【宮本武蔵】(13)小倉城(巌流島の決闘(後編))
(2025/06/18 訪問)
宮本武蔵の続き(13)です。
決闘は関門海峡に浮かぶ「船島」で行われました。門司城代の沼田延元が見聞役を務めます。そして両者に助太刀話は無用、1対1の決闘で行うべし、とされたようです。そこで皆さんが知っている巌流島の決闘は、こんなイメージではないでしょうか?
----(今までの通説)----
小倉藩の剣術指南役である小次郎に、武蔵はどちらが強いのか決闘を申しみ、関門海峡に浮かぶ巌流島で決闘をした。小次郎は長い90cmの刀の使い手、故に武蔵は当日、船の上で櫂を削ってそれより長い115cm木刀を作り、そのせいで2時間も遅刻する。いらだった小次郎は「遅いぞ武蔵、臆したか!」と叫び鞘を投げる。それを見た武蔵は「小次郎、負れたり!」と叫び、燕返しをかわし、一刀両断の元に小次郎の額に一撃を加え、これで小次郎は死して決着がついた!
----------------------------
しかしこれは吉川英二さんの小説(創作)によるもので、それをまたドラマでおもしろく脚色された内容なので、事実とは全く異なるようです。
この時見聞をしていた沼田延元の家臣の記録(沼田家記)によると、両者はちゃんと遅れず定刻(同時)に着いたそうです。そして武蔵は、最初から持ってきた木刀で一刀両断のもとに勝ち、すぐその場を立ち去ったのは間違えないようです。しかし武蔵はこの時、小次郎にはまだ息があったと事を確かめ、延元に手当てを依頼して去って行きました。木刀なので武蔵は最初から小次郎を殺す気など全く無かったと思われます。ところがその後、隠れていた新免氏の弟子たちが出てきて、何とボコボコに殴って殺してしまったというのです。
どうやら弟子たちは無二斎から「絶対に小次郎を殺せ」と命じられていたのではないでしょうか? 延元も興長の密命を受けていたのか、手当てをするどころかこの弟子たちの行為を黙認したと思われます。
さらにそれだけではありません。後でそれを聞いた小次郎(岩流)の弟子たちが今度は黙っているわけがありません。1対1と決まっていたにもかかわらず、弟子に助太刀をさせた卑怯な武蔵を襲って仇を討とうとします。危険を察した武蔵は沼田延元の屋敷に隠れます。そして細川家家老の松井興長が、自らの鉄砲隊を護衛に付け、武蔵を無二斎のいる中津まで送り届けたそうです。さすがの岩流一族でも、細川軍の鉄砲隊が相手では手が出せなかったというわけですね。
しかしこの結末に地元の人たちの反応は意外でした。武蔵を卑怯者と呼び、正々堂々と決闘をした小次郎の方を称賛し偲んだそうです。そして船島を小次郎の流派「岩流(巌流)」にちなみ「岩流島(巌流島)」と名付け、人々は亡き小次郎をここで供養したそうです。
小倉城では、武蔵が木刀を振り下ろす様子が人形で再現されています。さああなたも小倉城を訪れ、武蔵と勝負してみてはいかがでしょうか!
「城びと、負れたり~!」😱~(写真⑤⑥)。
次は、武蔵が出陣した大坂の陣で関わった水野家の(福山城)を訪れます。
+ 続きを読む