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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその40 岩ヶ崎城 (2025/09/06 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその40

香取神宮・佐原の町に行った帰りに寄ってみました。
いきなりの階段の上には稲荷神社があり、社殿に至るまでの階段では3回ほど蜘蛛の巣に引っかかりました。曲輪っぽい部分や土塁っぽい地形は確認できますが、主要な部分は宅地化されていてよくわかりませんでした。

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小城小次郎

お城を眺める城下町 (2025/01/31 訪問)

お城の目の前の古民家宿に泊まると大洲城の夜景を独り占めしたような気分になる。大洲は城下からお城がよく見える町でたぶん昔のお城はみんなこんな風に見えていたのだろうと思わせてくれる。お城っていいなあと思う。

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しんちゃん

老津と大津 (2025/09/07 訪問)

某アプリのリア攻めがしたくて、また来てしまいました。戸田宗光が渥美半島で最初に入った城とされ、豊橋市立家政高等専修学校の周辺が城址になるようです。別名を大津城といい、元々このあたりは大津と言う地名でしたが明治11年に老津村に改名されてしまいました。
元は紫式部の「老津島 島守る神や 諫むらん 波もさはがめ童べの浦」という和歌に由来があるそうですが、紫式部と接点があるのは滋賀県の大津ですね。三河の吉田の地名もなかば強引に豊橋にされてるし、明治政府感じ悪いし、やることが適当過ぎる。

残りの写真は岡崎のもろこしうどんです。時間の都合で岡崎城に寄れなかったので・・ぱっと見 もろこしの量ってこんなもんだっけ、と思いましたが、実は底の方に大量のモロコシが沈んでいます。めちゃくちゃボリュ~ミ~です。でも美味しいし満足です。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/04/06 訪問)

名古屋城、天守と天守台の写真です。本丸搦手馬出石垣北面は調査・修復中のようでした。このあたりは熊野石・河戸石・幡豆石・岩崎石などがごっちゃに積まれているようです。産地どころか花崗岩と砂岩など異なる種類の岩が混ざって積まれているようです。河戸石・・強いな。もうちょっと近くで見たいけど、工事中なので近くまでは行けていません。

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しんちゃん

飛鳥寺・蘇我入鹿首塚 (2013/09/28 訪問)

ちょうど歴史探偵で大化の改新をやっていたので。飛鳥寺は588年に蘇我馬子が創立した日本最初の仏教寺院とされています。本尊の飛鳥大仏(釈迦如来)は605年に推古天皇が詔して鞍作島仏師に造らせた日本最古の仏像だそうな。
最初期の仏像なので、後世のものと異なり引き締まった感じですね。う~ん、逆ライザッ〇(ポカッ)近くには蘇我馬子の首塚がぽつんと立っています。飛鳥寺の西には飛鳥の檜舞台「槻(ケヤキの古名)の木の広場」があり、中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出会ったそうです。672年の壬申の乱の際にはこの広場を軍隊が覆い尽くしたとか。

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シェル

水郡線で城めぐり⑤ 守山城 石垣と空堀が残る (2025/06/17 訪問)

 水郡線の正式な終点 安積永盛駅の一つ手前の駅 磐城守山駅から徒歩10分ほどです。
 郡山駅西口2番のりばの蓬田行の路線バスで「守山小学校」のバス停で下車するルートもあります。
 磐城守山駅から道なりに進み、国道49号線にアンダーパスで入り、学校の先にある接骨院の駐車場の南の路地を進んでいくと、右手側に、二ノ丸・三ノ丸間の空堀と石垣を発見。6月の訪問でしたので、石垣が草に包まれつつありましたが、きれいに残されていました。堀そばの道沿いには説明板も設置されていました。初見で石垣を見逃がしている方が多いようですが、駅側からアクセスすると道沿いなので見つけやすいかもしれません。
 本丸跡は、城山八幡宮になっていて、鳥居のそばに守山城跡の標柱があります。本丸の城塁も良好な形で残っていました。
 守山城を見学後、水郡線を郡山まで乗り通し、初めて水郡線を全線走破しました。水郡線ユーザーなだけに嬉しさもひとしおでした。
 まだまだ水郡線沿線には、お城がたくさんありますので、地元パワーを活かして、攻城した際は、ご紹介していきたいと思います!!

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シェル

水郡線で城めぐり④ 藤田城(福島県石川町) 地元の力で主郭・二ノ郭の一部を復元!! (2025/06/17 訪問)

 今回の城めぐりで、実は一番楽しみにしていたお城です。
 城びと未登録ではありますが、素晴らしいお城ですのでご紹介します。
JR水郡線 野木沢駅から藤田城大手口まで徒歩10分ほどです。また路線バスの場合は、福島交通の須賀川-石川間のバスで、野木沢北口のバス停下車。そこから徒歩2分ほどです。
 私の場合は、水郡線の列車と路線バスが無い時間帯に当たってしまい、三芦城(磐城石川)から力業の徒歩戦法で1時間かけて向かいました。(歩道は整備されていましたが、かなりハードですので、おすすめはできません。水郡線や路線バスを活用してください。)
 野木沢駅側の旧道と国道118号の交差点の所に、説明板と城跡への案内板が設置されています。案内板に従い、進んで行くと大手口跡につきます。(野木沢駅と駅からの旧道沿いにも藤田城の案内があります。)
 大手口から主郭までは5分ほどで到着します。
この城の見どころは、復元されている物見櫓(井楼)、城柵、冠木門です。石川町と地元の方が協力し、復元したもののようです。まさか水郡線沿いに、ここまで復元が行われている城があるとは、知らなかったので驚きでした!!(もっと有名になっても良いと思います。)
 主郭南側の岩肌の露出と物見櫓の迫力には脱帽です。二ノ郭の冠木門そばに復元建築物の説明板があり、主郭の冠木門を通って主郭跡へ入ると、物見櫓のそばに説明板が設置されています。物見櫓は登ることも可能で、ニノ郭や野木沢駅方面を望むことができました。
 主郭跡の北側に進んで行くと、三ノ郭跡があります。こちらには、虎口や土塁の遺構もかなり良好に残っています。
 個人的に水郡線沿線で、トップクラスにおすすめのお城ですので、皆さんも機会がありましたら、ぜひ訪れてみてください。

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シェル

水郡線で城めぐり③ 三芦城(石川城)(福島県石川町) パワースポットと巨大堀切!! (2025/06/17 訪問)

 城びと未登録のお城ですが、遺構が素晴らしかったのでご紹介します。
 JR水郡線 磐城石川駅から徒歩15分ほどです。
 三芦城は、平安時代に石川氏が築城。石川氏の代々の居城となります。戦国時代の天文年間には、田村氏(三春)、蘆名氏(会津)、佐竹氏(常陸)の勢力拡大の圧迫を受けて、石川氏は伊達晴宗の四男 昭光(伊達輝宗の弟・政宗の叔父)を養子として、伊達氏の庇護を図ります。しかし佐竹氏の進出で、佐竹氏の軍門に下ります。天正十七年(1589)の摺上原の戦いで伊達氏が蘆名氏を滅ぼすと情勢は急変し、石川氏は伊達氏に与します。
 その後、豊臣秀吉の奥州仕置では、石川氏は小田原に参陣しなかったため、改易となり、三芦城は廃城となります。石川昭光は、甥の伊達政宗のもとに赴き、御一門筆頭の家格を与えられ、江戸時代を迎えたということです。

 城跡は石都々古和気神社となっています。麓に駐車場、トイレも設置されています。三芦城の説明板は駐車場近くの参道の入口にあります。神社本殿そばの由緒書にも、三芦城について説明が書かれています。
 まずは石都々古和気神社にご挨拶をしましたが、陸奥国一之宮の一つだったようで、とても荘厳な神社でした。参道は、巨石がごろごろあり、パワースポットのオンパレードで寺社巡りされている方にもおすすめです。
 特に石門(鳥居)は巨石の虎口のような雰囲気も感じられて、興奮しました!!
 三芦城の見どころは、山頂の神社の本殿周辺と本殿北側にあります。まず本殿の裏手には、土塁が残っています。神社の建物と比べても、かなり高さがありました。
 本殿の正面から右側の通路を進んで行くと、石川城の城址碑があります。城址碑の近くには、狼煙台や見張台跡もあり、看板が設置されています。そのまま坂を下ると二郭跡に至り、鏡岩というパワースポットがあります。鏡岩から西に進むと、最大の見どころの堀切が残されています。西館と主郭の間の堀切で、かなり大規模です。さすが石川氏の居城だと感じました。
 見学を終えると、ちょうどお昼の時間だったので、駅とお城の間にあったイタリアンの「くっちーな・じらそーれ」というお店で、アサリたっぷりのボンゴレをいただきました。ボリュームがすごくて、とても美味しかったです!!

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徳野陣屋 (2025/09/11 訪問)

 岐阜県可児市にある陣屋跡です。城びとには未登録です。
小早川秀秋の家老であった平岡頼勝が秀秋の死後、屋敷を構えた場所です。平岡頼勝は豊臣秀吉によって小早川秀秋につけられた家老で、関ヶ原の戦いの折には秀秋を徳川方につくように説得した人物として伝わります。秀秋が死去して小早川家が断絶すると流浪の身となりますが、徳川家康に召し出され慶長9年、美濃国内に1万石を与えられ徳野藩を立藩しました。
平岡頼勝は関ケ原の戦いを題材にした小説やドラマにはときどき登場する人物ですが、その後の消息は知りませんでした。

名鉄広見線日本ライン今渡駅から徒歩約10分の場所に説明板がありました。遺構はありません。東へ5分くらいの場所に今回は行っていませんが、平岡頼勝の墓所があります。

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赤い城

築城城と高松市内の遺構無き城めぐり (2025/08/03 訪問)

暑いので近場のサクッと廻れる城をめぐりました。
いずれも遺構はありません。
まずは登録城の築城城。
周辺道路は狭く、駐車スペースもありません。
弦打コミュニティセンターを利用しました。
発掘調査でここには井戸があったとされています。
展示された井戸は遺構ではなく再現されたもののようです。
隣接する小学校の北側に南門があったそうです。
少し北に進むと説明板が立っており、さらに北側のJAのあたりが北門。
結構な規模であったようです。
勝賀城、佐料城とともに飯田郷三城の一つで香西氏家臣の築城氏の居城でした。

ここからは未登録の3城です。
岩田神社から南に行ったところにある飯田城です。
岩田神社に車を置き歩きました。
水田の脇に説明板と祠があるのみです。
城主の飯田氏は長宗我部氏が讃岐を攻めた際には香西氏に付き戦いました。

次は信安城、城跡は成合天満宮の東側とされますが詳細は不明です。

最後は松縄城。
熊野神社が城跡で周囲より一段高い場所にあります。
駐車場もあります。
境内の説明板には松縄城の記載もありました。
城主は宮脇氏でこちらも香西氏の家臣でした。

近場でもまだまだ知らない城、たくさんありますね😌

【見どころ】
 ・周辺を歩いて感じる規模感

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しんちゃん

空想の世界 (2025/03/30 訪問)

本日9月10日は(9・10)くーそー=空想の日です。そういうことにしておきましょう。くーそーは頭のこやしです(ナ〇コ)。

そんなわけで推定・森の熊さんの「うんコ」特集です。
春先から未訪の城をけっこう廻りましたが、さすがにこのタイミングで残っている城は辺鄙な場所が多く、熊のふんを随分見てきました。
で・・思ったのだけど春先の(たぶん)若いクマはしばらく同じ場所にとどまり、同じ場所にまとめてふんをする傾向があるようです。
和歌山の赤松城では少し道から外れた場所にありました。ちょっとカピカピになってるので既に遠くへ行っていると思うので・・大丈夫ですぞ!
富山でも見ましたが人里のすぐ近くでした。けっこう生息域が人里に近くなってるなと思ったら、今年は各所で熊がフィーバー状態です。特に東北はやばいですね、駆除に向かうハンターも民間人だし、被害も危険も責任もすべて民間人持ちですか?
島根でも結構見てます、ニアミスもあったと思いますよ。いやあ・・無事に帰れてよかったにゃ。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】

「高台に 異国情緒の 今帰仁城(たかだいに いこくじょうちょの なきじんじょう)」
テーマ曲は「異邦人」で♪ 
異国情緒と言っても悪い意味でではない。日本に併合される前の琉球王国の時代には王府から派遣された監守の居城だったらしい。
行ってみたい。

「美ら海と すらが触れ合う 今帰仁城(ちゅらうみと すらがふれあう なきじんじょう)」
テーマ曲は「異邦人」で♪ 未訪ですけど。

「美ら海と すらがちゃんぷる~ 今帰仁城」
使い方合っているんだろうか? すらは「空・そら」のことらしい。

「今帰仁城 あまりの美らさに ちむどんどん」
・・適当過ぎる。未訪じゃこんなもんか・・

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】

「石垣に すらぬ美らさよ~♪ 中城城(いしがきに すらぬちゅらさよ なかぐすくじょう)」

未訪っす。
沖縄語おもろっ! 結構好きです。行ってみたい。

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トク

【宮本武蔵】(7)利神城(武蔵初決闘の地) (2025/06/04 訪問)

宮本武蔵の続き(7)です。

宮本武蔵が初めて決闘をした地とされている、利神城下の平福を訪れました。宮本武蔵駅から智頭急行で3駅ほど戻った平福駅(写真⑤)で降りると、利神城のあった利神山(373m)が、すぐ目の前に見えました(写真①②)。

利神城は南北朝時代に別所敦範が築いたのが始まりとされ、別所氏は秀吉配下の黒田官兵衛に攻め落とされます。この時、竹山城主の新免貞重はいち早く黒田に付き、共に利神城を攻めたため、竹山城は安堵されたようです。その後の豊臣政権下では、この一帯は宇喜多秀家の所領となります。関ケ原後は池田輝政の甥の池田由之が城主となり、三層の楼閣を築き城下を整備して行ったようです。という事は決闘が行われたのは、宇喜多時代という事なりますね。利神城の現在はガイドツアーの時以外登城する事はできませんが、城びと先人の方々の投稿を拝見すると、あさんや赤い城さんなど多くの方がガイドツアーに参加されているようで、ここは城びと投稿者にとっては人気の城なんだ~と、びっくりしました😯(写真④)。

たけぞう(武蔵)が7才になった時、養父の無二が離婚してしまいます。その後、無二の妻でたけぞうの養母でもある「よし子」は利神城下の平福の実家に戻り再婚したようです。13才になったたけぞう(武蔵)は母恋しさに無二の元を抜け出し平福へ行きます。そこで母よし子の叔父の道林坊に預けられ、結局また厳しい剣術の稽古に明け暮れたようです。

たけぞう(武蔵)はその13才のある日、この平福の金倉橋のたもとに「何人なりとも望みしだい手合わせいたすべし。われこそ日下無双兵法者なり!」と掲げられた高札を見ます。そしてこの高札を掲げた「有馬喜兵衛」に勝負を挑み、喜兵衛を一刀のもとに倒したと言われています。決闘の場所は作用川に掛かるこの「金倉橋」でした。そこにはその事が記された小倉碑文を写した石碑があり、喜兵衛の立札が再現されていました(写真⑦⑧⑨)。

実はこの決闘には裏話があり、喜兵衛は子供と勝負するのは気が乗らず、大人の対応をしたらしいです。たけぞうは道林坊から、「ばか者、謝ってこい!」言われ謝りに行きましたが、そこで謝るふりをして油断させ、木刀で倒してその後ボコボコに殴って殺したというのです。当時のたけぞうは(写真⑩)のような、言う事をきかない相当な悪ガキだったようです。

無断で決闘をして卑怯な手を使った事を知った道林坊は激怒し、たけぞうは勘当されてしまいます。勘当されて路頭に迷い、生活に困ったたけぞうは、木下家定(秀吉の妻ねねの兄)が当時城主を務めていた姫路城で、アルバイト募集の求人を知り、身分を隠して密かに足軽(門番)のアルバイトをします。そしてそこで、ある事件に巻き込まれてしまいます。

次はその門番をした(姫路城)を訪れます。
 

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たぬ

絶景眺望 (2023/06/24 訪問)

三方を海に囲まれた眺望が素晴らしい城。
沖縄グスク特有の曲線的な石垣が美しい。
一度は行ってみるべき城。

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小城小次郎

人柱伝説 (2025/01/30 訪問)

このお城が百名城にも続百名城にも名を連ねなかったことは不思議でならない。それくらいよいお城だと思う。お城の裏鬼門には人柱祠があるが単なる伝承ではなくここからは本当に埋められた老武者が見つかっている。

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「安芸国 毛利氏息づく 郡山城」
(あきのくに もうりしいきづく こおりやまじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「いと高き山 天守頂く 松山城」
(いとたかきやま てんしゅいただく まつやまじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「古高山城 新高山と にらめっこ」
(ふるたかやまじょう にいたかやまと にらめっこ)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「新高山城 古高山と にらめっこ」
(にいたかやまじょう ふるたかやまと にらめっこ)

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