お城の背後から登ってくる月を超望遠レンズで数キロ離れた位置からぶち抜く。
季節、気象、場所、いろんな条件をクリアしないと撮れない神技テクの月城撮影の醍醐味をコラージュでまとめました。
すべて合成ナシの1発撮り。
すべて泰山の撮影です。
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2025/01/05 13:56
2025/01/05 13:49
2024年大晦日 (2024/12/31 訪問)
帰省したついでに、昔住んでいた近所の城趾へ行きました。
昔は中原街道などを見張れるように見渡せたようですが、今は住宅地と、向こう側の縄文時代の遺跡群のある丘が見渡せます。
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2025/01/05 12:07
徳川の京都盆地の防御 (2025/01/05 訪問)
京都JR竹田駅から楠葉台場へ行ったあと、橋本駅から淀駅に戻って、淀城に行ってきました。
淀城は伏見城の廃城後、徳川秀忠が家臣の松平定綱に築かせ、定綱の美濃国への移封後に永井尚政が改修し、その後は稲葉氏がこの地を納めました。江戸幕府の名によって築かれたこの淀城は大阪枚方方面からの京都への敵の襲来を防御するためのお城だったようです。
淀城はもともと淀川沿いに築かれ、伏見城の石垣、二条城の天守が利用されたかなり大きなお城だったようですが、今は埋め尽くされてしまっています。
東南隅に天守が築かれ、天守の周りを天守曲輪が囲み、その下には高石垣が築かれています。天守台から西へとかつて多聞櫓が存在し、多聞櫓台石垣沿いには今も淀川から引かれた水堀が存在します。
天守曲輪へと現存する石段を登っていくと天守の入り口が見えますが、門がしまっていて中には入れないようです。
また隅櫓台の上には岩がいくつか散乱しており、中には刻印の書かれた岩がありました。刻印を書いた人は前田利家、加藤清正、毛利輝元だそうです。
国史跡にも100名城にもなっていませんが、歴史上重要なお城でもあり、見応えの合えるお城だと思いました。
評価★★★★☆
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2025/01/05 11:35
2025/01/05 11:26
陣屋跡 (2024/11/19 訪問)
地元の方々が整備されています。住宅街の一角に城趾碑と広場があります。隣の家から説明が貼られていました。神社には城門が残っており堀端には櫓があります。
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2025/01/05 08:09
2025/01/05 08:09
久しぶりの再訪 (2024/12/08 訪問)
頭崎城で費やすはずの時間が空いてしまったので最寄りの松嶽城へ行くことにしました。
4年半ぶりの再訪です。
竹林寺を目指し細い山道を登っていきます。第二駐車場の先をさらに登ると駐車場があります。
ここから先は徒歩、竹林寺へ下っていきます。
少し歩くと仁王門、ここから少しだけ下ると説明板があり、ここが登城口です。
登城といってもここから登りません。
梵字岩や登城路から下に落ちる竪堀、土塁や横堀を見ながら進みます。
土橋を渡ると本丸、ここは登ります。
本丸はやや藪、二の丸、三の丸と三段の郭が連なります。
本丸と二の丸の間に石積が残る井戸もあります。
ここまでは前回も見学していたので再確認できました。
一旦下りて南曲輪方面に。
南曲輪と三の丸の間は堀切状の動線でしょうか。
三の丸方面を見上げると石積が確認できます。
やはり切岸を登ってしまいました。
南北朝時代の古い城のようですが遺構も良好で歩きやすい城でした。
夏は藪かも・・・
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2025/01/05 07:43
元日の攻城③ (2025/01/01 訪問)
斎藤氏館からの転戦です。ゴルフ場の中に取り残された雷電神社が竜ヶ谷城です。結構、城の遺構が残っていてうれしい不意打ちとなりました。おそらく雷電神社には地上げの圧力が相当あったはずで、ゴルフ場の中の離れ小島にはなってしまいましたが、雷電神社が地上げに屈しなかったおかげで、こういう形ではありますが、城の遺構が残されたのだと思うと、雷電神社には感謝あるのみです。因みに途中の看板に早朝及びゴルフ場営業終了後の立ち入りは不法侵入扱いとなる警告が記されていました。おそらく、元日はゴルフ場の営業はしていないはずなので不法侵入にあたってしまうのでしょうか。でも、雷電神社に初詣に行きたい人だっているはずですよね。
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2025/01/05 06:44
城下めぐり (2024/10/14 訪問)
(続き)
北の庄城址公園は福井城の西三ノ丸南側の曲輪にあたり、発掘調査で出土した堀跡と石垣が展示され、日向門の礎石が位置標示されています。
JR福井駅西口の道路の向こう側には、吉野川を改修した最大幅100mに及ぶ百間堀が築かれていました。現在はビルが建ち並んでいて堀の痕跡も窺えませんが、百間堀の石垣石を用いたモニュメント(説明板)が設けられています。
北陸銀行・福井支店の前には発掘調査で出土した笏谷石の石垣石が展示されています。柴田期北ノ庄城のものか福井城かは不明のようですが、打込接ぎで刻印もあるので福井城の石垣なんじゃないでしょうか。また、福井市役所の前にも西二ノ丸石垣の石材が展示されています。
中央公園はかつての西二ノ丸と西三ノ丸に設けられており、西二ノ丸の堀が掘割広場として立体表示され、笏谷石の石列で堀幅が平面表示されています。また、西三ノ丸の堀は堀水景として往時の様子を感じさせる姿で半立体表示されていました。その他、西三ノ丸にあった御座所(藩主の住居)も平面表示されています。中央公園に北接する福井神社は福井藩16代藩主・松平慶永(春嶽)を祭神とし、松平春嶽公像が立てられていました。
さて、城下をひとめぐりしたので、本丸に向かいます(続く)。
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2025/01/04 21:35
江戸期に築かれた城。 (2025/01/04 訪問)
現地の案内板によると野手崎城は小梁川氏の居城で東西300m、南北250mの規模を持つとされています。
築城は江戸期になされ、寛永22年(1644)に工事が始まり、元禄元年(1690)に完成し、幕末まで居城したようです。
高所に本丸が置かれ、小梁川館とも称されているようです。
中腹に高屋敷館があり、二の丸とも考えられています。
下段にも郭が複数配され、民家になっている場所もあります。今回はなんとか本丸まで到達できました。
山城とされてはいますが、比高はそれほどでもないです。とは言え、積雪の状態で普段とは勝手が異なるので本丸周辺で良しとしました。
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2025/01/04 20:58
2025/01/04 20:52
2025/01/04 19:58
別名; 高瀬要害山城 馬谷城 (2024/12/29 訪問)
標高70mの山城です。
登城口には看板があり、駐車スペースが
あります。
この城跡の見どころは西斜面の畝状空堀
ですね。ここまでしっかりとした状態は
珍しいですね。土塁の部分が崩れずに
底部も明確で竪堀として残ってます。
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2025/01/04 19:06
2025/01/04 16:47
火防秋葉神社 (2025/01/04 訪問)
2025年 明けましておめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
秋葉城は南北朝時代、標高866mの山頂に天野氏によって築かれた山城とされています。遺構はありませんが、秋葉山本宮秋葉神社上社が建ち火防の神様として知られ、全国より崇敬され参拝されています。
1日から3日まで、娘が帰省してきており、昨日金沢に帰ってしまい暫く孫の余韻に浸っていましたが、秋葉山上社に新しいお札をいただきに参拝してきました。ここに城があったとは聞いていましたが、秋葉神社の創建は709年とされているので、南北朝時代には既に神社が建っており、山頂に城があったのだろうかと疑問に思ったりもしますが、境内からの景色は素晴らしく小さな疑問など吹っ飛んでしまいます(*^▽^*)
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2025/01/04 16:45
石垣散歩 (2025/01/04 訪問)
六段壁はこの城のシンボルのような存在で自分も昔から好きな遺構です。他にも魅力的な石垣の風景が多くあり、一部ですが追加で投稿しました。残念ながら雪で見にくくなっている所もあります。この日は晴れ間が見えていましたが、雲で太陽が隠れる時間帯もありそれなりに寒かったです。
この時期は登城者も少なく葉も落ちているので山城散策にはいい季節ですが、年によっては雪が降っていたりするので要注意です。3年前に1月に登城したときは雪が積もっていました。(投稿済み)
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2025/01/04 16:36
写真撮りにくい… (2025/01/02 訪問)
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
さあ今年2025年の最初のお城は楠葉台場となりました。
楠葉台場は勝海舟が幕府に命ぜられて築かれた台場です。その後は薩長同盟により、この地域は新政府軍に攻められ、新政府軍の砲台の高浜台場から攻撃を受け、終いには新政府軍に占拠されてしまいました。
楠葉台場はJR橋本駅から徒歩10分ほどで着きます。橋本駅は京都府ですが、楠葉台場は大阪府にあります。さらに近くは東海道が通っています。砲台は京都方面から攻めてくる敵に反撃するために作られたようですが、実際にはその役割は果たせず…
縄張りとしては稜堡式の砲台となっており、土塁や堀が良好な状態で残っていました。また発掘調査では瓦も多く見つかっており、建物が立っていたことも明らかになりました。
写真が撮りにくいというのは2つの意味がありまして、1つは普通に遺構を綺麗にとるのが難しいという意味と、もう一つは、公園になっていて、多くの人が遊んでいたので、自分が公園の写真を撮っている不審者のような感じ見られるのが嫌だったということです。そこにいた多くの人はおそらくそこが砲台ということをあまり意識していないようなので… 皆さんもそんなことありませんか?
評価★★★☆☆
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2025/01/04 16:26
霧ヶ城伝説 (2025/01/04 訪問)
1年ぶりの登城です。少し雪化粧をしていました。文治元年(1185年)加藤景廉によって築城されましたが、現在見られる石垣造りの近世城郭は慶長6年(1601年)入部した松平家乗により整備されたものです。岩村城の特徴の一つに標高717mの山頂一帯に築かれた城にもかかわらず井戸が17ヶ所もあるということです。中でも昔から好きなのは八幡曲輪にある霧ヶ井です。城主専用の霊泉で、敵が攻めてきた際、城内秘蔵の大蛇の骨をこの井戸に投じると、たちまちにして雲霧が湧き出て城を覆い尽くし、城を守ったとされています。この話を最初に知ったのは初めて登城した中学生のときでした。いつの時代、そのときの城主は誰、と疑問に思い調べてみましたが、今のところ答えをみつけられません。詮索することが野暮な話かもしれません。
明知鉄道岩村駅より岩村城下を散策して登城しました。本丸まで行き二の丸、南曲輪などを散策しました。
「岐阜の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版)に「山上から周囲に伸びる尾根の各所には、戦国期の曲輪や堀切が遺存している。見学路が整備されていないのが難点であるが、こちらも一見の価値がある」の記載があります。行けるものなら行ってみたいですが、無理はしないのが現在の方針なので行きません(多分)。
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2025/01/04 16:22
織田信秀の居城で、名古屋城築城時の石置き場ともなった城跡 (2024/12/08 訪問)
東別院(真宗大谷派名古屋別院)一帯は、織田信長の父信秀が築城した古渡城跡で、四方を二重の堀で囲まれていたとされます。信長は古渡城で元服したと云われます。
境内には城の遺構は残されていませんが、城趾碑があり、周囲を巡ると少し高い場所であることが分かります。
東隣にある東別院の後庭であった下茶公園内には堀を利用して作られたとされる庭園の池があります。
ここは江戸時代には名古屋城築城時の石垣用の石置き場とされ、古渡城跡に集められたようで今も残石が多くあります。三河湾沿岸で石を切り出し、船に乗せて伊勢湾を渡り、熱田浜で陸上げし名古屋城まで運ばれていたとされ、東別院は熱田浜から名古屋城の間の真ん中辺りにあります。
古渡城は何度か行きましたが、今回は残石が目的で刻印を探し廻りました。
刻印は下茶屋公園を含め29石も見付かっているとのことですが、私は刻印を22石程見付けることができました。
複数の刻印があるものや、名が刻まれたものもあり、良かったです。特に刻印「一」が多く、10石程見られましたが、なぜ多いのでしょうか。
矢穴石は25石程あり、沢山見られました。矢穴口の長さ10cm以上は名古屋城築城時の慶長期、大修理の宝暦期は5cmが目安とされますが、大半は矢穴口の長さ5cm位でしたので、大修理の宝暦期以降の矢穴かもしれません。
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