短時間しか滞在できませんでしたが、登城。
御城印が豊富で驚きました。
残念ながらライトアップは見られませんでしたが、
機会があれば見てみたいところです。
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2025/06/01 00:45
20250529小倉城 (2025/05/29 訪問)
短時間しか滞在できませんでしたが、登城。
御城印が豊富で驚きました。
残念ながらライトアップは見られませんでしたが、
機会があれば見てみたいところです。
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2025/06/01 00:37
20250528熊本城 (2025/05/28 訪問)
天候も良く、めぐり日和でした。
スタンプも無事押せました。
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2025/05/31 20:56
洲本城-2/9 天守台辺り編 (2025/05/15 訪問)
洲本城-1/9 大手周り編の続です。
本丸大石段を登って本丸内部へ、昭和4年に日本初の模擬天守が建てられて今年は96年目、本丸より、小天守台横の石段を登って大天守台、小天守台、続き多聞櫓台より模擬天守を眺める、眺めは素晴らしい、西登石垣は?と覗き込むが良く分からない、15年前は模擬天守に登れたのですが梯子階段は取り払われて登れなくなっている。
リフレットに洲本城の復元図が掲載されていましたが、三層大天守、二層小天守櫓付、連結多門櫓の連結式天守が見事に描かれて居ます。リフレットは本丸の休憩所喫茶店で頂きました。
下の城からも模擬天守が眺められました。
洲本城-3/9 本丸大手虎口と搦手虎口編に続く。
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2025/05/31 20:22
洲本城-1/9 大手周り編 (2025/05/15 訪問)
南あわじ市の叶堂城、志知城、養宜館を初探訪の後、ここまで来ましたので3度目の洲本城探訪、樹木伐採されて東登石垣が良く見えるようになった写真が城びとに投稿されて居ましたので是非見たいと寄りました、前回は15年前の平成22年3月でした。
駐車場:洲本城馬屋月見台前の駐車場利用
参考資料:洲本城縄張図リフレット、グーグルマップに依る。
洲本城大手門跡を通って駐車場の馬屋跡の手前に駐めて、馬屋月見台で俯瞰する、大手門跡の虎口石垣、日月池の高石垣、東の丸南郭の樹木が伐採されて石垣城塁法面が良く観察できる、見易くなりました。南の丸に向かって大手道を登る、南の丸拡張石垣の境界線がよく観察できます、大手路内虎口石垣を潜り本丸へ、日月池を上から見下ろす。
石垣が素晴らしく残って居り、修復されて見栄えのする高石垣です。
洲本城-2/9 天守台辺り編に続く。
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2025/05/31 18:38
カメラ派? スマホ派? 明日はスマホ派で
明日は日帰りで金龍紀行(小牧長久手の戦い)に行ってきます。カメラは修理中のため一日スマホ撮影です。カメラを忘れてやむなく…は以前にもありましたが、最初から承知でというのは初めてなので、ちょっと緊張しています(笑) でも、陣跡めぐりではどうせそんな大した写真は撮れないし、スマホ撮影に慣れておくにはちょうどいい機会かな、とも。
> シェルさん
なるほど、やはりみなさん「スマホ熱中症」には悩まされていて、それぞれに対策も考えておられるんですね。夏場は車のエアコン吹き出し口に付けたスマホホルダーで冷却していますが、あまり急速に冷やすのも結露の問題があるようで、そうなるとシェルさんのようにカメラとスマホの使い分け、または予備スマホ(乗換前の機種とか)持参が間違いなさそうですね。
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2025/05/31 18:25
2025/05/31 15:41
隈府城 (2025/03/22 訪問)
【隈府城】
<駐車場他>菊池神社駐車場
<交通手段>車
<感想>2泊3日西九州旅3日目12城目。隈府城は菊池城とも呼ばれ、菊池十八外城の1つです。正平年間(1346~1370年)に菊池武政によって築城され、菊池氏の本拠地となっていました。菊池氏は戦国時代に内紛を繰り返し次第に衰退し、菊池城は菊池三家老の一人赤星氏が城主となり、1578年に対立していた菊池三家老の隈部親永に城を奪われます。秀吉の九州平定後は佐々成政の傘下に入りますが、隈部親永は肥後国人一揆の中心人物となります。隈府城は反乱後に破却されました。
現地は明治に菊池神社が建立され主郭場所は社殿があります。駐車場の背後に大きい空堀が残っています。歴史館がありますが5時過ぎていたために終わっていました。
<満足度>◆◇◇
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2025/05/31 06:52
ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり① (2025/05/04 訪問)
伯耆河口城からの転戦です。東伯郡湯梨浜町から鳥取市に入りますので、ここからは因幡国の城攻めとなります。結構歩きでのある山城に見受けられたので心して登城しました。獣除けフェンスをあけて登城路に踏み込むと、しばらくはなかなかの急坂登ですが、その先の尾根伝いの登城路はさほど急峻ではなく、順調に主郭にたどり着くことができました。主郭後背の土塁と二重堀切の先に進んで山頂も極めることができました。
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2025/05/30 23:08
古河歴史博物館 (2025/05/30 訪問)
お休み処坂長にて御城印・(古河宿の)御宿場印・足利成氏の武将印を購入
(お休み処坂長 HP)http://sakacho.com/
それから古河歴史博物館へ…江戸時代には宇都宮城と共に、将軍が日光まで参拝する際の重要拠点…臨時的な幕府という意味合いもあったらしい
けれど現在は…城の遺構はほとんど残っておらず…古河歴史博物館の諏訪曲輪跡くらいしか…痕跡がない
博物館ではストリートオルガンが唯一の撮影OK
中で鷹見泉石の生涯ならびに肖像画(西洋画法で割と有名)を見学
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2025/05/30 22:52
清明台 (2025/05/11 訪問)
宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9m)×三間半(6.9m)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかと言われています
↑
清明台の案内文(1枚目) 富士見櫓の見学後にここも見学。宇都宮城址公園に天守閣は存在しないのですが、遠くから見ると…この櫓がそれっぽく見えるかもと言えばそうなので(2枚目)…「天守閣の役割を果たしていたのではないか」と言われると…そうかもしれない🏯
城址公園は橋を渡って外に出てみると…水堀に囲まれた造りになっている事が分かる…水堀の外から清明台を見てみると(2枚目)天守のように見える…かつ高い土塁の上にあるため、堅固な守りをしているようにも見えますね
城址公園は中庭が清明館ならびに芝生となっており、そこでサッカーをして遊ぶ若者がこの日もいたのですが⚽️富士見櫓と清明台は高い土塁の上にあり、階段もしくはエレベーターで移動する形になってました。行きは階段で、帰りはエレベーターで行き来した私🛗
清明台の中(3枚目)…富士見櫓と同様…ここも2階は非公開…階段自体が封鎖されていました。ここには(富士見櫓と違って)櫓の模型もなく…学校の教室程度の広さの空間があるだけ
そしてここでも…やりました腕立て伏せ😁富士見櫓で20回…体力も回復したのでもうワンセット💪20回×2→40回この日取り組んだ自分。家でやる時と回数は変わらないのに…一回一回の腕への負担が違うせいか…質の濃い筋トレが出来たかなと思えました✌️
家に帰ってからでも出来るっちゃできる…けれど何でしょうね?外でやる腕立て伏せは格別みたいな…この感覚…宇都宮城に昔いたであろう先人達の御加護を私は受けているのでしょうか?
サッカーしたり腕立て伏せしたり…今はすっかり平和なムードの…ここ宇都宮城⚽️💪⛲️しかし戊辰戦争において…この城は激戦地となった過去があるのを貴方はご存知でしょうか?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
詳細は↑のWikipediaをチェックしてください。要点だけ紹介すると…
・慶應四年(1868年)の宇都宮城の戦いにおいて、城の建物は(二の丸御殿や三の丸の武家屋敷など)ほぼ全て焼失
・旧幕府軍と新政府軍の戦いは2度おこなわれ…初戦は幕府軍の勝利。政府軍の方が軍備は最新式というイメージあるが、この時は幕府軍の方が(フランス製の)最新式兵器を備えており、政府軍の方が旧式で脆弱だった
・政府軍は一度城を明け渡し撤退…20000の味方と合流してから2戦目がおこなわれた⚔️🔫💣幕府軍の兵数は2000…数の暴力もあり次第に劣勢になる幕府軍
・首の無い死体が幾つも転がる…城だけでなく二荒山神社など周辺の建物も多くが焼失するカオスな状況…そんな中、幕府軍の1人が敵前逃亡を図るも、新撰組鬼の副長に斬り捨てられる💀
・逃げようとする者は斬る…という恐怖で戦線を維持しようとする新撰組副長ならびに幕軍首脳。しかし戦局の波には逆らえず…宇都宮からの撤退を決意。以後…会津→函館と(幕軍は)北へ転戦するわけである
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2025/05/30 20:15
肝付氏の意地 (2025/05/08 訪問)
加瀬田城は標高200m・比高50mの位地に築かれた山城です。輝北高原の中心、火山灰層が100m以上も堆積した所を川によって浸食され今の形状になっています。東にはこの地形を造りだしたとみられる堂篭川が流れ、城址南東は急斜面となっています。北側はシラスの絶壁とされ自然の要塞となっていて、山城と言うよりは平山城に近い形態です。
詳細は不詳と言えど、肝付氏によって築かれたと見られます。延元元年(1336)4月、足利尊氏の命で北朝方の島津貞久が肝付兼重の甥・肝付彦太郎兼隆の籠る平房城(加瀬田城)を攻めています。6月に落城するものの、城主兼隆は死亡と見せかけ生き延び、後に平房を奪還したとの事です。肝付氏衰退の後には島津の城となりますが、城址からは戦闘民族島津人に抗った肝付氏の意地を感じます。
中央に谷があり西と東に城址が分かれているようです。東の方が散策しやすいようなので城址東側を散策(西側はヤブ)。こちら側は良く整備されていて歩きやすい。個人的にこの城は好きです。
最上部が一郭で主郭と見られます。下に二郭、三郭と檀状に続き、腰郭も付いていて、途中には土塁も残っています。一郭は二段構造になっていて、西に土塁が残り祠が立っています。じっと見ていると、祠が何か言いたそうにしているようにも見えます。
「島津だけじゃないんだよ」 ・・肝に銘じます。
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2025/05/30 19:31
島津家久・豊久 (2025/05/06 訪問)
佐土原城は建武年間(1334~1338)に伊東氏の一族である田島氏によって築かれたとされています。応永34年(1427)伊東祐賀が入り佐土原氏を名乗ったとされ、後に伊東48城の一つとなります。天文5年(1536)に焼失するも、新たに鶴松城として再建され、島津氏によって伊東氏が豊後国に追いやられると、伊東家久が入りました。「ドリフターズ」で有名な島津豊久は家久の息子で、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定の直後に家久が急死すると、後を継いで城主となっています。
この日は朝から雨ですが、佐土原城は傘をさしながらでも訪問できました。最もこのあと、ヤブきつめの那珂城や田野城を攻略しているのですが・・。宮崎市佐土原歴史資料館 鶴松館の裏より大手道が城山まで続いており、本丸までたどり着くことが出来ます。残念ながら台風被害の影響で南の城、松尾ノ丸は立入禁止になっています。本丸の入り口は枡形と記載があり、土塁も残っています。北側に天守台跡とされる場所があり、そこから東屋のある郭を経由して麓に降りてきました。
個人的には豊久がモンタージュ顔のままなので、オリジナル顔になるといいなと思っています。
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2025/05/30 19:07
打越城 (2025/03/22 訪問)
【打越城】
<駐車場他>駐車場はなし。道路脇<32.961123,130.740372>に停車していきました。
<交通手段>車
<感想>2泊3日西九州旅3日目11城目。現地説明板によると打越城は菊池十八外城の1つで菊池氏氏族である林原与三隆益の一族が防備にあたりました。1379年九州探題の今川了俊との戦い板井原の戦いで陥落しました。
現地は小高い丘の上に城跡碑と説明板がありますが、周辺は竹藪が酷くてどうにも中に入れませんでしたので退散しました。
<満足度>◆◇◇
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2025/05/30 18:53
森つながり (2025/05/05 訪問)
佐伯城は標高144m・比高135mの城山山頂に築かれた山城です。慶長7年(1602)佐伯藩初代藩主・毛利高政によって築かれました。
毛利高政は豊臣秀吉の子飼いの武将で、元々は森氏を称していましたが、後に人質として送られた毛利輝元より毛利姓を賜り、毛利氏を称しています。このあたりのいきさつは元ネタである城郭放浪記さんのサイトにも記載があります。本家公認というやつですね。
高政は関ヶ原の合戦では西軍に属し、丹後田辺城攻めに参加しています。西軍が敗れた後も改易を逃れ、慶長6年に佐伯へ2万石で転封となりました。佐伯城は翌年、当時八幡山と呼ばれた城山に築かれたものと見られます。
九州はまだニッポン城めぐりで本格的に攻略が出来ていないので、武将集めに近くまで寄ったのですが、晴天にそびえる本丸の石垣の引力に逆らえず、そのまま登城と相成りました。これは仕方のないことだと思います。
江戸期に藩主の住まう所となった三の丸を通過し、登城道を登って、本丸の石垣にまで到着しました。やはり晴天の下で眺める本丸下からの眺望と、山上の石垣は素晴らしかったですね。
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2025/05/30 18:35
3年連続でGWに上田です… (2025/05/03 訪問)
何か真田に惹かれるモノがあるんでしょうね…。気がつけば,3年連続でGWに上田です。3年前と比較して,真田方向への路線バスの本数は減っています。来年以降もどうなっていくかわからないので,かなりの余裕を持った計画が必要です。
さて,横尾城ですが,別名の尾引城で表記されているケースが多いです。ご注意ください。見どころは,主郭背後の二重堀切です。雨天時や雨上がりはかなり滑ると思いますので,慎重に。最奥の土塁背後は直角に近い切岸となっています。油断は禁物です。
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2025/05/30 08:03
西の城・出城 (2025/01/26 訪問)
(続き)
東の城から続く細尾根を進むと、土橋を備え両端が竪堀となった堀切がありました。ここからが西の城です。堀切を越えて上って行くと、西の城の主郭が広がっています。主郭は北辺を土塁で囲み、北裾と北西尾根を堀切(北西尾根は二重堀切)で遮断しています。主郭から南へは二段の細長い曲輪が尾根沿いにのび、南西尾根には3条の堀切が設けられていました。各堀切の両端は竪堀となって落としていて、それぞれになかなか見応えがありました。
西の城・南西尾根の3条の堀切を越えて、南に5分ほど進んだピークが出城です。出城は周囲に帯曲輪といくつかの小曲輪があるくらいで、目立った遺構は見られません。
そして出城から下ること10分ほどで入口Ⅰに出ました。入口脇にはまだ新しそうな説明板が立てられています。前回もここに出てきていますが、その時はまだ説明板はなかったような…。説明板の鳥観図はとてもよく描かれていて、これがあれば縄張図がなくても見どころを押さえられるんじゃないでしょうか。
東の城も西の城も、曲輪群からのびる尾根を堀切で遮断するだけの単純な縄張ですが、各尾根にはもれなく堀切や竪堀が設けられていて、単純ながらもなかなか見応えがありました。前回の見落としもひととおり回収できましたし、再訪した甲斐がありました。
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2025/05/30 07:23
ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり⑩ (2025/05/04 訪問)
田内城からの転戦です。農道脇に説明板があり、城までの案内図もあるのですが、この案内図がかなりわかりにくかったです。休憩小屋から先、標柱を見つけることができず、しばらく竹林の中をさまよってしまいました。竹林の中では、猪が筍を食い漁ったであろう痕跡がそこかしこに見られました。標柱と階段を見つけ城跡に立つことはできたのですが、先達の皆さんの投稿を拝見しておかなかったばかりに、石垣、櫓台は見逃してしまいました。鳥取県の城びと登録物件コンプリートを期して数年のうちには鳥取県に来ることになるでしょうから、その際にはぜひ、再訪したいと思います。
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2025/05/30 06:58
爺神山城 香川県三豊市 (2025/05/04 訪問)
城びと未登録城です。
標高214mの爺神山は地元でバレンタイン山と呼ばれています。
麓の大師堂前の駐車スペースに車を置き、大師堂の裏手に登城口があります。
登山道には○合目表示のほか、地元の小学生が書いた励ましの板が設置されています。
微笑ましく地元でも愛されていることがわかります。
山頂部が城跡ですが、採石により遺構は消滅。
眺望を楽しんで下山しました。
城主は詫間弾正、長宗我部氏の讃岐攻めにより落城してしまいました。
【見どころ】
・山頂からの眺望
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2025/05/29 23:35
夏見山 長福寺 (2024/05/30 訪問)
米ヶ崎城から転戦。夏見城周辺は住宅地になっています。所々で工事が行われていた関係で住宅地の中で道に迷いましたが、なんとか長福寺を発見。
長福寺が夏見城跡ということです。長福寺にある市指定文化財の木造聖観世音菩薩立像の説明板をよーく読むと、下の方に長福寺が夏見城跡の一部であり、土塁が残っているという記述があります。
夏見城の土塁は墓地の裏手側に残存していました。土塁の先にも道がつづいていましたが、柵が設置され、入ることができなくなっていました。
ここからは、大遅刻ですが、イオさんのカメラ派?スマホ派?についてです。
自分は、基本 スマホ派です。
ただし夏場に限り、カメラ派になります。
スマホは画質も良く、スマホ1台で写真を撮りつつ、縄張図なども確認できるのが便利なので、使用しています。
ただ夏場は、過去に炎天下でスマホのカメラ機能を長時間利用したところ、スマホがダウンしてしまうスマホ熱中症になったことがあるので、それ以降、夏はデジカメを使うようになりました。
デジカメは、山城対策で軽くて、持ち運びしやすいという観点で、CASIOのコンデジを利用しています。
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2025/05/29 23:13
畑の中に立派な土塁 (2024/05/30 訪問)
高根城跡から転戦(高根城からの道中の県道8号は、一部、道幅がかなり狭く、交通量が激しいので、徒歩での訪問の際は十分気をつけてください。)
城跡の周辺は畑地で、道路は未舗装の道になっています。城跡に向けて進んでいくと、畑の中にポツンと森みたいになっている所があり、そこが城跡の米ヶ崎意富比神社です。
神社のさらに西側に進むと、畑の奥にかなり大きい土塁が残っていました。
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