やっぱり中世初期?の城は堀と土塁なんだと実感。
特に本丸背後(北側)の土塁は巨大です。
また、北曲輪との間にある堀も深く広いもので、鎧を着て登るのは無理では…と思いました。
残念ながら、本丸周りの堀と土塁以外はあまり遺構が残っていないようですが、堀と土塁だけでも見応えアリです。
天気が悪く、大空堀の底をウロチョロ出来ませんでしたが、約30分もあれば、見て周れそうです
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2025/10/11 14:20
デカい土塁 (2025/10/11 訪問)
やっぱり中世初期?の城は堀と土塁なんだと実感。
特に本丸背後(北側)の土塁は巨大です。
また、北曲輪との間にある堀も深く広いもので、鎧を着て登るのは無理では…と思いました。
残念ながら、本丸周りの堀と土塁以外はあまり遺構が残っていないようですが、堀と土塁だけでも見応えアリです。
天気が悪く、大空堀の底をウロチョロ出来ませんでしたが、約30分もあれば、見て周れそうです
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2025/10/11 13:56
江戸城天守を再建する会オンライン講演会~なぜ名古屋城天守閣木造再建計画は進まないのか(その2)~ (2025/10/08 訪問)
2025年10月8日 講師:三浦正幸広島大学名誉教授 テーマ:天守台の石垣について
視聴用URL:https://youtu.be/EY6NsQPGMsY 2016年に策定された名古屋城天守閣木造再建計画は、2022年完成をめざしました。しかし、現存する石垣の上に、木造天守を再建することにつき、関係者間で疑念が提起され、8年後の現在になっても合意が成立せず、けいかくは停滞しています。この問題は、江戸城天守再建を進めるに当たっても、避けて通りことのできない重要課題です。当会顧問の三浦正幸広島大学名誉教授が、新たな視点から解決策を提言します。
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2025/10/11 11:10
モシリヤチャシ (2024/09/14 訪問)
ハルトルチャランケチャシからまわりました。
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2025/10/11 11:05
ハルトルチャランケチャシ (2024/09/24 訪問)
モシリヤチャシと同時にまわることをお勧めです。
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2025/10/11 11:04
思ったよりデカい (2025/10/11 訪問)
ビジターセンターで予習して攻城。
資料等では分からなかったが、曲輪(特に二の丸)や堀の大きさに驚きました。
構造は割とシンプルに思えますが、この堀や台地上の断崖でかなりの防御力を持っていたんだろうと。
資料館約15分、城めぐり約45分の計1時間程で見て周れるかと。
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2025/10/11 09:26
崖の上 (2025/10/11 訪問)
車で攻城。
搦め手側(北側)の方が多く停められるようでしたので、搦め手側から本丸を目指しましたが、本丸まで約20分もあればいけます。
案内図等は大手側からの方が遠く見えましたが、あまり変わりませんでした。
西ノ峰にある二の丸や堂尾曲輪、三ノ丸等大方周って1時間かからないくらいでした。
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2025/10/10 22:03
長篠・設楽ヶ原古戦場 織田信長戦地本陣・茶臼山公園 (2025/09/28 訪問)
川住神社から織田信長戦地本陣を経由してPAに戻ります。以前には無かった展望台が有るので登ってみることに。残念ながらここからでは設楽ヶ原の合戦場は見えません。かつての戦地本陣からは見えたのだろうか。木を伐採しておけばおそらく戦場は見えただろう。
昔のじもピーが刈りだされたんだろうな・・
せっかくなので2016年4月に訪れた時の写真も掲載。なんだろう、今よりあか抜けているように見えるのは気のせいか?
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2025/10/10 22:00
2025/10/10 21:54
2025/10/10 21:52
長篠・設楽ヶ原古戦場 織田信長戦地本陣・茶臼山公園 (2025/09/28 訪問)
新東名の設楽原PA(下り)からは驚くほど簡単に織田信長戦地本陣にたどり着くことが出来ます。山頂部には織田信長の歌碑もあります。
これだけでは物足りないので、下って行って周辺を散策して見ます。東側には幾つかの扁平地があり神社の駐車場もあります。
地元の方(じもピー)専用でしょう。一般の人はバイパスや一般道からPAに入れば簡単に来ることができます。引き返す際に山住神社に向かう分岐があるので行ってみると、堀の様な物が有り土橋が造られていました。この堀は合戦の時のものだろうか・・だったら嬉しいが。
山住神社の周辺も郭の雰囲気がありました。
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2025/10/10 21:09
獅子吼城散策2/2(主郭~南側石垣) (2025/09/14 訪問)
主郭から帯曲輪に降り,南側の石垣を散策。鏡石と思しき巨石も発見しました。しかしながら,このエリアは不法投棄だらけで愕然としてしまいました…。よく見ると,下まで道が続いていました。ただ,何も目印もなく,「知る人ぞ知る」抜け道と思われました。足元も滑りやすく,紹介できるような感じではないので割愛させていただきます。最後はガックリとした気持ちで終えました…。
明日からの3連休で,未訪の「赤色かるた城」1城を攻めに行きたいと思います。日曜日の天候が悪いので,バーター城が計画よりも減る見込みです…。書き込みはお休みします。
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2025/10/10 19:08
獅子吼城散策1/2(登城口~主郭虎口) (2025/09/14 訪問)
ここはかねてから行きたいと思っていた城です。アクセスは,韮崎駅前ニコリから電動レンタサイクル利用で。比志城攻城前に立ち寄りました。電動レンタサイクルのスペック向上まで待ってて良かったとつくづく思いました(意識して待っていたワケではありませんが…)。登城口は(パネルが近くに設置されていたので)すぐにわかりました。季節的な悪条件は,クモの巣をかきわけながら…というところです。
個人的には,海抜2mそこそこで居住しているので,電動レンタサイクルで一気に標高を駆け上がると空気の薄さを実感します。ここの標高は【788m】ですが,だいたい【720m】くらいから感じはじめます。その日の体調にもよりますが…。
赤い城さんへ…
私の知立チェックイン時刻は,18:01でした。ただし,富山から高速バスで名古屋入りしました。ミッドランドスクエア着が,16:55です。そこから名鉄名古屋駅まで徒歩…。
赤い城さんとは,名古屋駅付近で約1時間の時間差があったものと推察します。
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2025/10/10 06:53
住宅地 (2025/08/15 訪問)
一条神社に車を置き、徒歩で登城しました。
住宅地を南側に入ると石碑があるはずなのですが見当たりません。
近所の方を発見したのでご案内頂きました。
その先は先ほど見た場所でした。
が、夏で草が元気すぎ、草刈りもされてないので石碑も祠も確認することは出来ませんでした。
その方によると50年くらい前には石垣もあった、とのこと。
宅地化され、現在は遺構は無さそうです。
南側にまわると水田が広がり、先ほどの宅地が一段高くなっていることがわかります。
阿波九城の一つですが心眼を鍛えるかロマンとして感じるしかなさそうです。
【見どころ】
・南側から見る高低差
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2025/10/09 21:11
長篠・設楽ヶ原古戦場 織田信長戦地本陣・茶臼山公園 (2025/09/28 訪問)
新東名設楽原PAには一般道からアクセスできます。でもここから高速には乗れないんだな。下りのPAのすぐ目の前に織田信長の戦地本陣(茶臼山)があります。ここからだと岡崎信康の陣や徳川家康の本陣が見えるけど、古戦場は影になっています。昔は見えたのだろうか? 信長戦地本陣の入り口は、山へ入る扉が開けっ放しになっています。このあたりは熊が出ないようだ・・油断は禁物だけど。
階段を登って行くとすぐに信長の陣所にたどり着きました。
織田信長は極楽寺の陣で軍議を開き、武田の騎馬隊攻略の作戦を練った後、茶臼山に移動しここで指揮を取りました。北東の牛倉の「はたぼこ」に羽柴秀吉を配置し、徳川家康を最前線の弾上山(八釼山とも)に配置し合戦に臨んでいます。
ここには珍しい織田信長の歌碑があります。
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
かなり上機嫌な所を見ると戦場での大局が決したころに詠んだのでしょうか? 戦場はまさに地獄絵図ですな。
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2025/10/09 20:49
長篠・設楽ヶ原古戦場 鈴木金七郎重正 設楽原PA(下り) (2025/08/28 訪問)
織田信長の戦地本陣である茶臼山には神社があって舗装された道路が続いているんだけど通行止になっています。どうやら「じもピー(じもとピープル)」専用らしい。じつは新東名の設楽原PAから簡単に登城できます。
通行止になっている近くに「鈴木金七郎重正」の案内板があります。新城市富永旧川上村の鈴木一族の出で、天正3年5月14日に長篠城を鳥居強右衛門と共に出発し、岡崎城の家康に長篠城の窮状報告と援軍要請を行ったと記載があります。
強右衛門と共に「援軍来る」の狼煙をあげたとされ、合戦後に作手の亀山城主となった松平(奥平)忠明は作手村大田代に帰農していた金七郎を訪ね、二百石の禄を与えて往年の労をねぎらったそうです。
う~ん・・強右衛門だけじゃなかったんだ・・「援軍来る」と狼煙で知らせたのなら、武田軍が強右衛門に虚偽の報告をさせることに意味はあったのだろうか? でもそこで意地を貫いたことで、凄い有名人になったわけだし・・人生いろいろだ
設楽原PAでとんから定食を食べて力を付ける。ちょっと肉がかた・・いやいや旨いですぞ。デザートは西尾抹茶のソフトクリームです。
ここで売っている強右衛門Tシャツを着て街を歩けば人目を引くこと請け合いですぞ。
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2025/10/09 19:31
長篠・設楽ヶ原の戦い 馬防柵 (2025/09/28 訪問)
八釼山の徳川家康本陣の背後(西側)を大宮川が流れ、その手前に一重柵が設置されていました。なんとなく信康の陣を守っているように見えるのは気のせいであろうか。家康の陣の南には東郷中学校があり、平成の馬防柵が設置されています。
実際の戦場では、こんな所に馬防柵は設置されていないんだけど雰囲気がある。不審者は三段撃ちで撃退ってわけじゃないけど、古戦場のど真ん中に学び舎が有るって、なんか気が引き締まりますね。
武田方(東側)から復元された馬防柵を撮影しました。武田方の気分になって、ここに突っ込んでいきます・・気を引き締めて突撃!!
どどどどっ
・・・・・・・・・・・・玉砕(ちーん)
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2025/10/09 19:01
一色機関銃陣地 (2022/10/02 訪問)
愛知県田原市の太平洋側の戦争遺跡です。海沿いの写真は一色機関銃陣地です。ぱっと見ただの岩ですが、大きな岩の中をくり抜いて弾薬庫として使用し、周辺の岩場を銃座として使用する目的で1944年11月より第73師団(怒師団)によって構築されました。
1945年5月には渥美半島の先端に第153師団(護京部隊)が配備され、各所に本土決戦用の陣地が造られました。
一色機関銃陣地ですが、ほぼ岩礁という悲しいシロモノです。こんなの艦砲射撃喰らったら木端微塵じゃないかと思いますが、百も承知で造らせていると思うと、実に憎たらしい。
こんなのガンタンクの上のスケスケの席の方が百倍マシですよ。
ハ〇ト「ここで砲台になります!」ミノフスキー粒子が無ければガンタンクがエースだぜ!(無限軌道)
残り二枚は福江(畠)観測所で、標高40mの丘地に造られ、遠距離砲撃の際の砲弾を観測する施設です。
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2025/10/09 13:11
住宅地の中に地形が残る (2025/09/23 訪問)
住宅地で、城びと先人の報告通り、駐車スペースがありません。今回は、バイクで巡っているのでその点は楽ちん。
濃尾平野東側の山地から長く伸びる丘陵の先に立地しています。西と北は結構な規模の急斜面です。西側の斜面下は西城という地名で、西城小学校があり、西の郭であったのでしょうか。北側斜面上には、大きな老人ホームが建っています。尾根続きの東側は堀切が道になって名残を見せています。
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2025/10/09 09:37
【宮本武蔵】(15)姫路城②(本多忠刻と武蔵) (2025/06/05 訪問)
宮本武蔵の続き(15)です。
姫路城西ノ丸に築かれた化粧櫓と百間廊下は、徳川家康からもらった化粧料(結納金)で、「本多忠刻(ただとき)」と「千姫」のために築かれたものである事は、皆さん御存じと思います。池田輝政亡き後、本多家が桑名から姫路に入りこれらが完成する1619年頃、武蔵は忠刻の父「本多忠政」から姫路城へ招かれます。そしてしばらく滞在し、嫡男の忠刻や家臣に剣術や兵法を教えてほしいと頼まれたようです。西ノ丸の庭園も、もしかして武蔵の意見が取り入れられた庭園なのかもしれませんね。ちょうど忠刻と千姫の間には勝姫や幸千代が生まれ、二人が幸せの絶頂であった頃ではないでしょうか。私はもしや、忠刻・千姫・武蔵の3人でこの庭園から天守を眺め、諸国でのいろいろなよもや話に、花が咲いていたのではないかなどと想像してしまいました。
忠政の娘(忠刻の妹)亀姫は、この時「船上城」に入った小笠原忠真に嫁いでおり、忠真が「明石城」を新たに築城することになったため、忠真は築城において義父の忠政に何かと相談していたようで、両家は良好な関係にあったようです。そして武蔵は、この築城を手伝う事になり、明石へ客分として入ります。
姫路を去る時、武蔵は最初の養子である三木之助を、本多忠刻の下で仕官させてほしいと頼みます。忠刻は受け入れ、小姓頭にしたそうです。しかしその8年後の1626年、忠刻は何と31才の若さで病死してしまいました。千姫はさぞかし嘆いた事でしょう。
この時、江戸屋敷にいた宮本三木之助は、知らせを受け姫路へ向かいますが、その途中で明石の武蔵の屋敷に立ち寄り、一晩酒を酌み交わしたそうです。何も語らず二人はほとんど無言だったとか。いったいどんな気持ちで酒を酌み交わしていたのでしょうか? 武蔵は三木之助の決意に気がついていたのではないでしょうか? そしてその翌日、姫路へ着いた三木之介は、忠刻を追って殉職(墓前で切腹)したそうです。
次は武蔵が町割りや作庭に手腕を発揮した(明石城)を訪れます。
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2025/10/09 07:09
大阪城石垣館 (2025/10/07 訪問)
新しくできた豊臣期の石垣を見せる石垣館に初めて行きました。
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