豊川と連吾川の合流地のやや東の地に勝楽寺前激戦地があります。川沿いに北に進んで行った先には竹広激戦地があります。勝楽寺前激戦地は徳川軍の最右翼になりますが、このあたりは馬防柵が設置されておらず、ここを抜けようとする山県昌景隊と大久保兄弟の間で激戦となりました。
勝楽寺前激戦地のやや南東に山本勘蔵信供の墓があります。信供は武田軍の武将(軍師とも)山本勘介晴幸の子で長篠・設楽ヶ原の戦いで20歳の若さで討死しました。
案内板によると、信供は始めは高坂昌澄らとともに長篠城の監視役として布陣していたが、勝頼の命で竹広の山形高地に転戦するも、すでに味方は総崩れとなっており、単騎で徳川本陣目指し斬りこみ、渡辺半蔵守綱との戦いで討死したとのことです。
ちょっと誇張が入っているような気がするし、高坂隊も長篠城西岸の戦いで敗れたという説も有るので実際の所はわかりません。
長篠城の西、長篠橋を越えて北にいくと山本信供戦死之地の石碑と二代山本勘介信供隊奮戦玉砕之地の石碑があります。酒井隊に襲われ討死したのであれば、この石碑の位置も合っていることになるので、諸説あるあるですね。
最後は某所で食べた鹿カレーの写真です。でも、ほとんどシカ肉が入っていない。1200円くらいでも良いのでシカ肉をたらふく喰いたいですぞ。
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