久しぶりの登城です。近くへ来たので寄ってきました。近鉄四日市駅より徒歩5分くらいの場所にある鵜森神社付近が城址です。以前は遺構はないと投稿してしまい、後で皆さんの投稿を見て土塁が残っていることを知りました。今回は土塁、堀跡を確認しました。昔から予習不足はかわりません。
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2025/08/14 21:53
2025/08/14 21:38
赤堀城(三重県 四日市市) (2025/08/14 訪問)
三重県四日市市にある赤堀城跡に行ってきました。城びとには未登録の城址です。城跡には石碑がありますが、遺構はありません。上野国赤堀庄に住んでいた田原氏が応永年間(1394~1428)に景信が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたとされます。景信は、長男の盛宗を羽津に、次男の秀宗を赤堀に、そして三男の忠秀を浜田に配しました。赤堀三家として知られています。
近鉄四日市駅から徒歩約15分の場所に石碑があります。四日市市内の松本街道と堀木日永線が交わる交差点近くの道路の隅にあります。
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2025/08/14 21:33
菰野町立菰野小学校 (2025/08/14 訪問)
久しぶりの登城です。近くへ来たので寄ってきました。菰野藩一万二千石の大名ひじかた氏の居城跡です。現在は菰野小学校の敷地になって西側と北側に城壕に堀の一部などが残っています。以前来た時は堀跡などを観ていなかったので、近くまで来たので再訪しました。菰野城跡の碑が建っているのは藩邸の庭園があった所です。菰野町のHPを見ると「また、西南を流れる振子川に面して、角櫓跡があり、その東方に石積の遺構の一部が見られる。」とありました。隅櫓後は説明板がありますが、石積の遺構はよくわかりません。
近鉄湯の山線「中菰野駅」から徒歩5分くらいの場所にあります。
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2025/08/14 21:26
横山党と八幡八雲神社 (2025/01/05 訪問)
ここが確かに横山党館である物証はないが八幡八雲神社は横山党の祖である小野氏が10世紀に建立したもので、境内には大江広元が和田合戦の後に小野氏の霊を鎮めるために建立した横山神社も残る。ここで間違いないのだろう。
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2025/08/14 21:23
見性寺と力尾城 (2025/08/14 訪問)
三重県菰野町にあるひじかた氏の菩提寺見性寺とその裏山にある力尾城(城びと 未登録)に行って来ました。ひじかた氏関連ということでここで投稿します。
見性寺
臨済宗、妙心寺派に属し、菰野藩主ひじかた家の菩提寺です。境内にはひじかた家歴代藩主の墓などがあります。「八重姫について」という説明板がありました。八重姫は織田信雄の娘(織田信長の孫)で初代菰野藩主ひじかた雄氏の妻となった人です。雄氏が江戸や戦場に出ることが多く、藩主不在となる間菰野藩の政務を取り仕切りました。病弱であった2代目藩主雄高の藩政を支え、雄高が亡くなった後は14歳で藩主になった雄豊を支えたと伝わっています。菰野町では「八重姫伝」というマンガを制作しています。
力尾城
見性寺の裏の山が力尾城です。遊歩道が整備されていて容易に散策することができました。土塁や曲輪跡と思われる削平地があります。ただどこまでが遺構なのかはわかりません。それらしき場所を撮影しましたが、自信はありません。1583年織田信雄の家臣であったひじかた雄久によって築かれた城と伝わっています。一時期、ひじかた氏はこの地を離れますが、雄久の子雄氏が1600年徳川家康より菰野12000石を与えられると2代目雄高はここから北東の滝川代官所跡に菰野城(菰野陣屋)を建て居城とします。それまではここが菰野城と言われていました。
近鉄湯の山線「菰野駅」から徒歩5分くらいで見性寺に行くことができます。菰野城跡からは約15分です。
皆さんが苦労されているように「ひじかた」が漢字で投稿できません。
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2025/08/14 21:07
【赤色立体地図かるた】 (2020/11/14 訪問)
「鷲の門 緑色片岩 徳島城(わしのもん りょくしょくへんがん とくしまじょう)」
まだシンプルなのが出てないよな…ということで,いっちゃいます。赤い城さんの阿波おどり系イイですね…。今回は,阿波おどりで決まりかも…。
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2025/08/14 19:40
【赤色立体地図かるた】 (2025/03/10 訪問)
「本丸だけ 土塁が分厚い 安田城(ほんまるだけ どるいがぶあつい やすだじょう)」
何となく想像はしていたけど、赤い地図で改めてみてみると何かシュールだ。資料館のパネルの写真を見直すと基底部が約14mで高さが約2mの盛土と書いてあるので、それほど間違ってはいないようだ。土塁と言いながら、上は郭のように兵が駐屯できたのかも知れない。
簡易的な多聞櫓みたいなもので囲っていたのかな?
簡素な構造だけど、攻撃の為の城だとしたら、これで良いのだろうか。
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2025/08/14 17:23
【赤色立体地図かるた】 (2013/05/02 訪問)
「高虎の 出世作なり 赤木城」(たかとらの しゅっせさくなり あかきじょう)
12年前の5月連休に、ポツンと未踏に成って居る赤木城を初探訪、伊勢までは高速道で便利ですが、後は国道42号線(ゴロが悪い)を踏破して鬼ヶ城、獅子巖、丸山千枚田と景勝地を渡りながら、登城前には熊野市役所に寄り赤木城に関する資料、情報を入手して、よく整備されてる赤木城、同駐車場へ到着、山中の赤木城は新緑に囲まれて五月の空の元素晴らしい景観の中でした、規模は小さいが天空の城にふさわしい。
整備中に修復もされたのでしょうが本丸、虎口、東の郭、西の郭と石垣が良く残って居る、よく整備されていました。桜の咲く時期が写真撮影にはベストでしょう!
藤堂高虎は主人を5人も変えたと云われて居ますが、豊臣秀長に仕えて頭角を現し、秀長大和紀伊百万石支配の中、紀州一揆軍の鎮圧支配のために赤木城を築城し高虎最初の築城と言われている。
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2025/08/14 16:49
【赤色立体地図かるた】 (2010/04/25 訪問)
「熊野川 望む石垣 新宮城」(くまのがわ のぞむいしがき しんぐうじょう)
15年前の4月下旬思い切って、浜松からは時間的に遠く高速は伊勢まで後は地道国道42号線(ゴロが悪い)を熊野を越えて三重県と和歌山県県境を流れる熊野川沿いに有る新宮城を初登城。前後には獅子巖、熊野速玉大社を見学参拝しました。
車は本丸と鐘の丸下の狭い駐車エリアを利用。
熊野川に隣接した独立小山山頂に石垣郭が構えている、本丸、少し石垣が崩落してる天守台、出丸、鐘の丸、松の丸の石垣城塁が良く残って居り、熊野川沿いには水の手曲輪石垣が構えて船着き場と成って居た。
本丸から熊野川方向へ突出た出丸からの熊野川を望む景観は絶景でした。
関ケ原後浅野氏が紀州全域領有と成り、新宮に支城を築く、紀州が徳川紀州藩の領有に成ると新宮城は付家老の水野氏が入り明治まで継承した。
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2025/08/14 15:27
2025/08/14 15:12
【赤色立体地図かるた】 (2013/12/25 訪問)
「馬洗岩 はっきり見える 苗木城(うまあらいいわ はっきりみえる なえぎじょう)」
衛星の写真からでもはっきり見えますが、赤い地図でも馬洗岩は出丸の様な存在感を放っています。あと、思ったより城域が広そうですね。けっこう歴史の長い城なので、使われなくなった郭とかありそうだ。
「一万石 大名の意地 苗木城」
苗木城を近世城郭に改造したのは、おそらく河尻秀長だと思いますが、この地域は鎌倉時代から遠山氏の土地で、江戸時代も遠山氏が1万500石で城主に返り咲いています。無城主格の身上だと思うのですが、要衝の地に有るから特別にOKなのか?
直接関係は無いですが享保17年(1732)賀茂郡の四ヶ村500石を幕府に没収され1万石ポッキリになりました。しかも土地がしょぼかったので下野村の土地と交換させられています。何をやった? 遠山家??
正直これだと1万石切っているんじゃないでしょうか? 何か悪さをやらかして、今度やったら大名から格下げだよと脅しをかけられているようにも見えますね。
豆大名でも大名は大名。なんか豆大豆と似てますな。
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2025/08/14 15:12
晴れの国の雨の中 (2025/07/14 訪問)
大雨だったので岡山駅からタクシーで登城。雨のおかげか観光客も少なめでゆっくり見学で来ました。
不明門から上り本段から見る黒塗りの天守閣は圧巻です。天守閣から金箔瓦越しに見下ろす岡山後楽園も見事です。更に旭川沿いから見る不等辺五角形の天守閣は迫力満点でした。流石は金烏城。雨だけどとても楽しめました。
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2025/08/14 11:37
依田信蕃 (2013/12/25 訪問)
小諸城は慶長年間(1596~1615)仙石氏によって近世城郭に改修されました。長享元年(1487)に大井光忠によって鍋蓋城が築かれ、天文23年(1554)に武田信玄の命により、鍋蓋城を取り込んで大城郭が築かれたとされています。この時の縄張を担当したのが山本勘介だという伝承もあるようです。
本丸・二の丸・三の丸が真っ直ぐ並ぶ、基本的な縄張りは、この時代に出来ていたようです。主要部が城下町より標高の低い珍しい城で、本丸・二の丸周辺が小諸城址懐古園として整備され、有料で公開されています。
本能寺の変の後、滝川一益が伊勢にトンズラすると小諸城は北条氏の手に落ちますが、依田信蕃が春日の穴小屋(春日城・三澤小屋の説も)に籠って北条軍の補給路を断ったため、北条勢は徳川と和議を結んで関東に退いていきました。信蕃が岩尾城攻めで戦死すると、家康は信蕃の子・康国に松平姓を名乗らせ、遺領を与えて小諸城主としました。小田原攻めの際に康国は石倉城攻めで戦死し、弟康勝が家督を継いで家康と一緒に関東に移り、上野藤岡城3万石を賜りました。
なんとなく所領が減っているような気がしますが、気のせいでしょうか。
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2025/08/14 11:08
【赤色立体地図かるた】
①「青石で 護る黒門 徳島城」(あおいしで まもるくろもん とくしまじょう)
平成29年(2017年)9月26日登城、岡豊城の特別期間限定天守風二層櫓「櫓」を見学探訪の帰りに徳島にも1泊して徳島城、徳島の未踏の城探訪をしました。
徳島城には阿波緑色片岩を利用した石垣で有名です、大手門に当たる黒門枡形、下乗橋、左手の太鼓櫓台、右手の月見櫓台と濠辺りの三木郭外枡形よりの景観に緑色片岩の青石が特徴です、更に雨に濡れた青石は見事な事でしょう。
写真は1番から4番まで。
②「弓櫓 元天守成り 徳島城」(ゆみやぐら もとてんしゅなり とくしまじょう)
令和7年(2025年)5月14日登城、家内の希望で大塚国際美術館、祖谷かずら橋観光で徳島に2泊、前日の夕方、翌日の早朝に登城、本丸まで登り、石塁石垣櫓台を観察見学しました。幕末頃明治の初めまでは東二の丸に天守閣が残って居たそうです、蜂須賀氏が徳島城を築いた初期には本丸西側の現在の弓櫓跡に天守閣が建っていたそうです、櫓台の大きさからすると5階建ての大天守が想像されそうです?、現搦手側の櫓台石垣には鏡石の様な大きな石が据えられて、さもそうであろうと思われます。
写真は5番から8番まで。
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2025/08/14 10:39
古河公方と最前線で対峙した城 (2015/11/30 訪問)
葛西城の創建ははっきりしませんが、関東管領山内上杉氏の目代・武蔵国守護代大石氏の一族によって築かれたとされています。足利幕府・関東管領と敵対する古河公方・足利成氏(持氏の子)を牽制しており、成氏に追われた千葉胤直が葛西城に逃れた際には、城主の大石石見守がこれを保護しています。
天文7年(1538)に北条氏に攻められ北条氏の城となりますが、徳川家康の関東移封の後は葛西氏は徳川家に使え、城跡は葛西離館・葛西御殿として改修が施されました。江戸時代には家康・秀忠・家光の三代に渡って鷹狩の際の宿泊用施設として利用されたとのことです。
城址は葛西城址公園として整備されています。
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2025/08/14 09:46
2025/08/14 09:37
主郭部 (2014/07/22 訪問)
有岡城は元々は伊丹氏の城であったとされています。天正2年(1574)荒木村重が伊丹氏を破って入り大改修を行い、主郭部や町屋・侍町を土塁や石垣で囲った惣構の城として完成しました。
その後、荒木村重の謀反により織田信長の大軍に囲まれ10ヶ月のう攻防戦の末に落城しました。かつての主郭部は古城山と呼ばれ、堀跡や土塁が残っていましたが明治以降開発が進み、土塁や石垣、礎石建物跡(展示名まんま)などが残っています。
かつて黒田官兵衛が村重の説得に向かい土牢に閉じ込められたという伝承が有りますが、土牢の件に関しては真偽は定かではないようです。
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2025/08/14 08:10
【赤色立体地図かるた】 (2019/11/03 訪問)
臥牛山 全てが 備中松山城
(がぎゅうざん すべてが びっちゅうまつやまじょう)
雲海に浮かぶ天空の城も、岩盤と一体化した石垣も、山城唯一の現存天守も、猫城主も見どころですが、赤色立体地図かるたとしては、天守が建つ小松山だけでなく、大松山、天神の丸、前山をも含めた臥牛山全てが備中松山城であることを詠んでみました。
それにしても…さんじゅーろーのイラストって「仕事猫」の方だったんですか。ならもういっそサンダル履きで「登城準備ヨシ!」とかやってくれたらいいのに(笑) 実際、夏場なんかはさんじゅーろー目当ての観光気分でサンダル履きで登城する人がいそうですしね。
サンダルで 登城はキケン 備中松山城
ChatGPTで「仕事猫 登城はサンダルやヒールでヨシ!」で画像生成してみましたが…う〜ん、仕事猫というものがわかってないなぁ。いや、仕事猫そのものが生成できてしまうのも問題でしょうけど。
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2025/08/14 06:15
夏のチャシめぐり④ (2025/08/11 訪問)
この日は稚内から100km以上離れている城びと登録物件のオフイチャシをターゲットに定めました。ここに向かう間、北の遺跡案内の地図にあるチャシをいくつも経由してみたのですが、一つも見つけ出すことができませんでした。肝腎のオフイチャシも濡れそぼった巨大な蕗や熊笹に阻まれてグーグルマップのポイント地点にはたどり着けずじまいでした。私の投稿は不発弾みたいなものですが、零汰さんは郭にたどり着けているようですのでひきあげました。それにしても100km以上運転してこの成果では悲しくなってしまいます。とりあえず、零汰さんも投稿されている近くにあった松浦武四郎踏査地の標柱と説明板、投稿しておきます。
この後、気を取り直して稚内副港市場まで戻って、よくばり海鮮丼をいただき、少しは気が晴れました。稚内副港市場に併設されている無料の樺太記念館では、レプリカとはいえ、北緯50度の国境標石も拝むことができました。ゴールデンカムイ関連物件と云って良いでしょう。
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2025/08/13 22:50
桃太郎伝説を辿って (2025/07/13 訪問)
吉備津彦神社と吉備津神社に参拝してから鬼ノ城を目指しました。さすが国指定史跡!鬼城山に入ると道がめっちゃ狭い。レンタカー軽自動車で大正解でした。駐車場から登城開始。坂を登り、展望デッキからの西門の一帯の眺望は素晴らしいです。古代の人のパワーを感じられます。西門をくぐって鬼ノ城をぐるりと歩くと、荒々しい遺跡と瀬戸の絶景から古代のパワーが感じられました。
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