麓の小松原居館とともに室町幕府奉公衆であり畠山氏被官でもあった湯河氏の本拠だったお城。御坊市湯川町を苗字の地とする湯河氏の家紋は武田菱で、調べてみたら甲斐武田氏の誰かが紀州に渡って湯河氏の祖になったとか。へー。
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2024/05/24 07:39
2022/03/17 08:00
みかんと梅(出城) (2022/02/26 訪問)
(続き)
南東の小曲輪群を抜けて山道を下って行くと、登城道から分岐した舗装道に至ります。案内表示に従って鳳生寺の方向に進むと5分ほど歩いたところで右手に梅園が広がり、その奥の竹藪が出城です。梅園の南縁を奥に進み、丸木橋を渡って出城へ。出城は主郭の周囲に腰曲輪、帯曲輪を配し、北辺に横堀をめぐらせ、東端は三重堀切により東尾根を遮断しています……が、竹藪と雑木林と化していて探索しづらい状況です。
梅園ではちょうど時季的に梅が綺麗に咲いていましたが、本城はみかん山、出城は梅園の奥というのは、有田みかんと南高梅の両産地の間に位置する日高地方らしいなぁ、などと春の訪れを感じつつの亀山城登城でした。
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2022/03/16 08:10
みかんと梅(本城) (2022/02/26 訪問)
南北朝期に湯川光春が築いた城で、室町幕府奉公衆を務めた湯川氏の本城として200年にわたりこの地を治めました。羽柴秀吉の紀州攻めでは、湯川直春は亀山城を焼き払い退去して熊野山間部で抵抗を続け、和睦により本領安堵されるも、翌年に急死(謀殺?)しています。
日高平野の中央に位置する亀山の山頂を中心に曲輪群を配した本城と東尾根の出城で構成される山城で、南麓の小松原館の詰城として機能したと考えられます。
西麓の丸山中央集会所に車を駐めて登城開始。集会所には「亀山城址護持顕彰会」の看板が掲げられ、亀山城の説明板や石碑が建てられています。亀山は津波の避難場所に指定されているため山頂まで舗装道が整備されており、あちこちに設けられた案内表示に従ってみかん山を登ること15分で「本城」と呼ばれる山頂の主郭部に到着。
南北二段からなる主郭は周囲を分厚い土塁で囲み、土塁の南東隅、南西隅は櫓台状になっていて、南西隅からは日高平野を一望することができます。主郭下段の南部と西部には平入りの虎口が開口し、大手口にあたる南部の虎口には鏡石状に巨石が置かれています。坂虎口状のスロープから主郭上段へ。主郭上段には城址碑と亀山城主湯川氏供養塔が建てられています。北辺の土塁に上ってみると北下に腰曲輪が広がっており、切岸は急峻でなかなかの高さがあります。北下だけでなく主郭の南西下や南東下にも整備された腰曲輪があり、さらに主郭部の周囲を帯曲輪が幾重にも囲んでいたようですが、現在では段々のみかん畑になっていて往時の面影は窺えません。
続いて、南東隅の櫓台から南東に派生する小曲輪群へ。主郭部と違ってこちらはほぼ未整備で、雑木林の中に階段状の曲輪群が見られるくらいです。さて、小曲輪群を抜けると東尾根の出城に向かいます(続く)。
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2020/06/15 23:23
戦国時代の紀州では西の横綱とも呼ばれる湯河氏の本城 (2018/01/01 訪問)
湯河氏は紀伊守護の畠山氏を追放し事実上の守護とまで言われるほど勢力を持っていたそうです。
本丸周辺は良く整備され、本丸を囲んだ土塁が良く残っていて、この城の見所でした。
山城なのにトイレもありました。
当時は山全体に曲輪が配置された大規模な城だったようですが、今は大半がみかん畑になってしまっています。
本丸から東へ少し離れた出丸は藪で見辛かったですが、規模は小さいながら堀切や横堀が確認できました。
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分類・構造 | 山城 |
---|---|
築城主 | 湯川光春 |
築城年 | 室町時代前期 |
主な城主 | 湯川氏 |
遺構 | 曲輪、土塁 |
指定文化財 | 市史跡 |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 和歌山県御坊市湯川町丸山 |
問い合わせ先 | 御坊市教育委員会生涯学習課 |
問い合わせ先電話番号 | 0738-23-5525 |