しちじょう

志知城

兵庫県南あわじ市


旧国名 : 淡路

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謎の石積
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しんちゃん

いかちん縄張り図。竹ヤブきっつ‥ (2023/08/17 訪問)

天正13年(1585)加藤嘉明が豊臣秀吉の命により志知城に入城。
今の志知城の縄張りは加藤嘉明によるものと伝わります。
志知城は周囲を水堀で囲まれ南側の堀は土砂に埋まっているようです。
北側にも内堀が流れ周囲の川や水路と相まって、かつては幾重にも
水堀を巡らしていたのではないでしょうか。
主郭部は東が二の丸と呼ばれ、西が主郭になるようで
城址碑が二つ存在します。
主郭はいくつか空堀で区切られているのですが
これは後世の遺構かも知れません。
主郭の一部には謎の石積みがありますが、なんだろうコレ?
周囲には不思議な土盛りもあります。
主郭を南に下っていくと高さ1mに満たない段差がありました。
主郭内はかなりヤブ化が進んでいて、移動できないエリアも
多々あります。いかちんで主郭周辺の縄張り図を掲載しますが
まだ全体を確認できたわけでは無いので、隠れた遺構があるかも
しれません。勇者の出現を期待します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:志知城 (2022/07/21 訪問)

養宜館からの転戦です。声明寺付近空スペース(34.299894、134.745411)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代初期に菅和泉守道忠によって築かれたと云われています。
菅氏は淡路国三原郡野口村を拠点としていたといわれ、その後、菅氏あるいは野口氏を称したそうです。
南北朝時代以降、菅実正は足利尊氏に従い、細川師氏が淡路守護となって淡路に入部すると菅氏もそれに従いました。
1581年(天正9年)菅長宗のとき、織田信長の命により淡路に侵攻した羽柴秀吉らの軍勢により、志知城は降伏・開城しました。秀吉は家臣の黒田官兵衛を志知城に置いて守らせました。
1585年(天正13年)加藤嘉明が15,000石を領して志知城に入り、志知城が改修されと考えられている。
1595年(文禄4年)加藤嘉明は60,000石に加増され、伊予国松前に転封となり、その後は秀吉の直轄領となって代官が置かれたが、後に叶堂城に移され廃城となりました。

声明寺付近が城址跡らしいですが、何も見つけられませんでした。事前調査不足です。残念です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=叶堂城に向かいます。

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おっちゃん

志知城跡略図 (2019/07/13 訪問)

現地案内板より抜粋。

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小城小次郎

今まさに光が差し込もうとしている (2021/09/18 訪問)

洲本に脇坂安治がいた頃、すぐ近くの志知には加藤嘉明がいた。ともに水軍の将となりともに伊予の大名となる七本槍の二人はここでも隣り合わせで切磋琢磨していたのだろう。竹藪も払われたこの城は今まさに光が差し込もうとしている。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 菅道忠
築城年 鎌倉時代前期
主な城主 菅氏、黒田官兵衛、加藤嘉明
遺構 曲輪、切岸
再建造物 石碑、説明板
住所 兵庫県南あわじ市三原町志知松本