西園寺公望公は嘉永2年10月23日、清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生しました。清華家は五摂家に次ぐ公家の上位であり徳大寺家を含む七家が其れに当たります。公望は若くして岩倉具視に見いだされ、戊辰戦争では各地を転戦しました。
フランス留学後に政治家になり伊藤博文の腹心として活躍し、政友会総裁などを経て明治39年には内閣総理大臣にも就任しています。大正元年の第二次西園寺内閣の際には陸軍の二個師団増設を拒み総辞職に至りました。
このころから軍の拡大に対抗する政治家のイメージが見られます。公望は明治・大正・昭和と政界に大きな影響力を持ち、満州国建国の際には犬養毅首相に対し強く反対を訴えていましたが、犬養氏は五・一五事件で殺害されてしまいました。
陸軍に頭を悩ましていた昭和天皇にも信頼されていたようで、昭和12年 広田内閣が総辞職した際には、昭和天皇は興津で療養中の公望に湯浅倉平内大臣を遣わして次の首相は誰が良いか意見を求めています。公望の回答は宇垣一成陸軍大将で、かつて加藤高明内閣での陸相時代に大規模な軍縮を実行した実績を評価したのだとされています。実際には宇垣は浮いた予算を旧式の装備の刷新に回しただけとも言われますが、宇垣内閣の結成は石原莞爾らの大反対を受け、陸相の引き受手がなく、内閣を結成することが出来ませんでした。
昭和天皇は宇垣を「処世術は天才的で巧み」と評していたと独白禄に有るようですが、これは陸軍に対して強硬に出ることが出来なかった彼への皮肉が込められているようにも感じます。
坐漁荘は昭和初期まで日本の政治の重要な局面にかかわり、昭和43年に明治村に移築されました。写真は静岡市清水区興津清見寺町にあるもので、平成16年に復元されたものです。復元とはいえ、この場所で日本の歴史が動いて来たと考えると感慨深い。陸軍の増長に対抗し続けてきた明治以来の巨頭の最期の住まいがここになると思うと、なおさらです。
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