日本100名城

みのわじょう

箕輪城

群馬県高崎市


旧国名 : 上野

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箕輪城
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トク

120【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (箕輪城 (4/4) -龍門寺) (2023/12/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き㉒です。
本丸から御前曲輪や稲荷曲輪を通って搦手口へ下り、そこから「龍門寺」を訪れました。。

北条氏邦の時代は、この搦手口が大手口だったようです。車で来られた方はここに大きな駐車場があるので、ここから登城する事になります(写真⑤-⑧)。直政時代の大手口にも数台止められる小さな駐車場がありました。

搦手口からさらに北へ10分程歩いた所に、直政が建立したとされる「龍門寺」がありました(写真①-④)。直政はここに名僧「白庵和尚」を招き、ある時は指南を受け、またある時は相談相手として、この白庵和尚を頼りとし尊敬していたようです。そして高崎に移る時、当時和田と呼ばれた地を「高崎」と改名するよう進言したのもこの白庵和尚だとされています。

寺の入口に立つと唐破風造りが美しい現存する山門がありました。その山門の扉に彫り込まれた井伊家の家紋「丸橘」に、私は何とも言えない趣深さと、430年経った今も残る歴史の重さを感じました(写真②③)。

次は、高崎城を訪れます。
 

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トク

119【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (箕輪城 (3/4) -郭馬出と本丸) (2023/12/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き㉑です。
大手道をまっすぐ上まで登りました。登った先は土橋の下で行き止まりになっていました(写真①②)。なるほど🤔・・・ここで立ち止まった敵をこの上から鉄砲で撃ちかけられば、一網打尽というわけですね。そして今度はここから右側に迂回して土手に上がる道があったのでそこを行くと、観音口からの登城路と合流し(写真③)、「郭馬出西虎口門」に到着します(写真④⑤)。この門で大手道や観音口から登ってくる者をチェックしていたと思われます。ここからは許可された者だけがこの門をくぐって土橋を渡る事ができ、二の丸や本丸の屋敷に入れたのでしょう。土橋の向こうには北条時代の郭馬出と大堀切があったので(写真⑥)、直政はここに虎口門を作る事に、よりいっそうの防御を固めたようです。

私も虎口門をくぐって、土橋を渡り(写真⑦)、二の丸を通りました(写真⑧)。ここには政務を司る屋敷があったのではと思います。そしてその先にある本丸に立ってみました(写真⑨⑩)。本丸には「直政」が正室の「花」と長女の「政子姫」長男の「万千代(直継)」次女で赤子の「亀姫」と5人で暮していた館があったのではないかと思います。もしそうだとしたら、どんな館があったのでしょうか? 当時の本丸を見て見たい気持ちになりました。虎口門や木橋だけではなく、これらも再現してくれないかな~?

次は、今度は搦手口の方へ下り、龍門寺を訪れます。
 

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トク

118【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (箕輪城 (2/4) -三の丸石垣と大手道) (2023/12/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑳です。
次は直政時代の大手口(氏邦時代の搦手口)である虎稻門(写真①②)から入り、鍛冶曲輪を通り三の丸へ登ってみました。

ここには直政が築いたという石垣が多く残っていました。直政は信長より安土城に招かれた22才の時、石垣というものを初めて見たと思います。あれから8年、安土で学んだ石垣の構築技術を、ここ箕輪で初めて城主になり実践したものと思われます。まず鍛冶曲輪の石垣がありました(写真③)。そしてさらに登り三の丸には、氏邦が敷いていた石から、直政がその上に野面で積み上げたという石垣がありました。その高さは発掘調査の結果4.1mあったそうです(写真④⑤⑥)。そしてその石垣の斜面をさらに登った先の本丸との間、氏邦時代の大堀切には、直政が掛けたという木橋がありました。なるほど🤔・・・木橋を落とせば登ってきた敵は堀に落ちるという事ですね(写真⑦⑧)。その木橋の下の掘も、直政は石垣で補強していました。

そして再び虎稻門に戻り、今度はその右側を見上げて見ました。直政は石垣の次は、ここから並行してまっすぐに伸びる大手道を作り始めます。私が想像するに、この発想は、安土城で見た信長への憧れからこのような道を作り始めたのではないでしょうか? 今では両側に木が生い茂り見通しが悪いですが、当時は木などないので見通しはよかったと思います(写真⑨⑩)。しかしこれはまだ途中の状態で、最終的にはこの大手道はもっと広くまっすぐにし、そして階段は石段できれいに整備し、そして大手道から見えるその先正面の本丸に、下から見上げると皆が圧倒するような大天守を築こうと考えていたのではないでしょうか? しかしわずか8年(1590-1598)しか居城せず、またその8年間の多くは朝鮮出兵のため肥前名護屋で暮らし、実際に箕輪に居たのは、最初の1年と文禄と慶長の役の合間の2年(計3年間)くらいではないかと思います(その2年に弁之助(直孝)にも初めて会う))。そして秀吉が死んだ1598年、家康の命で居城は高崎に移ります(この時も実質は伏見に滞在)。よって結局大手道はこのような作りかけの中途半端な状態で終わっってしまったのではないかと私は思いました。あと20~30年じっくりと腰をすえて箕輪を居城としていたら、ここは安土城にも劣らぬほどの立派な天守を伴った総石垣造りの城になっていたのかも?・・・などとふと想像してしまいました。

次は、この大手道を登り、本丸へ上がってみようと思います(熊出没注意?😱)。
 

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トク

117【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と箕輪城 (1/4)-箕郷支所と観音口) (2023/12/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑲です。
少しブランクが空いて申し訳ありません、浮気の話からの続きです。

直政最初の居城「箕輪城」を訪れました。訪れたのは昨年の12月なので、ちょっと古い写真ですいません。

高崎駅西口から群馬バスの伊香保行で30分「箕郷田町」(写真②)で下車しました。まずバス停そばにある高崎市役所箕郷支所(写真③)でスタンプをGETし登城開始します。

箕郷支所の前の旧下田邸には、忠臣蔵四十七士の中で隋一の剣豪「堀部安兵衛」の作と伝わる庭園がありました(写真④)。新発田藩の浪人であった安兵衛は、何度かこの下田邸を訪れ剣術の指南をしていたそうで、その時に依頼されてこの庭園を作ったとされています。そして安兵衛はその後、赤穂藩家臣の堀部氏の婿養子となり赤穂藩へ仕官する事ができたようです。ちょうど晩秋できれいでしたが、もう一週間早く来ていれば、もっと紅葉の色が鮮やかだったようで、そう思うと少し残念です。

箕輪城は大きく3つの時代(長野氏→北条氏→徳川氏)に分けられるそうです。まず箕郷支所からいちばん近い観音口から入ります。すると水の手曲輪に最初の長野氏の遺構がありました(写真⑤⑥⑦⑧)。武田との戦いの激戦を物語る歌碑で、水の手を断たれてよほど苦しかったのでしょう。しかし水を汲みに行った者はだれも帰って来なかったという悲惨さを詠んだ歌でした。そしてその武田が滅びると、直政が使者を務めた北条との交渉で、箕輪城は鉢形城主「北条氏邦」の持城となります。北条時代は現在の搦手口が登城口だったようです。氏邦は南東から西側にかけて空堀や郭馬出を作るなど、土造りの巨大な城を完成させ、その空堀や馬出は今でも残っています。

北条氏が滅びると、1590年徳川家康は秀吉の命で駿府から関東へ移封、江戸城の築城を始めます。直政はここで上野国を賜り、徳川家臣団で最高の12万石で箕輪城に入ります。そして北条時代の城を拡張し、更なる大改修を始めました。三の丸の要所には石垣を積み、さらに櫓門や木橋などを作り、城下町を整備します。1598年直政が高崎へ移った後、1615年箕輪城は一国一城令で廃城となったため、その後は手を加えられる事もなく、そのおかげで直政当時の石垣などが現在もよく残っていて、その直政時代の櫓門や木橋が現在再現されています。直政この時30才、15才の時に浜松で小姓として一介の草履取りから始まり、あれから15年後、ついにここ箕輪で徳川家臣団の筆頭にまで登り詰める事ができました。

私は観音口から登って、木俣から高崎市街の方向を眺めてみました(写真⑨⑩)。家臣団筆頭となり箕輪城主となった直政は、どんな気持ちでこの景色を眺めていたのでしょうか? きっと自分が家康様をここから天下人にしてみせると、この景色を眺めながら、固く心に誓っていたのではないでしょうか?・・・

次はいったん麓へ下りて、今度は直政時代の登城口である大手口から再度登城してみようと思います。
 

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概要

巨大な堀や土塁、そして巧緻な縄張による堅固な土造の城として戦国時代に築かれ、徳川家康の譜代・井伊直政が石を多用した近世城郭に改築。本丸や曲輪を囲む深い堀、さらに桝形虎口や馬出からも、縄張の巧みさが伺える。二の丸から鍛冶曲輪の南側に掘られた、幅30m・深さ20mもの大堀切が見どころ。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 永正9年(1512)
築城者 長野業尚
主要城主 長野氏、内藤氏、北条氏、滝川氏、井伊氏
文化財史跡区分 国史跡(箕輪城跡)
近年の主な復元・整備 武田氏、北条氏、井伊直政
主な関連施設 門、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、馬出、井戸
住所 群馬県高崎市箕郷町西明屋他
問い合わせ先 高崎市文化財保護課
問い合わせ先電話番号 027-321-1292