イオさんお久しぶりです。しばらく投稿が無かったので心配していたでござる・・じゃなくて おりました。
ひょっとしたらEXPOの会場でお目にかかるかもしれませんな。寝坊しなければですが・・何はともあれ手裏剣ブースだけは絶対にいくつもりです。
遅まきながら去年の暮れごろから「ニッポン城めぐり」を始めて、井伊谷城にいけば直虎さんゲットできるぞ・・とか、岩村城行けば「おつやの方」居るんじゃない?・・とか思って行ってみたら盛大にがっかりしたのを覚えています。そんな甘いもんじゃないって・・結局運営にいいように踊らされている自分がいます。困ったもんだほんと・・ 気づけばビー〇170本ぐらい有って本気で心配されてたりする。
長宗我部盛親陣跡にある案内板には「盛親は毛利秀元ら諸隊と一緒に南宮山に布陣したが東軍に内通した吉川広家に阻まれ参戦できず、西軍の敗色を見て戦わずして帰国した」と書かれています。
これだと南宮山・栗原山・象鼻山を含めた一帯を南宮山と表記しているようにも見えるし、吉川広家も南宮山に登っていると受け止めることも出来る。神谷道一氏の「関ヶ原合戦図志」の挿絵をみても象鼻山まで毛利方の陣が配されているようにも見える。
高橋氏の「シン・関ヶ原」に併せて白峰氏の著書や日本史史料研究会監修の「関ヶ原大乱、本当の勝者」も読んでみたが関ヶ原の受け取め方は本当に人それぞれだ。同じ事例でも人によっては、いくらでも受止め方が存在するので、何十~何百 それ以上の可能性が有ると思う。関ヶ原の真実はそれを求める人たちにとってはライフワークと言って良いのではないだろうか。
大野治長に関しても、実は家康によって東軍に組み込まれていたりする。トクさんの投稿にもあったけど秀頼の父親は→ 大野ではないかと考えています。実際にそう考えている人は多いのではないでしょうか。
秀吉の意向(命)で淀殿と大野に子供を作らせたと考えることもできるけど、秀吉が死んだあとは大野の立場は危ない者になると思う。
ひょっとしたら奉行衆は事実が明るみになる前に大野を暗殺しようとするかもしれない。そこまでしなくても何かしらの手を打っておく必要が有ると思う。秀吉の死後、大野は家康暗計画に加担して常陸に流されたとされる説がありますが、他にも淀殿と〇×〇●して怒った家康に遠方に流されたという話まである。
受け止め方を変えれば、大野は事情を知る家康によって奉行衆から遠ざけられることによって保護されているようにも見えるのだ。そうなると関ヶ原合戦時までの淀殿と三成ら奉行衆、家康との関係性まで変わってくる。
淀殿は奉行衆を警戒し、事情を知りつつ保護してくれる家康を頼りに感じていたのかもしれない(合戦後にすぐに正体はわかるけど)
あくまで考え方の一つで、実際の所は正確には分からない。あくまで可能性の一つです、だから関ヶ原の合戦に至る過程は多くの人達にとって永遠のテーマと言えるのかも知れない。
最後に栗原城が気になって帰りにもう一回寄って見た。主郭らしき場所に土塁がコノ字状に残り周囲には扁平地が有り東側は切岸になっている。このあたりが城址だと思うが九十九坊や尾根上、長宗我部陣を含めてこの周囲は郭だらけだ。
人によってはこのあたりも南宮山のくくりになるだろう。ここからは大垣が良く見えるだろう。ひょっとしたら合戦前にここに毛利方の武将の陣があった可能性があったのかもしれません。
+ 続きを読む










