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トベシュン

北九州続百名城巡り (2025/09/05 訪問)

北九州続百名城巡りで、唐津城址・基肄城跡・久留米城跡7・水城・小倉城址の五城に行ってきました。

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チェブ

逆に思い出に残るかも? (2025/08/11 訪問)

道路の脇っちょ、民家の入口に「中居城」の標柱が立て掛けてありました。
横には説明板がありますが、色褪せていて説明文や縄張り図は消滅してます。
車を路駐して写真を写し、『行った』をポチッ。退陣。

他の方の投稿や、城びと以外のサイトを覗くと、「中居城」の標柱が刺さっていたり、倒れていたり。
と、1時間弱ほど、「中居城」の標柱がどこに刺さっていたかと、ネットの中をパトロールしてしまいました。
そろそろ、お役所の方々、直してくれないかな?

遺構は見学しなかったけど、標柱が気になって仕方ない「中居城」攻めでした。

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ヒロケン

【赤色立体地図かるた】 (2025/09/06 訪問)

先駆けの 近世城郭 安土城(さきがけの きんせじょうかく あづちじょう)

織田信長公の権威を示す天守は史上初めての五重六階・地下一階、不等辺七角形の絢爛豪華な天主で、安土山山頂に築かれました。望楼型の天守で金・黒・朱・群青で彩られた高層建築は人々を驚かせたことでしょう。
ただ、現在天主とされる天守閣の姿は天守台の構造と『信長公記』の内容から詳細に検討された姿で、本当の姿は分っていません。
安土城考古博物館のシアターで上映された映像では、4種類の姿が映し出されており、現在は2つくらいに絞られているそうです。


大手道 他に類無き 安土城(おおてみち ほかにるいなき あづちじょう)

安土城で現在、大手道と呼ばれている登城路は、幅約9mで両側に石敷きの側溝を備え、南麓から直線的に180m延びておりおり、さらに道の両側に大規模な建物が整然と並んでいたとされています。
ですが、この「伝大手道」と呼ばれる登城路は『信長公記』によると大手道とは記されておらず、通常百々橋口(旧摠見寺)から家臣等は主郭部へ至るルートが使われていたそうです。(こちらが大手道?)安土城考古博物館のシアターで上映されている映像では、帝をお迎えしたときに使用する道と紹介されておりました。また、安土城考古博物館の学芸員さんの説明では、大手道、伝羽柴秀吉公、伝前田利家公、伝徳川家康公など家臣団が居住していたとされるの屋敷跡の名称は、江戸時代に入ってからのもので当時の実態を表していないとの事です。そうですよね、いくら畿内を掌握していたとしても、敵に攻められやすい幅広の直線通路は、城造りの常識からするとかけ離れていますよね。

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「砂丘には 行っていないけど 鳥取城」
(さきゅうには いっていないけど とっとりじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「舟入、炭納屋 賑わい浮かぶ 新宮城」
(ふないりすみなや にぎわいうかぶ しんぐうじょう)

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しんちゃん

苗木城・・🫸 (2019/03/09 訪問)

苗木城の投稿です。至る所に巨岩が有り、石垣の合間や隙間から石がひょっこり顔をのぞかせています。あえてこのように積んでいるのだろうか? なんかアートみたいにも見えますね。

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しんちゃん

苗木城 (2019/03/09 訪問)

苗木城には時々訪問してます。今でこそ人気の城址ですが、このころは知名度も低く閑散としています。詫び寂び感があって良いですな。
資料館には風吹門の一部が再現されています。ちょうど風吹門あとの写真と重ね合わせてみると往時の姿が蘇って来ますね。
風吹門は城下から三の丸の出入り口にあたり、大手門として機能していました。二階は「飼葉蔵」として使われていたようです。馬のエサをしまっておいたということでしょうか?

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しんちゃん

中山道・西行伝説 (2019/03/09 訪問)

中山道には西行の伝説が残っています。大井宿から御嵩宿までの間は30kmほどありますが、石畳に入ってほどなく西行にゆかりのある場所がありました。西行は平安時代の歌人で、元は佐藤義清という名で、院を警護する北面の武士を務め妻子も有りましたが、僧となり諸国を行脚し数々の歌を詠みました。
西行の最期については、複数の伝承地があるようですが、中山道にも西行の墓と伝えられる五輪塔があります。西行は文治2年(1186)に陸奥で藤原秀衡と面会し、その後鎌倉で源頼朝と面会し、和歌や武術について話をしたようです。
弓馬について西行は、出家前は藤原秀郷以来の家伝もあったが、すべて忘れてしまったと答えたようです。和歌については花や月を見て感動すると自然に三十一文字が浮かんでくると答えています。持ってる人という奴ですね。
その際に頼朝から銀の猫を拝領したそうですが、御所の前で遊ぶ子供にあげてしまったそうです。身分や家族すら捨てて家をでた西行に宝物は意味を持たないということですか。不思議な人ですね。

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しんちゃん

尾高城 米子市 (2025/06/29 訪問)

尾高城の写真が残っていたので無印で投稿。勤労総合福祉センター建設の予定地だったのだけど、幾度かの調査により、さまざまな出土品が出てきたり本丸と二の丸に石垣が見つかったりして国の史跡になりました。
全ての城跡を保存していくことは不可能ですが、歴史的に貴重な遺構が調査・保存されていく過程に立ち会えたことは僥倖だったと思います。これでしばらく立入はできなくなり、遺構も埋め戻されていくのかな??
アディオス グラッチェ 尾高城

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しんちゃん

景福寺 後藤又兵衛墓所 鳥取市新品治町 (2025/06/28 訪問)

後藤又兵衛基次は豊臣方の武将として大阪夏の陣・小松山の合戦にて討死しました。基次夫人は遺髪を持って、二歳の子為勝を連れ岡山の実家に戻りました。寛永9年に岡山城主池田光仲公が因伯二州(鳥取県)に転封となり、城代家老・荒尾氏菩提寺の景福寺も鳥取に移転しました。後藤一族も鳥取に移り、後藤家は当寺を菩提所とし、又兵衛の遺髪が納められ墓が立てられました。
他にも後藤家9代までの墓があるようです。
境内には挽臼のエピソードで知られる剣豪・羽生郷右衛門の墓や島原の乱で討死した佐分利九之丞の墓が有ります。島原の乱の際には鳥取藩から88名が出陣し、九之丞は寛永15年2月27日に戦死しました。享年61歳だったとのこと。古戦場原城跡の本丸付近にも九之丞の墓標があるようです。

この投稿での基次夫人は後妻にあたり三浦四兵衛の娘にあたるようです。基次には他にも多くの子がいましたが基則(次男?)は父に連座する形で切腹を命じられ、五男の基芳は加藤嘉明の庇護下に置かれ、のちに近衛信尋の侍医になったようです。

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高松城址公園 (2025/09/06 訪問)

 久しぶりの登城です。羽柴秀吉の水攻めで有名になった城で高松城址公園として整備されています。前に登城したのが2015年4月でしたので、約10年ぶりの登城となります。前に登城したとき資料館は土蔵を利用していましたが、リニューアルしていました。毛利氏の防衛ライン「境目七城」の一つとして、備前の宇喜多氏、上方の織田勢に対する重要な城でした。また羽柴秀吉が中国大返しを行った歴史の転換点となった城でもあります。

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周辺散策 (2025/09/06 訪問)

 高松城の周辺を散歩しました。高松城水攻め史跡公園、池上孫兵衛尉(清水宗治の妹婿)の墓、堀尾吉晴の陣があった御崎神社、清水宗治公自刃の地などを歩いて来ました。

 もう少し行きたいところはありましたが、涼しくなった時期に機会があれば散策するつもりです。

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境目七城(加茂城 日幡城) (2025/09/06 訪問)

 毛利氏の織田方に対する防衛ラインである境目七城。そのうちの加茂城跡と日幡城跡へ行って来ました。両城とも城びとには未登録の城址です。備中高松城址からは比較的近いので周辺観光で投稿します。

加茂城
 備中高松城から南に2Kmくらいの距離にある毛利氏の境目7城のひとつです。天正10年、秀吉方に攻められて城内で内紛があり落城しています。
二の丸土壇が残存し、説明板がありました。
備中高松城からは徒歩25分くらいでしょうか。

日幡城
  毛利氏の「境目七城」のひとつで、日幡氏の居城として知られています。
毛利氏より派遣されていた上原元祐は羽柴家の調略に応じて織田家に寝返る決断をします。二の丸を守る三代目城主の日幡六郎兵衛景親に、一緒に寝返るよう説明しましたが「あなたは毛利の加勢であり、毛利家の縁者であるのに残念な事である」と日幡六郎兵衛は断りました。そして、日幡景親は本丸に行って、上原元祐を討ち取ろうとします。しかし、寝返りを決めていた日幡六郎兵衛の弟・日幡八郎左衛門や大森茂八ら数十人が日幡景親を返り討ちにし、日幡城は羽柴勢に降伏しました。しかし、また毛利方に奪い返されたようです。
 城址碑がありました。その裏が城址のようですが、私有地のようで確認していません。
賀陽氏館より徒歩15分くらいで行くことができます。


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吉備津駅より (2025/09/06 訪問)

 備中国の有力者で吉備津神社の神官を務めた賀陽氏の館跡と伝わっています。私有地で中には入れないため外から写真を撮って退散しました。
 JR吉備津駅より徒歩にて登城しました。15分くらいでした。

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しんちゃん

期間限定・主要部 (2025/06/29 訪問)

尾高城の本丸・二の丸には土塁が残り、石垣も使用されているようです。ちょうど発掘作業をしている所で、土の中から石塁と石列が顔を出しています。これもいずれ埋め戻されてしまうのだろうか。貴重な体験というやつですな。
天正10年(1582)10月26日毛利氏家臣・杉原景盛は羽柴氏と繋がっているとして兄の元盛と子供二人を尾高城の二の丸で殺害したとされています。その二年後の天正12年8月に、今度は景盛自身が南条氏(羽柴氏)と繋がっているとして吉川元長に佐陀城を攻められ自刃しています。
結局ミイラ取りがミイラになったというやつですか。その元長もすぐに秀吉に従い伊予や九州へ出陣しているのですが。

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しんちゃん

地主さんに「あざす」 (2025/06/29 訪問)

お城EXPOで松江に行ったら、尾高城の普段公開されていないエリアが公開されているらしい。これはお城EXPOに来ている城好きへの「ごほうび」なのだろうか? 行かない手は150%有りませんな。レッツ尾高城! 行っとけ、行っとけ
本丸と二の丸の間を堀切で区切り、それ以外の郭はそれぞれ独立した状態で間を堀で区切ってあります。鹿児島のシラス台地の城郭を思い出すけど規模はそれに比べると少し小さいかな。
南大首郭の前の堀に橋がかかっていて、そこからルートにそって見学してきます。中の丸から堀切を挟んで本丸を俯瞰。普段見学できるのはここまでなのだろうけど、ここから禁断の本丸エリアへ侵入です・・ありがとう地主殿。ナイス配慮

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ナギャン

発展する広島と広島城 (2024/11/02 訪問)

JRの駅が2026年に新しくなった広島、バスや路面電車での観光が便利になった。
もちろん、広島城もアクセス良好だ。残念なことに2026年(令和8年)3月22日に閉城してしまう。
再度開城してもらえるかは不明だ。耐震工事とか老朽化対策がすんだら開城してくれるのかもしれない。
最上階の展望エリアはとてもお勧めなので閉城する前に是非とも登城してほしい。
天守閣の入場料は大人370円・シニア(65歳以上)180円となっている。ほかの御城よりちょっと安いかな。

天守閣の中に本物の刀・太刀と同じ重量の模造品を持てる。外国の旅行者がノリノリで持っていた。あと、兜もかぶることができるので
記念撮影も盛り上がる。

御堀もきれいなんで是非、広島に行ってほしい。

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カズサン

本丸内部、北西角の腰曲輪がよく観察できました (2025/02/25 訪問)

 本丸は4号堀・堀切からの立ち上がった切岸が高土塁で北側を守り、北西に北門・搦手門の食違い、西端に付櫓台付き天守台が構えて東は崖に成り、東側に石垣塁が構えて居り、南に一段下がって二の丸が控えて居ます、二の丸との間に中仕切門が控えて居ます。
 本丸は今探訪時草刈、灌木伐採がされて居て遺構の観察見学が安易に出来ました、特に本丸北尾根下の腰曲輪の観察が初体験で感動ものでした、今までの見学探訪では草が茂り、灌木が密集しあまり近くまで踏み込めていなかったからかもしれません。
  

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カズサン

本丸天守台 (2025/02/25 訪問)

 二俣城本丸に在る天守台は本丸の西端に付櫓台階段を北側に付けて四方形に存在し良く残って居ります、周辺も奇麗に草刈されて写り映えのする天守台です。家康関東移封後の掘尾吉晴の弟宗光による二俣城改修時に天守台を築いた様です。二俣城一の見所です。
 天守台の西端はすぐ崖に成り西の丸Ⅲ郭方向の尾根に流れています。
 

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カズサン

本丸東石垣塁が良く観えました (2025/02/25 訪問)

 今年の2月25日、冬枯れ、草刈、灌木竹林伐採整備がされた頃、遺構が良く観える事を期待して二俣城へ出かけました、先に西の丸Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと南の丸Ⅰ、Ⅱを投稿しましたが、本投稿は本丸東側にある土塁の様ですが石垣塁である遺構を、東側崖に茂っている竹林が一部伐採されて、草も刈られて石垣・土塁上から、北から南から斜めですが良く石垣が確認出来ました、又東崖下の登城路からも石垣を見上げて観察確認も出来ました。
 東石垣・土塁は北の北門・搦手門跡から中仕切門跡の東側崖の上に存在しています、東石垣・土塁の西側に当たる本丸内側も良く観ると石垣が残って居ります。
 二俣城の石垣は家康が関東移封後、掘尾吉晴の弟宗光が鳥羽山城と共に改修石垣化したとの事です。
 久しぶりに本丸東石垣を観察見学を堪能しました。
    

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