わいふじょう

隈府城

熊本県菊池市

別名 : 隈府山城、菊池城、菊池本城、菊池山城、守山城、雲上城、雲の上城
旧国名 : 肥後

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①	菊池武光(背後が隈府城)
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トク

菊池一族 栄枯盛衰の地 (2026/02/21 訪問)

鞠智城からの転戦です。一寸榎のバス停から菊池温泉行のバスに乗り10分、菊池温泉市民広場で下車しました。広場には「菊池武光」の像がドンとあります。彼は地元のヒーローのようです。そして像の背後に見える山が「隈府城」です。菊池氏の時代は「守山城(菊池本城)」と呼ばれていたようです。

菊池氏は元寇でも活躍した事が蒙古襲来絵詞にも残る、鎌倉時代から300年続き室町時代には肥後国守護も務めた名門でした。最も有名になったのは南北朝時代の菊池武光です。武光は九州に逃れてきた南朝方の懐良親王(後醍醐天皇の子)を助けるため、北朝方である大宰府の小弐氏を筑後川の戦いで破り勝利します。その時に血のついた刀を洗ったとされる場所が「太刀洗」という地名で今でも残っています(陸軍航空隊があった場所です)。

菊池氏は戦国時代まで続きますが、子がなく嫡流が途絶えると内乱が発生、これに乗じて侵攻してきた大友義鑑(宗麟の父)に乗っ取られ、菊池氏の家老だった赤星親家に与えられます。しかし大友宗麟が耳川の戦いで島津氏に敗れ衰退すると、同じく家老だった隈部親永が龍造寺氏と手を組み、城を奪い取ります。その後の秀吉の九州征伐では、親永は北上する島津氏と戦ったため、秀吉からは領地を安堵され、従来の守山城を改修し隈府城と改名しました。

九州征伐後は、佐々成正が肥後(隈本城)に入りますが、隈部親永は成正の検地に反発し一揆を起こします(肥後国衆一揆)。小早川秀包(久留米城主)黒田官兵衛(中津城主)らに鎮圧されますが、これにより隈部氏は滅亡し、隈府城は廃城となってしまいました。佐々成正も秀吉から許されず切腹となったようです。その後は肥後に入った加藤清正によって統治され、赤星氏はここで清正から家臣として取り立てられたとか。ちょっとややこしい話ですが、菊池にはこんな歴史があるようです。

菊池温泉市民広場のバス停前には足湯♨があり、熊本駅行のバスまで20分あったので、浸かりながらバスを待ちました。鞠智城から1日中歩き回って足が疲れたので、この温泉はとても効きました!😊。
 

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20190622隈府城(熊本県菊池市) (2019/06/22 訪問)

菊池神社とその周辺を散策

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ぴーかる

隈府城 (2025/03/22 訪問)

【隈府城】
<駐車場他>菊池神社駐車場
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目12城目。隈府城は菊池城とも呼ばれ、菊池十八外城の1つです。正平年間(1346~1370年)に菊池武政によって築城され、菊池氏の本拠地となっていました。菊池氏は戦国時代に内紛を繰り返し次第に衰退し、菊池城は菊池三家老の一人赤星氏が城主となり、1578年に対立していた菊池三家老の隈部親永に城を奪われます。秀吉の九州平定後は佐々成政の傘下に入りますが、隈部親永は肥後国人一揆の中心人物となります。隈府城は反乱後に破却されました。
 現地は明治に菊池神社が建立され主郭場所は社殿があります。駐車場の背後に大きい空堀が残っています。歴史館がありますが5時過ぎていたために終わっていました。

<満足度>◆◇◇

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WEST

菊池本城探訪 (2023/10/25 訪問)

菊池氏の本拠地とした菊池本城(守山城、隈府城)を訪問しました。
鞠智城の時代の後、勢力を誇っていたのが菊池一族のことで、諸説ありますが、菊池本城は16代武政が築城したと伝えられているお城です。今は菊池神社となっており、その一角に城址碑があります。
菊池一族については、「菊池市役所 経済部 菊池プロモーション室 菊池一族プロモーション係」が製作したHPにて詳しく説明しています。分かりやすいですので、是非HPも訪れてみてください。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 菊池武政
築城年 正平22年〔南朝〕/貞治6年(1367)
主な城主 菊池氏、赤星氏、隈部氏、佐々氏、加藤氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、堅堀
指定文化財 市史跡(守山城跡及び内裏尾)
再建造物 石碑
住所 熊本県菊池市隈府1257
問い合わせ先 菊池市教育委員会生涯学習課文化振興係
問い合わせ先電話番号 0968-25-1672