豊臣秀長ゆかりの2人の武将の陣跡めぐり(1人目)です。藤堂高虎、文禄の役の陣跡を訪れました。
名護屋城博物館入口から南に県道を15分(1km)程歩くと(写真①)の標識があります。そこから脇道に入りさらに15分(1km)程歩きましたが、案内板等は何もなかったのでよくわからず。よって城郭放浪記さんの情報を参考に、スマホでナビを見ながら(おそらくこのあたりかな?)と思いながら山中に入り、雑木や雑草を掻き分けて進みました(写真②)。すると人工的に段々に削った段曲輪らしき跡や、そこに石が並べられていて石積があったような痕跡がありました。よって確証はないですが、たぶんこのあたりがそうだったのではないかと推測しました(写真③④)。
その時です!・・・(ガサガサ)と音が・・・ビク😱! 何と野生の動物に遭遇! 背中を向けながらも、こちらをじっと見ています。「写真⑤」を見て下さい。さあ!どこにいるか分かりますか?(よ~く探して下さいね! 正解は写真⑥です)。な~んだ野うさぎか、カワイイな。最初はイノシシかと思ったのでホットしました😊。
藤堂高虎と言えば、7度も主君を変えた男として有名です。そして浅井長政に仕えた姉川の後に放浪、餅を盗み食いする程の貧しい生活の中で豊臣秀長と出会い、それが彼の人生を大きく変えました。秀長は彼の才能を見出して重用し、高虎もそれに応えようと、算数・鉄砲術・築城術・水軍術などを必死に学んだようです。そして賤ケ岳の戦いや但馬・紀州・四国攻めなどで活躍して、大和郡山城の縄張りや和歌山城の築城や九州征伐でもその手腕を発揮、秀長からは絶大なる信頼を得て、秀長と高虎は固い絆で結ばれて行ったようです。しかし1591年秀長が没すると、郡山豊臣家の家老として、名護屋のこの地に陣を築き嗣子の秀保を支えました。
しかし文禄の役後に秀保も没し、郡山豊臣家が断絶となると、秀長を弔うため剃髪し高野山へ蟄居します。その時その才能を惜しんだ秀吉より説得され、宇和島7万石の大名として取り立てられ、慶長の役では水軍の基地が置ける名護屋浜に陣を移し(写真⑦)、朝鮮へ再度出兵します。そして秀吉死後の撤退戦では、多くの兵を日本へ帰還させる活躍を見せました。
その後、今度は徳川家康に見いだされ、関ケ原では東軍に属し、その戦功で伊予も賜って今治城を築城、その後は家康からは豊臣の抑えとして伊賀に移封され上野城を築城、大坂の陣の功で伊勢も与えられて津城を築城し、江戸幕府では層塔型の築城術を諸大名に広めていった人物であるという事は、城びと特集にも詳しく掲載されていますので、皆さんよく御存知と思います。
次はその高虎が秀長死後に仕えた、豊臣秀保の陣跡を訪れます。
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