■はじめに
こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。
当隊は躑躅ヶ崎館跡こと武田氏館跡(現・武田神社)で
不定期に甲冑武者による史跡案内をする有志甲冑ボランティア集団です。
境内で案内活動をしていると、神社の参拝者から声をかけられたり質問されたりしてますが、
問いかけられる内容として、「その鎧重くない?」の次に多いのが
「トイレはどこですか?」との質問だと思います。
武田神社のトイレは拝殿に向かって左側に進み、堀を土橋で渡った先の西曲輪の一角に、
男性用女性用そして多目的トイレが設けられています。
能楽堂の脇に大きな案内板があるのでわかりますよ、と案内するのが模範解答です。
ですが、そこでついボケをかまして
「信玄公の水洗トイレですね。実は場所まで特定されてないんですよ。一緒に考えてみましょうか」
などと引き留めようとしたら、切羽詰まってる人にはマジで怒られそうなので口に出さない程度には大人です。
そうです。信玄公は水洗トイレを使っていたそうですが、
残念ながらそのトイレは遺構として現存せず、痕跡さえ見つかってないので、案内活動でご案内することができません。
なので、この投稿にて、文献や絵図面による信玄公のトイレの紹介を、オンラインガイドとしてさせてください。
※おことわり
この投稿はEこと上田絵馬之助が資料に基づき考察した個人的な発表であり、躑躅ヶ崎歴史案内隊の見解ではありません。
また、資料の読み違えにより、資料そのものの意図とさえ異なるおそれがあります。
あくまで個人の考えとしてお読みくださるようお願いします。
あと、長いです。
まとまった時間のある時に、腰を据えて読んでください。
■これって日本最古?~甲陽軍鑑に見る信玄公のトイレ
信玄公は水洗トイレを使っていた、というエピソードは
戦国武田氏の事績を記録したとされる「甲陽軍鑑」や江戸時代は正徳年間に書かれた軍記物「武田三代軍記」に紹介されています。
どちらも内容はほとんど同じですが、
「甲陽軍鑑」品第三十三にいわく、信玄公は用心のため御閑所(トイレ)を京間六畳敷にこしらえて、
風呂の縁の下から樋(配水管)を引いて、風呂の下水で「不浄」を流していたそうです。
また、近習を側に控えさせ、香炉をおいて朝昼晩に沈香(東南アジア原産の高級香木)を焚いて、
信玄公はその中で「状箱(文書箱)のふたにいづれの国郡と書付をみて」、
国内の政治や訴訟に関する決裁を行っていた、ということです。
近習とはキンジュウまたはキンジュと読み、主君の側近くに仕える侍のことをいいます。
後でまた説明しますが、甲陽軍鑑によると武田家では「奥衆」と呼んでいたようです。
閑話休題、この御閑所が使われていた具体的な時期としては、
「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」ともに《河中島合戦の後酉の極月朔日》から
飯富(おぶ)三郎兵衛(昌景・後の山県昌景)、原隼人佐(昌胤)、跡部大炊助(勝資)ら侍大将を伴い、
帯刀させて障子の陰に控えさせたとの記述があり、
第四次川中島の戦いが行われた永禄四年(1561・酉年)の12月1日には、
既にこうしたスタイルで存在していたと言えます。
また、「武田三代軍記」巻第十二には、「甲陽軍鑑」の記述に加えて、御閑所が浴室の続きに設けられたことなどが記され、
トイレが浴室の近くにあったのでは、と推測して補完しています。
まさか信玄公もトイレで気張りながら政務を行っていたわけではないでしょうが、
水洗トイレといってもフレグランスが漂い、セキュリティも保証された
SOHOとかコワーキングスペース的な感覚で用いられたのではないでしょうか。
ちなみに、もしかしたらこれって、
日本で最も古い水洗トイレなのでは、と思いましたが、
調べてみると秋田城跡に残る水洗厠舎が奈良時代後期と伝えられるそうなので、
残念ながら日本最古とは違いました。
■歴史はトイレで動いた?~義信事件と御閑所
また、「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」のどちらにも、
いわゆる《義信事件》の発端となる訴え、すなわち信玄公の嫡男義信公が、
家臣・飯富兵部少輔(虎昌)と不穏な密談をしたとの訴えが、
永禄七年(1564)七月、信玄公が御閑所に入っていた時に、
側に詰めていた虎昌の弟でもある飯富三郎兵衛(昌景)らからされたと記されています。
いわく、義信公は永禄七年七月十五日の夜、灯籠見物と称して外出、
虎昌を訪ねた後丑三ツ時にひっそりと帰ったのを目付役が目撃、
翌十六日朝に御山(御閑所の別名。この後解説します)にいた信玄公に報告します。
その時、側に控えていたのが昌景で、
自ら所持していた密書、義信公が虎昌に宛てた書状を信玄公に差し出し、
義信公が信玄公に不満を抱いていること、そして兄・虎昌が関与して陰謀が進められていることを報告したそうです。
義信事件や信玄公と義信公との関係は、従前・近年の研究によって様々な考えが発表されていて、
甲陽軍鑑に記された日付も永禄八年の誤りでは?と指摘もされているので深くは踏み込みませんが、
その後虎昌らが処断され、永禄十年(1567)に義信公が死没することで一連の事件は幕を閉じます。
これら事件の端緒がこの信玄公への報告による、とするならば、
歴史がトイレで動いた例として、もっと知られてもよいのではないでしょうか。
■これって日本最古?PARTⅡ~「山」と呼ばれた信玄公のトイレ
面白いのが、先述のとおり、信玄公がこの御閑所を「山」「御山」と称していて、
その事実が甲斐の人々に広く知られていた、と伝えられることです。
どうしてトイレを「山」と呼んだのか、
「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」とも信玄公自身がその理由を明かすことはありませんが、
その側に仕えた奥衆(近習)たちが人に聞かれてさまざまに答えたのが、
回答者の名とともに、次のように書き記されています。
曽根与市助「のぼればくだる」
※登れば下るを腹が下ると掛けている
日向藤九郎「にほふてくだるはしんくさう」
※「荷負うて」と「臭(にお)うて」と掛けて「下るは辛苦(しんく)そう」につないでいる
(辛苦そう、まさにI think so・・・いえ何でもありません)
長坂源五郎「山にはくさきが絶ぬ」
※「草木」と「臭(くさ)き」を掛けている
小山田彦三郎「にをふ物たへず」
※「荷負う者」と「臭う物」を掛けている
小宮山内膳「山乃にをひは焼物をねがふぞ」
※山の荷負い(をする者)は焼物(やきもの・炙り肉)を願うぞを
臭い(がするとき)は薫物(たきもの・数種類の香料を練り合わせた香)を願うぞと掛けている
原文では「焼物」に「たきもの」とふりがなを振って、両者をこじつけているのがポイントです
おわかりいただけたでしょうか。
これはもう、まるで、大喜利です。
もしかすると、記録として収録された日本最古の大喜利かもしれません。
ここに出てくる奥衆こと近習たちは、甲斐の国衆小宮山氏の一族である小宮山内膳(友晴)、
勝頼公の寵臣として知られる長坂釣閑の嫡子である長坂源五郎(昌国)をはじめ
武田家家臣の子弟として信玄公の身近に仕え、その薫陶を大いに受けた、
言うなれば、武田家の次世代を担う若きエリートたちです。
その彼らが若手芸人や笑点メンバーの如く、回答をひねり出しています。
特に小宮山内膳は天正十年(1582)、天目山・田野の戦いで勝頼公と運命をともにした人物ですが、
もしかしたら「焼物」「たきもの」をこじつけるため、「たゃきもの」ぐらいは言ったかもしれません。
「甲陽軍鑑」では、筆者である高坂弾正昌信が彼らの回答を「ざれごと(戯れ言)」と断じ、
「済家洞家の禅宗へ立入少し禅宗口にづこびて申なり」
(臨済宗・曹洞宗の禅宗に出入りして、少々禅宗ぶったこましゃくれた口を叩いてます)
と、嘆くとも苦笑するともつかぬ様子で書き残しています。
とはいえ、それぞれの回答を丁寧に記録して、ルビまで使って解説しているところをみると、
そんなに悪くは思ってなかったのかもしれませんね。
■トイレはどこですか?~絵図面に見るトイレの場所
では、信玄公のトイレはどこにあったのでしょうか。
残念ながら信玄公時代の建物は、天正九年(1581)、勝頼公が新府城に移る際に破壊されたと伝えられ、
また、大正八年(1919)の武田神社創建にあたって敷地に造成工事を行ったこともあり
平成に行われた発掘調査でも、泉水跡などごく一部の遺構が見つかるに留まり、
当時の状況はほとんどわかっていません。
しかしながら、小幡景憲(「甲陽軍鑑」の編纂をしたと伝えられる刃部)が、
信玄公晩年の頃の屋形を書き記したと言われる「武田信玄公屋形図」(通称:伝来之絵図)が現代まで伝えられ、
これを基にした想像図が境内の案内板にも記されています(写真参照)。
この絵図によると、「雪隠(トイレ)」は南西の①と北東の②の2か所に記されています。
ただ、この2つは屋敷の右端にある風呂屋(A。銭湯ではなく風呂のある家屋、という意味です)から離れていて、
樋を通して風呂水を流すには無理があるように思え、信玄公ではなく家臣たちのためのトイレではないかと思われます。
「武田三代軍記」の記述にあるように風呂に隣接していたとすれば、
絵図に描かれてない風呂屋の周辺、たぶん南寄り(当時の武田氏館には南北に高低差があったため)の
③の区画(画像の図面ではわかりづらいですが、元の絵図では四角に区切られています)に設けられていたと考えることができます。
ただ、風呂屋の南西側には武田家の家宝である「御旗」「楯無」を納めたと伝えられる「御旗屋(B)」があり、
この近くにトイレ関連の施設(《不浄》溜めとか)を置いたのかどうか、一抹の疑問が残ります。
さらには、絵図が書かれた信玄公の晩年には、
信玄公が多くの時間をを過ごしたという毘沙門堂(C)の近くに移転させたと考えることもでき、
毘沙門堂の周囲、さらにはもしかしたら、
④の築山(絵図では文字で「山」と書かれています)が実はそうじゃないの?との大喜利的な考えもできるのではないでしょうか。
■むすびにかえて
つまり、案内や参拝のお客さんに「結局、信玄公のトイレはどこですか?」と聞かれても断定はできないので、
案内板の前で腕組みをして悩み、「どこだと思います?」とお客さんも巻き込んで一緒に悩むと思います。
結論を出すにはもっといろんな史料や調査研究を待ったり探したりしないといけないかもしれません。
とはいえ、今ある資料をもとに思いを巡らすのも、歴史を遊ぶ楽しみの一つです。
当隊はこれからも、歴史を楽しむお手伝いをしていく所存です。
以上でオンラインガイドは終了です。
長文におつきあいくださりありがとうございました。
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