うつのみやじょう

宇都宮城

栃木県宇都宮市

別名 : 亀ヶ岡城
旧国名 : 下野

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にのまる

18きっぷ2回目。ワンコイン野菜サンドがボリュームがあっておいしかったです。 (2023/08/16 訪問)

東武宇都宮駅の方が近いのですが、18きっぷ利用なのでJR宇都宮から歩きました。
前回は雨の夕方の訪城で、復元土塁の上を歩いて櫓を覗き込んだだけで終わってしまっていたので一からやり直しです。

大通りから一本入ると真っ白な清明台が目に飛び込んできました。交差点の交通標識や信号機の密集する背後によみがえるいにしえの記憶。時代を超えて重なり合う姿に復元のありがたさを思いました。

土塁トンネルをくぐると手入れの行き届いた目に鮮やかな緑の芝生広場、本丸跡です。
土塁の上には天守代用だったのではないかといわれる清明台と、遠く富士山まで望めたという富士見櫓。共に1階だけですが入れました。風が吹き抜けて気持ちがよく、かつ眺めもいいです。開け放たれているので鳩なども入ってくるようですが。富士見櫓には模型もありました。

城址公園内には3つの施設があります。歴史展示室のある「清明館」と、復元土塁の中の「宇都宮城ものしり館」と「まちあるき情報館」です。現地ならではの豊富な資料とボランティアスタッフの方の解説に、ネット上の概説では理解が浅くなりがちな部分についても深く知ることができました。江戸時代の資料としては、別の日に行った飛山城で購入した企画展の解説書「徳川幕府の成立と宇都宮」(宇都宮市教育委員会発行)がわかりやすくまとまっていてよかったです。

宇都宮城周辺は現在も市の中心部で、西側の三の丸跡には高層の市役所があります。
これはもしかして城址公園を俯瞰できるのでは?と思い、行ってみました。フロア案内を見ると最上階の16階にレストランと展望室があります。
よっしゃー!とエレベーターで上がってみました。しかし、時刻がちょうど正午でレストランは職員さんでごった返しています。展望室もレストランの中のようで、市民でも市職員でもない者が入り込むのは迷惑になりそう。そこで「ものしり館」のボランティアさんに教えていただいた、北へ約1㎞の二荒山神社までお散歩してきました。

1時間後に戻ってくると職員さんのお昼時間も終わったようでレストランはガラ空き。ラスト1個のサンドイッチを注文して、誰もいない特等席を陣取りました。
見えました!すごいです。
現在、城址公園として整備され復元されているのは本丸の西辺のごく一部です。それだけでもよき眺めではありますが、先に見た城絵図やジオラマを思い出しつつ(スマホの写真も出しつつ)目を向けると、たちまち土塁に築地塀、水堀を巡らした広大な本丸が浮かび上がってきました。想像力で復元を完成させるのです。部分復元によってもたらされたサプライズ。仕掛けとしてはかなり壮大です。

コンクリート土塁ゆえに上にも登ることができ、エレベーターの設置も可能で、伝統工法による櫓の復元も実現。防災施設として領民を守る城の役割もばっちりな宇都宮城。独自のセンスとアイデアでまだまだ進化し続けるのではないでしょうか。これで終わり、ではないような気がします。

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tp.etsu

雪の中… (2023/02/10 訪問)

寒かった…。
お仕事の都合で、夜しか行けず。
でもキレイ(-ω☆)

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新ろくべえ

宇都宮城に行ってきました (2023/08/05 訪問)

《藤原時代》
宇都宮城は、平安時代末期に藤原宗円が主君の源義家が
前九年の役で功績を挙げ、下野守になったことにより、
宗円も宇都宮明神の社務職と鬼怒川流域一帯の支配権を与えられ
宇都宮城を築いたのが始まりと言われている。
宗円は兄・兼仲が死亡したことにより、兼仲の妻
を正室に迎え、その子宗綱を養子に迎えた。
宗綱は、宇都宮城二代当主となり、八田権守を称した。


《宇都宮時代》
宇都宮氏は、関東八屋形や国司、守護となり、
その宇都宮氏の領地支配の拠点。そして居城として、
宇都宮城は使われた。
しかし、1300年後期から、関東管領や古河公方、小山氏などに
攻められ、ついに1455年、古河公方足利成氏が宇都宮城14代当主・宇都宮等綱を破り、
宇都宮城は開城となり、等綱は白河に逃れた。
等綱の子の宇都宮明綱が古河公方に降伏したことにより、城主に復帰した。
17代当主・宇都宮成綱は、芳賀高勝に実権を握られ、ついには強制的に隠居させられ、
同年に高勝を謀殺してしまうことにより、芳賀氏が反乱を起こし
宇都宮氏と芳賀氏による宇都宮錯乱が発生した。
芳賀氏はすでに宇都宮氏と同等の力を持っていたため、宇都宮成綱は、
小田家当主・小田政治と協力、支援してもらう形で1514年頃から、
戦いが始まり、その年の内に乱を鎮圧した。その後も周辺大名に
侵攻を受けるものの、はねのけた。けれどまた、1526年に父の死により城主となっていた、
宇都宮忠綱は、猿山で、結城政朝と戦うが、大敗。さらに芳賀興綱に
宇都宮城を奪われたが、結城政朝と組んで宇都宮城を占拠した。
また、宇都宮興綱の子・宇都宮尚綱も1549年に那須高資との戦いで五月女坂で戦死。
尚綱の子・広綱は真岡に退去。でもまた佐竹義昭と組んで宇都宮城主に復帰。
北条氏政や武田勝頼を退けた。広綱の子・国綱の時代には
1586年に皆川広照・壬生義雄等が宇都宮城を攻め、城下に放火し、その一派により
城を占拠したが、城を取り戻し復帰。後北条氏の侵攻を防いでいたが、
豊臣秀吉による小田原征伐の直前には、周辺全てが後北条氏に寝返り、
秀吉が来るまで、防戦状態まで陥っていた。そのため、本拠を平城の宇都宮から
山城の多気山に移した。豊臣軍が到着すると討伐に参加。宇都宮城は、関東と東北の
大名らの戦後処理を11日間行った(宇都宮仕置)。宇都宮国綱は所領を安堵された。
豊臣姓を下賜され、秀吉とは良い関係とされたが、突如改易させられた。

《豊臣時代》
1597年に浅野長政が城代となるが、1598年に蒲生秀行がお家騒動を起こしたことにより、
会津若山92万石から18万石となり城主になる。秀行は、城下町の整備を行った。
関ヶ原の戦いのさいには、上杉景勝を討つべく出陣した德川秀忠が宇都宮に入ったが、
秀忠自身が西に向かうことになったため、秀行が会津にいる景勝を牽制した。
関ヶ原の戦い後に秀行が会津に移ったため、大河内金兵衛が城代となり、同年奥平家昌が入った。
1619年には、本多正純が城主となるが、謀反の疑いを掛けられ、失脚。また城主は奥平氏となった。
その後、松平→本田→松平→阿部→戸田→松平→戸田と城主は変わり、戸田7万石で明治維新を迎えた。

《その後》
宇都宮城は戊辰戦争の舞台となり、宇都宮城下は壊滅的な被害を受けた。
宇都宮城が新政府軍の手に渡ると、会津戦争の拠点となった。
その後、城門などの遺構は払い下げられ、面影がなくなり、戦後も水堀が埋められてしまった。
平成になって清明台などの櫓や土塁、塀などが復元され、宇都宮城址公園となった。

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橋吉

復元された土塁と櫓 (2023/05/05 訪問)

宇都宮市役所の本庁舎東駐車場を観光客用に無料開放しています。

城跡は公園として整備されていますが、本丸の西側のおよそ1/3しか復元されていません。
西側から入城すると、中央におほり橋、南北に復元された櫓が見られます。

大きな土塁の中にガイダンス施設(宇都宮城ものしり館)があります。
ここには復元模型も置かれています。

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城郭情報

分類・構造 梯郭式+輪郭式平城
築城主 藤原秀郷?、藤原宗円?
築城年 平安時代後期
主な改修者 本多正純
主な城主 藤原氏、宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
廃城年 明治元年(1868)
遺構 土塁
再建造物 清明台櫓、富士見櫓、土塁、堀、土塀、石碑、説明板
住所 栃木県宇都宮市本丸町
問い合わせ先 宇都宮市教育委員会事務局文化課
問い合わせ先電話番号 028-632-2767