朝鮮へ 兵站基地の 清水山城
(ちょうせんへ へいたんきちの しみずやまじょう)
対馬も未訪です。
秀吉の朝鮮出兵の際に経由地として築かれた城です。
石垣が素晴らしいようですね。
金田城や金石城とともに行ってみたい城です。
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2025/08/12 08:57
【赤色立体地図かるた】
朝鮮へ 兵站基地の 清水山城
(ちょうせんへ へいたんきちの しみずやまじょう)
対馬も未訪です。
秀吉の朝鮮出兵の際に経由地として築かれた城です。
石垣が素晴らしいようですね。
金田城や金石城とともに行ってみたい城です。
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2025/08/12 08:46
【赤色立体地図かるた】
清正流 扇の勾配 熊本城
(きよまさりゅう おうぎのこうばい くまもとじょう)
ここも未訪、現在復興途上中かと思います。
加藤清正が秀吉の大坂城を参考にして築城した城。
特に石垣の扇の勾配が美しいとのこと。
九州遠征を計画しないと・・・
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2025/08/12 08:40
【赤色立体地図かるた】 (2005/08/07 訪問)
「隠密を だます縄張り 宇和島城」(おんみつを だますなわばり うわじまじょう)
20年前家内との四国西部城探訪、木造復元大洲城天守閣を主にしての旅、20代初めに四国一周城探訪以来の2度目登城でした。
宇和島城は藤堂高虎の縄張、石垣構築、文禄頃の三層天守と聞いております、江戸期に入り伊達政宗の長子秀宗が10万石で入封し現在残ってる三層天守の構造に改まったとも云われている。
外郭は5角形で4角形の縄張予想を騙すように仕掛けているとも、巧妙な縄張でしたと、しかし外郭をぐるりとは1周して確認して居りません。グーグルマップ航空写真で見ると5角形を確認朱る事が出来ます、現在は便利になりました。下城後伊達市博物館と同庭園を見学しました。
その後愛南町経由で土佐に抜けた折り3度目の登城をしております。
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2025/08/12 08:37
【赤色立体地図かるた】
球磨川の 急流背にして 人吉城
(くまがわの きゅうりゅうせにして ひとよしじょう)
ここも未訪です。
人吉といえば球磨川、これを天然の堀としているとは堅牢さがうかがえます。
実際に行って確認したいです✨
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2025/08/12 08:25
【赤色立体地図かるた】 (2019/02/17 訪問)
山上に 連なる石垣 高取城
(さんじょうに つらなるいしがき たかとりじょう)
高取城といえば、圧倒的なまでの山上の石垣が最大の見どころなので、内容的にどうしてもみなさんの投稿とかぶってしまうなぁ…と思っていたら、100名城かるたの際の自分の投稿とも丸かぶりでした(笑)
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2025/08/12 07:13
北海道の離島① 利尻島【会津藩士の墓(ペシ岬)】 (2025/08/09 訪問)
4度目の稚内にして、初めて北海道の離島に渡ることができました。北の果てに来てさらに船に乗るというのはかなりハードルが高いと思うのですが、このフェリーはなかなか混雑していて利尻の人気の高さがうかがえました。私が宿泊しているホテルはライダーが、稚内駅(道の駅にもなっています。JRの駅と道の駅が一体となっているってかなり珍しいケースなのではないでしょうか。)周辺にはキャンピングカーやワンボックスカー等が凄い数、集結しています。それにインバウンド迄加わるのだから混雑するのも当然です。あいにくの天気かと思っていましたが、土砂降りはバス移動の時だけで後半は青空が広がって好天に恵まれました。定期観光バスで島を一周しただけなのですが、フェリー待ちの時間に行ったペシ岬で会津藩士の墓を発見できたのは、予期せぬ幸運でした。大河ドラマ「べらぼう」では、蝦夷地の上地の画策について描かれていますが、さすがに東北諸藩による蝦夷地警備までは描かれないでしょうね。
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2025/08/12 06:09
【赤色立体地図かるた】 (2024/12/05 訪問)
断崖で 島津も落とせぬ 岡城址
(だんがいで しまずもおとせぬ おかじょうし)
岡城は、南を白滝川・西を玉来川・北を稲葉川と三方を川に囲まれ、さらに高さ80mの断崖がそびえたつ天然の要害です。1586年、九州制覇を目指し北上する島津軍は、猛将「島津義弘」が率いる25,000の大軍で、この岡城を取り囲みます。この時ここを守っていたのは、大友家臣で若干20才の若き城主「志賀親次(ちかよし)」でした。父親も寝返って逃げ出し、城内に残ったのはわずか1500の軍勢のみ。しかし親次は降伏の道は選ばず、大友家への忠義を貫き戦う道を選びます。そして、このわずかな軍勢で果敢にも3度戦いを挑み、誰もが予期せぬ奇策を巡らせ、何と3度とも勝利します! そして豊臣の軍勢が南下するまで持ちこたえたのです。ここで薩摩の当主「島津義久」からの撤退命令が下り、義弘は最後まで落とす事ができず、無念にも薩摩へ撤退しました。この時義弘は、こうつぶやいたそうです。
「志賀親次は楠正成の再来である」
親次の時代は、滑瀬橋(現在の搦手)が唯一の城への出入口で、義弘はここを突破しようとして、この橋のあたりで激戦が行われたようです。大友家改易後は、秀吉の命で1594年、播磨三木から中川秀成が7万石で入り、現在の位置に大手門を築き、見事な総高石垣の城に改修し、秀成は家康からも所領安堵され、中川家は幕末まで豊後岡藩として存続しました。
私は個人的には(春高楼<秋紅葉)の岡城が好きです。また、高石垣の上から見る景色は雄大で迫力満点です。しかし、下から見上げてみるのも一興かと思います。確かにここを攻め落とすのは難しい🤔と感じる事ができます。
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2025/08/11 21:30
【赤色立体地図かるた】 (2024/01/28 訪問)
「曳橋を 堀から見上げる 滝山城(ひきはしを ほりからみあげる たきやまじょう)」
これは定番の奴ですね。特に意識しなくても皆、ここで同じような写真を撮ると思います。
「馬出しで 要所を守る 滝山城(うまだしで ようしょをまもる たきやまじょう)」
これは赤色立体地図より。これからは縄張りと、赤い地図を持って城攻めに行く時代になるのかな・・はたから見るとますます危ない人に見えますな。
かつて2千の兵で、2万の武田軍を防ぎましたが、三の丸まで攻め込まれたと伝わっています。赤い地図で見ると加住丘陵の険しい地形を上手く使って城を築いていますが、城の周囲にも陣所に使えそうな丘陵が多い、敵が三の丸まで来たということは、小宮曲輪まで奪われたということですね。丘陵の頂部の高低差が少ないのは確かに弱点になるのかもしれません。
赤い地図で見ると、本丸・中の丸・二の丸の三箇所が城の要所と見られ、二の丸を千畳敷と三つの馬出(角馬出・大馬出・東馬出)と深い堀切で守っています。平山城(丘城)の弱点は有りますが、強力な防御力を持っているのも確かなようです。
何より、肝心要の八王子城があっさり落城してしまったのを見ると、およよよ・・な気分になります。
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2025/08/11 21:21
三之丸 東大手門跡北側石垣の刻印 (2025/06/22 訪問)
有料エリア以外では、二之丸 大手二之門北側と同様に、三之丸 東大手門跡北側も刻印が多いです。
ここも殆ど情報がありませんが、蜂須賀氏と山内氏の文字の刻印があるとの事で、刻印探しに行って来ました。
外堀沿いを北へ向けて行くと、蜂須賀至鎮(蜂須賀阿波守)の家臣である山田の名が刻まれた「はちすか内 山田」があり、蜂須賀の丁場と思われました。
奥に進むと多種の紋様があり、特に「卍」、「三鈷杵のようなもの」、「変り輪鼓」、「違い山形」が多かったです。中でも「卍」は8個、「三鈷杵のようなもの」は6個もありました。
途中で山内氏の家紋「丸に三つ柏」があったので、山内忠義(松平土佐守)の丁場と思われました。
更に奥にも山内氏の「□山内左太」がありましたが、右下隣りに蜂須賀氏と思われる「い修理(?)」+「弦巻」がありました。
山内氏の丁場に入ったと思っていたのに、蜂須賀氏の刻印が再度あり、混在して謎でした。
丁場割図にはないエリアで、どの大名の丁場か明確には分かりませんが、少なくとも蜂須賀氏と山内氏の丁場と考えられます。
これまで行った石丁場や残石で見た前田氏とされる刻印に似たものが多かった印象ですし、他の担当大名が混在しているかもしれません。
まさか各大名が持って来た石を寄せ集めて積んだとか?謎で面白いです。
草ボーボーの所が結構あり、草刈り後に撮影しました。
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2025/08/11 20:24
2025/08/11 19:31
【赤色立体地図かるた】 (2018/01/05 訪問)
「縦横に 竪堀巡らす 岡豊城(じゅうおうに たてぼりめぐらす おこうじょう)」
赤色立体のかるたであることを考えて、たまにはこんな感じで。はたしてどうなることやら・・
以前訪問した時には、四国の覇者の城にしては簡素な城だな、と思っていたのですが。加藤先生の記事を拝見すると、赤色立体地図では多数の竪堀と扁平地(郭)が存在し「要塞」としての岡豊城の姿を見ることが出来ました。なるほど~
「親子二代 四国を統べし 岡豊城」
「姫若子が 鬼若子に変化 岡豊城(ひめわこが おにわこにへんげ おこうじょう)」
幼いころの元親は色白でおとなしく、姫若子というあだ名で呼ばれていたようです。もちろん陰でだろうけど。でもいったん戦場へ出ると、その鬼気迫る戦いぶりから鬼若子とよばれるようになったそうな。
別に姫のような美少年だったというわけでもなさそうです。
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2025/08/11 18:35
吉田城・・他3城 (2018/01/05 訪問)
吉田城の城主は吉田周孝とされ、周囲には土塁が残り、吉田備後守邸趾の碑があります。城郭大系には吉田備中守周孝とありますが、どちらでもいいでしょう(雑)。吉田氏の祖は藤原秀郷の後裔山内首藤氏とされ、首藤俊宗が吉田荘に移り吉田氏を名乗ったとされています。
吉田氏は長宗我部氏に従い、一族あげて良く主君を助けますが、関ヶ原の合戦後 一族の右近康俊は大阪に蟄居後、松平氏に仕え姫路に移りました。長宗我部氏の重臣であった吉田重親は大阪夏の陣で長宗我部盛親に従い,八尾・若江の戦いで討死しました。
一説には藤堂高虎家臣・藤堂家信に討ち取られたとされています。
ついでに幾つか掲載
野田城・・城主は野田氏とされ、長宗我部七代兼光の弟俊吉に出自を持つとされています。吉田城と同じ土井屋敷のようです。長宗我部元親の時代の城主は野田甚左衛門とされています。現在は宅地化が進み、土塁の一部らしきものが残っています。
田村城・・四国管領土佐守護・細川頼之の一族で守護代の細川頼益によって築かれたとされています。城址碑と土塁の跡がのこっています。
千屋城・・はじめ細川氏に従い、後に長宗我部氏に従った千屋氏の城とされています。かつての土井屋敷の跡と見られ、土塁の跡らしきものが残っています。
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2025/08/11 17:43
【赤色立体地図かるた】
南海に 美らアーチの 中城城
(なんかいに ちゅらアーチの なかぐすくじょう)
綺麗なアーチの門が印象的です。
琉球の城は大体そうですが太平洋を見下ろす絶景も楽しめます!
行ったのは2019年でコロナ前、そろそろ再訪したいです。
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2025/08/11 15:56
岐阜市歴史博物館 (2025/08/11 訪問)
岐阜市歴史博物館で開催されている開館40周年記念特別展「岐阜城と織田信長」へ行って来ました。岐阜市では「史跡岐阜城跡整備基本計画」に基づき1984年から山麓部の発掘調査を行い、2018年からは山上部の発掘調査にも取り組んでいます。この発掘調査による出土品および石垣や庭園遺構などの写真パネルが展示されていました。常設展示も充実していて楽しむことができました。
昨日から雨が降り続いていて見上げても山上に靄がかかっていて天守閣を見ることができません。時間の都合もあり山上には上がらず居館跡を回って撤退しました。
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2025/08/11 09:30
【赤色立体地図かるた】
新幹線 眼下に走る 新高山城
(しんかんせん がんかにはしる にいたかやまじょう)
にのまるさんのレポートにあるように詰の丸から新幹線を見ることができます。
すぐにトンネルに入るので一瞬です。
次行くときはその光景を見たい!
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2025/08/11 08:53
【赤色立体地図かるた】
「球磨川に 対薩かなめの 人吉城」(くまがわに たいさつかなめの ひとよしじょう)
人吉城、人吉には仕事で何回となく訪ねて居ましたが平成16年(2004年)6月18日には復元されていた角櫓、土塀、多門櫓の見学探訪、平成19年(2007年)3月22日には復元された水手門周りと土塀、合わせて三の丸、二の丸、本丸見学探訪へと訪ねて居ります。
人吉城主相良氏は静岡県牧之原市相良町の相良荘から鎌倉初期に肥後人吉荘地頭として下向以来幕末明治維新まで人吉を治めていました、江戸期に入ってからは薩摩藩への抑え監視としての役目も有った様です、2万2千石の小藩にしては、球磨川と合流の棟川河岸の石垣積、3の丸、2の丸、御殿、武家屋敷の石垣積は幕府からの援助も有った事でしょうが大変な費用が掛かった事でしょう。しかし美しい石垣を今に残してくれています。
2020年令和2年7月には球磨川流域、人吉に甚大な水害が発生し人吉城武家屋敷エリアは見学不可に成って居ましたが、最近の城びとの投稿では見学が可能に成った情報が載って居ましたので一安心、復旧復興ありがとうございます、歳を経ましたが機会が有れば訪ねたいとも思っております。
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2025/08/11 08:19
【赤色立体地図かるた】
北条の 悲劇の舞台 八王子城
(ほうじょうの ひげきのぶたい はちおうじじょう)
秀吉に攻められ婦女子まで犠牲となった八王子城。
山麓の御守殿跡も良いですがやっぱり登りたいですね。
本丸からさらに登ったところの馬冷の堀切や伝・大天守跡が見どころだと思います。
余力があればさらに進むと富士山ビューの絶景ポイントもありますよ。
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2025/08/11 08:06
【赤色立体地図かるた】
北条の 武蔵の要 滝山城
(ほうじょうの むさしのかなめ たきやまじょう)
河越夜戦の後に改修され、武田信玄を撃退した城です。
城内には空堀がめぐり見応え充分。
高月城、根古屋城(戸吹城)と合わせて滝山三城、セットでどうぞ。
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2025/08/11 07:45
【赤色立体地図かるた】
断崖の 上の要害 鉢形城
(だんがいの うえのようがい はちがたじょう)
深沢川と荒川が合流する地点の断崖上にあります。
下流ではゆったり流れる荒川もこの辺りは流れも速いです。
綺麗に復元整備された城跡は歩きやすくなっています。
氏邦桜と呼ばれるエドヒガン桜も有名です。
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2025/08/11 06:41
夏のチャシめぐり② (2025/08/08 訪問)
ウバトマナイチャシからの転戦です。といっても目と鼻の先なので、北見神威岬公園の駐車場に車を停めたまま、歩いてアプローチしてもよいくらいです。説明板があって遺構が視認できるだけでもありがたいチャシです。このあと、浜頓別の市民風力発電所「はまかぜちゃん」、道の駅「さるふつ公園」、間宮林蔵渡樺出港の地碑とチェックしつつ、稚内に戻りました。道の駅「さるふつ公園」で購入したホタテめしを夕飯にいただきました。猿払のホタテにはかなりそそられました。時間に余裕があったなら、購入して実家に送っていたに違いありません。ちなみに、猿払村は日本最北の村だそうです。
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