躑躅ヶ崎歴史案内隊のEです。
当隊は躑躅ヶ崎館跡こと史跡・武田氏館跡でボランティアガイドを行う有志甲冑集団です。
2月11日は初午いなりの日。
隊のツイッター(現:✗)でいなりの日だからと
沖縄のソウルフード・いなりずしを紹介しかけて思いとどまり
そういえば躑躅ヶ崎館にも稲荷曲輪ってあったよね、と紹介したのを再編して
躑躅ヶ崎館の鎮守の森・稲荷曲輪を案内します。
躑躅ヶ崎館は複数の曲輪によって構成され、
稲荷曲輪は主郭や西曲輪から空堀を隔てた北側にある
東西20m、南北15mほどの小さな曲輪です。
現在は(主郭や西曲輪のような)土塁ではなく、堀とおぼしきくぼみに囲まれ、
一部には石垣が積まれています。
長らく雑木林のように木々に囲まれてましたが、
昨年周辺を伐採して、曲輪としての姿をはっきり見せています。
甲府市教育委員会の発掘調査報告書をみると、
稲荷曲輪は躑躅ヶ崎館の鎮守として御崎社(=稲荷社)を祀ったと伝えられます。
現在もキツネの像が並ぶ小さな石祠があり、時折お供え物も見かけます。
報告書での表現が「御崎社(=稲荷社)」となっているのはどういうことかというと、
山梨県神社庁サイトなどネットの情報をひもとくと、
もともと武田氏では信虎公の時代、甲府に住まう前の石和の川田館に
館の守護として御崎神を祀っていたのを甲府に移したとのことです。
この御崎神はミサキ、すなわち神の先触れとなる精霊的な存在全般を言い表します。
稲荷神の使いである狐もミサキの一類であり、
民間信仰では稲荷神と狐とがしばしば同一視されることから、
いつしか御崎社と稲荷社が混同され、俗称として稲荷曲輪の名前で現代に残ったようです。
ただ、躑躅ヶ崎館に設けられた御崎社は、
甲府城築城に伴い甲府市美咲の御崎神社として遷座され現存しています。
ここからは推測になるのですが、遷座後も祠が残っているというのは、
地元の信仰の対象として、ちょっとした鎮守様のような役どころとして
祀られていたのではないかと考えます。
また、曲輪を囲む石垣は大手石塁などと同じ野面積みですが、
いつごろ積まれたか示す資料が見られず、はっきりしてません。
(実は、稲荷曲輪自体発掘調査された記録は見受けられません)
武田氏時代は土塁を築くのが主流なので、
少なくとも武田滅亡後に入った支配者によって改修されたか、
あるいは廃城後に地元住民が神域として補修したのかと
これも勝手に推測しています。
躑躅ヶ崎館跡の北側には、古図面によると稲荷曲輪のほかにも
御隠居曲輪、味噌曲輪、無名曲輪が設けられ、ひっくるめて北曲輪と称されますが、
これらの曲輪は現在はほとんど農地などに開発され、
稲荷曲輪が唯一曲輪としての面影をとどめています。
先述のとおり、昨年周辺の伐採によって曲輪の姿がみやすくなってますし、
隣接する味噌曲輪では現在発掘調査が進められてますし、
また、甲府盆地の北の山々、信玄公生誕の地として知られる要害山城を望むこともできます。
躑躅ヶ崎館を訪ねた際には、城郭の北側も散策してみてはいかがでしょうか。
長々と続いた案内文におつきあいくださりありがとうございます。
とアフィブログみたいな〆をしますが当方には1円も入ってこないシステムになっております。
と、ガイドのときの鉄板ギャグをして案内を終わります。
どうでもいいことを付け足したくなる性分なので付け足しますが、
「無名曲輪」の名前を思うたびに、「無名祭祀書」の語が脳裏をよぎってなりません。
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