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トク

横から口出ししてすいません

辰兵衛さん、赤い城さん、横から口出ししてすいません。
もしかしたらこれかな? と思ったのでつい・・・間違っていたらすいません。

私の(23人目)石田三成からです。
佐吉(=三成)は、秀吉の小姓として初めてここ長浜城で仕え始め、そしてあそこに見える佐和山城が最後の居城となったのが、何かとても私には不思議な光景に思えました。そして左のホテルの後ろに、辞世の句に出て来る筑摩江があると思います。という事は、三成は亡くなる直前、ここからのこの景色を思い浮かべていたのかな~、なんて思った時の写真なのですが・・・🤔?

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いたち

EXPO初参加しました (2024/10/20 訪問)

出張! お城EXPO in 滋賀・びわ湖 2024に行って来ました。開場の10分前に着いたのですが凄い行列で、入場出来たのは、開場後30分経っていました。小和田先生の講義に間に合うかと冷や冷やしていましたが、何とか間に合いました。講義内容は私は楽しめましたが、予備知識が全く無かった家族にはつまらないと感じたようです。彦根城に行く約束で家族に付き合ってもらったので、彦根城へ行ってきました。壮大な敷地と立派な石垣、秋晴れでとても気持ち良かったです。数年前彦根城に初めて行った時、石垣の素晴らしさに初めて気づきました。まだまだ行っていない所ばかりですが、これからゆっくり城攻めしていくつもりです。

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赤い城

お手上げ・・・ (2024/10/20 訪問)

朝田さんのクイズ、全くわかりません。
そもそも城からの眺望なのか、もしくは城の超遠景なのかも。

手前のホテルっぽい建物と向こう側に見える造船所っぽいオレンジの建造物がヒントになるのでしょうか?
海は瀬戸内海っぽい感じもしますがわかりません。
引き伸ばすとなんとなく天守っぽい影も??

とりあえず勘で答えるしかなさそうです。
最近朝田さん下関に行かれてたのを思い出し、下関からの小倉城遠景にしておきます。

写真は関係ないですが昨日土佐に出かけ、黒潮本陣さんで食べた鰹のたたき定食です。
戻り鰹の旬で美味しかったです。
ここ、宿泊や日帰り入浴も可能です。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:村雨城 (2024/09/26 訪問)

望月支城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)より自転車で5分ちょっとで、入口碑付近(34.914514、136.157194)に着きました。

村雨城の詳細は不明のようですが、「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして国の史跡に指定されています。
戦国時代の永禄年間(1558~70)の織田信長の近江侵攻を背景に、甲賀武士は連合して「甲賀郡中惣(ちゅうそう)」という組織を作り、地域を支配しており。その城館の1つでした。
甲賀武士は近江守護六角氏の主力として活躍しましたが、1570年(元亀元年)野洲川の戦いで敗北し、信長の配下に入りました。
その後、羽柴秀吉の兵農分離により改易され、郡中惣は終焉を迎えたそうです。

甲賀特有の二城連結城で、村雨城を主郭として、寺前城を副郭としていたと考えられているようです。
城址には主郭部を囲んだ土塁のほか、食い違い虎口や切岸、堀切などが確認できます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=寺前城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:望月支城(城びと未登録 滋賀県甲賀市) (2024/09/26 訪問)

望月城より自転車で2~3分くらいで、登り口付近(34.917505、136.148816)に着きました。

築城時期は不明のようですが、室町時代、甲賀忍者の一族で甲賀五十三家の筆頭格だった望月氏によって築かれたようです。
1568年(永禄11年)に織田信長が観音寺城の六角氏を攻めた際、六角義賢・義治父子は城を捨てて甲賀へ逃亡しましたが、このときに頼ったのが望月氏でした。

望月城から谷を隔てて南側の尾根先にあります。
登り口から入って2~3m、主郭右曲輪の切岸が急すぎて自分には登れませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=村雨城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:望月城 (2024/09/26 訪問)

竹中城より自転車で5分くらいで、山側の登り口(34.919260、136.150119)に着きました。

築城時期は不明のようですが、室町時代、甲賀忍者の一族で甲賀五十三家の筆頭格だった望月氏によって築かれたようです。
1568年(永禄11年)に織田信長が観音寺城の六角氏を攻めた際、六角義賢・義治父子は城を捨てて甲賀へ逃亡しましたが、このときに頼ったのが望月氏でした。

現在城址には堀切、横堀などが確認できますが、クモの巣だらけでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=望月支城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:竹中城 (2024/09/26 訪問)

甲南駅のレンタサイクルで自転車を借りました。
甲南駅より自転車で7~8分くらいで、民家垣根沿い北側の虎口(34.925720、136.159281)に着きました。

竹中城の詳細は不明のようですが、竹中氏の居城と推定されています。新宮城や村雨城とともに「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして国の史跡に指定されています。

城址は竹藪となっています。土塁は確認できましたが、虎口や空堀は竹が茂っていてよくわかりませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=望月城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:福地城 (2024/09/26 訪問)

柘植駅より徒歩30分くらいで、芭蕉公園入口(34.835459、136.247321)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に福地伊予守によって築かれたと云われています。 福地氏は平宗清を祖とするそうです。
1581年(天正9年)第二次伊賀の乱で福地伊予守は、織田信長に与して伊賀侵攻の案内者となり、福地氏城には信長の家臣不破彦三を置きました。
伊賀平定の後に所領を安堵されましたが、裏切り者としていたたまれず、他国へ逃亡したそうです。

芭蕉公園として整備されています。松尾芭蕉はこの福地氏の一族であるため、「奥の細道」は幕府が芭蕉を隠密として旅させたものだともいわれています。
主郭は虎口に石垣を用い、高土塁で周囲を囲んでいます。
電車の時間がなく、攻城時間は15分くらいで引き上げました。次の攻城先=竹中城を目指す為、柘植駅から電車で甲南駅に向かいました。

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しんちゃん

江馬氏城郭群の西の端 (2024/10/13 訪問)

政元城は江馬氏城館群の一角を成す国の史跡です。比高は40m程度で山城では無く平山城の部類とされ、登城がもっとも容易な城郭です。
主郭の南西には堀切があり橋が架けられています。南にも郭が設けられていますが全体的に小規模な城址で、江馬氏城館群の中では最も西の外れに築かれていることから、数河街道や越中東街道を見張る監視用の砦の様な物と考えられているようでうす。

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しんちゃん

石垣と堀が残る。 (2024/10/12 訪問)

萩原諏訪城は飛騨川左岸の河岸段丘に築かれていました。元々は諏訪神社を移動して築いた城ですが、廃城後に再び諏訪神社が戻されています。
天正13年(1582)に豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨一帯を統治していた三木氏を滅ぼし、その後に萩原諏訪城が築かれたとされています。元和元年(1615)の一国一城令の後は、高山城を本拠地にした金森氏が通行時の「旅館」として使用していましたが、金森氏が出羽国上山に国替えされると破却されたようです。
虎口は西と南に付き、東にも諏訪神社の出入口が付いています。南と東には堀が残り、石垣も残っています。北西を除く三方に櫓台が残り、北東には諏訪稲荷大明神、南西には諏訪忠魂者・他3社、南東には那智社などが祀られています。

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しんちゃん

主郭周辺の石垣。 (2024/10/12 訪問)

大洞城は一柳城とも称し、麓の案内板には一柳城で記載がされています。東を津保川が流れ、西を武儀倉川が流れています。津保川は折れ曲がって南方を西に向かって流れ、そこに武儀倉川が合流するため北を除く三方を川で挟まれた天然の要害となっています。
元々は一柳氏の城でしたが、一柳直末の移封後は斎藤道三の末子・斎藤利治が入り、天正15年(1587)郡上八幡城に稲葉貞通が入ると、大洞城は郡上八幡城に対し重要な位置にある支城として重視されたそうです。
車は麓の稲荷神社に駐車が可能ですが、降り易い方向を向けた駐車をする必要があります。地元の小中学生の登山の場と案内板には記載が有りましたが、倒木の数がエグいです。これじゃ子供は登るのは厳しそうです。 私はまたいだり、くぐったりして進みました。登りきると、南に郭らしき扁平地がありますが、北側が城址のようです。進んでいくと、いきなり郭の石垣が目に入ります。なかなかの物ですが隅部が崩されているようです。さらに先に進むと最高所に本郭があり周囲にも石垣が残っています。この石垣がいつの物か不明ですが桃山時代の可能性もありそうです。

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しんちゃん

そこに愛(洲)はあるんか? アイフル~♪ (2024/09/29 訪問)

一之瀬城は城びとの城以外にも西の城があり、両方回るのがルーティンになっているようです。もちろん私も両方、訪問しています。
実際両方とも良い城なのですが、私個人としては西の城の方が好きなんですよ。
まずは東の城の投稿からです。現地案内板には一之瀬城を本拠とする愛洲(アイス)氏は南北朝時代は南朝方の武将として活躍し、延元2年(1337)には後醍醐天皇の皇子・宗良(むねなが)親王を愛洲太郎左衛門らが迎えているとあります。比高は20m程度の平山城で南端は見張り台のようになっていて「宗良親王御遺蹟」の石碑が建っています。一之瀬神社の北側が城址になっていて、堀切や土塁が残ってます。主郭部分は二段になっていて、郭二と主郭に分かれ、主郭は一部削られているようです。
宗良親王「そこに愛(洲)はあるんか?」
愛洲氏「アイスル~ ♪」
いやいや‥そんなやりとり無いって。

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しんちゃん

居館跡(陣屋)も良い、山城も素晴らしい。 (2024/06/15 訪問)

小里城には2019年の12月に訪問しており、その時撮った写真もいっぱいあります。でもせっかく、うささんや、とある煩悩の登城目録さんが24年の写真を投稿されているので、もう一回やってまいりました。しばらく放置していたので4か月ほど過ぎてしまいましたが‥
ちょっと鮮度が落ちましたが、久々の小里城です。妻木氏の妻木城も麓に石垣の立派な居館があり、山上にも立派な石垣の城が残っていますが小里城も負けていません。城びとも多くの方が訪れています。
山上の城は土岐氏の支流である小里出羽守光忠によって天文元年(1532)頃に築かれたとされています。天正2年(1574)織田信長は武田勝頼に対抗し小里城と鶴ヶ城の改修を行い、小里城には池田恒興を配しました。信長の死後、小里氏は小里城を退去しますが、関ヶ原の合戦で東軍に付き旧領を回復し麓に居館(陣屋)を築いたとされます。
山上の城は一部、破城を受けたような痕跡はありますが、天守台周辺の石垣は良好に残っており、社か何かの石垣として保存が成されたのではないかと思います。壊さず残してくれた地元の方々に感謝します。

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しんちゃん

眺望が素晴らしい (2024/06/16 訪問)

公式の方ばかりに投稿をさせておくのも申し訳ないので「城びと」が投稿させていただきます。お待たせしました。
標高271m、比高170mで麓から結構距離がありますが、いい所まで林道で登ることが出来ます。行くところまで行き切ったら、後は歩きです。城址の北側を進んで、回り込んで行って西側から攻めるのですが、なんとなく歩いていると城側から攻撃を受けている気がします。岩の影から見えない矢がいっぱい飛んで来ます。いててっ、こっちは無防備なんだから‥。
案内に従って南に進むとそのまま城域に入り、東西の尾根の中間が堀切になっていて東西の分岐点になっています。左手(東)が主郭の方向ですので、進んでいくと幾つか扁平地が有り最高所の郭が主郭です。主郭からの眺望は抜群で、できれば晴れの日に昇りたいものです。


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T-Shionoya

桑名城 水堀に浮かぶ公園 (2024/06/08 訪問)

6月に訪れた三重県桑名市の桑名城。

中世のこの地は、町屋川(現在の員弁川)と大山田川が揖斐川と合流するポイントで、1513年にその中州の1つに伊藤武左衛門実房が東城を築いたとのこと。
1595年に秀吉家臣の氏家行広が伊勢神戸城の天守を移築したと伝わり、現在の神戸櫓跡はその名残。
1601年には東海道の要衝として本多忠勝が川の流れを変え近世城郭に大改修。1617年以降は久松松平氏、奥平松平氏が城主を務めました。

現在、本丸から北東側は堀が埋め立てられ痕跡がないものの、南西側は水堀が城郭の名残を有する九華公園に。
また水門管理所が蟠龍櫓を模して建てられています。

実際に訪問すると、予想より城郭の雰囲気は薄く、大きな池に小島が浮かぶ"公園"。
本丸と小島を繋ぐ橋の位置は桑名城時代とは異なり、天守跡の石垣も1978年に巨岩を混ぜて積まれたもの。
一番の見どころは堀川東岸の城壁と呼ばれる石垣かもしれません。

複数の移築された建物遺構があるそうですが、それらは見逃し約2時間半の滞在。
絵図で魅かれる二之丸門が復元されないかと思う、私の城郭巡りの184城目でした。

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しんちゃん

川沿いに南東に600mほど進んで登り道を見つける (2024/06/16 訪問)

土田城は城址碑のある西の断崖からは現在登ることは出来ません。また降るのも危険ですね。私も下側から見ましたがかなり危ないです。
城郭放浪記さんの記事を参考にすると、川沿いに南東に進んでいくと谷沿いに南に昇っていく登城道が有るようです。東西の尾根の中間まで上がれば、西側が主郭。東が出丸になります。
大丈夫です!私も納得がいかない場合は同じ城に3回でも、4回でもトライします。何度でもトライしましょう、何度でも、何度でも‥
まずは西の主郭に向かいます。最初に郭があって、うっすらと土塁が残っているようです。そこから西に尾根沿いにしばらく進みます。

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じゅんじん

久しぶり! (2024/04/06 訪問)

やっぱり名古屋城が1番の推し城です!!

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じゅんじん

城の日 (2024/04/06 訪問)

桜が満開の静岡まつりでした。

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うさ

古渡城 (2024/10/20 訪問)

東別院内に石碑あり。
ドデ祭りの日に行ってしまって、たくさんの人で賑わっていました。隣の下茶屋公園は静かで城の名残りを感じました。

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じゅんじん

2年ぶり (2024/03/30 訪問)

校舎は解体かな。

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