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しんちゃん

天神山陣所の北の遺構 (2025/09/15 訪問)

天神山陣地の二つ目の郭の北の坂を下って行くと医王寺の方へ道が続いている。天神山周辺には遺構が無いとされていて、このまま医王寺に向かうのが通常のルートのようだ。
でも、それじゃつまらん。せっかく城めぐりをしているのに普通の人達と同じ考え方で、同じようなコースで城めぐりをしていてどうする。俺はAIじゃないんだ、他人と同じなどまっぴら御免ですわ。
そんなわけで尾根沿いに北上していくと、堀跡らしいものがある。その上には尾根を削って簡易的な郭を作った陣地がある。こんなの関ヶ原の山の中で見たことがあるなあ・・また変なものを見つけてしまったのか?
ピンクリボンが有るし、知る人は知るスポットなのかもしれない。尾根を削って陣地を作るのは合理的。そもそもこの医王寺という寺はとんでもない天然の要害の場所にある。周囲の沢を内堀とし、周辺の尾根や丘陵を陣所としている。大通寺山陣地の配置を見ると、周辺の丘陵も陣所かもしれない。さらに西側の尾根を天然の土塁として、郭も複数設けてある。
急ごしらえとはいえ、医王寺を中心としたれっきとした土の城に見える。
勝頼のプランとしては高所よりこの巨大な土の城郭で長篠城に圧力を加え、早期の降伏を引き出そうとしていたのではなかろうか。周囲の五つの砦からも圧力がかかり、長篠城兵のプレッシャーは相当のものだっただろう。それがまさか、スネーモンのあの一声でひっくり返されてしまうとは・・勝頼くんもツキが無い。

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しんちゃん

天神山陣地・医王寺山陣地の西の守り (2025/08/15 訪問)

天神山陣地は武田勝頼の陣所とされる医王寺の南側にあります。荏柄天神社のある丘陵が其れとされ、頂部に小さな扁平地があります。地形図を見れば医王寺を守るように西側に尾根と沢があります。尾根は北上して東に回り込み標高172mのピークに続きます。
おそらくこの最高所は物見で、より高い場所から織田・徳川の援軍を見張っていたのでしょう。メチャくちゃ暑いのでそこまで行きませんが、まずは尾根に沿って北上すると、道が続いていてベンチのある郭に着きました。ここまでは尾根を利用して勝頼の陣所を守っているのだと想定できます。

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しんちゃん

野口氏・川野辺氏 (2025/01/06 訪問)

あれっ? いつのまにか「赤色立体かるた」が終わってる。第二弾、期待してます。
案内板によると、正暦2年(991)に藤原秀郷の子孫道直が築城し、川野辺・那須の二郡を領して川野辺太夫と称し、その後川野辺氏の城館として南北朝の頃まで続いたとのこと。
応永元年(1394)太田より佐竹景義が城主として入り野口氏を名乗りましたが、天文9年に野口幹成が佐竹義篤に叛き討死すると幹成の家臣・野口四天王(どんなメンツ?)は義篤に下り、野口城は廃城になったようです。
城址は畑とソーラーになっていました。北に二重の空堀があるようですが、藪が酷くて良く見えない。

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亀ヶ頭

大阪城に行って来ました! (2025/09/06 訪問)

大阪城に行って来ました!大阪に来たのは16年ぶりだったので久々の大阪は楽しかったです。大阪城は迫力ありました

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【お礼】赤色立体地図お城かるた読み札、締め切りました! (2025/09/19 訪問)

いつも城びとをご愛顧いただき、誠にありがとうございます。
赤色立体地図お城かるたの読み札フレーズ、募集を締め切りました。
候補のお城が途中で変わり、ご迷惑をおかけしてしまいましたが、
おかげさまでたくさんのフレーズが集まりました!
心よりお礼申し上げます。

ざざっと拝見しただけでも、ふふっと思わず笑ってしまうものから、うーんうまい!と思わず唸ってしまうものまで、
本当に粒ぞろいの作品ばかりです。
これからの選定作業が楽しみですが、選びきれず困り果てる未来も見えたり……。

まだまだ先は長いですが、かるたの完成まで、どうぞみなさまお見守りください!

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にのまる

お城かるたプロジェクト

駆け込みでしたが全て投稿できてほっとしています。
50城のうち行っていない8城に行く!という新しい目標もできました🙌
朝田さん。中城城は最初のだと中の句と繋がらないなぁと思ったので締切直前に直しました。
かるた実現はクラファンのようですねー!
今年こそは一発で!!

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西光寺丸城 (2025/09/13 訪問)

 木ノ芽峠を東から臨む、木の芽峠城から東へ200mほど行くと西光寺丸城に至ります。送電線鉄塔保守用に草木が切り払われて、夏場にもかかわらず問題なく進めます。舗装道路からの登り口もあり、道路わきに標識があります。
 木ノ芽峠城群の中では一番新しく、織田氏が朝倉氏を攻める際に備えて築城したとのこと。どうりでしっかり横堀もあります。織田氏が朝倉氏を滅ぼした後、越前一向一揆が織田軍を追い出し、木ノ芽峠城群に依りました。そのさいに西光寺五代真教の一統が立て籠もったことから西光寺丸城と言われています。木ノ芽峠城の出城的に東に続く尾根を守る位置づけのため、木ノ芽峠城側にはあまり防御はありません。
 木ノ芽峠へ引き返し、峠の西側の観音丸城へ向かいます。

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トク

【宮本武蔵】(9)中津城(九州の関ケ原(前編)) (2025/07/11 訪問)

宮本武蔵の続き(9)です。

2年ぶりに中津城へ行ってきました(写真①②③)。すると何とビックリ😱!

内部は華やかにリニューアルされていました。入口には綺麗な花が咲き、趣深い庭園になっていました。そして城の内部はトロピカルなムードが漂うような緑に飾られていました。夏だからでしょうか?(写真④⑤⑥)。でもそのせいか入場料が400→1000円に値上げされていたのには、ちょっと引いてしまいましたが(笑)。ここは公営ではなく、奥平氏の子孫が経営する城なので、値上げはしょうがないのかな? その代わり今回は奥平資料館だけでなく、入口にある黒田官兵衛資料館の方もじっくりと見学させて頂きました(写真⑧)。

姫路城で妖怪退治の終わったたけぞうは、父の無二斎が黒田官兵衛に仕えるため中津へ行くのでおそらく同行し、そこから九州の関ケ原へ出陣したと思われます。

秀吉が中国地方を制圧すると、竹山城は宇喜多秀家の領地となります。ここで関ケ原の前年の1599年、竹山城主の新免貞重は家督を子の宗貫に譲り、宗貫も宇喜多秀家に従ったため、無二斎は宗貫には従わず(宇喜多を好まず)離反したのではないでしょうか。秀吉が死ぬと、宇喜多家では家臣の内乱が起き、多くの家臣が離反したと伝わっています。無二斎もその流れの一人だったのかもしれません。宇喜多秀家もその穴埋めとして、家老の明石全登に命じて急遽浪人をたくさん雇い、その軍勢で関ケ原へ行ったので、一枚岩ではなかったようです。この内乱がなければ福島正則や井伊直政に簡単に敗れる事もなかったかもしれませんね(ネバたらですが)。

無二斎は中津で、黒田官兵衛が兵を集めている事を知ります。黒田の精鋭部隊は、この時ほとんどが長政とともに岐阜の関ケ原へ行っていました。官兵衛はある野望をいだき、中津にある金蔵の金銭を全て使って諸国から浪人を集め、独自に戦の準備をしていたのです(写真⑩)。

吉川氏の小説やドラマでは、たけぞう(武蔵)は宇喜多秀家に従い西軍として岐阜の関ケ原にいた事になっています。しかし黒田家に残る資料の中から、当時中津から出陣した者の名簿が発見され、そこに新免無二の名がある事から、父の無二斎がここにいた事は間違えないようです。

秀吉の中国攻めの時、新免貞重は竹山城をいち早く黒田官兵衛に差出し、官兵衛とともに利神城攻めに加わっています。その時に家老の無二斎は官兵衛と面識ができ、その縁あって浪人となった無二斎はたけぞう(武蔵)を誘い、官兵衛を頼って中津へ行ったものと推測します。

そして1600年9月9日、九州の関ケ原が始まります。熊本島田美術館に残る武州伝来記には、たけぞうは黒田軍として、安岐城(あき)・富来城(とみく)の戦いに参陣していたと記されています。そして富来城では、たけぞうが負傷したという逸話が残されているようです。

次は、その痕跡を探しに(富来城)を訪れます。
 

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イオ

とことん?松山城(本壇) (2025/05/17 訪問)

(続き)

天守群を見上げつつ、券売所から本壇に入ります。左に小天守、右に一ノ門南櫓を従えた大天守は松山城の定番ショット(城びとの松山城の写真もそうですね)。ついに目にすることができました。一ノ門を抜けた先は二ノ門との間の枡形、三ノ門を抜けた先は筋金門との間の枡形になっていて、それぞれ小天守や大天守から狙われているのを感じます。筋金門をくぐると四方を連立式天守群に囲まれた枡形が広がり、ここまで何とかたどり着けたとしても、ここで殲滅されるのは間違いなさそうです。

天守群に入城する前にもう少し本壇を探索します。内門を出た先は仕切門との間の枡形になっていて、内門と玄関多門櫓から狙われています。二ノ門から三ノ門に向かっても仕切門に向かっても枡形が待ち受けているわけですね。仕切門の外、本壇北東隅には天神櫓が復元されています。菅原道真を祖と仰ぐ久松松平氏が鬼門の守りとして祀ったものなんだとか。

さて、天神櫓で引き返して天守枡形に戻ると、いよいよ天守群に入城です(続く)。

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ぷあー

遠くから眺める (2025/09/18 訪問)

時間がなくて、
楽市から眺めただけ。

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しんちゃん

大通寺山陣地 「盃井戸」決別の水盃 (2025/09/15 訪問)

長篠城と医王寺の間の丘陵に達磨山大通寺はあります。創建は応永18年(1411)とされ長篠城の本丸を見下ろす位置に有り、北背後の丘に馬場信房、武田信豊(信繁の子)、小山田昌行の三将が陣を張った大通寺山陣地があります。なかなかの広さは有りますが、土塁などの遺構は見当たりません。
本堂の東裏手に「盃井戸」があり、案内板もあります。医王山本陣で軍議を終えた後、決戦回避を主張して受け入れられなかった信房は死を覚悟し、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らを自らの陣所に招き、泉の水を馬柄杓で汲み寄せて別れの水盃を酌み交わしたとされています。

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朝田 辰兵衛

2023年11月に主郭の秋葉社の変更アリ❢ (2025/09/14 訪問)

2023年11月に主郭の秋葉社が,祠化されていました。東屋のような建物も撤去。合わせて,朽ちていた「比志の城山」の標柱,立てかけてあった古木も撤去されていました。一瞬,景色が変わってしまったように思いました。
ただ,東郭付近から眺望する主郭までの曲線ラインは変わっておりません。このラインが見どころだと思います。
登城口は,古城盛衰記さんが攻城されていたポイントより,約30m山側から入りました。古城盛衰記さんが攻城されていたポイントは,もはや草木が鬱蒼と生い茂り,とても危険と判断しました。
アクセスは,韮崎駅前ニコリから電動レンタサイクル利用で。新府城攻城以来の利用です。当時と比べるとスペックが上がっており,とても驚きました。下り坂でペダルをこいでいない時は,バッテリーが簡易充電されます。往路はグイグイとバッテリー残量が減っていきましたが,復路ではほとんど減らず。これでさらに標高の高い源太ヶ城攻城にも使えるメドが立ちました。

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しんちゃん

長篠城・馬場信房公の墓 (2025/09/15 訪問)

長篠城の本丸には長篠城を取り囲む武田軍の五つの砦の案内板があります。長篠・設楽が原周辺は昔、ひとしきり訪問したことがあります。長篠城の包囲戦から設楽原の合戦の遺構を合わせるとかなりの数になります。せっかっくなので、周れるだけ周ってみようかな・・暑いけど。本丸の北側に二の丸跡、西手に弾正郭があります。弾正郭は私有地の様なので、少し近づいてから引き返しました。近くには鳥居強右衛門の「「呼びかけ」の伝承地」の案内板があります。武田軍と豊川の対岸から呼びかけていたのかと思いきや、こんな本丸の近くまで来ていたのか。武田軍も長篠城を落とすまで、あと一息という所だったようだ。
鳥居強右衛門が「援軍は来る!」と言わずに開城していたら歴史はどう変わっていたのだろうか?

長篠城の西側にほどなく行ったところに馬場美濃守信房(信春)の慰霊碑があります。信房の墓と思っていたが慰霊碑だったのか。遺骸は設楽の資料館の信玄塚の下に眠っているのだろうか? それとも・・?

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しんちゃん

城址碑 (2024/12/31 訪問)

武熊城は延文年間(1356~61)に大掾氏の一族である石河望幹によって築かれたとされています。後に江戸氏が水戸城に入ると江戸道重が入り武熊氏を名乗りました。天正18年(1590)佐竹氏が江戸氏を滅ぼすと、翌年には佐竹氏の重臣・東義久が入りました。慶長7年(1602)佐竹氏が出羽秋田へ移封になると水戸徳川家に受け継がれ、慶安4年(1651)に千派湖の干拓を行った際に武熊城も廃城になりました。

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張陳

鐙坂側の見栄えだけではない (2025/08/11 訪問)

本丸にある天守ー多門櫓ー二重櫓の配置が特徴的で、建物こそないものの、案内板や舗装をヒントに当時の姿を想像すると良いと思います。
また、天守台の石垣やその対面の石垣は堀底側から見られるのでお見逃しなく。
本丸の枡形の石垣も、少し改変されているのですが、多めに残っていますので、どのような形の枡形だったのかを想像するのが面白かったです。

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イオ

とことん?松山城(東雲口~本丸) (2025/05/17 訪問)

関ケ原の戦いの功により伊予国20万国を与えられた加藤嘉明が築いた城で、勝山の頂部に本丸、南西麓に二之丸と三之丸を配し、日本三大平山城に数えられています。加藤嘉明の会津転封により入城した蒲生忠知が無嗣断絶となると、大洲藩預かりを経て松平定行が入り、久松松平氏が16代続いて明治を迎えました。

地元のとある集まりの旅行で湯築城(と道後温泉)に行った後は松山城にも。大手道を登っていきたいところでしたが、城好きでもない他の面々を歩かせるのも申し訳ないので、東雲口からロープウェイでの登城です。山上の長者ケ平は東側への備えとして設けられた曲輪ですが、ロープウェイ・リフトの駅と駅前の広場として整備され遺構は見られません。

長者ケ平から少し行くと、目の前に聳える本丸石垣! 立ち止まって惚れ惚れと見上げる私を置いて一行はどんどん進んで行きます。お前ら…この素晴らしい高石垣を見て何とも思わんのか!? 急いで後を追い、太鼓櫓の扇の勾配の石垣を横目に戸無門をくぐったところで振り返ると、戸無門の向こうに太鼓櫓、さらに奥には小天守と南隅櫓が覗いています。筒井門で待ってくれていたので、先行して筒井門を抜け、隠門から背後に回り込んで驚かせるなど、隠門の仕掛けを体感しました。

太鼓門を抜けると本丸北側の本壇まで本丸広場が続いています。売店前の井戸は深さ44.2mにも及び、築城時に本丸の谷部を井戸として残して埋め立てたものなんだとか。本丸西辺の石垣は屏風折れになっていて、復元された馬具櫓越しに本壇の天守群から搦手側の乾門、乾櫓が見渡せます。本丸広場を北に進むと本壇の天守群が近付いてきました(続く)。
 

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赤い城

犬千代ルート (2025/08/08 訪問)

日比津城からの転戦で東山線の高畑駅から徒歩で7分くらい。
権現公園や隣接する富士大権現天満天神宮のあたりが城跡です。
周囲は住宅地で遺構は残りません。
ただ、公園は周囲より一段高くなっていてなんとなく城を感じます。
天神宮の境内には前田利家生誕地の大きな石碑があります。
生誕地は諸説あるようですが・・・。

城跡周辺には犬千代ロードのタイルがあります。
これに沿って荒子観音へ足を伸ばしました。
本堂は前田利家が再建したとされています。
早朝なので開門前、塀の外からのお参りになりました。

そろそろ戻らないと、と帰りはあおなみ線の荒子駅から。
ここの駅前には利家の銅像があります。
まさに犬千代ロードでした。

【見どころ】
 ・前田利家生誕地の石碑
 ・利家を想像して歩く犬千代ルート

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しんちゃん

不忍の滝 (2025/09/15 訪問)

もっくる新城で「熊カレー」を食って長篠城に来ました。私「城キチ」なので3か月以上、城攻めをしていないと死ぬんですよ。いや、まじで体調を崩しかけて来たので無理やり出てきました。おかげで少し調子が戻って来てます。
残暑が厳しい・・というかめっちゃ暑い。残暑ってレベルじゃなく普通に暑い。やはり残暑は10月なのか・・秋はどこじゃ?
今まで気づかなかったけど本丸から滝が見える。不忍の滝と言うのだが本丸から滝が見えるとはなかなか乙な眺めだ。麓の沢は「矢沢」といって医王寺から流れてきているらしい。
本丸には鳥居強右衛門の標識が複数立っている、大河ドラマにも出ていたし(太り過ぎ)、大分の中津城にも展示があったし、豊川の赤塚山公園にも顕彰碑が立っていたりする。すっかりヒーローじゃん。でも実際は毛もじゃのオッサンですぞ・・赤いし

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しんちゃん

今川城 慶寿寺 (2021/02/23 訪問)

静岡県島田市の慶寿寺は1345年(貞和元年)に今川範氏が京都・泉涌寺から南江和尚を招いて開山したとされています。境内には範氏公の墓があり、なぜか赤穂浪人の大野九郎兵衛の墓があります。大野は討ち入りに参加しなかった為「仮名手本忠臣蔵」では悪役扱いをうけているようです。
慶寿寺の本堂の裏手の山の入り口には「今川城址」の標柱が立っています。遮るものもないし、お邪魔させていただきました。堀らしきものと複数の郭が見られますが土塁などは無かったと思います。最高所は古墳のようになっていたと当時のメモには記載があります。見張台のようなものだったのかな? まあいたってシンプルな造りのようです。武田軍に改造されたら、どんなふうになっていたのかな?

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2014/01/09 訪問)

「清正さん 熊本護る 浄池廟(せいしょうさん くまもとまもる じょうちびょう)」

加藤清正公が葬られた浄池廟は熊本城の天守閣と同じくらいの高さとされています。

「熊本城 廟から見守る 清正さん(くまもとじょう びょうからみまもる せいしょうさん)」
細川家の城になっても清正さんは熊本の守り神ですぞ 尾張出身ですぞ

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