おおつじょう

大津城

滋賀県大津市

別名 : 雲浜城
旧国名 : 近江

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①	大津城跡碑
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トク

大津城と三井寺 (2024/11/11 訪問)

大津城跡に行き(写真①)、そこから琵琶湖の景色を眺めた後(写真②)、西へ2kmの高台の所にある三井寺(みいでら)を訪れてきました(写真③④⑤)。この寺は、天台寺門宗の総本山で、天智・天武・持統天皇の産湯があったとされ御井(みい)の寺と呼ばれたのが名前の由来だそうです。

また紫式部の父「藤原為時」は、越後の守として赴任していた最中に、娘の式部(まひろ)が死去してしまったため悲嘆に暮れ、この三井寺に出家し晩年を過ごしたと伝わっています。

そして関ケ原の前哨戦「大津城の戦い」では、毛利元康・立花宗茂・筑紫広門の筑後勢15,000がこの三井寺に陣を敷き、眼下の大津城を攻めます(写真⑥)。しかし守る京極高次も善戦し、なかなか城は落ちません。そこで宗茂は、大友宗麟が臼杵城で所有していた国崩し(大砲)を取り寄せ、この三井寺の観音堂から大津城めがけて何と砲撃! 高次はこれに驚いて降伏し開城しました。関ケ原本戦の1日前の出来事でした。私はまた想像図を作ってみました。こんな感じだったのではないでしょうか?(写真⑦)。

【余談1】近江ちゃんぽん
大津駅前で近江ちゃんぽんを食べました(写真⑧)。長崎より麺は細いし豚骨でもないし・・・と思っていたら「通の食べ方」と書いてあり、「この酢をかけよ!」とあったのでかけて見ると味が一変! さっぱり味でとても新鮮な感覚のちゃんぽんでした(これが近江の味か~!🤔)。

【余談2】東横インフォトコンテスト(珍百景)
大津城跡から今夜泊まる「東横イン琵琶湖大津」が見えたのでそこへ行こうとすると、電車軌道ではないアスファルト道路の上を、何とでっかい電車(四両編成)が走っている?(写真⑨)。そしてホテルの前で間近で見ると、そのでっかい電車は道路の信号が赤になると車といっしょに止まり、青になるとまた車と一緒に動き出しました(何これ~😱珍百景?)(写真⑩)。
 

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しんちゃん

大津曳山展示館駐車場に石垣の一部が残る。 (2023/12/03 訪問)

大津城は浜大津の琵琶湖に面した浜に築かれていた水城です。天正14~15年頃に築かれ、築城に際して坂本城の遺材が使われたとのことです。大津港あたりに本丸が築かれ南に二の丸・奥二の丸が配され、その周囲に三の丸が配されていました。文禄4年(1595)に京極高次が入場し、慶長5年関ヶ原の合戦の前に西軍の毛利元康率いる1万5000の大軍の攻撃を受けるも敵を十分に引きつけ和睦に至りますが、結果的に東軍の勝利に大いに貢献したとのことです。城は大破しますが天守は後に彦根城に移築され国宝に指定されています。
部材は膳所城や彦根城に転用されて遺構はほとんど残っていませんが大津曳山展示館(無料)左手の駐車場にかつての石垣の一部が残っています。

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侍ホリタン

関ヶ原の戦いの前哨戦、西軍1万5千の兵を足止めさせた名城を訪ねて (2022/08/07 訪問)

滋賀県大津市、京阪電鉄浜大津駅一帯にあった水城です。京阪電鉄浜大津駅出てすぐ琵琶湖湖岸近くの本丸跡に石碑と縄張り図があります。初代城主は築城者の浅野長政公で、京極高次公が城主の時に関ヶ原の戦いの前哨戦「大津城の戦い」が起こりました。西軍の一員として北陸方面に出陣していた京極高次公は、突如東軍に寝返り大津城に立て籠もり、西軍1万5千との籠城戦となりました。結果は西軍の勝利に終わってますが、大津城開城が関ヶ原の戦いの当日であった為、西軍1万5千の兵は関ヶ原の戦いに参加する事が出来ませんでした。戦後、大津城は廃城となりますが、建物の一部が彦根城に転用、移築されています。

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トク

⑪【関ケ原の26人】(6)京極高次 (京極高次と大津城) (2022/10/25 訪問)

(6人目)は「京極高次」です。
関ケ原当時の居城であった「大津城」を訪れてきました。

大津城は琵琶湖に面した場所にありました。現在の「京阪びわこ浜大津駅」のあたりに四重五階の天守があったようです。駅前にはかつてここに城があった事を示す石碑と縄張図がありました(写真①②③④)。大津城は関ケ原後に廃城となり、その資材は彦根城や膳所城の普請に使われたようです。駅前からは琵琶湖遊覧船も出ていました(写真⑤)。今度来た時はゆっくり琵琶湖を回ってみたいな~と思いました。

京極高次は、西軍に付き北陸方面を大谷吉継とともに行動していましたが、関ケ原へ向かう途中で、突然吉継と離れ大津城へ帰還します。高次の妻は浅井三姉妹の次女(淀の妹)「初」です。まさか豊臣の縁者が裏切るとは思ってもいなかったので大坂城では動揺が走ります。初は高次の説得に向かいますが、高次は東軍に付く事を決意します。

これを知った石田三成は、立花宗茂の3,000と毛利元康・毛利秀包(元就の8・9男)筑紫広門の12,000(2-3万とも)を向かわせました。しかし2週間の籠城戦の末なかなか落ちません。そこで最後は秘密兵器、大友宗麟が臼杵城で使った国崩し(大砲)を取り寄せ砲撃! 驚いた高次は降伏し城を明け渡したのが、関ケ原本戦当日の9月15日でした。宗茂はこれから関ケ原へ向かい明日16日には到着すると三成へ知らせを出すも、入れ違いで敗戦が決したとの報が入ります。宗茂と元康・秀包・広門らの軍勢は、何と1日の差で本戦に間に合いませんでした。そして彼らは失意の内に大坂城へ引き揚げます。

立花軍はわずか3,000ですが、その強さは蔚山(ウルサン)の戦いで実証済み。あの時は、他の諸将が尻込みする中、単独で朝鮮・明連合軍30,000を相手に勝利し加藤清正の救出に成功しました。家康もそれを知って「立花の3千は1万以上に匹敵する」と西軍最強の精鋭部隊と位置付けていたようです。よって、この立花軍らの大軍勢を釘付けにした事を高く評価し、高次は若狭小浜82,000石へ加増転封となりました。

私は駅前の歩道橋の上(当時の天守に近い場所)から琵琶湖を眺めながら考えてみました(写真⑥)。高次はなぜ大谷吉継を裏切り、豊臣をも裏切ったのでしょうか?

高次は、浅井長政の姉の子で、浅井家滅亡後、明智光秀や柴田勝家に味方するも、いずれも敗北。名門の京極家は存続のため高次の妹(竜子)は秀吉の側室となり、そして「初」を正室に迎えるなど、豊臣との縁者となって再興する事ができました。にもかかわらず・・・

宗茂ファンの私なのでちょっと複雑な気持ちですが、しかしこの部隊を釘付けにした高次の功績は家康にとっては非常に大きかったと思います。でなければ小早川も裏切る事はできなかったでしょう。よって私はこの京極高次に「殊勲賞」をあげたいと思います😊。

次は、(7人目)へ続きます。
 

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城郭情報

分類・構造 水城
天守構造 望楼型[4重5階/1586年頃/解体]
築城主 浅野長政
築城年 天正14年(1586)
主な城主 浅野氏、増田氏、新庄氏、京極氏
廃城年 慶長6年(1601)
遺構 石垣
再建造物 石碑
住所 滋賀県大津市浜大津
問い合わせ先 大津市歴史博物館
問い合わせ先電話番号 077-521-2100