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ヒロケン

【赤色立体地図かるた】 (2019/10/19 訪問)

加賀門徒 最後の砦 鳥越城
(かがもんと さいごのとりで とりごえじょう)

約100年にわたる加賀一向一揆の終焉となった鳥越城。織田信長公による加賀一向一揆討滅に抵抗するため築城されましたが、柴田勝家公に落城させられるまで、加賀一向一揆の拠点となった城です。

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しんちゃん

長浜城遺構・大通寺 知善院 (2014/05/17 訪問)

滋賀県長浜市の大通寺の台所門は長浜城の大手門であったと伝えられています。玄関は宝暦10年(1760)に住職・横超院の内室であった彦根藩主井伊直惟の息女・数姫によって建てられたことが棟札によって明らかになっています。
知善院は元は小谷城下にあったものを、豊臣秀吉が当地に移したとされ、表門は長浜城の搦手門を移築したものとされています。

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ヒロケン

【赤色立体地図かるた】 (2023/08/14 訪問)

天空城 難攻不落 岡城址
(てんくうじょう なんこう ふらく おかじょうし)

岡城は海抜325mの岩山の上に立ち、城から見る壮大な景観と断崖絶壁の上に築城された難攻不落を誇る、石垣群が最大の見所だと思います。

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朝田 辰兵衛

パネルの向きは逆だろ…! (2025/06/22 訪問)

土塁上にパネルが設置されていますが,外側を向いております。城内に入って読めるように,内側に向けてもらいたかったです。道路から見上げたら,年寄りはまず読めません。視力の良い若者でも難しいと思います。
見どころは,土塁と堀跡です。
2025年春の東北攻めは,ここで終了です。

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トク

【宮本武蔵】(1)小倉碑文(手向山) (2025/08/25 訪問)

皆さんは宮本武蔵という人物をどこまで御存知でしょうか? 巌流島の決闘や二刀流で有名な人物である事は少なくとも御存知と思います。

武蔵は謎多き人物ですが、最近新しく発見された資料などにより、今までの我々の知識とは異なった、その真実が徐々に明らかになっているようです。例えば、巌流島で武蔵は遅刻していないとか、武蔵の一撃で小次郎は死んでいないとか、そもそも佐々木小次郎という名前の人物は存在していないとか、宇喜多軍(西軍)に属し岐阜の関ケ原にいたというのは誤りで実は九州の関ケ原で黒田軍(東軍)に属していたとか、大坂の陣では徳川方として水野軍にいたとか、島原の乱では幕府方として小笠原軍にいたとか・・・などなど。

武蔵の事を知るために、まず1級資料の「小倉碑文」が現在も残る、手向山(たむけやま)へ行ってきました。JR小倉駅入口(または小倉城前)からバス[70]に乗り(手向山)バス停で下車(写真⑧)、そこから15分程の坂を登った頂上の手向山公園に碑文はありました。小倉碑文は、子の宮本伊織が父の武蔵から実際に聞いた話を、武蔵が没して9年後に、伊織本人が菩提を弔い武蔵の言葉を後世に残すために建てた、最も信頼できる資料です(写真①②)。武蔵の1級資料としてはこの他にも「五輪の書」や「沼田家記」、2級資料としては「二天記」などがありますが、各々についてはまたおいおい、お話して行きたいと思います。

展望台からは巌流島や関門橋が見えました。とてもいい眺めでした(写真③)。また公園には、その宮本伊織(小倉小笠原藩筆頭家老)の墓や(写真④⑤)、昭和になって建てられた佐々木小次郎の碑もありました(写真⑥⑦)。

次は、武蔵の資料が数多く残る、熊本の「島田美術館」を訪れます。
 

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イオ

【赤色立体地図かるた】 (2023/02/11 訪問)

北守り 南は居館 飯盛城
(きたまもり みなみはきょかん いいもりじょう)

南北に長く続く主尾根の曲輪群は、高低差があり東西にのびる支尾根にも小曲輪群を配する北側が守りを担い、千畳敷郭など広大な曲輪を擁する南側が居住スペースだったと考えられていることは、赤色立体地図を見てもよくわかります。

摂河泉 阿淡見渡す 飯盛城
(せっかせん あたんみわたす いいもりじょう)

飯盛山からの眺望は素晴らしく、眼下の大阪平野(摂津・河内・和泉)はもちろん、淡路島や四国(阿波)まで見渡すことができます。見渡す限り全てが三好長慶の勢力下であり、長慶が天下を統べるに相応しい城ですね。

以上で登城済み11城の投稿完了…と思ったら、4城が差替えになりましたので、うち登城済み2城についてはまた来週に追加投稿いたします。
 

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赤い城

大内教弘の居館 (2025/07/13 訪問)

大内氏館の北側に観光駐車場があり、さらに道路を挟んだ北側が築山館です。
大内教弘が「築山殿」と呼ばれていて、別邸として築いたとされていましたが、発掘調査や文献から教弘が守護職を息子に譲った後の居館だったようです。

跡地は整備され、掘立柱建物跡などが表示されています。
ここには瓦葺きの建物が可能性があるとのこと。
隣接する築山神社の裏手には土塁が残ります。
見える遺構はこれのみですが大内氏が当時、栄華を誇っていたことが伺えました。

高嶺城にも行きたかったですがこの日も猛暑、時間も限られてたので山口城に向かいました。


【見どころ】
 ・築山神社北西部に残る土塁

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todo94

お盆帰省の城めぐり⑧ (2025/08/14 訪問)

川島氏居館(下野高松城)からの転戦です。ここも私有地で、入口の案内表示を読むと土塁を乗り越えての立ち入り厳禁、そして橋本さん若しくは荒井さんに声をかけて立ち入ることとのことです。とある煩悩の登城目録さん同様、立ち入りは控えさせていただきました。堀も土塁もとても見栄えが良いので、外からの撮影で十分に満足です。2025年の夏の帰省時の攻城はこれにて終了です。

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しんちゃん

推定地? (2025/01/07 訪問)

米ケ崎城は城主不明の城址です。「意富比神社」の祀られているあたりが城址とされていますが、城があったという記録すら残っていないようで、林の中に土塁が残っているようです。西側に海老川を挟んで夏見城を見る位置に有るので、城郭が存在しても不思議ではなさそうです。「城びと」のデータでは城主は夏見氏となっているので、夏見城の支城になるのかな。

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肉球

桑折陣屋(幕府領・松平氏)福島県桑折町・岡陣屋(幕府領)福島県伊達市 (2025/07/19 訪問)

米沢藩上杉氏の領地半減により幕府直轄地となり一時期福島藩本多氏の領地になるが1685年再び幕府領に。
その時築かれたのが桑折陣屋です。
その後1700年松平忠尚が領主になり1747年まで松平氏の陣屋として利用されたようです。
跡地は住宅街となり遺構はありませんが陣屋の杜公園に説明書があります。
この付近その他の幕府領を管理するため1701年岡陣屋が築かれたようです。
当時堀に囲まれ土塁も存在していたようですが現在は確認できません。
東側は現在でも3〜4m程の崖となっています。
跡地の稲荷神社に石柱が建てられています。
1749年この陣屋も廃され再び桑折陣屋に統合されたようです。

 

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しんちゃん

堀っちゃダメですよ。 (2025/01/07 訪問)

「穴掘れば 金が出るかも 金堀城(あなほれば きんがでるかも かなほりじょう)」
出るわけないでしょ。「きんほり」じゃなくて「かなほり」でんがな。
金堀城の城主の詳細は不明ですが、臼井氏の関係者ではないかと考えられており、古橋城を遠望する位置に築かれています。
正直、あまり印象に残っていないのですが、土塁や堀などが残っているようです。畑の写真が郭になるようですね。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2007/02/09 訪問)

 ①「珊瑚石 湾曲アザナ 勝連グスク」(さんごいし わんきょくあざな かつれんぐすく)

 ②「南海に 海運栄し 勝連グスク」(なんかいに かいうんさかえし かつれんぐすく)

 ③「コバルトブルー 白亜が映える 勝連グスク」(こばるとぶるー はくあがはえる かつれんぐすく)

 18年前の平成19年2月9日、沖縄のグスクが世界遺産に登録されて7年後世界遺産グスク5城を探訪、中城を終えて夕刻近くの時間に勝連グスクを初探訪、4の郭は琉球石灰岩の石垣積整備中、登城路も作業中でした、車は観光ガイダンス駐車場利用。
 1の郭からは中城湾の青い海が広がり眺めは絶景、発掘調査で瓦屋根の建物が有ったとの事、遠き昔に南の海を海運貿易で船が走り栄えた事が窺えます。丁度琉球石灰岩で石垣を修復整備中でしたので一際石灰岩の白さが目を引きました、琉球独特の湾曲した石垣が又目を見張りました。
 

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】

「山崎城 天下分け目の 城となる(やまざきじょう てんかわけめの しろとなる)」

ネタ的には他の方々と被ってしまいますが,一番オーソドックスに詠みました。京都は意外に行ってないことがわかりました。
しかし,追加4城も無事にエントリー完了。またもや,赤い城さんに続きます。

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小城小次郎

想像とともに不思議が膨らむ (2025/01/26 訪問)

昨冬に話題をかっさらっていた謎エリアは2025年初の訪問時には既に埋め戻された跡だったが、跡だけでも見られたのは幸せだった。それにしてもこの大きなクニはどんな風に統治され、何を祈り、何を守っていたのだろう。想像すればするほど不思議が膨らむ。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2015/10/24 訪問)

「二曲姫 落城の悲劇 鳥越城(ふとげひめ らくじょうのひげき とりごえじょう)」
鳥越城と二曲城はセットのイメージが有るので。門徒たちは比較的どうでも良いが、姫様が犠牲になるとなんか悲しい。
佐久間盛政も惚れちゃうほどの美人だったらしいけど、落城時には尼さんになっていたらしい。むぐぐ・・美人で尼さんっていうと夏目雅子さんみたいな感じかな? うむ、いけるんじゃないでしょうか(ボカッ!!)

「百姓の 国の落日 鳥越城(ひゃくしょうの くにのらくじつ とりごえじょう)」
何にでも終わりはあるということで。

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肉球

湯野陣屋(刈谷藩陣屋)・瀬上陣屋(足守藩陣屋) 福島県福島市 (2025/07/19 訪問)

幕末時、福島市内には福島藩のほか二本松藩関宿藩新発田藩刈谷藩足守藩の飛び領があったほか幕府領があったようです。
湯野陣屋は刈谷藩土井氏の陣屋で遺構などは無く現在は西根神社になっていますが鳥居の脇に石碑があります。
瀬上陣屋は足守藩木下氏の陣屋で史跡公園となっています。石碑の脇に陣屋門の礎石が残されています。
駐車スペースあります。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2022/03/19 訪問)

「空と海 うるまブルーの 勝連城(そらとうみ うるまぶるーの かつれんじょう)」

雨男ゆえ,うるまブルーの画像はありませんが,他の方の画像で一目瞭然です。
ちょっと番外編をひとついっちゃいます。

「出陣だ! ご当地ヒーロー カツレンジャー(しゅつじんだ! ごとうちひーろー かつれんじゃー)」

どやろ?

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2019/06/10 訪問)

 ①「沼田川 東岸そびえる 高山城」(ぬまたがわ とうがんそびえる たかやまじょう)

 ②「頂きを 二峰連郭 高山城」(いただきを にほうれんかく たかやまじょう)

 ③「隆景は 竹原沼田継ぎ 高山城」(たかかげは たけはらぬまたつぎ たかやまじょう)

 7年前の令和元年改元されて1ヶ月目の6月10日、小早川隆景に謂れの有る未踏の城木村城、新高山城を終えて高山城を初めて訪れました。沼田川の東岸に聳える山塊が高山城に成ります、当日朝から鏡山城、竹原地区、木村城、新高山城を登り足腰に堪えて居り又登城口を探すのにうろうろし山頂の郭群を踏破する気力も無くなり、新高山城詰の丸で高山城を見下ろし、登城口で見上げ、案内板を読み撮影で終了としました。
 
 高山城は沼田小早川氏の本拠地で沼田川の東岸、毛利元就の三男隆景は竹原小早川氏に養子となり木村城に入る、本家沼田小早川氏の継承も受ける事となり、竹原沼田小早川家が統一される、木村城から高山城に天文20年(1551年)入る。
 しかし翌年には沼田川西岸の新高山城を築き移り、高山城は廃城?となった様子。
 

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トク

【赤色立体地図かるた】 (2022/05/07 訪問)

秀吉が 天下を取った地 山崎城
(ひでよしが てんかをとったち やまさきじょう)

かるた皆さんそろそろネタ切れと思っていた矢先、再びヒートアップしてきたみたいですね。私は3年前ですが、JR山崎駅から天王山へ登りました。そして秀吉がひょうたんの旗印を立てたという、旗立松展望台から山崎合戦場を見下ろしてみました。この眼下に大軍勢がひしめき合って、壮絶な天下分け目の戦いが繰り広げられていたのですね。

もし信長の首が見つかっていたら・・・
もし細川藤孝が裏切らなかったら・・・

などとネバたらばかりが頭をよぎり、光秀に天下を取ってほしかったなあ~・・・などと考えていたら、本丸まで行かず足が勝手に「光秀陣跡(恵解山古墳)」や「勝龍寺城」へ進み、さらに電車に少し乗り終焉の地「明智藪」まで、ここから光秀の最期までを追ってしまいました。光秀ファンなので御容赦を😌。
 

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

石畳 龍が如しの 勝連城
(いしだたみ りゅうがごとしの かつれんじょう)

入口からカーブして登る石畳が印象的です。
天に登る龍のように見えました。
これで変更後の4城についても投稿完了です。
やっぱり未訪の城はイメージ湧かず作品的にもイマイチですね。

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