石垣山一夜城から小田原城に移動しました。
正規登城ルートに従い、馬出門・二の丸・銅門・常盤木門・本丸広場を
通って天守閣に登城しました。
天守閣内は北条家に関する展示がされていて、最上階からは周囲の景観を楽しむ
ことができました。
平日のためか、お客さんは外国人とシニアが大半でした。
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2024/11/09 08:55
2024/10/19 22:00
2024/09/04 22:47
関東に 覇を成す為の 嚆矢の地 五代で築きし 豊穣の国 (じあまり) (2024/09/04 訪問)
最近「you」さんや「にのまる」さんが短歌を投稿されているので、畏れながら私も一句 投稿させてただきます。
おふたりとも お見事です。わたくしは短歌の経験はほとんど無いので、内容は未熟ではありますがご容赦願います。嚆矢は「かぶらや」では無く「こうし」と読みます(意味は同じ)。
小田原城が最初に北条早雲(伊勢盛時)の手中に入ったのは明応4年(1495)~文亀元年(1501)ごろとされています。盛時はその後、文亀年間(1501~1504)には今川方の武将として戦い、三河にまで進出してきているようです。
その後は永正元年(1504)からの立河原の戦いを皮切リに、相模・武蔵に一気に攻勢をかけ、三浦氏を滅ぼして相模を平定した後は、上総にまで転戦したそうです。小田原城は関東制圧のための拠点として重要な役割を果たしたと思いますが、北条氏の本城となったのは二代目の氏綱の代からだそうです。
北条氏は五代続き、秀吉が小田原征伐を行った時には200万石もの石高を持っていたとする説もあるようです。
単独の大名としては破格の石高ですが、低い出自から身一つで天下統一を成し遂げ、天下人・関白にまで登り詰めた豊臣秀吉がいかに突出した存在であったかを改めて思い知ります。
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後北条氏の居城を後年になって稲葉氏が近世城郭へと改修。本丸の正門にあたる常磐木門、天守、馬出門などが江戸時代の資料を元に再建されている。史跡公園として開園された八幡山古郭東曲輪の西側には、後北条氏が造った総構の大堀切と土塁が見られる。
城地種類 | 平山城 |
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築城年代 | 応永24年(1417) |
築城者 | 大森頼春 |
主要城主 | 大森氏、後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏 |
文化財史跡区分 | 国史跡(小田原城跡) |
近年の主な復元・整備 | 北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝 |
天守の現況・形態 | 複合式層塔型[3重4階/1633年築/倒壊(地震)]、複合式層塔型[3重4階/1706年再/解体]、複合式層塔型[3重4階/1960年再/RC造外観復元] |
主な関連施設 | 天守、門、塀、石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀) |
住所 | 神奈川県小田原市城内、本町他 |
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問い合わせ先 | 小田原市経済部観光課城址公園担当 |
問い合わせ先電話番号 | 0465-23-1373 |