医王寺山の続きです。長篠城ではないが、私は長篠城と医王寺山はセットだと考えています。「城びと」も「ニッポン城めぐり」も合戦や攻城用の陣所の登録は少ないが、短い期間に築かれているからこそ築城者の意図や「くふう」が込められていると思う。
浅野文庫の諸国古城之図には「勝頼陣城」として描かれていて「三川日記」には医王寺山に3000の兵が陣を配置したと書かれているらしい・・読んだことはないが。実際に周って見ると「もっと入る」んじゃないかなと思った。もちろん伝・勝頼本陣の周囲も含めてだが。
北西の尾根は敵の攻撃を受けやすい場所だと思うが、現状はどうなのだろうか?
尾根の先端部は二ヵ所 二段にわたって石積で補強がしてあるようだった。先端は急峻で林業の人が足場を固めるために築いたのだろうか? だがこんな急なガケみたいな場所を通るのか? 武田方が築いたにしても、あまり武田軍が石垣を築いたというイメージは無い。
個人的に興味のある場所だ。
北側の尾根に周ってみた。伝勝頼本陣とされる丘陵の北を守る位置にある。このあたりは林業が作ったと思われる掘道や土盛らしきものがある。土盛は南側に付いている、私なら北側に付けるだろう。しかし、この林業と言うものはやっかいだ・・全国の山城に林業の爪痕はいっぱい有って遺構と判別がつきづらい。
だが、関ヶ原を周った時に林業が作った扁平地かな?と思っていたら関ヶ原合戦図志には陣所と比定されている箇所が有ったので遺構の可能性が有るケースも有ったりする。何せ明治の時代の本なので杉の植樹が全国で行われる前の話だ。
神谷氏の書いた関ヶ原合戦図志は江戸時代に編纂された武家事記を参考にしていると思われるので正確とは言い難い。
だが高齢の身でありながら関ヶ原を真摯に歩き回って陣所を比定して行ったことは本を読んでみれば良く分かる。だからリスペクトしているわけですよ。
ところで「くふう」や「ひじかた」ぐらい漢字で書かせてもらってよいですか。歴史のサイトだよね・・漢字は日本人の培ってきた財産ですよ。つまらない「言葉狩り」で自分たちの首を絞めるのは良くないですよ。
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