日本100名城

つつじがさきやかた

躑躅ヶ崎館

山梨県甲府市

別名 : 武田氏館
旧国名 : 甲斐

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躑躅ヶ崎館
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稲荷曲輪についてのそこそこ長い案内 (2024/02/11 訪問)

躑躅ヶ崎歴史案内隊のEです。
当隊は躑躅ヶ崎館跡こと史跡・武田氏館跡でボランティアガイドを行う有志甲冑集団です。

2月11日は初午いなりの日。
隊のツイッター(現:✗)でいなりの日だからと
沖縄のソウルフード・いなりずしを紹介しかけて思いとどまり
そういえば躑躅ヶ崎館にも稲荷曲輪ってあったよね、と紹介したのを再編して
躑躅ヶ崎館の鎮守の森・稲荷曲輪を案内します。

躑躅ヶ崎館は複数の曲輪によって構成され、
稲荷曲輪は主郭や西曲輪から空堀を隔てた北側にある
東西20m、南北15mほどの小さな曲輪です。

現在は(主郭や西曲輪のような)土塁ではなく、堀とおぼしきくぼみに囲まれ、
一部には石垣が積まれています。
長らく雑木林のように木々に囲まれてましたが、
昨年周辺を伐採して、曲輪としての姿をはっきり見せています。

甲府市教育委員会の発掘調査報告書をみると、
稲荷曲輪は躑躅ヶ崎館の鎮守として御崎社(=稲荷社)を祀ったと伝えられます。
現在もキツネの像が並ぶ小さな石祠があり、時折お供え物も見かけます。

報告書での表現が「御崎社(=稲荷社)」となっているのはどういうことかというと、
山梨県神社庁サイトなどネットの情報をひもとくと、
もともと武田氏では信虎公の時代、甲府に住まう前の石和の川田館に
館の守護として御崎神を祀っていたのを甲府に移したとのことです。

この御崎神はミサキ、すなわち神の先触れとなる精霊的な存在全般を言い表します。
稲荷神の使いである狐もミサキの一類であり、
民間信仰では稲荷神と狐とがしばしば同一視されることから、
いつしか御崎社と稲荷社が混同され、俗称として稲荷曲輪の名前で現代に残ったようです。

ただ、躑躅ヶ崎館に設けられた御崎社は、
甲府城築城に伴い甲府市美咲の御崎神社として遷座され現存しています。
ここからは推測になるのですが、遷座後も祠が残っているというのは、
地元の信仰の対象として、ちょっとした鎮守様のような役どころとして
祀られていたのではないかと考えます。

また、曲輪を囲む石垣は大手石塁などと同じ野面積みですが、
いつごろ積まれたか示す資料が見られず、はっきりしてません。
(実は、稲荷曲輪自体発掘調査された記録は見受けられません)
武田氏時代は土塁を築くのが主流なので、
少なくとも武田滅亡後に入った支配者によって改修されたか、
あるいは廃城後に地元住民が神域として補修したのかと
これも勝手に推測しています。

躑躅ヶ崎館跡の北側には、古図面によると稲荷曲輪のほかにも
御隠居曲輪、味噌曲輪、無名曲輪が設けられ、ひっくるめて北曲輪と称されますが、
これらの曲輪は現在はほとんど農地などに開発され、
稲荷曲輪が唯一曲輪としての面影をとどめています。
先述のとおり、昨年周辺の伐採によって曲輪の姿がみやすくなってますし、
隣接する味噌曲輪では現在発掘調査が進められてますし、
また、甲府盆地の北の山々、信玄公生誕の地として知られる要害山城を望むこともできます。
躑躅ヶ崎館を訪ねた際には、城郭の北側も散策してみてはいかがでしょうか。

長々と続いた案内文におつきあいくださりありがとうございます。
とアフィブログみたいな〆をしますが当方には1円も入ってこないシステムになっております。
と、ガイドのときの鉄板ギャグをして案内を終わります。

どうでもいいことを付け足したくなる性分なので付け足しますが、
「無名曲輪」の名前を思うたびに、「無名祭祀書」の語が脳裏をよぎってなりません。

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HARU

躑躅ヶ崎館 (2017/04/08 訪問)

「躑躅ヶ崎館」は「武田氏館」の別名、武田信玄の父信虎が築城し、信玄・勝頼の三代にわたる居館。信玄はここ本拠地に大きな城を持たず、現在は武田神社などが建っています。ちょうど「信玄公祭り」が開催され、サクラも見頃でした。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2020/09/20 訪問)

※松本城、甲府城と共に登城
※松本に前泊し、ライトアップの松本城あたりを散策

 松本城(百名城スタンプ 管理事務所8:30-16:30) + 早起きして旧開智学校など周辺散策
  ※散策後8時過ぎに松本城入口(管理事務所前の高麗門)に行ったが既に数十人の行列でした
   天守(本丸)見学から出た時には90分待ちでした、休日は混みます

10:10(松本城から徒歩16分)松本(JR特急)、11:16,11:30甲府(路線バス)、11:38武田神社
 (徒歩1分)武田氏館(百名城スタンプ 武田神社9:00-16:00)

武田神社から徒歩30分、甲府駅付近の甲府市藤村記念館(旧睦沢学校校舎)
 ※要害山城の続百名城スタンプが押せました

藤村記念館から徒歩2分、甲府市歴史公園 (甲府城山手御門 山手渡櫓門 )
 ※櫓門の中に展示があり無料で入れました

山手御門から徒歩8分(線路の反対側)、甲府城跡(百名城スタンプ 管理事務所(8:30-17:00)
 ※甲府城は甲府駅南口からも徒歩6,7分です

17:36甲府(JR特急)、19:06新宿

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天守無しがアツい

武田義信 (2023/01/14 訪問)

(武田神社HP)http://www.takedajinja.or.jp/

武田神社…甲府駅からバスで10分程度の場所にあり、ここにはかつて「躑躅ヶ崎館」という武田氏の居城がありました

本殿にて参拝…ある程度長い列ができており、二礼二拍手一礼のお参りこそ済ませたのですが、正面から本殿を撮ろうとすると人が写ってしまいよろしくない…と感じたので、人気のない角度から撮影してみました(画像1枚目)

お参りしてから授与所にて、まず御朱印を求めました。事前に調べたところ直書きは300円と安いがデザインがシンプルで寂しい…書き置きは500円と少し高めだが信玄のイラストが入っており何か惹きつけられる…😍

なので文句無しに後者を注文…立ち姿と座り姿があり、これも後者を選びました(2枚目)。立ち姿はちょっとナヨナヨしく見えるのに対し、座り姿はどっしり構えていて戦国武将のイメージに相応しかったからかな👹

ここはかつて武田氏の居城…ということで、(今は神社にも関わらず)何とここにも御城印の販売が…逃さずにそれを購入しました(3枚目左)今は「信玄公御神忌四百五十年」の限定版となっており、つまり没年が1573年なので(今年は2024年…2024-1573=451…リリースは2023年…ちょうど450年の時だが翌年4月まで販売と書いてあったので451年と計算上なってもセーフ)そう印字されてるわけです🧐

それから宝物館を見学。中は撮影が一切禁止になっているので、ガチで目に焼き付けるだけ…展示品の主なものは信玄の肖像画数枚…肌が浅黒く頭が禿げていて髭を生やしたもの(これは別人説あった気もする)、白い毛のフサフサした兜を被り赤い上着を羽織って目のギョロリとした肖像、武田二十四将の絵…

解説文を読んで一目瞭然なのは、どれも本人の死後に描かれたもの…特に武田二十四将は江戸時代中期だそうです…つまり没後150年後あたり?😅 「信玄のオッサンちょっとイカつく描いちゃえ😁 じゃあ山本勘助はこんな感じぃ?」という具合に、本人たちを見てもない人間が信玄およびその家来をイメージで描いただけ…だから描かれてる顔に信憑性はまるでなし

勝頼の肖像画は目が小さく細め…でも彼は(「どうする家康」でも描かれていたように)日々レスリングのような投げ合いを家臣たちとおこなっており、鍛錬を積んで武勇に長けていたそうです(肖像画および私の中のイメージとかなり違う😅) 彼の代に武田の領土は最大となり決して暗君ではなかった…けれど長篠の戦いから何かおかしくなり、その7年後に再び信長軍と戦うも家臣の裏切りにあい、天目山にて側室や息子と一緒に自害💀💀💀

その首級は京で晒された…とも(解説文に)ありました。他には甲冑、鎖帷子、法螺貝(当時の伝達手段)、武田女子の短刀(いざとなればこれで自害)

信玄年表を見る中で、信玄の長男義信(1538-67)が気になりました

(武田義信wikipedia)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%BE%A9%E4%BF%A1

父がまだ十代の時に生まれた長男…有力大名の娘と結婚…戦で活躍となかなか腕は立つ…謀反の嫌疑をかけられ、最期は若くして自害…という点で、松平信康と運命似てます👼

ちなみに武田の家系は現代にまで残ってますが、それは信玄の次男(信親)の系統であることも館内の展示にありました。彼は盲目のため後継者から外されたのですが、返ってそれが塞翁が馬的な結果になったようです(後継者となった勝頼は妻子と共に自害して果てたので)

宝物館は16時で閉館。それからバスの時間まで武田の屋敷跡(4枚目)を見物。画像内の四角く黒ずんでいる場所に建物があったそうです。神社の敷地外にも当時は屋敷があり、堀で周りを囲んだ城でもあった

けれど武田家滅亡後から現在までの間にやがて屋敷は無くなり更地に…近年では宅地開発により史跡も幾分か削られつつあるそうです。ここは市民および武田氏愛好家(?)により保存されることとなった、せめてもの遺構なのでしょう…少し離れた場所に天守の土台のような石垣が見えて、そこに登ってる人もいたのですが時間に余裕が無かったので、バス停まで引き返し甲府駅に戻りました🚌

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概要

主郭・西曲輪を囲む広い水堀が圧巻。武田氏三代の居館ならではの見どころとして、西曲輪の南北に今も残る武田氏特有の桝形虎口は必見。大手東側には総堀と土塁で囲まれた曲輪が造られ、土塁と堀が復元されている。近隣の甲府城と見比べると、中世と近世の城郭の違いがよく分かる。

イベント情報

  • 2024年04月12日(金)~2024年04月12日(金)

    躑躅ヶ崎館

    武田二十四将騎馬行列

    武田信玄の命日である4月12日に毎年行われ、信玄公祭りと並ぶ長い歴史を誇る「武田二十四将騎馬行列」。一般参加者が扮する戦国最強と恐れられた二十四将率いる騎馬行列が、武田氏の本拠地だった躑躅ケ崎館跡の武田神社を出発し、市内一円を練り歩きます。開催日時:4月12日(金)10:30〜16:30 観覧料:無料

※ 内容は変更となる可能性があります、予めご了承くださいませ。

城郭情報

城地種類 連郭式平城
築城年代 永正16年(1519)
築城者 武田信虎
主要城主 武田氏、川尻氏、徳川氏、豊臣氏、加藤氏、浅野氏
文化財史跡区分 国史跡(武田氏館跡)
近年の主な復元・整備 徳川氏、羽柴秀勝、加藤光泰
天守の現況・形態 不明
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)、虎口
住所 山梨県甲府市古府中町2611
問い合わせ先 甲府市観光開発課
問い合わせ先電話番号 055-237-5702