日本100名城

おだわらじょう

小田原城

神奈川県小田原市

別名 : 小峯城、小峰城、小早川城、小早川館
旧国名 : 相模

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小田原城
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トク

110【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と天正壬午の乱(3/3)-和睦の使者) (2023/12/08 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑫です。
北条氏の居城小田原城を訪れてきました。日曜だったこともあり、人が多かったです(写真①②)。訪れたのは秋の終わりで、紅葉がきれいでした(写真③:暑い日が続いていますので、この写真で少しでも涼しい気分になって頂ければ幸いです)。また天守からは、ちょうど石垣山に沈む夕日もきれいに見えました(写真⑧⑨)。私も使者になったつもりになって登城してみました。すると、馬出門や銅門などには北条の家紋「三つ鱗(みつうろこ)」の旗がたくさんなびいていて、まさに敵地の中を歩いている感じがして、何かとても緊張してしまいました(写真④⑤⑥)。直政も同じ事を感じたのでしょうか?

現在の小田原城は、家康の側近であった「大久保忠世」が築き始めた石垣に、家光の側近で春日局の子と孫である「稲葉正勝・正則」の時代に築かれた天守に基づいて再建されたものではないかと思います(写真⑦)。北条時代は天守や石垣もなく土造りの城だったようです。秀吉から攻められる直前には、全長9kmの見事な総構えで囲まれていて、その中には10万の人々が暮らし、当時としては日本最大規模の城郭だったとか。私も“しんちゃん“さんと同じく、北条時代のそんな城郭を見て見たい気持ちになりました。

1582年、天正壬午の乱は黒駒の戦いの後、織田信雄の仲介でいったん両者は撤退し、改めて和睦のため直政は北条氏とのその和睦の使者という大役に抜擢されます。そして直政は、甲斐信濃は徳川、西上野は北条(両者切り取り次第干渉せず)、また家康の次女「督姫」を北条氏直に嫁がせるという条件で、見事に和睦を成立させました。

私は小田原城を眺めながら考えてみました。なぜ家康は交渉役に、ベテランの酒井忠次や石川数正ではなく、また中堅の本多忠勝や榊原康正でもなく、家臣団で最も最年少でまだこの時22才の井伊直政を大抜擢したのでしょうか? またそれに見事に応えた直政もすごいと思います。なぜ彼にはこれほどの交渉力があったのでしょうか? 家康はそこまで見抜いていたのでしょうか? 見た目は美男子でかつ小柄(推定165cm)であったらしい直政が、あの強者の武田の旧臣たちをも取り込み、北条氏をも屈服させたこの交渉力は相当なものだと思います。彼の交渉力は、この後の関ケ原でも発揮されます。彼が今の時代に生きていて外務大臣になっていたら、日本はどうなっていただろうか?🤔 なんてまたふとまたありえない事まで想像してしまいました(笑)。

最後に、小田原といえばかまぼこだと思い、駅で(少し贅沢な)おつまみかまぼこを買って新幹線の中で食べました。これはいける! なかなかの美味でした(写真⑩)。

北条と和睦した後は、秀吉との決戦(小牧・長久手の戦い)です。
次は、「井伊の赤備え」デビューの舞台(小牧山城)を訪れます。
 

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しんちゃん

天守は城の「華」 (2024/01/26 訪問)

北条時代に比べると城の規模は小さくなりましたが、近世城郭の小田原城も良い城です。本丸に至るまで馬出しが連続しているのですが、整然とした形で、姫路城のように迷路のような縄張りではありません。これも潔くて良いと思います。
私はコンクリの復興天守や模擬天守は正直好きではないです。いくら戦後の復興期のドタバタや建築基準の問題が有ったとしても、貴重な石垣の上に史実を無視したコンクリ造りの建造物を量産するのは遺構に対して不敬であると思うし、中にはIQを疑いたくなるようなものが多々あるのも事実です。それでも天守が有る城に人が集まってくるのも事実なんだよな。
やはり天守は城の「華」ということでしょう。なので否定はしません。模擬だろうがなんだろうが天守が有れば必ず登ります。その時には割り切って考えるようにしています。

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しんちゃん

美しい枡形が連続する (2024/01/26 訪問)

小田原城は明応4年(1495)には大森氏の城でしたが、伊勢新九郎盛時(北条早雲)がこれを奪い、以後北条氏の城になりました。二代目の北条氏綱の時に北条氏の本城となり、豊臣秀吉の北条征伐で戦国大名としての北条氏が滅んだ後は、大久保忠世が入り、以降近世城郭としての現代の小田原城に整備されました。
私は北条氏の系列の土の城が好きなので、かつての総構を備えた北条氏の小田原城を見てみたいとずっと思っていました。支城である山中城や八王子城でさえあの凄さなのだから、本城である小田原城はさぞや‥と思ってしまいます。詮方ないことですが。
でも久々に訪れてみると、近世城郭の小田原城も良いです。馬屋曲輪から二の丸を経由して本丸に向かっていくと次々と枡形に遭遇します。特に馬屋曲輪から眺める二の丸の枡形は得も言われぬ美しさです。良い‥実に良い。
家康家臣としては少し地味なイメージが有る大久保氏ですが、この小田原城の枡形にこだわった造りは実に良いです。

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ヒロケン

巨大三重天守 (2024/05/04 訪問)

小田原城天守が最初に築かれた時期は分っていないそうですが、前期大久保氏が城主を務めた1596年~1615年頃には存在した可能性が高いそうです。小田原城天守は4度建て替えられ、現在の天守は1960年に鉄筋コンクリートで外観復元されており、江戸時代の天守雛型や明治期の解体中状況を撮影した古写真を参考に復元されたもので、外観はほぼ正しいとされています。
外壁は白漆喰の総塗籠で、二重目の屋根面を千鳥破風を二つ並べた比翼千鳥破風、二階建ての出窓が設けられている点は、小田原城天守独自のデザインです。

5月4日小田原城を訪れた日は、第60回小田原北條五代祭り(祭り期間、5月3日~5月5日)が行われており、二の丸広場でイベントが行われており、大勢の方がお祭りに参加されていました。
人出が多く天守に入るにも行列が出来ており、時間の都合上諦めました。(何度か天守内に入っているため、さほど気になりませんでしが)
しかし、この天守は、何度見てもデッカイし、恰好が良い(*^▽^*) 石垣好きではありますが、やはり近世城郭には天守があった方が絵になります。

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概要

後北条氏の居城を後年になって稲葉氏が近世城郭へと改修。本丸の正門にあたる常磐木門、天守、馬出門などが江戸時代の資料を元に再建されている。史跡公園として開園された八幡山古郭東曲輪の西側には、後北条氏が造った総構の大堀切と土塁が見られる。

城郭情報

城地種類 平山城
築城年代 応永24年(1417)
築城者 大森頼春
主要城主 大森氏、後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏
文化財史跡区分 国史跡(小田原城跡)
近年の主な復元・整備 北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝
天守の現況・形態 複合式層塔型[3重4階/1633年築/倒壊(地震)]、複合式層塔型[3重4階/1706年再/解体]、複合式層塔型[3重4階/1960年再/RC造外観復元]
主な関連施設 天守、門、塀、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)
住所 神奈川県小田原市城内、本町他
問い合わせ先 小田原市経済部観光課城址公園担当
問い合わせ先電話番号 0465-23-1373