⑪【関ケ原の26人】(6)京極高次 (京極高次と大津城)
(2022/10/25 訪問)
(6人目)は「京極高次」です。
関ケ原当時の居城であった「大津城」を訪れてきました。
大津城は琵琶湖に面した場所にありました。現在の「京阪びわこ浜大津駅」のあたりに四重五階の天守があったようです。駅前にはかつてここに城があった事を示す石碑と縄張図がありました(写真①②③④)。大津城は関ケ原後に廃城となり、その資材は彦根城や膳所城の普請に使われたようです。駅前からは琵琶湖遊覧船も出ていました(写真⑤)。今度来た時はゆっくり琵琶湖を回ってみたいな~と思いました。
京極高次は、西軍に付き北陸方面を大谷吉継とともに行動していましたが、関ケ原へ向かう途中で、突然吉継と離れ大津城へ帰還します。高次の妻は浅井三姉妹の次女(淀の妹)「初」です。まさか豊臣の縁者が裏切るとは思ってもいなかったので大坂城では動揺が走ります。初は高次の説得に向かいますが、高次は東軍に付く事を決意します。
これを知った石田三成は、立花宗茂の3,000と毛利元康・毛利秀包(元就の8・9男)筑紫広門の12,000(2-3万とも)を向かわせました。しかし2週間の籠城戦の末なかなか落ちません。そこで最後は秘密兵器、大友宗麟が臼杵城で使った国崩し(大砲)を取り寄せ砲撃! 驚いた高次は降伏し城を明け渡したのが、関ケ原本戦当日の9月15日でした。宗茂はこれから関ケ原へ向かい明日16日には到着すると三成へ知らせを出すも、入れ違いで敗戦が決したとの報が入ります。宗茂と元康・秀包・広門らの軍勢は、何と1日の差で本戦に間に合いませんでした。そして彼らは失意の内に大坂城へ引き揚げます。
立花軍はわずか3,000ですが、その強さは蔚山(ウルサン)の戦いで実証済み。あの時は、他の諸将が尻込みする中、単独で朝鮮・明連合軍30,000を相手に勝利し加藤清正の救出に成功しました。家康もそれを知って「立花の3千は1万以上に匹敵する」と西軍最強の精鋭部隊と位置付けていたようです。よって、この立花軍らの大軍勢を釘付けにした事を高く評価し、高次は若狭小浜82,000石へ加増転封となりました。
私は駅前の歩道橋の上(当時の天守に近い場所)から琵琶湖を眺めながら考えてみました(写真⑥)。高次はなぜ大谷吉継を裏切り、豊臣をも裏切ったのでしょうか?
高次は、浅井長政の姉の子で、浅井家滅亡後、明智光秀や柴田勝家に味方するも、いずれも敗北。名門の京極家は存続のため高次の妹(竜子)は秀吉の側室となり、そして「初」を正室に迎えるなど、豊臣との縁者となって再興する事ができました。にもかかわらず・・・
宗茂ファンの私なのでちょっと複雑な気持ちですが、しかしこの部隊を釘付けにした高次の功績は家康にとっては非常に大きかったと思います。でなければ小早川も裏切る事はできなかったでしょう。よって私はこの京極高次に「殊勲賞」をあげたいと思います😊。
次は、(7人目)へ続きます。
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