おおつじょう

大津城

滋賀県大津市

別名 : 雲浜城
旧国名 : 近江

投稿する
①外堀石垣跡
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大津城 (2025/05/20 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、大津城と大津宿本陣跡を攻城しました。
ホテルから徒歩10分くらいで、三の丸尾花川口跡(35.013686、135.859864)に着き、その後、大津城石碑前(35.012052、135.864251)➡外堀石垣跡前(35.008491、135.863579)の順番に巡りました。

大津城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年9月2日に来ました。
前回は大津城の石碑のみの攻城でしたので、今回は遺構である外堀石垣跡を目的に攻城しました。

遺構はほとんど残っていませんが、大津祭曳山展示館の裏手に外堀の石垣がわずかに残っています。近くに寺田屋お登勢の実家・升屋跡もありました。
また駅の歩道橋を琵琶湖側に降りたところに大津城跡の石碑があります。
攻城時間は25分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=大津宿本陣跡に徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

17年ぶり (2024/12/18 訪問)

意外に久しぶりでした。石垣の一部が現存しています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

大津城と三井寺 (2024/11/11 訪問)

大津城跡に行き(写真①)、そこから琵琶湖の景色を眺めた後(写真②)、西へ2kmの高台の所にある三井寺(みいでら)を訪れてきました(写真③④⑤)。この寺は、天台寺門宗の総本山で、天智・天武・持統天皇の産湯があったとされ御井(みい)の寺と呼ばれたのが名前の由来だそうです。

また紫式部の父「藤原為時」は、越後の守として赴任していた最中に、娘の式部(まひろ)が死去してしまったため悲嘆に暮れ、この三井寺に出家し晩年を過ごしたと伝わっています。

そして関ケ原の前哨戦「大津城の戦い」では、毛利元康・立花宗茂・筑紫広門の筑後勢15,000がこの三井寺に陣を敷き、眼下の大津城を攻めます(写真⑥)。しかし守る京極高次も善戦し、なかなか城は落ちません。そこで宗茂は、大友宗麟が臼杵城で所有していた国崩し(大砲)を取り寄せ、この三井寺の観音堂から大津城めがけて何と砲撃! 高次はこれに驚いて降伏し開城しました。関ケ原本戦の1日前の出来事でした。私はまた想像図を作ってみました。こんな感じだったのではないでしょうか?(写真⑦)。

【余談1】近江ちゃんぽん
大津駅前で近江ちゃんぽんを食べました(写真⑧)。長崎より麺は細いし豚骨でもないし・・・と思っていたら「通の食べ方」と書いてあり、「この酢をかけよ!」とあったのでかけて見ると味が一変! さっぱり味でとても新鮮な感覚のちゃんぽんでした(これが近江の味か~!🤔)。

【余談2】東横インフォトコンテスト(珍百景)
大津城跡から今夜泊まる「東横イン琵琶湖大津」が見えたのでそこへ行こうとすると、電車軌道ではないアスファルト道路の上を、何とでっかい電車(四両編成)が走っている?(写真⑨)。そしてホテルの前で間近で見ると、そのでっかい電車は道路の信号が赤になると車といっしょに止まり、青になるとまた車と一緒に動き出しました(何これ~😱珍百景?)(写真⑩)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

大津曳山展示館駐車場に石垣の一部が残る。 (2023/12/03 訪問)

大津城は浜大津の琵琶湖に面した浜に築かれていた水城です。天正14~15年頃に築かれ、築城に際して坂本城の遺材が使われたとのことです。大津港あたりに本丸が築かれ南に二の丸・奥二の丸が配され、その周囲に三の丸が配されていました。文禄4年(1595)に京極高次が入場し、慶長5年関ヶ原の合戦の前に西軍の毛利元康率いる1万5000の大軍の攻撃を受けるも敵を十分に引きつけ和睦に至りますが、結果的に東軍の勝利に大いに貢献したとのことです。城は大破しますが天守は後に彦根城に移築され国宝に指定されています。
部材は膳所城や彦根城に転用されて遺構はほとんど残っていませんが大津曳山展示館(無料)左手の駐車場にかつての石垣の一部が残っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 水城
天守構造 望楼型[4重5階/1586年頃/解体]
築城主 浅野長政
築城年 天正14年(1586)
主な城主 浅野氏、増田氏、新庄氏、京極氏
廃城年 慶長6年(1601)
遺構 石垣
再建造物 石碑
住所 滋賀県大津市浜大津
問い合わせ先 大津市歴史博物館
問い合わせ先電話番号 077-521-2100