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HKISD

高松城跡散策 (2024/10/13 訪問)

高松城を散策しました。
園庭も整備されており天守閣の石垣は見事でした。
そして一番は舟に乗ってコイのエサやりは最高でした。

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小田原城址公園 (2024/10/19 訪問)

 近くまで来たので寄ってきました。時間の都合もあり主要部分をさらりと散策しました。この日は土曜日で、それなりに人が多かったですね。
 本丸の売店で三福だんごをいただき帰って来ました。

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三浦の晃ちゃん

雨が・・・ (2024/10/19 訪問)

麓の歴史資料館まで、行ったところで、激しい雨に振られてしまい、期待していた石垣を見ることが出来ませんでした。リベンジしたいです。

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ぴーかる

竜泉寺城 (2024/09/23 訪問)

【竜泉寺城】
<駐車場他>駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅5城目。現地説明板によると龍泉寺は天台宗、伝教大師の創建といわれ、尾張四観音の一つで、馬頭観音を本尊とする。1584年長久手の役に豊臣秀吉がここで陣し、寺堂に火を放って焼失させたとあります。また城びとの城郭情報には築城年1556年、築城者は信長の弟・織田信勝となっています。
 祝日だったので本堂奥にある模擬天守(100円)に入れました。内部は円空仏等の展示品があります。城跡の遺構はあまり分かりませんでした。

<満足度>◆◇◇

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シェル

周辺は東京大仏に加えて、謙信ゆかりの地もあります。 (2024/09/24 訪問)

東武東上線 下赤塚駅から徒歩20分。都営三田線 西高島平駅から徒歩15分ほどです。
 城跡は、赤塚公園(本丸跡)・赤塚溜池公園(本丸北東側)・蓮乗寺(二の丸跡)の3ブロックに分かれています。
 赤塚城本丸跡に石碑と説明版が設置されています。また赤塚溜池公園から本丸へ向かう階段のところにも説明板があります。
 本丸のすぐ南側は谷になっており、城の雰囲気が残っています。溜池公園のトンボ池や溜池が外堀の遺構といわれているみたいです。また本丸の山の周囲の西側と北側の区立郷土資料館の間には、堀のような遺構がありました。
 南の東京大仏がある蓮乗寺は、赤塚城の二の丸跡らしく、参道の階段の最上段右側に石碑が立っています。東京大仏は戦後の寺院の移動をきっかけに作られたようです。
 また下赤塚駅からの道中 少し迷っていたら住宅街の中で「松月院大堂」という都指定史跡をたまたま発見。
 説明板を読んでみると、“上杉謙信”の文字‼ まさかの謙信ゆかりの地の登場で、とてもびっくりしました!!
 元々は七堂伽藍をもつ大寺院だったようです。永禄四年の長尾景虎(のちの上杉謙信)が小田原の北条氏康を攻めた際に焼き討ちにあって焼失したようです。そのため、現在は鐘撞・本堂のみとなっています。
 東武東上線側から行く際は、ぜひ立ち寄ってみてください。

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チェブ

俵屋 玄蕃の道場跡って? (2024/10/12 訪問)

東京水辺ラインの船に乗り、海上から「品川台場」を見学して両国で下船しました。
目的はなく終着点だったから下りた、が正解です。

両国といえば国技館と江戸東京博物館ですが、お相撲もシーズンオフ。江戸東京博物館も休館中で駅前は静かです。両国駅の近くに『両国ー江戸NOREN』という江戸の町屋風の商業施設があり向かって歩いていると
『俵屋 玄蕃の道場跡』
という高札があり、写真をパチッ。
城びとのお陰で、石碑や説明板に引き寄せられる力がそなわりました v(´▽`)
でも、よく読むと、俵屋 玄蕃さんは忠臣蔵に登場する架空の人物なんだそうです。
架空の人物の道場がここにあったのか~?
なんのこっちゃ?頭ん中がごちゃごちゃします。

『両国ー江戸NOREN』の中は江戸グルメのお店が連なってました。中央には土俵があります。横に土俵と同じサイズにペイントされていて、外国の方々が代わる代わる『のこった!のこった!』とお相撲をとってました。

最近、お城行けてないから、幻の道場でも投稿しちゃおうと思った『俵屋 玄蕃の道場跡』攻めでした。

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大六天バンガロー (2024/10/19 訪問)

 地蔵平・城ヶ尾峠を越えて甲斐に抜ける道と中川・箒沢を経て白石峠、犬越路に向かう道の分岐点に当たる交通の要衝でした。前面の河内川を天然の堀とし、背後に急勾配の山に守られた場所にあります。上下2段の平場で構成されていました。日本城郭大系を見ると石垣があったようです。
 現在は立入禁止となっています。先人が撮影している「許可なく立入をしないでくださだい 大六天バンガロー」の看板の写真を撮って退却しました。

 新松田駅より富士急モビリティバスに乗り中川橋バス停下車。ゆっくり歩いても15分くらいで行くことができると思います。午前9時35分のバスに乗車して予定では午前10時29分に到着するはずでした。帰りのバスは午前11時12分の予定で、乗り遅れると次は午後2時57分になります。ところが交通事情によりバスが15分以上遅れてしまい、滞在時間が25分くらしかありません。迷いましたが、速足で何とか往復することができました。立入禁止の看板以外はほとんど見ていません。

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とばつびしゃもん

佐渡島の城4 (2024/09/08 訪問)

「きらりうむ佐渡」で世界遺産「佐渡島の金山」を学習した後、佐渡奉行所跡へ。専用駐車場に駐車し入所。
住居、役所、工場で構成されていた奉行所で役所部分が復元されている。建物内には屋内版のお白洲が見られる。採掘した鉱石を砕いて金を選鉱していたセリ場と呼ばれる工場の跡地には展示施設があり、施設内には作業場や器具が並ぶ。
奉行所から車で数分の所にある佐渡金山の宗太夫坑を30分ほど歩き、大佐渡温泉で宿営。夜、北沢浮遊選鉱場跡のライトアップを見学。

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朝田 辰兵衛

赤い城さんへ~クイズ返し~

まずはノーヒントで…。

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ハッスルオヤジ

真壁城見学 (2024/10/19 訪問)

トレッキングのついでに見てきました

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備えあれば… (2024/10/18 訪問)

場所が分からず撤退した過去が…。今回も私の古いナビでは手前の住宅街をぐるぐるするばかりでしたが、我が動物的勘を信じ住宅街を脱出すると看板と矢印を発見!龍潭寺前の🅿︎は広く、平日だったためか車は1台しかありませんでした。念の為持参した登山靴と、この日は10月だというのに28℃で半袖でしたがUVカットの超薄手ジャケットを装備しいざ侵入。
敷地内数歩で左手に三成様が鎮座されておりご挨拶。寺門左脇から進み、寺内のお墓群に合掌しつつ奥へ奥へ。蜂や猿に注意!とそこかしこに掲示があり、長袖長ズボンは正解だと汗だくで思う。
整えられているもののいきなり結構な急坂は踏み固めてありますが、階段ばかりではありません。運動不足の私にはへーへーハーハーのかなりな登山道でした。尾根まで上がればそこまでキツくはないものの、ところどころ「帰りは確実に滑るだろうな」と思う場所がありました。
登頂するとなかなかの眺め。ベンチが数カ所にあります。厠はありません。鬱蒼とした南側の登口の方へまた急坂を下ると千貫井戸の看板があります。少し行くと大雨の影響か大木が倒れ井戸の屋根?はすっかり潰れてしまっていました。
何度かズルッと滑りながらも無事下山。お墓群辺りでどデカいお猿さんに遭遇、目を合わさぬよう後退り…しばらく見えない位置でやり過ごし、消えていくのを待ちました。ふぅ…恐かった!
ここまで約60分程の行程でした。🅿︎に杖もありました。長袖長ズボン、できればそれなりの靴があった方がよいかと思います。

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カズサン

南美濃未踏の城探訪3/7 加賀野井城 (2024/10/14 訪問)

 竹ヶ鼻城水攻めの本陣跡太閤山砦を終えて南東に5.1km程、竹ヶ鼻城からは南東に3.7km程の木曽川西岸に在る、加賀野井城を初登城。(km数値は城郭放浪記さんの情報です)

 駐車場:無し、加賀野井城案内板、標柱の在る狭い畦道に一時路駐、交通量今回は1台も無し。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 田圃の中の北東角に案内板と標柱の在る植栽された小公園の様な土盛りがある、その他の遺構は無いようです、北側に民家が一軒有るが周りはすべて田圃、時期的に稲穂が黄金色に実り稲刈り前の状態でした、東は田圃一条隔てて木曽川西堤防と道路、その東は木曽川です。
 ナビに目的地を示し向かうが道が狭すぎて躊躇してる間に木曽川堤防道へ、堤防道から西に下り道を探し畦道舗装はされてる、離合不可能な畦道を対向車が来ない事を祈り、目的地へ、写真で見ていた案内板、標柱のある場所、草、樹木は茂っており案内板が樹木で少しかぶさる。周りは黄金色の田圃で田圃の中にポツンと存在する。

 歴史は、天正年間には加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下と成り、415貫文(1万石)を領して城主となっていた。秀吉の小牧長久手戦では竹ヶ鼻城水攻めの前に攻防が有り、秀吉方10万の大軍には抗しきれず、城明け渡しと、助命を条件に講和を申入れたが、受け入れられず5月5日夜陰に乗じて大手門より打って出て、最後の決戦を試みるが衆寡敵せず城兵は枕を並べて討死し、城主は辛くも脱出して関東の逃れて落城する。
 多くの方が亡くなった様です。(案内板による)

 兎に角、田圃の畦道走行でひやひやの探訪でした、今回は対向車が無くてラッキーでした。

 次は八神城を目指します。
 
 

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小城小次郎

堂々たる石樋 (2024/02/19 訪問)

訪ねたのがたまたま土砂降りの日だったので石樋に注目したが、杉の段の石垣に設けられた巨大石樋は機能していないようだった。一方で本丸の石樋はどうどうと水を流していて、堂々たる石樋の機能を見せつけていた。

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赤い城

Black&White (2024/10/06 訪問)

福山には約25年くらい前に2年ほど住んでいました。
その頃は仕事にも余裕無くゆっくり見学することは無く。
ただ、相方と出会った地でありその後何回か訪れていました。
今回は久しぶり、改修工事後は初めての登城です。

この日は世羅高原へダリアとガーデンマムを見にドライブ。
帰りに立ち寄りました。
車は北西の福山城専用駐車場に置き、北側から登城しました。
なのでいきなり鉄板が施された姿を見ることに。
以前と印象が全く異なります。
斜めから黒と白のコントラストを楽しめました。

本丸に進むとこの日は日本酒のイベントが開催中。
車なのが悔やまれます!
多くの人で賑わってたので写真を撮るのも一苦労でした。

それでも天守の周りを一周し、伏見櫓、月見櫓、筋鉄御門などを見学しながら東側へと降りました。

福山はバラの街でもあります。
駅前の石垣前には秋バラも咲いていました。
駆け足での登城だったので次回はもう少しじっくり味わいたいです。

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城③ (2024/10/12 訪問)

JR学研都市線の同志社前駅から長尾駅へとアクセスしました。長尾谷高等学校のあたりがその故地とのことで、陣屋通りの木の立札も確認いたしましたが、移築門があるという圓通寺は徒歩で赴くには少々遠かったのでまたの機会にとっておきたいと思います。この日の攻城はこれにて終了。難波のヱビスバーで早めの晩酌を楽しみました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:久居陣屋 (2024/09/25 訪問)

新家バス停から徒歩10分くらいで、本城山青少年公園入口(34.675781、136.458883)に着きました。

1671年(寛文11年)藤堂高通によって築かれました。 津城主藤堂高次の隠居により高通に50,000石の分領が許可され、高通は久居藩を立藩しました。
本来は城主格の大名ですが、城を築くことは許可されず陣屋を築いたそうです。

現在は久居中学校と高通児童公園となっています。
久居陣屋に関するものは説明板と御殿山記念碑くらいです。

攻城時間は10分くらいでした。本来の予定はここから木造城に向かう予定でしたが、新家バス停から久居駅に向かうバスが15分も遅延した為、バスの乗り継ぎが出来ませんでした。
その為、1時間遅れが確定。本日は岸岡城攻城時の電車待ち40分と併せ1時間40分遅れはリカバリ不可なので、本日はここで終了としました。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず久居駅から近鉄四日市駅に向かい荷物をコインロッカーから取り出した後、三重県の津駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=24922歩、攻城距離=17.44Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:伊勢上野城 (2024/09/25 訪問)

豊津上野駅から徒歩15分弱で、案内標識前(34.7904952、136.5446161)に着きました。

伊勢上野城は織田信長の弟、織田信包が津城の仮城として1570年(元亀元年)に築城しました。
「賤ヶ岳の戦い」の後、お市の方の遺児である茶々・初・江の三姉妹はこの城で過ごしたといわれています。

現在は、本城山青少年公園となっていて、本の丸跡には展望台が建てられており、2階にある資料室には伊勢上野城の復元模型が展示されています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=久居陣屋を目指す為、伊勢鉄道と三重交通バスを使って、伊勢上野駅から新家バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:岸岡城 (2024/09/25 訪問)

千代崎駅から徒歩7~8分くらいで、岸岡山緑地公園階段前(34.852580、136.604897)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、佐藤中務大輔によって築かれたと云われています。 佐藤氏は藤原秀郷の子孫で下野国より移り、戦国時代には神戸氏に従っていたそうです。
1557年(弘治3年)近江六角氏が神戸氏の属城である柿城を攻めた際、神戸城主神戸利盛が救援に赴いた隙に佐藤中務・又三郎父子は謀叛を企て、六角氏の部将小倉三河守の兵を神戸城に迎え入れました。
しかし、佐藤氏の家臣古市与介が佐藤氏に叛いて神戸利盛を岸岡城に迎え、長野藤定とともに神戸城を奪還し、佐藤父子は捕らえられたそうです。

現在は公園となっており公園の案内板には古墳は記されていますが、城址に関する記述はありませんでした。
電車に間に合わせる為、展望台に行かず速攻で引き返しましたが、タッチの差で間に合わず40分近く次の電車を待ちました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=伊勢上野城を目指す為、千代崎駅から電車で豊津上野駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:浜田城 (2024/09/25 訪問)

近鉄四日市駅から徒歩5分くらいで、鵜森神社鳥居前(34.964519、136.617401)に着きました。

1470年(文明2年)田原忠秀によって築かれたようです。
1575年(天正3年)織田信長によって攻められ、当主元綱は討死し、元綱の子重綱は美濃国へ逃れた後に織田信雄に仕え、1584年(天正12年)美濃国加賀野井城で討死したそうです。

現在は鵜の森公園となり、遺構は鵜の森神社周辺にわずかに土塁跡が残っています。
冠木門、城址碑、説明板は鵜森神社鳥居を潜ると左側にあります。
城址碑の写真を撮り忘れているのを帰宅してからわかりました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=岸岡城を目指す為、電車で近鉄四日市駅から千代崎駅に向かいました。

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しんちゃん

今川氏の城で石垣を残す珍しい城。 (2024/06/29 訪問)

奥池ケ谷城は今川氏の城と考えられていますが、詳細ははっきりしません。14世紀に築かれたとする説もありますが、今川氏関連の城では珍しい石垣(石積)が残されていることから、戦国時代にも使用されていたと思われます。
静岡の城の中でもかなりの山奥にある城で、石上城から移動してきたのですが、天候が優れず、警報が出ていて県道が封鎖されていて、たどり着くのに難儀しました。山道でなく国道を使うべきだったのですが、時間の都合でショートカットしようとしたのですね。
県道でいい所まで来れるので、そこからの比高は90mほどです。
登り始めほどなくすると浅い堀切があり、石積を備えた東側の郭に到達します。そこから主郭を目指して西に向かって登っていくと幾段の郭や浅い堀切を経て主郭に到達しました(たしか)。
西側にも城域が広がり、破城の跡らしき痕跡と崩れた石積が有りました。なんとなく謎の多い城です。

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