岩倉城から車で40分弱で、案内板前(35.509831、133.940222)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、 伯耆山名氏の一族、山名刑部大輔久氏累代の居城でした。
1524年(大永4年)尼子氏による東進「五月崩れ」によって落城し、羽衣石城に入った尼子国久の次男誠久が当城に入城しました。
1540年(天文9年)尼子晴久が毛利元就を攻めるため大軍を安芸国吉田郡山城に派遣した隙に乗じて、但馬山名氏の援軍を得た南条氏が伯耆に乱入し当城も落城、山名刑部が取り戻しました。
1546年(天文15年)には武田国信・南条宗勝らの攻撃で落城、元城主の河口久氏が入城しますが尼子氏の攻勢で再び退去を余儀なくされました。
1562年(永禄5年)に毛利氏によって解放された後には再び河口久氏が入ります。
1579年(天正7年)に南条氏が毛利氏より離反すると河口(山名)久氏は毛利方に属し、城は毛利方の拠点となりました。
そのため、織田氏の攻撃目標となり、1581年(天正9年)には松井康之率いる水軍によって城下もろとも焼き払われ、泊浦の警固船65艘も焼かれています。
1584年(天正12年)に南条領と確定した後は南条方となり、1600年(慶長5年)の南条氏没落によって廃城となりました。
藪化しているとの事前情報で、登城路を少し歩いた後、案内板を撮って撤退しました。
しかし、事前情報が古いのか先人の皆さんの情報では藪下していないようだし、どうやら失敗だったのかな?
どこからの情報か、いまとなってはわかりません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=橋津台場に向かいました。
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