(26人目)井伊直政の続き⑫です。
北条氏の居城小田原城を訪れてきました。日曜だったこともあり、人が多かったです(写真①②)。訪れたのは秋の終わりで、紅葉がきれいでした(写真③:暑い日が続いていますので、この写真で少しでも涼しい気分になって頂ければ幸いです)。また天守からは、ちょうど石垣山に沈む夕日もきれいに見えました(写真⑧⑨)。私も使者になったつもりになって登城してみました。すると、馬出門や銅門などには北条の家紋「三つ鱗(みつうろこ)」の旗がたくさんなびいていて、まさに敵地の中を歩いている感じがして、何かとても緊張してしまいました(写真④⑤⑥)。直政も同じ事を感じたのでしょうか?
現在の小田原城は、家康の側近であった「大久保忠世」が築き始めた石垣に、家光の側近で春日局の子と孫である「稲葉正勝・正則」の時代に築かれた天守に基づいて再建されたものではないかと思います(写真⑦)。北条時代は天守や石垣もなく土造りの城だったようです。秀吉から攻められる直前には、全長9kmの見事な総構えで囲まれていて、その中には10万の人々が暮らし、当時としては日本最大規模の城郭だったとか。私も“しんちゃん“さんと同じく、北条時代のそんな城郭を見て見たい気持ちになりました。
1582年、天正壬午の乱は黒駒の戦いの後、織田信雄の仲介でいったん両者は撤退し、改めて和睦のため直政は北条氏とのその和睦の使者という大役に抜擢されます。そして直政は、甲斐信濃は徳川、西上野は北条(両者切り取り次第干渉せず)、また家康の次女「督姫」を北条氏直に嫁がせるという条件で、見事に和睦を成立させました。
私は小田原城を眺めながら考えてみました。なぜ家康は交渉役に、ベテランの酒井忠次や石川数正ではなく、また中堅の本多忠勝や榊原康正でもなく、家臣団で最も最年少でまだこの時22才の井伊直政を大抜擢したのでしょうか? またそれに見事に応えた直政もすごいと思います。なぜ彼にはこれほどの交渉力があったのでしょうか? 家康はそこまで見抜いていたのでしょうか? 見た目は美男子でかつ小柄(推定165cm)であったらしい直政が、あの強者の武田の旧臣たちをも取り込み、北条氏をも屈服させたこの交渉力は相当なものだと思います。彼の交渉力は、この後の関ケ原でも発揮されます。彼が今の時代に生きていて外務大臣になっていたら、日本はどうなっていただろうか?🤔 なんてまたふとまたありえない事まで想像してしまいました(笑)。
最後に、小田原といえばかまぼこだと思い、駅で(少し贅沢な)おつまみかまぼこを買って新幹線の中で食べました。これはいける! なかなかの美味でした(写真⑩)。
北条と和睦した後は、秀吉との決戦(小牧・長久手の戦い)です。
次は、「井伊の赤備え」デビューの舞台(小牧山城)を訪れます。
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