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しんちゃん

見所は背後の堀切と、石垣の箇所。土岐氏にまつわる悲劇の城。 (2024/10/19 訪問)

この日は午前中から雨でして‥高速を併用して急いで関ヶ原に到着、菩提山城を攻略して古戦場記念館についたころには雨が降って来てました。せっかく関ヶ原祭りをやっているのに雨で武将たちの演武は中止(のはず)。なんとも間が悪い話です。
小島城に着いたころには、だいぶ雨も収まって来ていたので、一気に攻略にかかります。
駐車場から城址まではそれほど距離はなく、道らしきものを見つけて主郭を目指します。とにかく郭が多く、なかなか主郭にたどり着かない。主郭はそれほど広くは無く、背後に大堀切があり土橋がかかっています。どうも最高所は主郭というよりは防御施設で、下の方の建物が有った場所が主要な部分だという気がします。
案内板、確かにけっこう難解ですね。南朝方の城だった小島城を北朝方の土岐頼康が落とし、要害の城として改築したとあります。丈和2年(1353)後の二代将軍・足利義詮が京を追われた際には後光厳天皇を奉じて小島城に入り、二か月の間、付近に小島頓宮を設営したたとのこと。頼康は美濃伊勢三河・三国の守護となり、隆盛を極めましたが、嫡子無いまま滅し弟・頼雄の子康行が土岐氏を継承します。しかし土岐氏の勢力の拡大を危惧した三代将軍・足利義満の遣わした軍勢により二度にわたる攻撃を受け、城内の婦女子を自ら手にかけた後、落城したとされます。康行以下、十九の首級は京に送られ義満の御前で首実検に供せられたそうです。
足利家の恩人らの首を前に悦に入る,義満のドス黒い笑顔が目に浮かんでくるようですね(オイオイ)。

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しんちゃん

ハイキングコース (2024/09/28 訪問)

阿坂城は椎ノ木城と白米城に分かれています。応永年間に北畠満雅が北朝の足利勢を防ぐために築いたとされています。戦国期には永禄12年(1569)織田信長軍の侵攻を受けた際に北畠家臣・大宮入道合忍斎が立て籠もりますが、木下藤吉郎秀吉らに攻められ、落城したそうです。城址までかなり距離がありますが、道は比較的なだらかで傘を差しながらでも歩けそうです。地元の方の格好のハイキングコースになっており、けっこう年配の方も来られてます。
各所に扁平地(郭)のような場所が有り、門跡のような場所を越えて城址に近づいていきます。堀や竪堀もけっこうあり、戦国期の山城だということを実感します。

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ぴーかる

雑賀城 (2024/09/28 訪問)

【雑賀城】
<駐車場他>津屋公園の南にある和歌浦交番(Googleストリービューにある)が無くなっていたのでそこが駐車スペースになっています。
<交通手段>JR紀三井寺駅から歩きましたが、先達の通りJR和歌山駅から和歌山バス和歌浦バス停が良いでしょう。

<感想>電車で和歌山ちょこ城巡り、写真消えた旅4城目。津屋公園から登り口があります。登り道の分岐を左左に行くと妙見山の石碑がある御堂にたどり着きここが城跡のようです。御堂のある曲輪は周囲が緑色片岩の石積みがありますが、遺構情報に石垣が無いので後世のものと思われます。南側に港の眺望が望めます。曲輪の北側は高い切岸になっていて、城跡だったことが北側から分かります。北側は尾根曲輪になっていて、近世に造られた緑色片岩の壁や消防塔が残っていますが、当時の尾根曲輪だったように思います。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

その実態は→ 「城好き」です。 (2024/10/14 訪問)

城キチだったり勇者だったり、その実態は→「城好き」です。まあ、その度合いにもよりますが。
特に勇気は無いです。「無理」と思ったら引く、「行ける」と思ったら行きます。熊出没注意の看板にしても、
「マジで熊多いよ!すっごく危険だよ!」と書いてあったら入らないと思います(笑)。正直、危険がゼロの山城は無いわけだし、いきなり熊が出るかもしれないし、落雷や滑落の危険もあるので、経験で危険を最小にしていくしかないですね。
豊橋に電気柵用のテスターはなかったです。そうだよね、獣害もないわけだし‥通販で買おうかな。タイガーのクイックテスタを検討中です。内部にマイナスの電極があるのでアースを設置する必要がない便利なタイプです。4段の柵だと地面までアースが届かない場合もあるのでアースレスは心強いです。
タイガーの担当者に聞いてみたところ‥「電気ジャーですか?」「いえ‥電気柵のテスターですが?」すみませんタイガー違いでした。
改めてタイガー株式会社の方に聞いたところ、いろいろ教えてくれました。基本的にどの電気柵にも対応しているけど、土の地面の上に立って計測する必要があるようです。仕事柄、たまに柵に触れることもあるようですが、すっごく痛いそうです。
それを聞いてクイックテスターが欲しくなりました。できれば痛いのは避けたいです。

高堂城は1.8kmのハイキングコースになっています。最初の0.6kmは林道になっていて4駆なら楽にいけそうですが、倒木があるので無理ですね。歩いたほうが無難です。何のための林道なんだか‥。しばらくいくと狼煙台があり大堀切が尾根を遮断しています。
そこからしばらくいくと変なキノコがありました(それはどうでも良い)。さらに行くと馬止場があって主郭に道が続いています。

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ぴーかる

秋月城 (2024/09/28 訪問)

【秋月城】
<駐車場他>駐車場はなし。隣の産直市場で買い物して駐車するのが良いでしょう。
<交通手段>JR和歌山駅から徒歩

<感想>電車で和歌山ちょこ城巡り、写真消えた旅3城目。太田城水攻めの堤から徒歩で来ました。ここはちょうど遺構は無くなって残っておらず、城跡碑すら無いので周辺を3枚程撮影し終了した。産直市場で梅干しを買いました。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

南美濃未踏の城探訪の帰路に寄りました (2024/10/14 訪問)

 休日で城山小が閉まっており残念だった駒野城探訪の後、南東に木曽三川公園経由約13.6km程の小木江城を目指し初探訪。

 駐車場:道の駅立田ふれあいの里の駐車場を利用。
 参考資料:城びと投稿の皆さん、グーグルマップに依る。

 グーグルマップを見ると道の駅立田ふれあいの里から鵜戸川を挟んで東隣接地に富岡神社・小木江城跡が在り道の駅活用が大変便利。
 津屋城跡探訪の後駐車場で携帯食(カロリーメイトと一口羊羹を探訪時携帯)を食べただけでしたので、探訪前に道の駅で遅めの昼食。
 観光案内所が有ったので覗いて情報・資料を漁り小木江城の情報はと探すが無し、近接の大野城(愛西市)勝幡城(稲沢市)セットのパンフレットを見つけましたので入手。

 駐車場から歩いて東へ約100m程鵜戸川に架かる森川橋を渡ってこんもりとした森に富岡神社・小木江城跡が在ります、現地では小木江城は古木江城跡と記されて、グーグルマップの史跡マークも古木江城跡を記されている。鵜戸川東岸の轍の付いた草道を通り南の鳥居から入城。石鳥居と左右に石灯籠が有り西脇に案内板と城名石碑が有るが二つとも「古木江城跡」と記してる。
 南の鳥居から北の石垣基壇の上に小振りな本拝殿が鎮座、お参りして周辺見学。

 案内板によると、元亀元年(1570年)織田信長が長島一向一揆勢力との対峙に弟信興に小木城を築かせ、同年11月大勢の一向一揆勢に囲まれ、6日間戦いましたが兵力が少なく城に攻め込まれ櫓に上がって自害(信長記)また城外で討死したと(地元伝聞)11月21日の事だそうです。このことも有りこの後長島一向一揆との戦いは苛烈を極めたのでしょう。

 小木江城周辺、道の駅立田ふれあいの里の都市公園と一体と成った整備事業が進んでいます、道の駅は拡張整備は来年春ごろ、東の蓮田は蓮田を含めて大きく広く整備されて再来年の春頃に完成するように案内がされて居ました。
 そのころには小木江城・富岡神社エリアも奇麗に整備されるのでしょうか?計画図には空白地になっていましたが?
 どうでしょうか?

 この後は湾岸弥富IC経由浜松へ、休日の事故渋滞で湾岸は混んでいました。
 
 

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しんちゃん

城キチだったり勇者だったり、その実態は?

イオさん、勇者なんて立派なものではないです。
城にいきたい気持ちの方が強くて、つい柵をツンツンしてしまうのです。高電圧低電流が一瞬流れるだけなので死にはしませんが、やはり痛いのは避けたいです。ゴム靴を履いていても流れるのは知りませんでした。柵用のテスター購入を考えるきっかけをいただいたイオさんに感謝しています。
ちなみに今、東海四県制圧を実行中です。あとは城びとに載せるだけの状態です。
そんなわけで、ちょっと鬼投稿が続いているのでご容赦願います。

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イオ

車両通行止 (2024/10/20 訪問)

ようやくの山城シーズン到来で、お城EXPOにあわせて米原の山城に行こう! ということで、朝イチでやってきました八講師城。標高486m、比高は310mありますが、林道を車で直下まで行けるらしいので、梓河内集落内の案内表示に従って林道の入口にさしかかると……車両通行止の立て看板とバリケードが! 道の真ん中でなく車一台分ほど右に寄せて置かれているし通っても良いのでは? とも思いましたが、勝手な解釈で突破するわけにもいかず、「車両」通行止ということは歩いてならOKなのか? とも思いましたが、片道5.5km(往復11km!)を歩く根性も時間もないので今回は断念…。土砂崩れだの路面崩落だのといった標示はなかったので一時的なものなんでしょうけど、一応 注意喚起まで。なお、柏原からの林道でも行けるようですが、未確認です。


ところで……通行止めといえば、先日は阪内城で電気柵に行く手を阻まれましたが、ストックで電気柵を突破する勇者現る!(笑) テスターは持ってない(使ったこともない)ですし、勇者ならざる小心者の私はおとなしく迂回路を検討することにします…。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)6日目:丸山城 (2024/09/27 訪問)

上林駅から徒歩10分くらいで、登り口標識(34.699699、136.161504)に着きました。

築城年代は定かではないようです。1578年(天正6年)北畠信雄は伊賀の領国化を図り、家臣の滝川三郎兵衛に丸山城の修築を命じたが、完成する前に伊賀国衆らによって攻められ落城しました。
その後、織田氏の大軍によって伊賀を制圧、三郡は信雄に与えられ、これによって信雄は家臣滝川三郎兵衛雄親に再び丸山城を築かせたと考えられているようです。

丸山城の主郭まで見学路が設けられています。
丸山城山頂主郭には一段小高く方形の土壇があり、この上に丸山城の石碑が建てられています。
主郭の西側面には横堀、北東側に虎口、南にも桝形虎口が見られます。
写真はたくさん撮りましたが、ピンボケ写真が多く投稿に耐えられません。よって、駅や電車の写真も投稿させていただきました。
攻城時間は35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず上林駅から松阪駅に向かい荷物をコインロッカーから取り出した後、奈良県の新王寺駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=25891歩、攻城距離=18.12Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)6日目:桜町中将城 (2024/09/27 訪問)

滝川氏城から徒歩5分くらいで、雑木林へ入る分岐点(34.654484、136.142317)に着きました。

1581年(天正9年)北畠信雄によって築かれたと云われています。
1581年(天正9年)第二次天正伊賀乱で柏原城に籠もった伊賀衆に対して、北畠信雄が桜町中将城を築いて在陣したそうです。

分厚い土塁と空堀が確認できます。虎口は南にありました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=丸山城を目指す為、美旗駅から電車で上林駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)6日目:滝川氏城 (2024/09/27 訪問)

美旗駅から徒歩20分くらいで、城址入口手前三叉路空スペース(34.655480、136.139947)に着きました。

1581年(天正9年)滝川雄利によって築かれたと云われています。
1581年(天正9年)第二次天正伊賀乱で、北畠信雄は桜町中将城に布陣したと云われていますが、その後も名張の拠点として滝川雄利が滝川氏城を築いたそうです。

滝川氏城の主郭はグラウンドとなっていて、結構広いです。周囲を土塁が巡っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=桜町中将城へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)6日目:名張城 (2024/09/27 訪問)

名張駅から徒歩5分ちょっとで、藤堂家邸門前(34.622160、136.091284)に着き、その後、移築太鼓門がある寿栄神社鳥居前(34.622254、136.090202)に向かいました。

1585年(天正13年)松倉勝重によって築かれた名張城が始まりとされています。 上野に転封となった筒井定次は家臣松倉勝重に8,000石を与え名張城を築かせました。
1587年(天正15年)松倉重政は家禄を捨て定次との主従関係を切り奈良興福寺成自院に入りました。これは酒食に溺れる定次を勝重・重政が父子が諌言したが聞き入れられなかった為ともいわれるが定かではないようです。
重政は後に豊臣秀吉、徳川家康に仕え肥前国島原60,000石を得ました。
1635年(寛永12年)伊予国今治から藤堂高吉が領地替えで名張に入り陣屋を築きました。
名張藤堂家は独立した大名とはなれず、伊勢国津の藩内領主という位置付けであったそうです。

現在の名張小学校・中学校一帯が城域だそうです。
名張小学校の向に藤堂家屋敷、その隣の寿栄神社に移築された太鼓門があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=滝川氏城を目指す為、名張駅から電車で美旗駅に向かいました。

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朝田 辰兵衛

【再訪】基肄城散策~水門エリアを~ (2024/07/08 訪問)

以前訪城した時は,水害の影響で水門エリアは立入禁止措置が取られていました。「いも」と「タマ」のある山頂エリアの散策でポチ。しかし,いずれは行きたかった水門エリアをようやく…です。

実は,昨年に計画していたのですが,大雨で断念しました。その時,筑後川以外にも九州全体に影響を及ぼす場所に気づきました。それは「鳥栖ジャンクション」です。九州を横断する高速道と,縦断する高速道のクロスポイントです。高速バスで大渋滞に巻き込まれ,その重要性に気づいたというワケです。まるで琵琶湖の水のよう…。
ということは,「翔んで埼玉」が佐賀にやってきた場合,(滋賀で「琵琶湖の水を止めるゾ」的な最終手段として)「鳥栖ジャンクション止めるゾ」が有効では…と思いました。九州の流通がほぼほぼマヒします。

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じゅんじん

佐原氏 (2024/05/03 訪問)

三浦氏一族佐原氏の本拠地です。山へは行きませんでした。

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六文銭

パーキング (2024/10/24 訪問)

天満宮前の遊具横のスペースに地元の人了解で車止めました。

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じゅんじん

三浦氏の居城 (2024/05/03 訪問)

衣笠は三浦氏推しです。

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じゅんじん

スワイチ前に (2024/04/27 訪問)

ロードバイクで諏訪湖走る前にいきました。

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じゅんじん

14年ぶり (2024/04/20 訪問)

模擬の公園内は中世のお城が眠っています。テニスなど鍛錬の場もあります。

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しんちゃん

エマシマシマシで! (2024/10/13 訪問)

江馬氏の支城をすべて落としたあとは、丸ハ〇カの江馬下館を攻めるのみ! 覚悟しな~(ポカッ)
いやいや、じっくり投稿させていただきます。
江馬下館のガイドさん、タダモンじゃないですぜ、なにせこの日の朝、攻めてきた土城に前日・仕事で行って来たらしいんですわ。
あの酷い城を攻めた二人が偶然この館で話をしている‥まさに国の史跡の引力のなせる業‥。しかも雅楽をたしなまれているらしく、中秋の名月の時には、ここで演奏をしていたとのこと。雅だ‥この人、雅(みやび)さんだ。素晴らしいですわ。
私は中秋の名月は猪苗代湖で見ました。前日の荒れ模様と打って変わって、素晴らしい景色でした。
さて、江馬下館のこの建物、客人を迎えるための会所ということです。庭石のうち、五つの石は昔からこの地に残されていたもののようです。枯山水の庭園の背後には本城である高原諏訪城や傘松城が借景として見えています。実に贅沢な眺めですね。傘松城からのほうからも下館はしっかり見えました。あなたが傘松城を見ている時、傘松城もあなたを見ているのです。
客人に対して江馬氏の武力をアピールする場でもあったようです。戦国時代でも無駄な戦を避けるに越したことはないですね。

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ぴーかる

太田城 (2024/09/28 訪問)

【太田城】
<駐車場他>来迎寺駐車場は未確認。
<交通手段>JR和歌山駅から徒歩

<感想>電車で和歌山ちょこ城巡り、写真消えた旅2城目。秀吉が紀州攻めの際に水攻めにした城です。来迎寺にまず行って、山門前に太田城の説明板があります。中の母屋か本堂前に大きな城跡碑があります。来迎寺の東隣に小山塚(水攻めの石碑)があり、⇒太田城毘沙門天(太田城から持ち出されて難を逃れここに祀った)⇒きのくに信用金庫出水支店の東隣にある水攻めの土塁、ここは南側の畑に行けば土塁の全景が撮れます。⇒Googleマップにある「紀州太田城水攻めの堤防」は<34.234722,135.200402>から遠目で見えます。太田小学校内部の北側、雨水ポンプ場の東横に柵越しに土塁が見えますのでこれもそうかと思います。
 そのまま一旦、秋月城まで歩いて訪城し、和歌山駅に戻り昼食(下記グルメ)⇒西方にある大立寺山門(伝・太田城の移築大門)を撮影し(消えましたけど…)終了しました。所々に遺構が少し残っていて歩いて巡りそこそこ楽しめました。

<満足度>◆◇◇
<グルメ>近鉄百貨店和歌山店B1にある「ラーメン清乃」で昼食をとりました。和歌山ラーメンの有名店は井手商店(私は行ったことある。いつも行列、裏に駐車場あります)です。

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