「赤色立体かるた」の読み札が発表されました。よかった私のも有った。正直、一枚も選ばれていないのではと思っていました。
選んでもらうことを前提に投稿していなかったのですが、良かった。できれば秀吉関係が良かった(ポカッ!)
自害ヶ岡は松尾山の伝小早川秀秋陣の北に位置する丘陵です。「関ヶ原の合戦」より「壬申の乱」の方で有名で、西麓には大友皇子が自害して果てたとされる三本杉がありますが「戸田左門覚書」にはここに石田三成の陣が有ったと記載が有ったはずです。
戸田左門とは大垣城の城主・戸田氏鉄のことで「覚書」は江戸時代に新井白石によって編纂されたらしいので、二次史料に当たります。最近読んだ高橋陽介氏の著書「シン・関ヶ原」にも「戸田左門覚書」の記載がありますが、高橋氏は石田三成の陣を自害ヶ岡とは考えていないようです。
「信長公記」でおなじみの太田牛一が慶長6年ごろに「関ヶ原合戦双紙」を徳川家康に献上しています。いわば徳川家の「お墨付き」で書かれたことになりますか。ネットでも閲覧が可能ですが、書体が昔のままなのでほぼ読めません。
ただ宇喜多秀家が山中の陣から天満山に移動したと書かれているようで、白峰旬氏らの一次史料による説とは内容が異なります。
なんとなくここから歴史がねじ曲がってしまっている予感がしますが「慶長年中卜斎記」を記した家康に仕えた医師・板坂卜斎は関ヶ原のことは太田殿が行うので・・といった発言をしていたらしいので・・
徳川方に都合が良いように忖度した内容に仕上がっている可能性があると思います。事実と異なっていても上様のお墨付きの内容に異論を唱えるのは勇気がいることなので、藤堂高虎などが後年書いた著書でも「鵜呑み」には出来ないと思います。
明治の郷土史家「神谷道一」氏の書いた「関ヶ原合戦図志」では自害ヶ岡の丘陵一帯に西軍の陣が想定されていますが、翌年に陸軍の発表した「日本戦史関原役」の配陣では麓に下されています。日清戦争の前年なので、野戦砲陣地として確保されたのかもしれません。
同様に神谷氏は南宮山の尾根一帯に毛利・吉川の陣を想定していますが、これも陸軍によってはるか南の窮屈なスペースに追いやられてしまっています。当時の陸軍の野戦砲は鋳造の青銅製の前装式ですが西南戦争のころに使われていた大砲より性能は上です。
南宮山上はなだらかな丘陵が続いているので、あらかじめ野戦砲を設置しておけば伊勢街道や東山道を通って東京を目指す敵軍を砲撃することが可能です。
「関ヶ原合戦図志」には大垣城周辺の布陣の記載もありますが「日本戦史関原役」にはありません。時間もなく逼迫していたので砲台陣地だけを確保したかったのかもしれません。
神谷氏は「関ヶ原合戦図志」を作成する際に山鹿素行の「武家事紀」を参考にしていると思います。小和田教授と白峰氏のやりとりで白峰氏は「武家事紀」の誤記を指摘していますが、その箇所は神谷氏が綺麗に修正してあります。
記憶で書いているので詳細を省いて申し訳ないのですが、神谷氏は江戸時代以降に最も真摯に関ヶ原の歴史に向かい合った一人だと思います。
残念ながら「武家事紀」には山中の「ヤ」の字も無いので「関ヶ原合戦図志」が事実と即していない部分もあるとは思いますが、私は敬意を払いたいと思います。
悲しいことに戦後に「日本戦史関原役」の陣形図がそのまま受け継がれている上に、自害ヶ岡の丘陵は東海道新幹線と高速道路によってブチ削られています。ここに西軍の陣地があったかは分かりませんが可能性は有ったと思います。
もんか省も政治家も何を考えているのか分かりません。元々「関ヶ原合戦図志」は岐阜県の依頼で製作された経緯があるので今のままでは神谷氏に顔向けできませんぞ。
「戸田左門覚書」「関ヶ原合戦図志」「関ヶ原合戦双紙」はネットで閲覧・ダウンロードが可能です。
「武家事紀」は老後の楽しみに古~い本を購入して保存してあります。
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