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翡翠

赤穂城 (2024/02/17 訪問)

赤穂大石神社から赤穂城へ歩いて、すぐでした。

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todo94

ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり⑦ (2025/05/05 訪問)

4連休の最終日には所用が入っていたため、この日が因幡の城めぐりの最終日となります。本当は、市場城もターゲットにしていて鳥取県の城びと登録城、一気にコンプリートしてしまうつもりでいましたが、続100名城のスタンプ帳を忘れてしまったため、若桜鬼ヶ城攻略を来年以降に先延ばしすることにしました。かなり手ごわそうな市場城は、若桜鬼ヶ城の比較的近くに所在していますので、その折に攻略したいと思います。ということでこの日は鳥取城のみに専念することになりました。今年のゴールデンウイーク後半の目的地を鳥取県にしたのは、鳥取城にてこのたび渡櫓門が竣工し表門と共に中ノ御門となっている桝形を拝むためでした。ホテルの朝食をいただいて、7時にはチェックアウト。7:10の段階では、まだ県庁の吉川経家像前の駐車場もガラガラです。青空のもとで、竣工したばかりの渡櫓門、4月26日に開門式が行われた中ノ御門を拝むことができました。擬宝珠橋を渡るのも今回が初めてです。初めて鳥取城に来た20年以上前に比べると、鳥取城の整備がかなり進んでいてうれしい限りです。天球丸まで脚を伸ばしてから、山上ノ丸へと進みます。

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赤い城

目立つ模擬天守 (2025/05/28 訪問)

遠くからでも存在感を持つ模擬天守、河原城の案内板があります。
秀吉が鳥取城を攻める際に陣を置いたとされます。
麓から散策路が整備されていますが車でも山頂まで行くことができます。

広い駐車場もあり、眺望も良いですが遺構は無さそうです。
曲輪の跡っぽい部分や竪堀っぽい地形もありますがおそらく違うでしょう。
主郭から駐車場を挟んだ反対側には古墳がありました。
物見の役割もあったのかな?

朝早かったので模擬天守内には入れず、おとなしく仕事に向かいました。

【見どころ】
 ・山頂からの眺望
 

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翡翠

福山城 (2025/03/14 訪問)

1966年に木造外観復元された御湯殿も見れました。裏から見た福山城も、お勧めです。

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しんちゃん

北の高城神社は眞城跡とされる。 (2025/05/07 訪問)

月山日和城は高城町の市街地の北の丘陵上にあり、慶正寺の西側、内の城・池の城のあたりに模擬天守が築かれています。北を堀切道が東西に走り、その北側の丘陵上も城址になります。最も訪問しやすいのが眞城(西の城)とされる高城神社のある郭で、南側は厳しい切岸になっています。眞城の東に本城、中の城と呼ばれる二つの郭が有ったようですが、現在は原型を留めていないようです。その東には樽原と呼ばれる比高15mの扁平地があります。
後醍醐天皇の初年(1318)肝付八郎兼重が三俣院司としてここに在し、暦応3年(1340)南朝方として畠山直顕の大軍と戦いました。兼重は家臣・江田家定の犠牲によって落ち延び、本城である肝属(鹿児島県)の高山に帰り着くことが出来たようです。
延文3年(1358)肥後の菊池武光が城を奪取し、明応4年(1495)には伊東氏の城となり、八代長門守が置かれました。天文元年(1532)島津氏が伊東氏の八外城を奪回にかかった際には、島津氏に従う都城の北郷氏に落とされ、天正15年(1587)に豊臣秀吉が九州を統一した際には都城を伊集院氏に与えたので、その支城となったようです。

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小林城 (2025/06/05 訪問)

 愛知県名古屋市にある城址です。清浄寺一帯が跡地で、城びとには未登録です。
天文17年(1548年)頃、尾張国守護斯波氏の一族牧下野守長義が築いたと伝わっています。子の長清は織田信長の妹「おとくの方」を娶っています。「おとくの方」は姉妹のお市の方と同様に美人の誉れが高く「小林殿」と呼ばれていました。長清は老後、仏門に入り、死後、廃城になったとされています。
 跡地は尾張徳川家2代光友の時、剣術指南役となった柳生兵庫助利厳の屋敷となりました。その後は1701年清浄寺が建立され現在に至っています。境内には小林城主牧氏の墓があり、石碑、説明板があります。遺構はありません。

 名古屋市の中心地である栄から近く地下鉄矢場町駅から徒歩5分で行くことができます。栄付近に所用があり、帰りに立ち寄りました。

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しんちゃん

飯盛山城の支城 (2025/05/31 訪問)

野崎城は慈眼寺の裏山の標高114.4m(111とも)・比高約80mの位地に築かれています。河内守護畠山氏の内紛の際に、畠山義豊が尚順の籠る野崎城を攻めたという記録があるようです。また若江城の支城として守護代の遊佐氏の一族が守っていたともされ、飯盛山城が築かれた後は、その支城(出城)となったようです。
また現地の案内板には「太平記」に、四条畷合戦(1348)において北朝方の縣下野守が、ここに陣を敷き、南朝方の楠正行と対峙したと記述があるとしています。主郭の西に二つの郭を持ち、主郭は二段になっていて、上下に展望所があります。主郭の南東には長さ10mほどの堀切が有り、そこから降って行くと、その先にも郭が有るようです。北西の尾根上にも郭があり、主郭の他に4の郭を持っています。
今回は吊り橋を渡って石造九重層塔のある郭に戻ってから下山しています。

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しんちゃん

信貴山城の出城、かつては4のエリアで構成される要衝だった。 (2024/11/10 訪問)

立野城は現在は城山台第二児童公園になっていて、その上の墓地も城址に含まれます。墓地の写真をはしょっていますね、申し訳・・。
とはいえ、現在城址はかつての姿を留めてはいません。かつては信貴山ケーブルの下駅近くの張りだした丘陵上に築かれていて、信貴山旧参道を挟んで、南側に二段の郭、北側に三段の郭と帯郭を配置し、北東に枡形の様な馬出を備えた郭があり、さらに北東に櫓台を備えた広くて長い郭が有ったようです。概ね、4のエリアで構成されていて、それぞれに土塁や堀などを備えた要衝と呼ぶにふさわしい城郭であったようです。できれば、その状態で見たかったとは思いますが、時代の波には逆らえないようです。
至徳元年(1348)には大乗院方の立野氏の居城であったとされ、戦国時代の城として完成されたのは永禄年間(1558~70)の末頃、松永久秀の信貴山城の出城としてのようです。

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ぴーかる

尼子十砦8城目 (2025/03/30 訪問)

【高守山城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡南側の道路幅の広い場所の道路脇に駐車しました。ストック要です。
<交通手段>車

<見所>曲輪段
<感想>日帰り尼子十砦旅2城目。案内から。登城口は<35.334191, 133.276565>ちょうど向かいの民家の方が出ていましたので、お声がけして「結構荒れていますよー」との事、自由に入ってもOKな感じでした。登城口のスロープを上がって、椎茸栽培の木が集められた左手の谷から北に向かって登ります。倒木はあるものの、何となく道になっているので登れます。登り切る最後の方は斜面が急なので木や竹をつかみながら登り切ると、城跡の東側の大堀切に出ます。大堀切北側は植林整備された土地で、大堀切東側の尾根上は削平されていますが城跡かどうかは分からない感じでした。大堀切から西に向いて高い切岸を登ります。垂らしてある灰色の細いロープが埋もれていたので掘り出しておきました。切岸を登り切ると連郭曲輪の2段目の側面に着きます。
 城跡は概ね5段の連郭式で3段目あたりから、北から西側にカーブして4・5段目は西に向いています。主郭は南側が低い段があり2段構造となっています。主郭は広いようですが、北側ほど笹が鬱蒼としていて、背をかがみながら進まないと行けません。主郭の北側はスロープ状に下っているようですが、進めそうになかったので引き返しました。砦とはいえ、この地方独特の連郭式のなかなか良い城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

主郭エリアに何か案内が欲しいです… (2025/06/01 訪問)

足軽屋敷通りは普通の住宅街に見えました。不審者に疑われると面倒なので,撮影はしませんでした。また,登城口のネットは開放中でした。たまたまだと思いますが…。たぶん,広大な山の中全体が城域だったのではないかと感じて,ウロウロウロウロと散策しましたが,祠のひとつも見当たりませんでした。期待していると,疲労感だけが溜まると思います…。

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イオ

上有知散策 (2025/02/01 訪問)

(続き)

小倉山城に続いては、金森長近が開いた上有知の城下町を散策しました。

上有知湊(美濃市港町)
現在よりも下流にあった川湊を、長近が小倉山の麓に移して整備したもので、長良川水運の拠点として城下町の繁栄を支えました。住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられた川湊の灯台が現存しています。

清泰寺(美濃市殿町)
上有知金森氏の菩提寺で、二代・長光の墓所のほか、寺内社・金森大権現として初代・長近が祀られています。また、廃寺となった以安寺から移された鉈尾山城主・佐藤氏二代の墓所もあるようです(未確認)。

上有知城下町
水害を受けた長良川近くの町(古町)を、長近が小倉山南麓の台地上に移住させて開いた城下町で、美濃和紙の産地として、また上有知湊による物流の拠点として繁栄しました。美濃和紙により財を成した豪商たちが競うように町家に設けたうだつがあちこちに見られる「うだつの上がる町並み」として知られ、重伝建地区に選定されています。

教泉寺(美濃市東市場町)
城下町の南側に位置し、廃城後に城跡に置かれた尾張藩上有知代官所の門が山門として移築されています。また「命のビザ」で知られる杉原千畝の生誕地でもあり、千畝が生まれた借間は現存しませんが、山門前に案内板が立てられていました。

旧名鉄美濃駅(美濃市広岡町)
平成11年に廃駅になった旧名鉄美濃駅の駅舎・プラットホーム・線路が保存され、往時の車両が展示されています。小倉山城には全く関係ありませんが、美濃市出身・野口五郎の「私鉄沿線」の舞台とのことで(記念碑もあります)、ついでに立ち寄ってみました。

美濃上有知のみならず、越前大野にも飛騨高山にも城下には長近が開いた町割りが今なお残っていて、長近や金森氏がそれらの地を去った後も繁栄し続けたことを思うと、長近がまちづくり名人と評されるのも大いに頷けるものがあると改めて感じた上有知散策でした。

この後、上有知とあわせて長近の隠居領となった関(の関城)にも行く予定でしたが、鉈尾山城と上有知散策に時間をかけすぎたので、またの機会に。
 

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todo94

ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり⑥ (2025/05/04 訪問)

因幡新山城からの転戦です。鳥取市内には、防己尾城の近くの六反田にも丸山城があり、河原城も城びとの登録名は「丸山城」で紛らわしいことこの上ありません。今回向かったのは、丸山町の丸山城です。国道9号沿いで給油をしてから向かったのですが、覚寺交差点の先の国道9号バイパスが通行止め(おそらく事故が原因)となっていて大渋滞に巻き込まれてしまいました。ほんの3kmほどの距離を進むのに1時間以上、かかってしまいました。諏訪湖花火大会の帰路を上回るわが人生最悪の渋滞でした。肝心の攻城は、城郭放浪記さんの写真で迷うことなく登城することができました。なだらかな山頂部にわずかながらも土塁を確認することができました。渋滞のせいで、ホテルのチェックインは少し遅くなってしまいましたが、日が長くなってきていて助かりました。できたばかりの東横インに泊を取りました。

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赤い城

錦水公園 (2025/05/19 訪問)

アドベンチャーワールドのパンダが中国に返還される前に一目見ておこう、と大阪から白浜へ足を伸ばしました。
平日なのに人が多かったです😅
パンダだけでなく展示が充実していて楽しめました。
その帰り、近くの田辺城へ立ち寄りました。

その前に世界遺産に登録されている闘鶏神社へ。
その境内には田辺城主だった安藤直次を祀った藤巌神が建てられています。

田辺城は会津川河口に築かれましたが現在は水門と石垣が残るくらいです。
この水門付近は錦水公園として残っていて駐車場もあります。
周辺を散策してみましたが宅地化されています。
どこかに石垣が残っているはずですが確認は困難でした。

【見どころ】
 ・水門と石垣

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翡翠

篠山城 (2025/05/03 訪問)

丸岡城の帰りに、ちょっと、寄り道しました。石垣がとても、立派でした。

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しんちゃん

湯浅宗藤 (2025/06/01 訪問)

有田川町(旧清水町)には三つの阿瀬川城が有るようです。一つは城びとの城である杉野原の城。二つ目は清水にある城。八幡神社の裏山とされるので、あさんが初投稿を取った清水城のことだと思います。城郭大系の縄張り図には北側の二つの堀は記載が無く、かつては南の郭を横切るように堀切が設けられていたようです。
三つ目は黒石山の南西中腹・比高70mの位地に築かれた山城とされています。
話を杉野原の阿瀬川城に戻します。阿瀬川氏の居城の一つで有田側が大きく蛇行している地形の南東の丘陵部に築かれています。周囲を切岸に囲まれていて、南側は特に急になっています。頂部に広い主郭があり、東部に一段高い場所があり神社が祀ってあります。土塁も付いてますが神社のものかどうかは不明です。地元のお母さんの話や、城郭大系の記述から周辺に堀切も有るようなので、戦国時代にも砦として使用されたのかもしれません。
阿瀬川城は清水城を本城とする保田氏に支城として使われたようです。後に楠木正成に従って幕府軍と戦った湯浅宗藤(阿瀬川孫六)は保田氏の子孫とされています。

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しんちゃん

田尻城⑥ 和歌山県日高川町 西尾根と北側にある石溜り (2025/06/01 訪問)

南腰郭下から西に進むと、西の腰郭があり、隅部に石垣が残っています。さらに西に進んでいくと堀切があり、ここに積まれている石は、なかなかの大きさが有ります。さらに西に進んでいくと、大きな石がゴロゴロ転がっています。ここに石を集めて加工していたんだろうか? 主郭の北側の郭にも大量の石を集めて有る場所がありました。破城の跡か、まだ石垣が完成していないか、いずれかのようです。
尾根を下っていって、帰途につきますが分岐をまっすぐ進んでしまって別の尾根に行ってしまいました。そこにも石積みの様な物があったので、そこが本来の登城道(城域)ではなかったかと考えます。なんにしろ、そこからでは戻れないので、分岐まで引き返して、来た道から戻りました。

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しんちゃん

田尻城⑤ 和歌山県日高川町 ヒマだからDIY?? (2025/06/01 訪問)

矢筈岳から田尻城に戻ります。田尻城と矢筈岳の間には、加工中と思われる石が幾つか有りました。おそらく、北の尾根の先の石積のあたりと、矢筈岳の山頂付近には見張の番兵が居たのではないかと思います。途中にある怪しい石は手の空いている番兵が暇つぶしに刻んだものだろうか? 狭い山城の中で、やることも無いので、石を刻んでいたら割ることができて、せっかくだから積んでみようか?みたいなノリで積み上げて行ったのかな? 本城の手取城には石垣は無いみたいだし、周辺にも石垣のある城は無いんじゃないかな?

田尻城に戻って、南腰郭の下に回って石垣を見に行きます。腰郭は二段になっていて、上段の腰郭の東側と南側にはっきりとした石垣が付いています。南側の石垣は東西に比較的長く続いています。ここは雨が降ると土がどんどん崩れてくるので、とにかく囲んでやろうという感じですね。石垣によって防御力を高めようという感じは、それほどはしませんでした。
城郭放浪記さんの記事によると県下でも有数の標高を持つ山城のようです。池田城は遺構が確認できないとのことで、779mの要害守山城に次ぐ標高751mを誇っています。810mの矢筈岳も城域に入るとは思うのだけど、明確な遺構は見当たらないし、主郭では無いからダメなのかな。

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朝田 辰兵衛

ニホンカモシカ親子に…🦌🦌 (2025/06/01 訪問)

主郭の米崎八幡神社裏で,ニホンカモシカ親子に遭遇しました。撮影している間だけ止まってくれましたが,撮影終了したら奥の方に去って行きました…🦌🦌
あとで撮影画像を確認したら,子のほうの顔が写っていませんでした…<泣>。ちょっと残念でしたけど,想定外の出会いにホッコリしました。ニホンカモシカ親子にとってはイイ迷惑だったと思います。
東日本大震災の津波の影響を受けたハズなのに,たくましく命をつないでいることに感動しました。ただ,2郭のネットはニホンカモシカの被害防止用かもしれません…。

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にのまる

大野城へ向かう途中。 (2025/03/20 訪問)

豪雨災害の影響もあったかと思うのですが、前回は舗装された林道(車道)を往復歩きました。
今回は大宰府政庁裏手の遊歩道(市民の森)から登ります。

市民の森には“春の森”と“秋の森”の2つのコースがありました。
どちらへ行こうか迷っているとお散歩中の方がお声がけくださり、“春の森”から高橋紹運墓所への分かれ道までご一緒してくださいました。芽吹きを待つ緑の爽やかな気持ちのいい散歩道で、行き届いたお手入れに感謝でした。

高橋紹運墓所へのルートは市民の森を外れるためちょっとした山道になりますが、トレッキングやハイキングの方もいらっしゃって、林の中の心地よいウォーミングアップとなりました。

墓所をお参りし、見覚えのある林道に抜け出るとそのまま岩屋城への階段をのぼります。
見晴らしのいいベンチでもぐもぐタイムにしました。
遥か下に見える大宰府政庁跡。あそこから登ってきたんだと思うと感動しかありません!

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イオ

あえて山麓に (2025/02/01 訪問)

関ケ原の戦いの戦功により上有知を加増された金森長近が鉈尾山城に代わる隠居城として築いた城で、長近の死後には金森可重から金森長光に上有知が分知されて上有知藩が成立しましたが、長光が夭折すると無嗣により改易され、小倉山城も廃城となりました。その後、上有知は幕府領を経て尾張藩領となり、城跡には代官所が置かれたようです。

城跡は小倉公園として整備されていて、二の丸跡の公園駐車場(無料)に車を駐めて登城開始。駐車場の北側には本丸石垣が東西に続いています。公園整備で築かれたものかとも思いましたが、往時からの石垣のようで折れを設けて横矢掛りになっています。草に覆われてはいますが、二の丸の南面にも三段の石垣が築かれていました。本丸石垣の下には「小倉山城と小倉公園」の説明碑が立てられ、二の丸東側にはちび っこ広場とミニ動物園が、二の丸西側下段の三の丸跡には図書館が設けられています。

本丸の南西部には模擬櫓が建てられていて、その脇の本丸虎口の石段を上って本丸へ。本丸跡には芝生広場が広がっていて、山手には池や滝を配して庭園風に整備されていました。本丸東側の平坦地も曲輪跡と思われますが、その東端には竪堀が見られ、ここまでが城域だったようです。

本丸も二の丸も三の丸も小倉山の南麓に位置するにも関わらず、城びとでもGoogleマップでも小倉山城の位置情報が小倉山の頂部に設定されているのは何故なんだろう?  と思って小倉山にも登ってみましたが、展望広場に先達方の投稿でよく目にしていた天守風展望台があるくらいで、山頂こそが小倉山城の主要部だと思えるようなものは見受けられませんでした。ただ、3階建の展望台からは眼下に長良川を見下ろし、南に城下町、北東には鉈尾山を見渡すなかなかの眺望で、主要部ではないとしても物見櫓くらいはあったんじゃないか、とは思いますが。

隠居城であり、おおむね戦乱が鎮まった関ケ原以後の築城であるとはいえ、あえて山頂でなく城下町により近い山麓に主要部を持ってくるあたり、やっぱり金森長近は面白い(興味深い)武将だな、と。戦に備える以上に城下の経営に注力したいということなんでしょうけど、比高350mの鉈尾山ならともかく比高60mの小倉山なら山頂でもさして負担にはなりませんし、形だけでも山頂を本丸としておいて、政務と日常生活の場は山麓の二の丸で、ということでも良さそうなものですが、この「まちづくりに全振り!」という思い切りの良さ…好きだなぁ。

さて、小倉山を下りると、長近がまちづくりに注力した城下をめぐります(続く)。
 

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