2城目、今帰仁城の続き(2/2)です。大曲りと呼ばれる1.5kmにわたる城壁は圧巻でした。そしてその曲線美はとても美くし感じました(写真①②)。特に北の志慶真門郭から本郭を見上げた城壁の景色には圧倒されてしまいました(写真⑧⑨)。
今帰仁城をこのような石垣の城壁にしたのは1390年頃に北山を統一した「怕尼芝」(はねじ)だとされています。そしてここから「珉」(みん)「攀安知」(はんあんち)までの三代にわたり北山王を名乗り北山は全盛期を迎えます。しかし1416年に攀安知は中山王の尚巴志(しょうはし)により滅ぼされ、ここに琉球は尚氏により統一されました。
護佐丸はこの尚巴志の北山討伐軍に加わり先頭になって戦いました。そして多大な功績を上げ琉球王となった尚巴志から絶大なる信頼を得て、占領後の北山の監守役を任されます。王との深い絆ができた瞬間でした。
主郭には居館の跡がありました(写真⑤)。監守時代の護佐丸はここで5年間を過ごしたものと思われます。先祖の土地へ戻った護佐丸は、毎日ここからどんな思いでこの美ら海(ちゅらうみ)を眺めていたのでしょうか(写真⑩)。
王はその5年後に北山に潜む族からの反乱を恐れて、護佐丸に首里を守る地に新たな城を築くよう命じます。命を受けた護佐丸は山田城に戻り、その山田城の西8kmの読谷(よみたん)村の座喜味の丘に城を築く事を決意しました。
次は、その護佐丸が築城名人と言われる由縁となった「座喜味城」を訪れます。
+ 続きを読む