飯田線鳥居駅をやや西に行った丘陵に織田信長が長篠城主奥平貞昌の功績を讃えたと伝わる「コロミツ坂」が有ります。ここで信長は貞昌に「信」の字を授け、以降貞昌は信昌と名乗るようになったそうです。
案内板によると徳川家康は起請文の通りに翌年の天正4年に長女の亀姫を貞昌に輿入れさせたとのこと。そういえばイオさんの投稿に長篠の戦いの後に金森可近が長近に名を改めているとありました。ひょっとしたらコロミツ坂で一緒に・・は無いかな?
この場合は奥平や徳川を立てて、自分の家臣は後になるのでしょうな・・
竹広の交差点の南側に「竹広表の戦い」の案内板があります。元亀2年「1571」武田信玄が遠江、三河への侵攻を図り秋山信友・山県昌景の侵入を受け野田方三人衆(菅沼氏・西郷氏・設楽氏)らが竹広で合戦に及びました。菅沼定盈や西郷清員らの奮戦で秋山勢を一時的に退けることに成功しましたが「お愛(後の徳川秀忠の生母)」の夫である西郷義勝がこの戦いで討死してしまいました。
この7年後の天正6年(1578)にお愛は徳川家康の側室として浜松城に入り「西郷の局」と呼ばれ翌天正7年4月に秀忠を産みました。
設楽原歴史資料館には多数の火縄銃や大筒の展示が有り「最大級の大鉄砲」や信玄を狙撃したと伝わる「信玄砲」の展示があります(撮影可)。周囲の地形は天然の堀のようにもなっている・・ようにも見えますね。
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