かめやまじょう

亀山城

和歌山県御坊市

別名 : 丸山城、湯川城、湯河城
旧国名 : 紀伊

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①一郭にある城址碑
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昌官忠

(東海&関西)遠征16日目:亀山城 (2025/05/30 訪問)

レンタサイクル 丸仁商店(日高観光案内所 JR御坊駅前)で自転車を借りました。
電動はなく、しかもミニサイクルです。これが悲運の始まりです。
自転車で5分くらい走って、丸山中央集会所(33.909278、135.151014)に着き、石碑と説明板を確認しました。
そこから、経由点(33.909879、135.151727)を経て、三明寺付近(33.909554、135.152231)に着き、避難路を登り南側虎口に着きました。

亀山城は、湯河氏3代当主・弥太郎光春により築かれたとされ、築城時期は1348年(正平3年/貞和4年)頃とも1439年(永享11年)頃とも云われ定かではないようです。
その後代々湯川氏の居城でしたが、11代湯川直光は1549年(天文18年)頃に小松原館を築きました。
これは単なる居館ではなく平城であったと云われ、移した理由については「亀山城は寒風の季節は住みにくい」というものだったそうです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による紀州攻めへの抵抗を決めた湯河氏当主の直春は、羽柴軍が亀山城に迫ると自ら城を焼き払って退去し後に和睦しました。
しかし、1586年(天正14年)湯川直春は羽柴秀長の居城である大和郡山城で没しました。一説に謀殺されたとも伝えられています。

丸山集会所に案内板や復元図が設置されていて、そこから主郭まで整備されています。
水平線まで見える眺望も良く、大規模な土塁も残っています。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=小坊子城へ自転車で向かいました。

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しんちゃん

羽柴軍に抵抗するものの (2025/03/30 訪問)

亀山城は戦国時代、有田・日高・牟婁郡主要部を支配した湯川一族の本城であったと現地の石碑に記載があります。頂部に土塁を備えた主郭が有り1mほどの高低差をもって二段になっていました。
周囲に多数の腰郭や帯郭があるようですが、草に覆われていて良く見えません。城址は亀山山頂にあり、一応林道が付いていますが、車を空きスペースに停め、歩いて登ります。
天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めの際、城主・湯川直春は秀吉に対し抗戦の意志を示すものの、娘婿の玉置直和は秀吉に恭順し、直春は200余騎にて直和の居城である手取城を焼き払いました。
その後、羽柴方の大軍に攻められ、直春は城に火をかけ退去し、その後も羽柴方と争いを続けました。最終的には両者は和解するものの直春は大和郡山城で死去し、一説には毒殺されたという説があるようです。

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小松原館 (2025/02/11 訪問)

 城びと先人が亀山城について詳しくレポートしておられるので、城主の湯川氏の居館について。
 亀山城を詰めの城として、亀山城南側、山麓から少し離れた平地に湯川氏の小松原館がありました。室町時代には幕府の奉公衆として位置づけられた、有力者でした。小松原館は、200m四方の大きさを誇ったと。現在は、紀央館高校と湯川中学校の敷地になっています。
 小松原館は、熊野街道沿いの宿として発達した小松原の北に隣接して築かれたと。そして、街道に関所を設けて熊野詣に訪れる人々から、関銭を取ったとのこと。
 湯川中学校南側側に湯川子安神社があり、小松原館の庭のなごりである、土盛と池が残っています。

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小城小次郎

室町幕府奉公衆であった湯河氏の城 (2023/11/05 訪問)

麓の小松原居館とともに室町幕府奉公衆であり畠山氏被官でもあった湯河氏の本拠だったお城。御坊市湯川町を苗字の地とする湯河氏の家紋は武田菱で、調べてみたら甲斐武田氏の誰かが紀州に渡って湯河氏の祖になったとか。へー。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 湯川光春
築城年 室町時代前期
主な城主 湯川氏
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 市史跡
再建造物 石碑、説明板
住所 和歌山県御坊市湯川町丸山
問い合わせ先 御坊市教育委員会生涯学習課
問い合わせ先電話番号 0738-23-5525