せたじょう

瀬田城

滋賀県大津市


旧国名 : 近江

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「瀬田城趾」石碑
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侍ホリタン

明智光秀公の安土城進行を阻止した名城を訪ねて (2023/04/06 訪問)

当時の遺構としては何も残っていませんが、架け替えられた瀬田唐橋と瀬田城跡の石碑が当時を偲ばせてくれます。「瀬田橋を制するものは天下を制する」と言われた瀬田の唐橋の東南に位置しており、橋・東海道・東山道を監視する役目を担っていました。本能寺の変で織田信長公を討った明智光秀公の安土城進行を防ぐため、城主の山岡景隆公は瀬田の唐橋を焼き払ったと言われています。
その後の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家公に内通した事から豊臣秀吉公によって瀬田城を追われています。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:瀬田城 (2022/07/28 訪問)

山科本願寺からの転戦です。山科駅から電車を乗り継ぎ唐橋前駅に着きました。
そこから徒歩10分くらいで瀬戸唐橋説明板前(34.972457、135.907656)を経由して石碑説明板前(34.970824、135.906849)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永享年間(1429年〜1441年)に山岡氏の一族で田上城主であった山岡資広によって築かれたと云われています。
山岡氏の出自は詳らかではないようですが、甲賀の伴氏の後裔といわれ、甲賀郡山岡発祥とされます。
山岡氏ははじめ佐々木六角氏に仕えており、山岡景隆の時代には「江南の旗頭」と呼ばれる程の実力を持っていたそうです。
1568年(永禄11年)織田信長の上洛軍が攻め寄せ佐々木六角が観音寺城を捨てて逃れる頃になると、信長に降ったそうです。
その後は信長に仕えて伊勢国大河内城攻めや雑賀攻め、伊賀攻めなどに従軍しています。
1582年(天正10年)信長が本能寺の変に倒れると、明智光秀の誘いを断って勢多橋を焼き落として山中へ逃れたそうです。
その後は織田信雄に味方して伊勢峰城攻めに参加したが、賎ヶ岳合戦の折りに柴田勝家に通じたと疑われ、瀬田城を捨てて出奔し山岡城に蟄居したそうです。

瀬田城は瀬田川の東岸、瀬田唐橋(GPS参照:説明板があります)の南側付近に築かれていたそうです。
現在は宅地などとなり遺構はありませんが、県道29号線沿いに石碑と説明板があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=衣川城を目指す為、電車で唐橋前駅から堅田駅に向かいます。

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イオ

瀬田の唐橋 (2021/09/20 訪問)

室町期に山岡氏が築いた城で、元は六角氏に仕えていましたが、山岡景隆が城主の頃、織田信長が上洛し六角氏が近江を追われた後は信長に従い、本能寺の変の後には明智光秀の誘いを拒み、瀬田の唐橋を焼き落として明智軍の安土城侵攻を遅らせました。その後、賤ヶ岳の戦いで柴田方に与したとして羽柴秀吉により改易され、廃城となったようです。

城跡は現在ではマンションとなり、遺構は消滅していますが、マンション西側の県道沿いに石碑が建てられ、その南には城跡にちなんででしょうか、城郭風の石垣と土塀が設けられています。

瀬田城から北に徒歩3分、日本三大名橋に数えられる瀬田の唐橋は東海道・東山道から京都に至る交通の要衝で、「瀬田橋を制するものは天下を制する」と言われるとおり、本能寺の変のみならず、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、承久の乱、建武の戦い、観応の擾乱と、各時代の戦乱の舞台になっています。また、千利休と古田織部の逸話で知られる唐橋の擬宝珠は信長の架橋により設けられたもので、現在も江戸期の擬宝珠が現存しています。

瀬田の唐橋は俵藤太秀郷の百足退治の伝承地でもあり、瀬田城と唐橋の間にある勢多橋龍宮秀郷社は、伝承に語られる瀬田川の龍神と秀郷を祭神とし、その東隣の雲住寺は秀郷の供養のために子孫の蒲生氏により建立され、百足供養塔と虫塚があります。瀬田川中洲の南側には陶製の秀郷像も建てられていました。

# ぴーかるさんの投稿にある浮気住吉神社のことは知らなかったので、いつか浮気城を訪れた時にチェックしてみたいものです。

瀬田の唐橋は「急がば回れ」の語源とも言われますが、満々と水をたたえて流れる瀬田川を見ていると、唐橋の重要性を実感できます。
これは橋なくして軍勢を動かすのは困難ですね…。
 

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ぴーかる

瀬田城・瀬田の唐橋 (2021/07/25 訪問)

【瀬田城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>京阪石山坂本線 唐橋前駅より徒歩

<感想>JR・京阪・阪急 3電鉄利用の旅2城目。瀬田城は山岡氏が興った永享年間(1429~1441年)に築城されたとされ歴代山岡氏が治めていた。戦国時代山岡景隆は織田信長に仕え、有名なのが本能寺の変の際に景隆は瀬田の唐橋と瀬田城を焼いたことで明智光秀が安土に向かうのを3日間足止めしている。現在は県道号線の道脇に石碑が残るのみとなっている。

 瀬田の唐橋は乱の起こるたびに焼き落とされた橋で、本格的に架けたのが1575年、織田信長が家臣となった山岡景隆に命じたものがあるようです。その時橋に初めて擬宝珠が付けられたそうです。また俵の藤太の大百足退治発端の場所でもあります。琵琶湖の龍神が翁に化けて、三上山(現在の近江富士)に巣作った大百足が琵琶湖の魚を食べつくして困っているので瀬田の唐橋でスカウトした藤原秀郷(俵の藤太)に退治をたのみます。先に行った浮気住吉神社と繋がって納得しました。
 古代の時代から交通または軍事の要衝の場所で今でも西側の国道422号線と東の県道559号線を結ぶ橋となっており右折渋滞がよく起こっています。私も車やバイクで行楽の度々渡った経験がありますが、徒歩でじっくり鑑賞しながらは初めて。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 山岡資広
築城年 永享年間(1429〜1441)
主な城主 山岡氏
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 滋賀県大津市瀬田2-13(地図は石碑の場所を示す)
問い合わせ先 大津市歴史博物館
問い合わせ先電話番号 077-521-2100