修善寺周辺「鎌倉殿」めぐり
(2022/01/10 訪問)
修善寺周辺では鎌倉幕府にとって重要な人物が二人も亡くなっています。一人は蒲冠者こと源頼範で平家討伐に大きな功績を残しています。弟の義経程の武勇は無いものの、人望はあったと見られ、義経討伐を始めは断ったため頼朝から疑いの目を向けられるようになりました。建久4年(1193)曽我兄弟の仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝わり、政子を「頼範あるかぎりご安心を」と気遣ったのが裏目に出て頼朝に幕府横領の疑いをかけられ、修善寺に幽閉された後 梶原景時に攻められ日枝神社下の信功院で自害したとされています。
鎌倉幕府二代将軍源頼家はわずか在位6年で修善寺に流され、元久元年(1204)祖父北条時政の手の者に入浴中に暗殺されたとされています。大河ドラマではゼンジが大活躍していました。頼家の墓とされる碑は元禄16年(1704)に修善寺の住職 筏山智船(ばっさんちせん)によって建てられた供養塔で、実際の墓はその裏にある小さな二つの五輪石塔とされています。
頼家の墓の近くには頼家の死後に挙兵を企てた13人の家臣の墓が有ります。挙兵以前に発覚し相州金窪太郎行親らに殺されました。
また近くには頼家の冥福を祈るために母・政子が建立した指月殿があり本尊の釈迦如来坐像が鎮座しています。釈迦如来は本来何も持っていないとされますが、指月殿の釈迦如来は右手に蓮の花を持っています。これも親心・母心というやつですか。
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