次は宮武正登先生の講演の中から、特に私が興味をひかれた内容をピックアップします。
信長は、初めて石垣というもので城を築き(この時は野面積)、その上に「魅せる天主」を建てました。しかし秀吉は、石を割って大きさや形を整え、割った平たい面を表にして見せるように並べるという「魅せる石垣」で城を築きました(打込接の始まりです)。全国から集まった諸大名たちは、まずここで初めて見る石垣に度肝を抜かれた事でしょう。
穴太衆は石を割る・削るという技術は持っていないため、その技術を持っている墓石職人を全国から大量に集めたのではないかと推測されています。そしてわずか半年間という短期間でこの壮大な石垣を造り上げたというのは、当時の秀吉の力を諸大名に見せつけるには十分すぎる程だったのではないでしょうか。
そして茶室・庭園など遊びの空間を城の中に取り入れ、城は戦うだけのものではないと思わせ、昨日まで争っていた大名同士の戦う意欲を無くさせ、茶室で大名間の距離を縮め親睦を計るよう勧めます。そして諸大名は自分の陣城を、秀吉の真似をして造り始めます。最近発掘調査された前田利家の陣跡では、石垣や庭園をともなったその典型例を見る事ができます。
そして秀吉が死に朝鮮出兵が終わると、諸大名は地元へ帰りまたは関ケ原後に与えられた地で「慶長の築城ラッシュ」が始まります。その時に、打込接で石垣を築き、壮大な天守を建て、二ノ丸・三ノ丸とさらにその回りをぐるりと堀で囲み、庭園や茶室といった遊びの空間までをも作ります。つまり、ここ名護屋で見た事・学んだ事を自分たちの城造りに全て取り入れて行ったのです。それで今までの山城に代わる近世城郭が、このようにして全国一斉に建てられましたというお話でした。
よってここ名護屋城は、近世城郭発祥の地【はじまりの名護屋城】だったという訳ですね!
また1615年一国一城令で行われた破却がどのようなものであったか? 大変よく解る例も教えていただきました。特に遊撃丸の破却は典型例のようです。小藩の唐津藩だけでは、この広大な名護屋城の破却は無理~!と泣きつかれ(たかも?)、ならばと幕府は、「建物は全て撤去、そして隅部の上の石垣は絶対に壊せ、そして中間の石垣もV字型に壊せ、そうして二度と櫓や塀が建てられないようにせよ!」と最低限の破却のやり方を、指示したのではないかと思われます。私は皆さんにもぜひここは見てほしい、そして何かを感じてほしい場所だと思いました。
次は最後に、私が個人的に気になる二人、加藤清正と小西行長の陣跡を訪れます。
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