ふるこくふじょう

古国府城

富山県高岡市

別名 : 如意城、(越中国衛跡、勝興寺城郭遺構)
旧国名 : 越中

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todo94

日帰りドライブで北陸の城めぐり⑤ (2025/09/27 訪問)

七尾城からの転戦です。椿の道が空堀沿いに伸びていますが、樹木の枝葉が邪魔して程よい撮影スポットが見出せません。堀底に降り立つしか方法はないように思います。越中国府の地に作られた城で城地が勝興寺に寄進されたため、現在も勝興寺が建っています。そしてこの勝興寺には2022年12月に国宝指定された本堂、大広間及び式台に加えて10棟もの重文建築が残っているのです。鼓堂など城郭風の建造物なのでてっきり模擬櫓を建ててしまったのかと最初に目にした時は思ってしまいました。500円の拝観料をはらってしっかりと拝観させていただきました。翌日から始まるふしきの「ふ」芸術祭の準備で大広間や書院、奥書院などはだいぶごたごたとしていましたが、満足のいく拝観となりました。

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しんちゃん

かつての国府跡 (2025/04/13 訪問)

古国府城は小矢部川の左岸の台地状に築かれていました。勝興寺一帯が城址とされ、周辺から「椿の道」にアクセスすれば、城址を囲む土塁と堀を見ることが出来ます。かつては、ここに越中の国府が置かれ、城の名と地名にその名を残しています。
神保氏が長尾氏に放生寺城を追われた後に、守山城(二上城)などに拠って越後勢と対峙しますが、古国府城はその出城として機能したとされています。

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朝田 辰兵衛

JR伏木駅前に立ちふさがる… (2023/10/07 訪問)

JR伏木駅から守山城に向かう時,行く手をさえぎっているのが古国府城。JR伏木駅からは,徒歩約5分で勝興寺総門につき当たります。勝興寺境内には「越中国府趾」の碑がありました。立派な建造物が立ち並んでいることからも,「越中国の中心は高岡」とのプライドが感じられます。金沢と富山のほぼ中間点という立地からも,どっちつかずの距離感を保ち,独自の文化を成長させてきたエリアかな…と思いました。
御亭角廃寺跡は,勝興寺南側の敷地外エリアにあります。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:古国府城 (2022/07/31 訪問)

放生津城からの転戦です。勝興寺駐車場(36.792935、137.053937)に駐車しました。

天正年間(1573年~1592年)守山城主神保氏張によって築かれたと言われているが、それ以前から存在した可能性もあるようです。
神保氏は放生津城を居城としていたが、越後長尾氏の侵攻により守山城に立て籠もります。 この守山城の出城として築かれたのが古国府城といわれています。
1581年(天正9年)越中木舟城主石黒左近成綱によって、越中安養寺御坊(勝興寺・小矢部市末友)が焼き討ちされ焼失しました。
1583年(天正11年)佐々成政が越中を平定し、神保氏張も平定に尽力し成政の配下に名を連ねます。
1584年(天正12年)佐々成政が豊臣秀吉と敵対姿勢を強め、隣国の前田利家との争いも激しさを増します。
佐々成政は越中一向一揆勢力を味方に付ける為、古国府城の一円を勝興寺に寄進し、安養寺御坊より移設(再建)されました。これにより古国府城は事実上、廃城となります。
1585年(天正13年)富山の役で佐々成政は豊臣秀吉に降伏して前田家の所領となるも、勝興寺は手厚い保護を受けました。以降幕末まで前田家と勝興寺は血縁的にも密接な関係を保ち続ける事となりました。

古国府城は勝興寺の境内一帯に築かれていたそうです。勝興寺内には入らず廻りを散策しました。中に入るには拝観料がいります。
東側に石垣で構築された堀が見られ、その上に物見櫓のような太鼓堂が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=守山城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 神保氏張?
築城年 天正年間(1573〜1592)以前
主な城主 神保氏
廃城年 天正12年(1584)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
住所 富山県高岡市伏木古国府
問い合わせ先 富山県埋蔵文化財センター
問い合わせ先電話番号 076-434-2814