わいふじょう

隈府城

熊本県菊池市

別名 : 隈府山城、菊池城、菊池本城、菊池山城、守山城、雲上城、雲の上城
旧国名 : 肥後

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菊池神社
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WEST

菊池本城探訪 (2023/10/25 訪問)

菊池氏の本拠地とした菊池本城(守山城、隈府城)を訪問しました。
鞠智城の時代の後、勢力を誇っていたのが菊池一族のことで、諸説ありますが、菊池本城は16代武政が築城したと伝えられているお城です。今は菊池神社となっており、その一角に城址碑があります。
菊池一族については、「菊池市役所 経済部 菊池プロモーション室 菊池一族プロモーション係」が製作したHPにて詳しく説明しています。分かりやすいですので、是非HPも訪れてみてください。

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織田晃司

隈府城跡に建つ (2023/09/16 訪問)

菊池神社。参拝者駐車場から本殿に向かう参道には大きくて深い空堀があり、見ごたえあります。

隈府城最後の城主は菊池氏家老の隈部親永。
信長の野望で二階堂盛義と共にひょえ〜顔で有名な武将です。

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しんちゃん

丘陵一帯に広大な城域を持つ、菊池氏のかつての本城 (2023/01/02 訪問)

隈府城は菊池城とも呼ばれる城で、菊池十八城の中心的な城でした。
正平年間に菊池武政により築かれたとされてます。
後に菊池三家臣の赤星氏と隈部氏が争い、龍造寺氏と結んだ隈部氏が勝ち、城の主となります。
隈部氏は島津氏とも争い、所領を安堵されるのですが佐々成政に反抗したため、国衆一揆が落ち着いた後
城は破却されました。(wikiより)
城址は丘に築かれた菊池神社全域とその右手に広がる丘陵地だと思われます。
なかなか広大な城域を持つ城で島津氏の攻撃を耐え凌ぐことができたのも解る気がします。
正月の二日なので菊池神社は初詣の客でいっぱいでした。
とても参拝も撮影も無理そうなので、神社にお参りするのは次の機会にします。



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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:隈府城 (2022/06/10 訪問)

隈部氏館からの転戦です。菊池神社駐車場付近(32.987925、130.8164651)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、正平年間(1346年〜1370年)に菊池氏によって築かれたと云われています。
菊池氏は太宰府官藤原政則の子孫とされ、藤原則隆のときに肥後に下向し菊の池城を築いたそうです。十六代菊池武政のとき、菊の池城から隈部城へと居城を移しました。
南北朝時代には、南朝の有として肥後国を中心に九州全土にその勢力をのばしましたが、北朝方の今川了俊が九州に下向してくるとその勢力は衰退しました。
兼朝の時、肥後国守護職を回復し戦国時代に続きますが、大友氏に破れ嫡流が途絶えました。
菊池氏が滅亡すると赤星氏の勢力下になりますが、隈部氏によって追い出され、隈部館から隈部氏が移り居城となりました。
隈部氏は北侵する島津氏に降伏しましたが、豊臣秀吉による九州征伐で秀吉に降伏し本領を安堵されました。
しかし、熊本に入封した佐々成政が検地を行うとこれに反発して挙兵し、成政が菊池城に押し寄せると城村城に籠もってこれに対抗しました。
これが、きっかけとなって肥後国衆一揆が広まり、成政は謹慎の後に切腹、隈部氏もまた嫡流は断絶しました。

菊池城は現在の菊池神社の境内に築かれていました。
菊池城の遺構の大半は消滅してしまっているようですが、神社の北側に巨大な空堀と高土塁が残されています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=城林城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 菊池武政
築城年 正平22年〔南朝〕/貞治6年(1367)
主な城主 菊池氏、赤星氏、隈部氏、佐々氏、加藤氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、堅堀
指定文化財 市史跡(守山城跡及び内裏尾)
再建造物 石碑
住所 熊本県菊池市隈府1257
問い合わせ先 菊池市教育委員会生涯学習課文化振興係
問い合わせ先電話番号 0968-25-1672