せたじょう

瀬田城

滋賀県大津市


旧国名 : 近江

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瀬田の唐橋西詰
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赤い城

東国と京を繋ぐ東海道の要衝 (2025/09/20 訪問)

唐橋前駅から瀬田の唐橋を渡り、瀬田川沿いに歩いて約10分。
「唐橋を制するものは天下を制する」と言われた東海道の要衝です。
瀬田川では朝からボート部の皆さんが練習に励んでいらっしゃいました。

城跡には大きなマンションが建ち、道路沿いに石碑と説明板が設置されています。
遺構は見当たりません。
ただ、少し高台になっていて高低差に城の気配を感じます。

朝駆けの散歩を終え一旦ホテルに戻ることにしました。
余談ですが唐橋はビワイチの起点・終点になっていてサイクリストも多くいらっしゃいました。

【見どころ】
 ・瀬田の唐橋と瀬田川

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しんちゃん

瀬田の唐橋 (2024/02/10 訪問)

瀬田城は琵琶湖から流れる瀬田川の東岸に築かれた城で、瀬田橋とともに重要な軍事的な意味合いを持つ拠点でありました。近江が織田信長の支配下にあった時代の城主・山岡景隆は織田信長の信頼も厚く、信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていたそうです。
唐橋には藤原秀郷の大ムカデ退治の伝説が残っており、宇治川の合戦の舞台となるなど歴史的に大きな意味を持っています。かつて信長は足利義昭より副将軍や管領の地位に就くよう提案を受けますが、かわりに「堺」「大津」「草津」の支配権を要求しました。名前ばかりの官職より、よほどこれらの土地が魅力的だったのだと思います。

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侍ホリタン

明智光秀公の安土城進行を阻止した名城を訪ねて (2023/04/06 訪問)

当時の遺構としては何も残っていませんが、架け替えられた瀬田唐橋と瀬田城跡の石碑が当時を偲ばせてくれます。「瀬田橋を制するものは天下を制する」と言われた瀬田の唐橋の東南に位置しており、橋・東海道・東山道を監視する役目を担っていました。本能寺の変で織田信長公を討った明智光秀公の安土城進行を防ぐため、城主の山岡景隆公は瀬田の唐橋を焼き払ったと言われています。
その後の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家公に内通した事から豊臣秀吉公によって瀬田城を追われています。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:瀬田城 (2022/07/28 訪問)

山科本願寺からの転戦です。山科駅から電車を乗り継ぎ唐橋前駅に着きました。
そこから徒歩10分くらいで瀬戸唐橋説明板前(34.972457、135.907656)を経由して石碑説明板前(34.970824、135.906849)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永享年間(1429年〜1441年)に山岡氏の一族で田上城主であった山岡資広によって築かれたと云われています。
山岡氏の出自は詳らかではないようですが、甲賀の伴氏の後裔といわれ、甲賀郡山岡発祥とされます。
山岡氏ははじめ佐々木六角氏に仕えており、山岡景隆の時代には「江南の旗頭」と呼ばれる程の実力を持っていたそうです。
1568年(永禄11年)織田信長の上洛軍が攻め寄せ佐々木六角が観音寺城を捨てて逃れる頃になると、信長に降ったそうです。
その後は信長に仕えて伊勢国大河内城攻めや雑賀攻め、伊賀攻めなどに従軍しています。
1582年(天正10年)信長が本能寺の変に倒れると、明智光秀の誘いを断って勢多橋を焼き落として山中へ逃れたそうです。
その後は織田信雄に味方して伊勢峰城攻めに参加したが、賎ヶ岳合戦の折りに柴田勝家に通じたと疑われ、瀬田城を捨てて出奔し山岡城に蟄居したそうです。

瀬田城は瀬田川の東岸、瀬田唐橋(GPS参照:説明板があります)の南側付近に築かれていたそうです。
現在は宅地などとなり遺構はありませんが、県道29号線沿いに石碑と説明板があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=衣川城を目指す為、電車で唐橋前駅から堅田駅に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 山岡資広
築城年 永享年間(1429〜1441)
主な城主 山岡氏
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 滋賀県大津市瀬田2-13(地図は石碑の場所を示す)
問い合わせ先 大津市歴史博物館
問い合わせ先電話番号 077-521-2100