つぼかさやまじょう

壺笠山城

滋賀県大津市

別名 : 壷笠山城
旧国名 : 近江

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①分岐点付近
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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:壷笠山城 (2025/05/20 訪問)

穴太駅から徒歩35分ちょっとで、分岐点付近(35.056781、135.8502343)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、織田信長に敵対した朝倉・浅井連合軍が立て籠もった城です。
1570年(元亀元年)朝倉義景と浅井長政の連合軍は本願寺と結んで志賀郡へ侵攻し、織田信長の家臣森可成が籠もる宇佐山城を攻め、坂本へ出陣してきた森可成を討ち取りました。
摂津にいた織田信長はこの知らせを聞いて京へ急ぎ戻ると、宇佐山城を落とせなかった連合軍は「はちが峯」、「あほ山」、「つぼ笠山」に布陣しました。
この「つぼ笠山」が壺笠山城のようです。織田信長と朝倉・浅井連合軍との対峙は膠着状態となり、4か月後に和議となりました。
その後、坂本を領した明智光秀により修復された可能性も指摘されていますが詳細は不明のようです。

墓地の中にある穴太野添古墳群の道をひたすら進み、分岐点付近(35.056781、135.8502343)では進入禁止の看板のある方向へ進みます。
少し歩くと右手に黄色いテープが見えたら、そこが登り口なのですが、 この黄色いテープ捜しました。(分岐点到着から15分後に発見。また時間のロスです)
黄色いテープのが登り口から道なりに進むと主郭に着くとのことで、反時計回りに登り始めました。
10分ちょっと登った所で、選択した道があっているか方向音痴の自分には自信がなく、迷子の恐れと日没で暗くなった為、途中で断念しました。
攻城時間は45分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、穴太駅から電車で、びわ湖浜大津駅に向かいました。
今日は散々な攻城日でした。
坂本城の石垣は見れず、JR湖西線の遅延、レンタサイクルは普通自転車で移動時間が計画オーバ、田中城での忘れ物、清水山城へのGPS設定ミス、壷笠山城で迷子になりかけた等。
明日はいい攻城ができますように!!
歩行歩数=35781歩、歩行距離=25.0Kmです。

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小城小次郎

朝倉浅井の陣城というが (2024/02/10 訪問)

宇佐山城周辺で激戦を展開した朝倉・浅井連合軍が陣取ったと「信長公記」が記す山城の中で場所がほぼ特定されているのがここ。でも陣城にしては石積みが多いので明智氏の頃に何らかの補強がなされたのかも。歩くと結構遠い。

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イオ

意外に石垣の山城 (2024/02/11 訪問)

志賀の陣に際して、朝倉・浅井連合軍が比叡山南麓の坂本と京を結ぶ白鳥越えをおさえるべく壺笠山頂部に築いた陣城で、織田信長と和睦して連合軍が撤退した後は、坂本城に入った明智光秀により改修されたと考えられます。

坂本城の発掘調査現地説明会と湖中に残る石垣を見学した後は壺笠山城へ。ダニの巣窟との噂にひるんで秋や春の登城は控えていましたが、行くなら真冬の今しかない! と完全防備で登城しました(その甲斐あってか無事でした)。穴太野添古墳群の駐車場から登城開始。川沿いに20分ほど進んで橋を渡り、5分ほどで分岐を左に折り返し、そして5分弱で登城口です(案内表示を見落とさないよう注意)。

明瞭な分岐はありませんが、登城口から左方向に進むと直登ルート、右方向が尾根ルートで、尾根ルートは西端の堀切(切通道)に続いています。尾根に出ると東側に土橋状の尾根道がのび、その脇の土壇は切通道を見下ろす位置にあります。尾根道を進むと南麓に小曲輪群が見えてきます。兵の駐屯地でしょうか。さらに進むと石段と石垣の虎口があり、その先は主郭を取り巻く帯曲輪になっています。主郭の切岸は高く鋭く、切岸や帯曲輪、腰曲輪の裾には明智期の改修と思しき石垣もあちこちに見られました。帯曲輪を一周して主郭へ。説明板が立てられているほか、北東部と北西部に浅くなった虎口が開口していますが、周囲には土塁はめぐらされていません。

零汰さんの投稿を参考に、壺笠山城に続いては白鳥山(御輿山)砦と青山城にも行くつもりが、白鳥山砦へは西端の堀切から尾根道を西に進むべきところを登城口まで下りてきてしまい、あまりの凡ミスにもう一度堀切まで登って行く気力が失せたため断念…。青山城には行けなくはないものの、これで青山城に行ってしまうと白鳥山砦のためだけに再訪する気にはならないかも、と考えてあえて行きませんでした。このままでは終われないので、壺笠山城の再訪とあわせていつかリベンジしたいと思っています。
 

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ぴーかる

壺笠山城 (2023/12/23 訪問)

【壺笠山城】
<駐車場他>穴太野添古墳群前の墓地の駐車スペースに駐車しました。
<交通手段>車

<見所>石積み跡
<感想>現地説明板によると壺笠山城は「『信長公記』によれば、元亀元年(1570)、比叡山麓で信長軍と浅井・朝倉連合軍が激戦を繰り広げ、信長方の森可成などが討死。その後、浅井・朝倉勢が、『はちが峯、あほ山(青山)、つぼ笠山に陣取る』なか‥‥‥」とあります。また穴太に砦が築かれ明智十兵衛などが配置されたとあります。城びとの城郭情報にあるように、浅井・朝倉連合軍が比叡山に立て籠もった時にこの壺笠山城に陣城を築き、撤兵後に明智光秀が穴太衆を使い石積み等の改修をしたものかと思います。城郭は壺笠山古墳を利用した城で山頂部の平坦地を主郭としています。主郭の周囲に帯曲輪で巻いて虎口が2か所、主に主郭の南西部下段の白鳥方面の尾根の両脇に腰曲輪を多く設けています。虎口には石段、主郭下段と腰曲輪に石積み跡が多く見られます。
 登り口、山の谷の造成した場所に壺笠山への札が掛かっています。添付写真付けておきます。

<満足度>◆◆◇

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城郭情報

分類・構造 山城(古墳利用)
築城主 浅井氏、朝倉氏?
築城年 元亀元年(1570)?
主な改修者 明智光秀
主な城主 浅井氏、朝倉氏
遺構 曲輪、石垣、虎口
住所 滋賀県大津市坂本本町
問い合わせ先 大津市歴史博物館
問い合わせ先電話番号 077-521-2100