みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

todo94

万博翌日の攻城① (2025/05/11 訪問)

ゴールデンウイークで多くの皆さんは遊び疲れているだろうと、4連休明けの次の土曜日には、大阪・関西万博に行ってきました。西ゲートからの入場で10時の予約だったのに9:30には、場内に入ることができました。午前中に予約なしで、人気のイタリア館に入ることができたのは非常にラッキーだったと思います。日本館は13時の事前予約が取れていて12:50には入館できました。コモンズA、C、D、スペイン館、フランス館、ブルガリア館、タイ館、シンガポール館、アメリカ館と夜8時過ぎまで十分に万博を楽しむことができました。翌日は、おまけのようなものですが、折角ですので、近鉄南大阪線で恵我ノ荘駅にアクセスし、一津屋城に朝駆けです。厳島神社がその故地で社殿は墳丘の上に建っています。松原第七中学校のあたりにあった本城の出城とのことです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

妙見山城 鳥取県鳥取市 (2025/05/28 訪問)

仕事での所用を終え、近くの妙見山城へ立ち寄りました。
城びと未登録城です。
近くは集落になっていて駐車場はありません。

杉崎神社のあたりが曲輪の跡のようです。
さらに奥は竹藪ですが土塁のような地形もあります。
遺構なのかどうかは不明ですがそれらしい感じもします。

城主の秋里玄蕃允は秀吉の鳥取城攻めの際に吉川経家について鳥取城へ入城、妙見山城は廃城となりました。

【見どころ】
 ・杉崎神社周辺の曲輪跡

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:糟塚砦(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

赤坂陣屋の移築陣屋門(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で20分くらいで、龍徳院山門前(34.799046、137.366115)に着きました。

1562年(永禄5年)東三河統一を目指す松平元康が主に牧野氏の牛久保城や吉田城を攻略ための拠点として築いた砦で、小笠原新九郎長晟が城主として入っていました。
1564年(永禄7年)の吉田城攻めの際、家康はこの砦に陣を張っています。
その後、1586年(天正14年)に菟足神社神主であった川出宮内大輔良政が砦跡地に龍徳院を開いたと伝えられています。

糟塚砦は龍徳院の境内に築かれていました。龍徳院の北背後に土塁と空堀が残っているようですが、よくわかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=牟呂城(城びと未登録 愛知県豊橋市)へ自転車で向かう予定でしたが、太ももが悲鳴をあげているので、本日の城巡りは、ここをラストにしました。
歩行歩数=17236歩、歩行距離=12.1Kmですが、自転車での移動が50Km以上はあると思います。痛めた太ももで頑張りました。
本日の宿泊先に向かう前に、エコチャリ豊橋駅前通りで自転車を返却し、豊橋駅に寄って荷物をコインロッカーより取りだしてホテルに向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:赤坂陣屋の移築陣屋門(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

赤坂陣屋跡は名電赤坂駅方面にある為、攻城するとなると、時間が遅くなるので、移築陣屋門の見学のみすることにしました。
今川義元公墓所(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で25分ちょっとで、法雲寺山門前(34.833062、137.336089)に着きました。

1601年(慶長6年)から天領となった赤坂の地には遠江国中泉陣屋の出張陣屋として赤坂陣屋が設けられました。
以降、明治まで続いて三河県役所となりましたが、1872年(明治5年)に廃藩置県で廃止されました。

名電赤坂駅方面(豊川市赤坂町)の赤坂陣屋跡には遺構は残されていないようなので、移築陣屋門は遺構と云えば遺構です。
豊川市白鳥町の法雲寺に移築された陣屋の山門(薬医門)は、急用の場合等に注進の侍が早馬に乗ったまま通り抜けられるように普通の門より高くなっているそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=糟塚砦(城びと未登録 愛知県豊川市)に自転車で向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:一色城(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

瀬木城(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で10分くらいで、一色城土塁跡前(34.811652、137.385242)に着き、その後、牛頭山大聖寺入口(34.810861、137.384737)に向かいました。

一色時家は室町時代の足利氏の一族で、1439年(永享11年)に吉良の地よりここに来て一色城を築きます。
しかし、家臣の波多野全慶に討たれてしまい、その波多野全慶も同じ一色氏の家臣だった牧野古白に討たれてしまい、結局、一色城は牧野氏のものになります
その後、牧野古白は今橋城(後の吉田城の前身の城)を築いて移り、二男・成勝を城主にしました。この時から一色城は牛久保城(牛窪城)と改名されます。
牛頭山大聖寺は、かつての一色城の中にあります。つまり城の中にあった寺です。その一色城を築いたのが一色時家です。
牛頭山大聖寺にはその一色時家の墓も残されています。また、今川義元公の墓もあります。

この今川義元公の墓は、今川義元の胴体を埋めた胴塚(どうづか)と呼ばれるものです。
なぜここに今川義元の遺体を埋めた胴塚があるのか?話は桶狭間合戦にさかのぼります。
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に討たれました。
そして首は織田軍に持っていかれ、須ヶ口といところに晒されるのですが、戦場には胴体だけが残りました。
残兵たちは泣く泣く義元の胴体を駿河に連れ帰ろうとしますが、桶狭間合戦起こったのは旧暦の5月19日。現在の暦でいうと6月上旬くらいです。
当然、遺体は傷んでいきます…『とても駿河までお連れすることはできない…』そう考えた兵たちは、まだ今川氏の勢力圏だった東三河の大聖寺に遺体を埋めることにしました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=赤坂陣屋の移築陣屋門(城びと未登録 愛知県豊川市)へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:瀬木城(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

行明城(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で5分くらいで、説明板付近(34.813934、137.401723)に着きました。

1493年(明応2年)牧野成時(古白)が豊川右岸地域に勢力を拡大してゆく過程で牧野城に次ぎ築いた城です。
同年、成時は主人であった一色時家を討ち滅ぼして長山一色城を乗っ取った波多野全慶を灰塚野で討ち破り、一色城に移ると、牧野城には長男牧野能成、瀬木城には次男牧野成勝を置きました。
1505年(永正2年)成時は今橋城を築いて居城を移すと、成勝は一色城に移り、瀬木城は廃城となりました。

主郭は神明社の境内で西側に深い堀があり、虎口の鳥居の両端に幅のある土塁があります
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=今川義元公墓所(城びと未登録 愛知県豊川市)へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:行明城(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

勝山城(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で20分くらいで、羽衣の松付近(34.802763、137.401086)に着きました。
そこから、ガードレール側のこの場所(34.802328、137.401257)より土塁&堀跡の写真を撮りました。

築城年代は定かではないようですが、建久年間(1190~1199年)頃に星野荘の地頭であった星野日向守によって築かれたと云われています。
南北朝時代には星野行明なる人物が現れますが、星野日向守との関係、両者の実在性については不明な点が多いようです。

行明城は豊川と豊川放水路との間付近に築かれていました。 主要部は豊川放水路によって消滅していますが、豊川側の土手に近い宅地の裏側に土塁と堀の一部が現存しているようです。
城址近くには星野行明にまつわる伝説の羽衣の松、行っていませんが、星野氏の菩提寺である行明寺と星野氏の崇敬社である行明神社があるそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=瀬木城(城びと未登録 愛知県豊橋市)へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:勝山城(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

和田城(城びと未登録 愛知県豊橋市)から自転車で5分くらいで、三上7区集会所入口(34.819066、137.438207)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1333年(元弘3年)三河熊谷氏となる熊谷直鎮が足利尊氏の六波羅攻めに従って功を挙げ、八名郡の地を賜って築いたようです。
文明年間(1469~87年)には、熊谷重実が宇利荘に移住し宇利城を築いています。

三上七区集会所のところに石碑と案内板が設置されています。
川東公会堂の左側一帯が本丸、道を挟んだ右側一帯が二の丸であったとされます。また、本丸跡には井戸が残されているようですが、みつけられませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=行明城(城びと未登録 愛知県豊川市)へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:和田城(城びと未登録 愛知県豊橋市) (2025/05/15 訪問)

月ヶ谷城から自転車で10分くらいで、城址東の道路側(34.811714、137.438087)に着きました。

別名、嵯峨城ともいいます。築城年は定かではないようですが、南北朝時代に和田民部によって築かれたとされ、その後、永禄年間(1558~69年)に渡辺久左衛門、1570年(元亀元年)には息子の渡辺図書助浄,渡辺山城守茂も居城したとされます。
当初は不明ですが、最終的には松平氏(徳川氏)に付き、図書助の子孫は旗本になったそうです。

和田城(豊橋市)は馬越川に面した段丘端に築かれており、春興寺の東側一帯となっています。
主郭は現在は竹林と化しています。主郭西側には土塁とその外側に空堀(横堀)が残されています。
なお、春興院は戦国時代に和田城主・渡辺氏が菩提寺として創建した寺です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=勝山城(城びと未登録 愛知県豊川市)へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シェル

小金牧を管理する陣屋 (2024/06/26 訪問)

 最寄り駅はJR武蔵野線 新八柱駅または京成松戸線(新京成線)八柱駅です。駅から徒歩5分ほどの門前公園のところに説明板が設置されています。説明板によると、江戸時代に幕府によってつくられた小金牧(馬の牧場)を管理する陣屋だったようです。
 門前公園の北西側の八柱さくら通りの歩道沿いにも、金ヶ作陣屋の標柱が立っています。
 陣屋跡周辺には、松戸市立博物館があります。この博物館では、松戸市の小金城の模型や常盤平団地の実物大模型、野外に実物大の竪穴住居などが展示されています。かなり見ごたえたっぷりの博物館なので、金ケ作陣屋とセットで見学してみてください。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シェル

常陸国の里見氏 (2024/06/11 訪問)

 JR友部駅から東に徒歩約30分で到着。小原城は、房総の里見氏発祥の城として知られています。
 里見氏は鎌倉公方に奉公衆として仕えており、里見家基は鎌倉公方足利持氏に小原を与えられます。この際、小原には家基の弟の満俊が入ります。永享の乱または結城合戦で家基が亡くなると、家基の子とされる里見義実は安房に渡り、のちに安房里見氏として房総半島で勢力を拡大していきます。一方で家基の弟 満俊の家系は小原に残り、代々、小原城主を務めたようです。
 城跡は、小原地区一帯に広がり、公民館と御城稲荷神社付近が本丸跡です。本丸跡は土塁が良好に残っています。また土塁そばのゲートボール場は、かつて水堀だったようで、平成の始めまで残っていたようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

島津義弘の城館跡 (2025/05/08 訪問)

文禄3~4年(1594~5)に行われた太閤検地の後、帖佐は島津義弘に与えられ、義弘は文禄4年に居城を栗野松尾城から帖佐へと移しました。現在、城館跡には稲荷神社が建ち、当時の物と見られる石垣が残っています。東側が大手とされ大手門跡が残っています。
義弘は慶長10年(1605)に平松城へと移り、帖佐の地は江戸時代には麓(外城)の一つになりました。帖佐館の南250mにある帖佐小学校の地に帖佐郷の地頭仮屋が置かれ、当地の行政の中心となりました。別府川沿いの納屋町には藩の御用蔵が置かれ、物流の拠点として栄え、帖佐麓は船の出入りで賑わったとのことです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ナマズ

新しく公開された豊臣時代の石が (2025/05/27 訪問)

時間があったので最近開館した豊臣石垣館に行ってきました
大阪の陣の戦果の跡や福智山城や大和郡山城で
いっぱい見た転用石を見
充実した一日になりました

帰り開館記念の御城印?も買い満足気に帰宅しました

+ 続きを読む

しんちゃん

困った・・ (2025/05/08 訪問)

自分のPCはWin7なんだけど、ここ数日「城びと」サイトとの反応が良くない。「いいね」がつけられないし、グーグルマップとの連携が全くできない。ほかにもいろいろ・・。さすがに7にはもう対応していないんだろうか? こないだまで問題なかったんだけど。

国分城は慶長9年(1604)島津義久によって築かれました。この城に移る前に義久が居住していたのが富隈城で、国分城はより大隅国との国境に近い位置にあるようです。裏山にある「隼人城」は国分城の詰の城としての役割も担っていたとされ、現在は城山公園として整備されています。
国分城の跡地には霧島市立国分小学校が建てられ、周囲には石垣と堀が残されています。また堀沿いに旧南門とされる「朱門」が再移築されています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

粟住山城 (2025/03/30 訪問)

【粟住山城】
<駐車場他>登城口前に平地があり停めれます。
<交通手段>車

<見所>眺望
<感想>日帰り尼子十砦旅ラスト5城目。この城は尼子の城ではないようです。現地説明板によると粟住山城は築城年代、城主とも不明で江戸時代初期に津山城築城に際して粟住矢倉という人物がこの山から建材を持ち出したことから粟住という地名がついたといわれています。中世のお城ということは間違いなさそうなので、結局は当時の城名も城主も不明ということでしょう。
 車で城跡まで向かう途中で山頂に1本松が残る山が見えるので、あの山が粟住山城跡だとすぐ分かります。登城口から主郭までは目立った遺構は見受けられません。1箇所だけ土塁堡塁のような場所があります。主郭の南側に薄い堀切があり主郭に入ります。主郭は山頂部分を水平に切り取ったような広い曲輪で土居はありません。副郭との間や側面に竪堀があるようですが灌木が茂って現在は表面観察では分かりません。主郭の北側に堀切があり副郭があります。私の腰上あたりまで灌木が茂っているので散策は不可です。副郭の北端から切岸を降りる踏み跡がありますが、急斜面で尻もちつきそうで降りるの止め、ここまでとしました。北側には曲輪が連段となっているようです。ロープか何か持参するといいでしょう。

 これにて日帰り旅終了。この日は往路が雨で、城跡に登り始めると雪が降って、下山して次に向かう移動は晴れて、次の城跡に着いたらまた降雪のタイミングで運が悪かった。船上山城も予定していましたが積雪で通行止めで、あとからでしたが尼子十砦制覇ならずで散々でしたが、気持ちを切り替え、今回は怪我無く城攻めができて、のちの楽しみが増えたと思います。走行距離662㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

しとどの窟 (2025/06/07 訪問)

湯河原駅からタクシーでバス停までアクセス🚕
バスは廃線になったらしい
レンタサイクルはあるけど…山道の勾配がキツいし車の邪魔になってしまうと思われるからやめたほうがいい

バス停には数台のバイクが止めてある。ライダーにとってここはそこそこ名所なのか?自動二輪の免許持ってる方はバイクもあり🏍️

トイレはバス停付近にあるだけ🚻しかもかなりボロくて虫がブンブン飛んでる。水道は蛇口から水が出るだけで石鹸は無し

トンネルを抜けて…地蔵がたくさんある場所を過ぎて…下り坂を進む…道の両側には灯籠や地蔵が並ぶ

矢印板を過ぎると待ってるのは上り階段…それを上りきると…窟が目の前に

かつてここは…もっと入口が狭くて…身を隠すのに適していたが…関東大震災で崩落…今の丸見えな窟になったそう

今でさえ…ここまで来るのに一苦労な場所😓
あの頃(治承四年)はおそらく今よりも道が整備されてない分、もっと大変だったはず

「(権力を独占して威張り腐ってる)平家を倒せ✊」という以仁王…つまり朝廷からの綸旨を受けて…流刑先の伊豆で挙兵した源頼朝

しかし平家側の軍勢は圧倒的…多勢に無勢で…石橋山の戦いに敗れた頼朝は…敗走して足柄の山奥にあるこの窟に…家臣と身を潜めた

「ここまで来れば…見つかるまい☺️」「こんな辺鄙で山奥…とても人の住むような場所じゃないところまで…」と

しかし…平家にとって頼朝は…宿敵源氏の神輿的存在…負けて散り散りになってるとは言え…生かしておけばいつまた反乱分子に担がれるか分からない…おまけにあの時…20年前に平治の乱で(まだ子供…かつ平清盛の母が「タヒんでしまった自分の息子にそっくりだから」と助命嘆願した理由で…)処刑せずに伊豆に流罪で許してやったのに…

今度こそ…◯す💀

平家側は…ネズミ一匹逃さないスタンスで…隈なく一帯を探した…何としても頼朝の息の根を止める💀そして平家側の武将…梶原景時が…頼朝一行が窟に隠れてるところを…みぃーちゃったーのである

しかしその時…景時の頭に…一つの考えがよぎった

「こいつ(頼朝)を引き渡せば褒美が多少もらえて…こいつはほぼ間違いなく◯刑だろう」「でもそれでいいのか景時?そうなれば平家一門がのさばり…平家じゃなければ人間じゃないという空気の世の中に逆戻りだぜ」

「おまけにあいつら(平家)…おれたち関東の武士を蔑ろにして…天皇家と婚姻関係結んで…朝廷とばかり仲良しこよししてやがる」「あれはおれたちが望んだ世の中じゃない…我らが求めてるのは…独立した武士の政権…武士の求めてるものを理解し、その利益を代表してくれる存在だ…」

「そうと分かればこいつ…生かしておいたほうが…これから先…面白くなるんじゃね😆😁😏」

こうして頼朝は命拾いし…窟から(真鶴半島にある)船出の浜まで移動…小舟一艘で上総国(千葉県)まで渡るという離れ業をやってのけて…一定数の武士を味方に引き入れて…源氏の拠点である鎌倉に凱旋した

戦いにボロ負けして味方は数騎になり…普通ならこんな負け馬には乗りたくないというのが…人間の心情(かと思います)

けれど敗走中に…どんどん味方が集まって…勢力を盛り返す事ができるとは…どれだけ平家の政治に不満を持つ人間が多かったか…という何よりの証拠なのでしょう🤔

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

島津義久の隠居城 (2025/05/08 訪問)

富隈城は島津16代義久によって築かれました。東西約150m、南北約250mの方形の城館で、南側にNHKの無線中継施設があり、その北側が駐車場とゲートボール場、残りの部分が富隈稲荷神社と見張り台の様な小山という一風変わった構造となっています。
豊臣秀吉の九州平定後の文禄3年(1594)の検地の結果、義久は内城を去らざるを得なくなり、文禄4年(1595)~慶長9年(1604)までの10年間をここで過ごしたとされています。こののち義久は国分に国分城を築いて移っていきました。
野面積の石垣に肥後八代の刻印が見られることから、種山石工の手によるものとされています。東南隅の道路脇の巨石は加藤清正の寄進石とされ、肥後国産と見られています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

5つの曲輪で構成されています✋ (2025/06/07 訪問)

「大館」「西館」「新城館」「北館」「八幡館」で浄法寺城。当時にもスーパー戦隊らしき猛者ユニットが存在していたら面白いかな…と,勝手に想像を膨らませて散策しました。
「八幡館」はレッド格かな…。令和のビジュアルでは,残りは全てグリーン格(色味が…<笑>)。「西館」はブルー格(南側に寺があるので)。「大館」はイエロー格。「新城館」はピンク格。「北館」はグリーン格。と,勝手に格付けして楽しみました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

たか

石倉城の次に行ってみた (2025/06/07 訪問)

御城印のイベントの為、前橋に行った際に石倉城から厩橋城へ行ってきました。
大きな中央大橋を渡りまずは東照宮へ。
非常に煌びやかでとても素晴らしくまずは手を合わせてからいざ攻城。

県庁の部分が本丸だと思っていたら違ったのですね。
立派な土塁が残っておりしっかりと堪能ができました。
先程書いた通りイベントがあったせいか何人か来ていたのでなんだか嬉しい気分になりました。
関東の華素敵でした。
帰りに前橋駅で御城印を買って帰ろうと思ったらすごい種類があって選ぶのもできずに全部買ってしまいました。
今月は節約しないとです(笑)

新前橋駅から石倉城、前橋城に行って前橋駅まで歩くと約2万歩でした。

余談ですがスマホのナビで前橋城と入れて行くとなぜか県庁も越えたところにマークがあります。
なんでだろうと帰りに見たら「前橋城」というラーメン屋さんだった。
お城に対する愛情なのかと思ったらなんだかほっこりしてしまいました。
開いてなかったので残念ではありますが口コミ見ると美味しくて混んでいると書かれていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

たか

遺構は見当たらない (2025/06/07 訪問)

御城印のイベントに参加するついでに攻城してきました。
新前橋駅から歩くと20分くらいはゆうにかかります。
他の方が書かれている通り二の丸公園に城址跡の碑と説明板があるだけで遺構は見当たりません。
ここを武田信玄など名だたる武将が争ったというとなんだかワクワクした気持ちになりました。

+ 続きを読む

ページ28