。
道が凄く狭かったので車は遠くに停めて歩いて行きました。

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しんちゃん

春桜・夏紫陽花・秋彼岸花・冬蝋梅 (2025/01/06 訪問)

鎌倉幕府の御家人八田知家は奥州藤原氏討伐の功により下野国茂木郡を与えられ、三男知基は桔梗山に城を築き居住しました。知基は茂木氏を名乗り、以後茂木城は400年16代に渡って茂木氏の居城となりました。
茂木城は現在は城山公園となっており、広い城域の中に複数の曲輪や堀切が残っています。南西部が本丸で、城址中央に千人溜があり、反時計回りに本丸・二の丸・三の丸・馬場と続き各曲輪の間には堀が残っています。南東部には出丸が有り、知基橋を渡って訪れることができます。城址公園には桜をはじめ彼岸花・紫陽花など多くの花が植えられており、季節ごとに楽しませてくれるようです。

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