本丸西虎口門の復元工事を知らずに仕事中にちょい寄りしました。
工事期間は令和8年3月迄となっていましたが
画像のようにかなり工事は進んでいるようでした。
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2025/02/08 18:40
2024/10/11 09:21
120【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (箕輪城 (4/4) -龍門寺) (2023/12/09 訪問)
(26人目)井伊直政の続き㉒です。
本丸から御前曲輪や稲荷曲輪を通って搦手口へ下り、そこから「龍門寺」を訪れました。。
北条氏邦の時代は、この搦手口が大手口だったようです。車で来られた方はここに大きな駐車場があるので、ここから登城する事になります(写真⑤-⑧)。直政時代の大手口にも数台止められる小さな駐車場がありました。
搦手口からさらに北へ10分程歩いた所に、直政が建立したとされる「龍門寺」がありました(写真①-④)。直政はここに名僧「白庵和尚」を招き、ある時は指南を受け、またある時は相談相手として、この白庵和尚を頼りとし尊敬していたようです。そして高崎に移る時、当時和田と呼ばれた地を「高崎」と改名するよう進言したのもこの白庵和尚だとされています。
寺の入口に立つと唐破風造りが美しい現存する山門がありました。その山門の扉に彫り込まれた井伊家の家紋「丸橘」に、私は何とも言えない趣深さと、430年経った今も残る歴史の重さを感じました(写真②③)。
次は、高崎城を訪れます。
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2024/10/09 08:48
119【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (箕輪城 (3/4) -郭馬出と本丸) (2023/12/09 訪問)
(26人目)井伊直政の続き㉑です。
大手道をまっすぐ上まで登りました。登った先は土橋の下で行き止まりになっていました(写真①②)。なるほど🤔・・・ここで立ち止まった敵をこの上から鉄砲で撃ちかけられば、一網打尽というわけですね。そして今度はここから右側に迂回して土手に上がる道があったのでそこを行くと、観音口からの登城路と合流し(写真③)、「郭馬出西虎口門」に到着します(写真④⑤)。この門で大手道や観音口から登ってくる者をチェックしていたと思われます。ここからは許可された者だけがこの門をくぐって土橋を渡る事ができ、二の丸や本丸の屋敷に入れたのでしょう。土橋の向こうには北条時代の郭馬出と大堀切があったので(写真⑥)、直政はここに虎口門を作る事に、よりいっそうの防御を固めたようです。
私も虎口門をくぐって、土橋を渡り(写真⑦)、二の丸を通りました(写真⑧)。ここには政務を司る屋敷があったのではと思います。そしてその先にある本丸に立ってみました(写真⑨⑩)。本丸には「直政」が正室の「花」と長女の「政子姫」長男の「万千代(直継)」次女で赤子の「亀姫」と5人で暮していた館があったのではないかと思います。もしそうだとしたら、どんな館があったのでしょうか? 当時の本丸を見て見たい気持ちになりました。虎口門や木橋だけではなく、これらも再現してくれないかな~?
次は、今度は搦手口の方へ下り、龍門寺を訪れます。
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2024/10/07 12:03
118【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (箕輪城 (2/4) -三の丸石垣と大手道) (2023/12/09 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑳です。
次は直政時代の大手口(氏邦時代の搦手口)である虎稻門(写真①②)から入り、鍛冶曲輪を通り三の丸へ登ってみました。
ここには直政が築いたという石垣が多く残っていました。直政は信長より安土城に招かれた22才の時、石垣というものを初めて見たと思います。あれから8年、安土で学んだ石垣の構築技術を、ここ箕輪で初めて城主になり実践したものと思われます。まず鍛冶曲輪の石垣がありました(写真③)。そしてさらに登り三の丸には、氏邦が敷いていた石から、直政がその上に野面で積み上げたという石垣がありました。その高さは発掘調査の結果4.1mあったそうです(写真④⑤⑥)。そしてその石垣の斜面をさらに登った先の本丸との間、氏邦時代の大堀切には、直政が掛けたという木橋がありました。なるほど🤔・・・木橋を落とせば登ってきた敵は堀に落ちるという事ですね(写真⑦⑧)。その木橋の下の掘も、直政は石垣で補強していました。
そして再び虎稻門に戻り、今度はその右側を見上げて見ました。直政は石垣の次は、ここから並行してまっすぐに伸びる大手道を作り始めます。私が想像するに、この発想は、安土城で見た信長への憧れからこのような道を作り始めたのではないでしょうか? 今では両側に木が生い茂り見通しが悪いですが、当時は木などないので見通しはよかったと思います(写真⑨⑩)。しかしこれはまだ途中の状態で、最終的にはこの大手道はもっと広くまっすぐにし、そして階段は石段できれいに整備し、そして大手道から見えるその先正面の本丸に、下から見上げると皆が圧倒するような大天守を築こうと考えていたのではないでしょうか? しかしわずか8年(1590-1598)しか居城せず、またその8年間の多くは朝鮮出兵のため肥前名護屋で暮らし、実際に箕輪に居たのは、最初の1年と文禄と慶長の役の合間の2年(計3年間)くらいではないかと思います(その2年に弁之助(直孝)にも初めて会う))。そして秀吉が死んだ1598年、家康の命で居城は高崎に移ります(この時も実質は伏見に滞在)。よって結局大手道はこのような作りかけの中途半端な状態で終わっってしまったのではないかと私は思いました。あと20~30年じっくりと腰をすえて箕輪を居城としていたら、ここは安土城にも劣らぬほどの立派な天守を伴った総石垣造りの城になっていたのかも?・・・などとふと想像してしまいました。
次は、この大手道を登り、本丸へ上がってみようと思います(熊出没注意?😱)。
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巨大な堀や土塁、そして巧緻な縄張による堅固な土造の城として戦国時代に築かれ、徳川家康の譜代・井伊直政が石を多用した近世城郭に改築。本丸や曲輪を囲む深い堀、さらに桝形虎口や馬出からも、縄張の巧みさが伺える。二の丸から鍛冶曲輪の南側に掘られた、幅30m・深さ20mもの大堀切が見どころ。
城地種類 | 梯郭式平山城 |
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築城年代 | 永正9年(1512) |
築城者 | 長野業尚 |
主要城主 | 長野氏、内藤氏、北条氏、滝川氏、井伊氏 |
文化財史跡区分 | 国史跡(箕輪城跡) |
近年の主な復元・整備 | 武田氏、北条氏、井伊直政 |
主な関連施設 | 門、石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、馬出、井戸 |
住所 | 群馬県高崎市箕郷町西明屋他 |
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問い合わせ先 | 高崎市文化財保護課 |
問い合わせ先電話番号 | 027-321-1292 |