みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2022/06/11 訪問)

「見落とすな 登り石垣 鳥取城(みおとすな のぼりいしがき とっとりじょう)」

天球丸の巻石垣に目を奪われ,二の丸の端にある登り石垣はスルーされがち。赤色立体地図ではクッキリと出て,惑わすのではないかと思います。天球丸の巻石垣はほぼほぼ分からないのではないかと思います。

+ 続きを読む

イオ

【赤色立体地図かるた】 (2019/01/27 訪問)

山中に 魅せる石垣 赤木城
(さんちゅうに みせるいしがき あかぎじょう)

奥熊野の山中に現れる石垣の城、赤木城。麓から見える側は巨石を用いて高く、見えない側は簡素に積まれた石垣はまさに見せる(魅せる)ための石垣ですね。
 

+ 続きを読む

todo94

三連休二日目の攻城⑨ (2025/07/20 訪問)

肥後御船城からの転戦です。本当なら豊福城の次に攻めなくてはならないところ、ついうっかり飛ばしてしまいました。50kmほど、無駄にレンタカーを走らせることになってしまいました。時間に余裕がなくなってしまったので、トクさんの情報を活かすことができずじまい。残念無念です。主郭に建っていたであろう陸軍大将福島安正題字の石塔は、おそらく熊本地震で倒れてしまったのでしょう。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

おちこち (2025/07/13 訪問)

広島出身の奥田民生と吉川晃司のユニット、Ooochie Koochieのライブで広島訪問、翌朝広島城近辺をおちこち散歩しました。
広島城天守は来年3月で閉城とのことです。
木造での建て替え計画もあるようですがどうなるのかな?
この日は裏御門から入り福島正則改易の原因といわれる本丸上段北東面の石垣へ。
刻印のある石も見られます。
東小天守跡から天守を見上げてから本丸上段へ、日清戦争時の大本営跡が残っています。
馬場跡には護国神社が鎮座、狛犬は原爆にも耐えて残っているものです。
その脇には中国軍管区司令部跡があり、ここからの第一報で広島が壊滅状態であることが伝えられました。

原爆で赤く焼けた中御門枡形の石垣を見ながら二の丸を経て内堀の外に出ます。
せっかくなので原爆ドームまで足を伸ばしました。
側を流れる元安川にはT字形の相生橋がかかり、ここが投下のターゲットでした。
実際の爆心地はドームから少し東で病院の前に説明板が立っています。
今年で被爆から80年ですが争いのない世の中は来そうにないですね😔

【見どころ】
 ・本丸上段北東面の石垣
 ・本丸中御門枡形の原爆で赤く焼けた石垣
 ・本丸北側の帯曲輪から見上げる天守と石垣

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2024/01/25 訪問)

「広めたい 障子掘焼き 山中城(ひろめたい しょうじぼりやき やまなかじょう)」
ワッフルはもう古い! これからは「障子掘焼き」で。。。
通常・・秋冬ver
静岡茶風味・・春夏ver
とりあえず山中城の売店で売ってくれないかな~? じわじわ全国にバズって欲しい、ベルギー障子掘焼き、ベリーベリー障子堀焼き。。
無理かな~ 全部夏の暑さのせいにしよう・・

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2020/01/05 訪問)

「釣井の段で 水汲みタイムだ 新高山城(つりいのだんで みずくみたいむだ にいたかやまじょう)」
吉田郡山城にも有った釣井の段(井戸郭)、なんだか釣糸を垂れたくなるような名前です。新高山城の井戸郭には円形石積井戸が6つも有り、今でも水をたたえている井戸も有るそうな。家臣団の生活にも重宝していたと思うので、食事の支度前には奥方殿が皆、釣井の段に集まって賑わっていたことでしょう。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2016/11/26 訪問)

「紅の 瀑布想起す 八王子城(くれないの ばくふそうきす はちおうじじょう)」

女衆が身を投げ,その血で赤く染まったと伝わる御主殿の滝。心霊スポットとも言われる場所なので,攻城時は撮影していませんでした。今度は覚悟を決めて,撮影しに行きたいと思います。

+ 続きを読む

ぴーかる

ありがとうございます。

todo94さん、祝辞ありがとうございます🐤尼子十旗の夕景城(馬木城)はわたしも3回目でやっと攻略した苦労があります。それまで城びとで攻略したのがtodo94さんだけだった(これが凄い!)ので、城郭放浪記さんのサイトとtodo94さんの投稿写真を何度も見て位置確認をしながら、やっと攻略できた苦労を覚えています。
 尼子十砦は確か、安来市の寺山城もtodo94さんは攻略されていますよ。この城も攻略されていたのが貴殿だけで、たぶん個人サイトも投稿が無く、先駆けとなっておられたので参考にしたのを覚えています。勝山城の方はわたしが行ったルートと西側にハイキングコースとなっているルートの2通りがあるようです。一見のいい山城ですよ。

+ 続きを読む

トク

【平和について考える旅 2025】(1)宇佐平和資料館 (2025/07/20 訪問)

今年もまたトクの終戦の日前の恒例、平和について考える旅(1/3)です。お城に関係ない話が3回ほど続きますが、申し訳ありません。よければまた一昨年・昨年同様お付き合い願えればと思います。1回目は「宇佐平和資料館」です。

大分県宇佐市柳ヶ浦地区、この広大な宇佐平野は大分県の米の一大生産地です。1587年12万石で豊前中津に入った黒田官兵衛の時代も、ここは豊前の米所でした。しかしそれから350年後の昭和13年(1939年)、この地には海軍航空隊の基地が造られます。

ここに造られた基地は、当初昭和16年(1941年)までは空母「翔鶴・瑞鶴」搭乗員の真珠湾攻撃までの訓練基地として使用されたようです。そして昭和20年(1945年)には、「桜花」という特攻機(一式陸攻という爆撃機にぶら下がる爆弾を積んだグライダー)の発進基地となりますが、その情報をつかんだ米軍により3月18日の出撃直前に大空襲を受け、一式陸攻や桜花の搭乗員と基地の整備兵など、約320名の方が亡くなられたそうです。その時の爆弾池や弾痕跡が今でも残っていました。それから4~5月の2カ月間、今度は零戦を主体とした神風特別攻撃隊の発進基地となり、154名の方がここから沖縄に向けて飛び立ち、帰らぬ人となられたそうです。その方々の名前が刻まれた慰霊碑がありました。またその碑の前には「掩体壕」と言われる、本土決戦に向け、空襲から零戦を守るために造られたコンクリートの構造物が、今でも10基ほど残っていました。

これらを後世に伝えるため、仮設の宇佐平和資料館が基地跡地南側の四日市地区に、現在建てられています。その資料館には、あの岡田准一さん主演の映画「永遠の0」の映画の撮影で実際に使用された、零戦21型(岡田准一さんが実際に乗られ、最後のラストシーンに使われた機)が保管されていました。

これらの基地の様子が後世に伝えられ、平和利用されていく事を願いたいです。

(2/3)へ続きます。
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

16年振り3度目登城総集編 (2025/06/06 訪問)

 先に二本松城を16年振りに3度目の登城し、6編に渡り投稿致しましたが投稿写真が多くぼやけた様に成った感じがしたので写真を絞って総集編として投稿致します。
 車は3の丸下段高石垣下の第1駐車場と本丸の乙森駐車場を利用しました。

 二本松城に新しく「にほんまつ城報館」が出来て二本松城の情報発信収集のポイントと成って居ました、以前と比べて町屋建物が整理されて三の丸下段下の駐車場と用水路周りがスッキリした感じを受けます。
 大手門から入ると戊辰戦争二本松少年隊の群像と後ろに母の姿像が悲話を物語っています、三の丸下段の高石垣が箕輪門を挟んで圧巻です、箕輪門枡形から入り三の丸虎口を経て三の丸下段広部へ、振返って三の丸虎口枡形と立派な松の木数本枡形虎口の景観は素晴らしい。
 本丸へは足腰の疲れも有り車で乙森駐車場へ、16年前に観た復元修復石垣を再確認、16年前には見て居なかった本丸下の旧大石垣を下に降りて確認見上げる。
 本丸内部、本丸周辺ぐるりと石垣、天守台、東櫓台、西櫓台を観察して時間も迫っており終了としました。
 投稿写真が先回投稿写真とダブりますがご容赦ください。

 「梅雨と猛暑で6月中旬より城探訪はお休みです、10月当たり涼しく成った頃ぼつぼつと始めたいと思っております、また最近皆さんが【赤色立体地図かるた】の投稿が多く成って居ますので絞って投稿致したく思っておりますので宜しく。」
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

【赤色立体地図かるた】

「がまだせと 熊本城に 励まされ」
(がまだせと くまもとじょうに はげまされ)

2016年の熊本地震から、復興を進める熊本城。
ずっと『がんばって』と、祈ってます。
でも最近は、『私も、がんばらないとな!』と、反対に活力をもらってます。
「がまだせ」とは熊本弁で「頑張る」「精を出す」なんだそうです。

今朝、同僚に「扇子」をプレゼントされました。
本日、東京の端っこ40度予報。
パタパタしながら、がまだすばい!

+ 続きを読む

赤い城

【赤色立体地図かるた】

長岩城 弓形砲座は 命がけ?
(ながいわじょう ゆみがたほうざは いのちがけ?)

ここも未訪です。
元気なうちに行っておきたいけどはたして?
弓形砲座や銃眼のある石積櫓、惹かれます。
赤色立体地図でどうなっているのかを楽しみにしてます。

+ 続きを読む

赤い城

【赤色立体地図かるた】

大陸へ 名将集いし 名護屋城
(たいりくへ めいしょうつどいし なごやじょう)

未訪なのですが行っておきたい城です。
1日で全部見て回れるのかな?
なかなか九州に行けないので100名城もまだまだ空白多いです。

+ 続きを読む

todo94

【赤色立体地図かるた】 (2018/02/17 訪問)

毛利氏の 雄飛を語る 吉田郡山 (もうりしの ゆうひをかたる よしだこおりやま)

旧本城から拡張に拡張を重ねて今に残る大城郭となった郡山城は、中国地方に覇を唱えていく毛利氏発展の歴史をそのまま表現しているように感じています。

+ 続きを読む

todo94

三連休二日目の攻城⑧ (2025/07/20 訪問)

ぴーかるさん、尼子十砦(&尼子十旗)制覇、おめでとうございます。私は凄く苦労して夕景城(馬木城)を攻略して尼子十旗はコンプリートすることができたのですが、尼子十砦は十神山のみの攻略にとどまっています。ぴーかるさんが十砦で一押しの勝山城なんて登城路がわからなくて途中撤退していますから。尼子十砦制覇はずっと先のことになると思いますが、いつか私もびーかるさんに続きたいと思っています。

さて、三連休二日目の攻城を続けます。豊福城からの転戦です。肥後御船城は城山公園として整備されていて、丘の中腹に駐車場があります。小学校、役場、中学校に取り囲まれていて、役場前には恐竜のモニュメントが何体か建っていました。城址に立つ看板を見てその謎が解けました。御船町の形は恐竜に似ているのだそうです。丘の先端部には天満宮が鎮座し、太宰府天満宮飛来の梅が植えられていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2017/11/26 訪問)

「観音寺城に 尾根がつながる 安土城(かんのんじじょうに おねがつながる あづちじょう)」

「アソビ心」第2弾です。上五の句でお手つき狙いです。ハイ,1回休み!

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2023/09/17 訪問)

「安土城に 尾根がつながる 観音寺城(あづちじょうに おねがつながる かんのんじじょう)」

「アソビ心」第2弾です。上五の句でお手つき狙いです。ハイ,1回休み!

+ 続きを読む

しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2019/05/01 訪問)

「医学史に その名を刻んだ 鳥取城(いがくしに そのなをきざんだ とっとりじょう)」

「医学史に その名を刻んだ 渇え殺し」 でも良いと思います。「渇え殺し(かつえごろし)」は鳥取城攻めの代名詞だけではなく、リフィーディング症候群の歴史上における貴重な事例になっています。医学史に認識されているんですね「渇え殺し」は。
リフィーディング症候群は長期間の慢性的な低栄養状態におかれた人が、急激な栄養補給を受けた際に水や電解質の分布異常によって引き起こされる様々な症例です。おかゆを食べただけでもショック死するくらいなので、この時代では既に助からなかったのではないでしょうか?
鳥取城の「渇え殺し」や高松城の「水攻め」など、羽柴(豊臣)秀吉の作戦のスケールは戦国でも群を抜いています。これらの作戦が、小早川隆景など敵や周囲の大名達に、この人物は只者では無いと思わせる要因の一つになったのでは無いでしょうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

ありがとうございます。

しんちゃんさん・朝田辰兵衛さん・赤い城さん・チェブさん祝辞ありがとうございます🐤

しんちゃんさん:興味湧いてきましたか。先日TVの「歴史探偵」でも尼子氏・尼子十旗も取り上げていましたよね。

朝田辰兵衛さん:大変さと言えば山陰地方、冬場は雨や雪が多いのと、雪が積もってて、休みの日とかみ合わなくて攻略が進まなかったことか。

赤い城さん:この地方魅せられました。三沢城の横にある布広城(三沢城と対になってる?)にも行っていないし、三刀屋じゃ山城など、まだまだ見応えありそうな山城が残っています。楽しみは尽きません。

チェブさん:そうなんですよ。東京と神奈川の県境の多摩川には河岸段丘の城が沢山あるんだなあ、行ってみたいなあ、と思い、その東京端っことかなり迷ったのですが、行ってたら、たぶん江戸城で歩きすぎてスタミナ切れ、熱中症で倒れてた。マジで。もしくは、東京競馬場だけ行って惨敗して、しょげて大阪帰ってた(笑)かです。

+ 続きを読む

しんちゃん

深い堀が周囲を巡る。 (2014/02/07 訪問)

松山城も亀山城に負けず劣らず多いです。「城びと」の城だけでも七つか、八つはありますか。
新田義貞の陣営が築かれたとされる伝説もありますが、定かではありません。戦国時代、城主上田氏は扇谷上杉氏に従いますが、扇谷上杉氏が滅んだ後は、北条氏の城となりました。小田原攻めの際には上田氏の城代として山田直安が2300の兵で守りますが、北陸勢の大軍に攻められ落城しました。
城址は東に向かって、本丸・二の丸・春日丸・三の丸が配され、周囲を深い堀がめぐり、北側に多くの曲輪を配しています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ34