のうけんじょう

能見城

山梨県韮崎市


旧国名 : 甲斐

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しんちゃん

遺構はいずこ? (2025/03/15 訪問)

能見城は二度目の訪問になりますが、正直まったく記憶に残っていません。それもそのはずで小山の上が城址になるのですが、遺構が何も見当たらなかったからです。舗装された車道が上までついているようなので、雨天もあり、車で登ってみたのですが、途中から酷い悪路になりました。やはり下から歩いたほうが無難です。
南北朝の時代に甲斐国守護職武田氏の一族の穴山義武が当地を本拠地としたとされています。能見城は天正9年(1581)新府城の支城として武田氏によって築かれたとされています。また天正壬午の乱の際に徳川氏に改修されたとも伝わりますが、その割にはめぼしい遺構は見当たりません。

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カズサン

穴山駅頭より能見城壁字が眼前に! (2023/05/04 訪問)

 日帰り甲州路城探訪の3城目新府城を終えて七里岩ラインを約1km程北上すると4城目の能見城に着きます。
 車は城びと会員の皆さんの情報で穴山駅の上り線側に穴山さくら公園が在り専用無料駐車場(35°45'01"N 138°24'54"E H=530m)を利用しました。

 穴山駅東駅頭には「中世の豪族穴山氏紹介」案内板、「穴山氏史蹟略図」「穴山町周辺の観光マップ」などの案内板が設置されています。
 穴山駅から徒歩で少し七里岩ラインを南側に戻り山側に舗装路を登ると逆方向に登る砂利道が有り登って行くと道なりに頂上に着きます、砂利道は轍が付き中央は草がぼうぼう、登る途中に曲輪が樹林間、竹林間に覗き見れます、本丸頂上には給水関連施設と「能見城址」看板、守屋一族の碑と祠、少し下がった南側に草に覆われた長靖寺が見えます、入口は草が茂り最近人の出入りは無い模様。
 頂上本丸跡北側下には樹林に覆われていますが曲輪の様な平地確認、後は下城しましたが遺構は良く分かりません、帰って投稿するときにグーグルマップを再見し、北側に能見城防塁跡、西側山麓に能見長塁西枡形虎口跡の史跡マークが有り、新府城の七里岩防衛ライン上に在る能見城の出城の位置付けが裏付けられるようです?

 穴山と言うと穴山梅雪を思い出しますが?近くに穴山氏居館跡が在りますが寄っていません。

 次は5城目先達城、甲州ではありませんが信州との国境の城、近いので寄ってみます。
 

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ぴーかる

能見城 (2023/01/08 訪問)

【能見城】
<駐車場他>穴山さくら公園駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>新春1泊2日甲府盆地の旅ラスト6城目。能見城は1581年に新府城の支城として築城されました。城というよりは新府城の一部として七里岩台地の北端の防塁といった目的で築造されたようです。武田氏滅亡後、本能寺の変を経て天正壬午の乱の時に新府城に徳川軍が陣を置いているのでこの能見城も手を加えていると考えられえます。
 西側の登城口からはスロープ状の道路を登って行くと簡単に頂上に着きます。北側の斜面は段状の曲輪になっており東側最奥にいくと木々の隙間から秩父山地の絶景が望めます。北の段の下の方は曲輪壁がコンクリート壁になっているので現代の手が加えられています。山頂の長靖寺の南下段は少し切岸や堀になっていますが、その下の段からもコンクリート壁になっています。城跡の東側はスロープ状になってはいますが改変時の重機の通り道であったかもしれません。ちょっと遺構は不明瞭でしたが段状曲輪の遺構をそのままの状態で曲輪壁だけコンクリートにしたならば構造はなんとなく分かりました。北麓が穴山氏の本拠地になっていました。
 これにて終了。32年ぶりの山梨県、城と食を楽しみ思い出残る旅になりました。また今回は雨にも遭遇せず良かった。915㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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じゅんじん

新府城の出城? (2022/04/06 訪問)

新府城とセットでどうぞ。主郭にお寺があります。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 武田氏?、徳川氏?
築城年 天正9年(1581)
主な改修者 徳川家康
主な城主 武田氏、徳川氏
遺構 土塁
再建造物
住所 山梨県韮崎市穴山町夏目