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左大弁

広いです (2025/09/21 訪問)

秋田駅からバスで約20分。
資料館で1時間、城内を一通りまわって30分の計1時半というところです。
特に城内は広いので、歩き回るだけでも大変ですが、水洗トイレ跡は現代でも通用しそうでした。

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しんちゃん

お城稲荷四兄弟 (2025/01/06 訪問)

瓜連城は延元元年(1336)南北朝の争乱の時代に楠木正成の一族・楠木正家によって築かれたとされてます。周囲を土塁や堀が巡っていることを考えると戦国時代にも使われていたのでは。
瓜連城の鬼門の位置に源太郎稲荷があり、案内板によると長男の源太郎狐は本家のこの里を守り、甚二郎狐は野、紋三郎狐は山、四郎介狐は海を守ることになったそうな。四匹の狐はそれぞれの地で敬われ、土地の守り神となったそうな。
こうして源太郎狐は瓜連城・甚二郎狐は米崎城(那珂市)・紋三郎狐は笠間城・四郎介狐は湊城(ひたちなか市)と、それぞれ郷土の稲荷神社に祀られているそうな。
ほんまかいな そーかいな。

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しんちゃん

お見舞い (2025/01/06 訪問)

「登り石垣」を見てカメラ破損の心のキズが癒されるとは、イオさんもかなりの「城キチ」ですね。カメラは城キチの命ですので、保証が効くと良いですね。
森田城は那須資隆の長男太郎光隆とされ文治3年(1187)ごろに築かれたようです。以降那須十氏の一つ森田氏の居城として続きますが主君の那須氏が小田原征伐に参陣しなかったので宗家と共に改易になったようです。
城址は主郭の周囲に土塁を張り、その周囲に空堀と土塁を設けた比較的シンプルなものです。主郭西側にも腰郭を設けて有りますね。他にもいくつか腰郭があるようですが、主郭の存在感が強いので単郭のイメージがあります。
慶長5年に大田原城主綱清の次男増清が関ヶ原の合戦の功関で森田村を与えられ陣屋を築いて小塙に居住しました。芳朝寺は大田原氏の菩提寺となり麓に墓所があります。「合掌・・」

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左大弁

景色雄大! (2025/09/21 訪問)

脇本駅から徒歩で行きましたが、約30分掛かります。
内館地区だけなら1時間あれば見て回れますが、馬乗り地区まで行こうとすると、+30分は必要な様です。
尚、25/9/21現在熊出没注意となっています。
内館地区だけなら注意は必要ですが、過度に怖がる心配はないかと。
ただ、馬乗り地区まで行こうとすると、山の中を歩くので、怖そうです。

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イオ

とことん?松山城(黒門口登城道~県庁裏登城道) (2025/05/17 訪問)

(続き)

ホテルにチェックインすると、夕食までは自由時間です。他の面々は風呂に入ったりゆっくりしたりするようですが、せっかく徒歩圏内のホテルなのに松山城に行かない手はありません。さすがに搦手側を探索する時間はなさそうなので、二之丸に行くことにしました。

三之丸から見上げると石垣の上に二之丸が、さらにその上には本壇の天守群と本丸の櫓群が覗いています。三之丸を抜けて黒門へ。黒門口登城道は往時の大手道で、かつては櫓門だったようです。黒門から入って左に折れ、突き当りの左側が栂門です。さらに3度の折れを経てたどり着く槻門は城内最大の石垣の上にかつては二重2階の巨大な櫓門が築かれていました。

槻門の先の分岐から左は本丸への大手道、右は二之丸史跡庭園に続いています。右側に坂を上って行くと見えてくる二之丸多聞が史跡庭園への入口になっている…はずですが、門は閉ざされ「本日の入園時間は終了しました」の表示が。あれ? 17時までじゃなかったっけ!? どうやら閉園は17時でも入園は16時30分までだったようです。なんてこったい…。

やむなく分岐まで戻って大手道のほうに向かうと、今度は「樹木伐採作業のため通行止め」の立て看板が。期間の日付を見てみると5月17日から…って今日からやん! とりあえずもう少し先まで行けるようなので、二之丸の四脚門を横目に進んで行くと、近世城郭の大手道とは思えないような細く曲がりくねった山道になり、どこで通行止めになるのかな…と思っているうちに本丸の大手門に着いてしまいました。作業に入っている様子はなく、この日の早朝は大荒れの天候だったために作業開始が延期されたんでしょうね。

さて、二之丸には入れず、思いがけず本丸まで来てしまったので、こうなったら時間の許す限り搦手側を見てやろう! と先ほどよりずいぶんと人が少なくなった本丸の写真を取りつつ太鼓門をくぐったところで、ストラップが千切れてカメラが落下しレンズ部分を破損…。あまりのショックに搦手側どころか城めぐりを続ける気力も失って、修理できるのかな…買い替えるしかないのかな…などと呆然と県庁裏登城道を下っていると、目の前に本丸へと続く登り石垣が! 県庁裏登城道から見られるということを思い返す余裕すら失っていましたが、何とかこの登り石垣を、この感動を写真に残したい、と普段は城めぐりの写真には使わないスマホで撮影しつつ下山しホテルに戻りました(続く)。

当初の目的の二之丸に入れなかったり、黒門口登城道も通行止め…と思ったら本丸まで着いてしまったり、カメラを破損したりと想定外のことばかりでしたが、カメラ破損の沈んだ気分を一気に引き上げてくれた登り石垣のことは一生忘れないと思います。

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todo94

北海道&東日本パス第2弾 Pikmin Bloom Journey2025仙台と仙台市博物館 (2025/09/20 訪問)

22日に休みをとって4連休のシルバーウイークとし、北海道&東日本パスで仙台にやってきました。目的はPikmin Bloom Journey2025仙台です。お題をすべてクリアして最後のスペシャルスポット伊達政宗胸像でポストカードも19種すべてそろえました。仙臺緑彩館が建つここは、片倉小十郎の屋敷跡。仙台城の濠だった長沼を経由して赴いた仙台市博物館は仙台城の三の丸です。ちょうど特別展「徳川十五代将軍展」が開催されていました。前期の目玉は家康の甲冑、金陀美具足でしょう。巨大な金扇と並べられていて何ともゴージャスです。2代秀忠から15代慶喜までの甲冑が一直線に並べられていて、これがこの特別展の目玉とあって人の列がなかなか動かない人気ぶりでした。個人的には、家光のしょぼい絵や大河ドラマにも登場した10代家治の嫡男・家基の絵、慶喜の7歳の時の揮毫「愛敬」や油絵などの方が興味深く、人も少なかったのでじっくりと鑑賞することができました。関連展示の「徳川家と伊達家」も良かったし、支倉常長のミニシアターと国宝群の展示まで十分すぎるほど、仙台市博物館を楽しむことができました。博物館内で昼食をとった後は、大手門脇櫓前の支倉常長像もチェック。ゴールデンウイークに支倉常長の銅像を2体チェックしているので、2025年のうちに国内に3体ある支倉常長の銅像をすべてチェックすることができました。

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しんちゃん

陣陣陣・・陣陣陣 (2019/05/02 訪問)

太閤ヶ平陣から鳥取城に向かって歩いて行くと、たくさんの羽柴方の陣所があります。最初に遭遇するのが羽柴秀長の陣。よく働く弟です。陣所には土塁などの遺構がありますが、写真だけ見るとどれがどの陣の遺構か良く解らない。メモを残しておくべきだった。
鳥取城まで近づいてから引き返し、鳥取城は翌日麓の城から登りました。太閤ヶ平陣から登っても良かったんだけどね~。

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天守無しがアツい

天守台 (2025/09/15 訪問)

本丸の階段を登って天守台へ
発掘調査でここから瓦が出土されなかった…つまりここには天守閣をイメージさせるような建物は存在しておらず、簡素な建物がある程度だったらしい

西櫓台…ここには建物の柱跡さえなく、ここから城および周辺の様子が伺える役目…二の丸が良い角度で見えたので逃さずに撮影

天守台の端から階段を降りると空堀へ…歩けるだけ歩いてみる🚶‍♂️地面が草で覆われた一帯🌱🌱二の丸方面へ向かってひたすら歩くと…なんと二の丸に抜け出る事ができた

その二の丸では…不法投棄に警告する看板が。それを犯す輩がいるらしい…現に和菓子の包み紙がそこに落ちていた

興国寺城には1時間ほど滞在。ちょうどいい時間のバスが無かったので、原駅まで歩いて帰る🚶‍♂️そのついでに三の丸に存在する池と小さな社を撮影。中には入れない様子なので外から軽く手を合わせた🙏

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朝田 辰兵衛

CF大丈夫かなぁ… (2025/07/11 訪問)

以前,佐賀城攻城時にスルーしてしまったので,訪れました。龍造寺隆信誕生地碑に圧倒されますが,水堀の折れが当時の面影を遺しているように思えました。赤松小学校は完全に城域。眺めたりウロウロすると不審者扱いされるので,ただの歩行者を装いました…。

赤色かるたについて…
赤色かるたは,日本100名城かるたよりも数段マニアックだと思います。正直言って,CF大丈夫かなぁ…という心配のほうが先走っております。目標設定を,日本100名城の時よりも下げないと無謀なチャレンジに思えます。
取り下げた4城は,山城ファンにとって魅力的だったので,変更は残念でした…。しかも「たかとりじょう」がダブル選出されており,明確なアソビ心も感じられる仕様となっていました。あくまでも,個人的見解ですが…。

にのまるさんへ…
赤色かるた前ににのまるさんから「新潟⇄新発田は白新線なのか……」というギモンが発せられましたが,計画と実際の工事とのギャップによるものとわかりました。本来なら「新新線」に名称変更されるべき。実際に道路では「新新バイパス」が存在しますョ。
計画時点,白山駅~新発田駅間で白新線というところからスタートしました。
新潟駅~関屋駅間は,信越線の貨物支線を旅客化。関屋駅~白山駅間は,信越線の貨物支線上に白山駅を移転し旅客化。新潟駅~関屋駅~白山駅間は,当時白山駅が起点だった越後線を区間延長。
これで,新潟駅~新発田駅間の工事が竣工しても,「白新線」の名称変更はされなかったそうです…。
そうそう,「空と海」のレス,ありがとうございました。

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しんちゃん

天神山の北の陣地から医王寺・武田勝頼本陣へ (2025/09/15 訪問)

天神山陣地の北尾根の陣地から折り返して医王寺方向に向かいます。医王寺の門前に有る池も長篠の合戦の頃から有ったようで堀の役目を果たしていたと思います。医王寺の背後の丘陵が武田勝頼の本陣とされる場所で案内板と見張台が立っています。
この見張台には登ることができ、長篠方向を一望できます。天神山陣地と大通寺陣地の間から見えるのが長篠城か?・・この本陣からは周囲の五砦が見渡せるという話です。本陣の東西には郭があり、間に堀切がかかっています。見たところ東の堀切がとても大きいけど長篠攻略時に造られた物なのか。とにかくスネーモンが邪魔するまでの長篠城攻略は「いいかんじ」に進んでいたと思います。
長篠城から良く見える丘陵に臨時の城郭を築いて、五つの砦と共に圧力をかける。後に家康も高天神城を奪還する際に周囲に砦を築いています。
長篠城を攻める前に上杉と和睦して押えの兵1万の内、7千を連れて来てたらもっと良かった。早期に長篠城を落城させ、城兵の命と引き換えに裏切り者の奥平父子の首を挙げれば面子もたっただろうに・・。もともと長篠城は菅沼氏の城で、奥平氏は家康によって武田から奪い返したばかりの長篠城に配されています。勝頼をおびき出すためのエサだったのだろうか?
この後、勝頼が決戦にこだわったために、事態はおかしな方向に行ってしまいます。認めたくないものだな~

長篠・設楽原の決戦や関ヶ原、名護屋城周囲の陣所の投稿コーナーがあるといいなあ。単純にピンポイントで城・館を廻っているわけではないので。赤色立体地図を眺めるのもいいけど、現地に行ってみないと気づかないこともあると思いますよ。

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シェル

南会津屈指の名城 (2025/06/18 訪問)

 猪苗代駅で会津ぐるっとカード(会津エリアの鉄道、バスのフリーパス)を引き換え、鉄道で若松を経由し、南会津の鴫山城へ向かいました。
会津若松駅から会津鉄道で約1時間かけて会津田島駅に到着。会津田島駅から鴫山城跡まで、徒歩10分弱です。
 鴫山城は、中世は長沼氏の本拠だった城です。会津に蒲生氏が入ると、会津西街道の要衝として会津若松城の有力支城となります。慶長三年(1598)、上杉景勝が会津に入ると鴫山城城代には直江兼続の弟・大国但馬守実頼を任命。家康の会津征伐に備え、鴫山城の増強も行われました。その後、加藤嘉明が会津に入った際に廃城となったようです。
 訪問の際は、ちょうど山麓の除草作業が行われていたので、お邪魔にならないように上千畳(近世本丸)、下千畳(近世二の丸)、御平庭などを見学しました。
 鴫山城の見どころは何といっても、大門跡の復元石垣です。蒲生氏・上杉氏時代の石垣を復元したもののようです。大門跡のそばには、水堀と空堀も残されています。空堀も除草してくださったおかげで、すごく見学しやすかったです。改めて地元の方に感謝いたします。
 山城部分も散策してみたかったのですが、夕立が迫っていたので、今回は控えました。会津田島駅に戻ったころには、土砂降りになっていたのギリギリで回避成功しました。(汗)

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しんちゃん

東からアクセスしたものの。 (2025/01/06 訪問)

東側からアクセスしたのですが、途中で道が途絶えてしまいました。麓に堀があったので、かつての城域の内になると思うのですが主郭まで至らずです。どうやら西側に登城道が有る様子。日を改めてリベンジです。
山頂付近はかつての採石場だったようです。

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観音丸城 (2025/09/13 訪問)

 木ノ芽峠を西側から見下ろし、東側の木ノ芽峠城と峠道を挟んでいます。本郭は土塁で囲まれ、峠道側に虎口が開きます。木ノ芽峠城群の他の城と異なり、小ぶりの石積が随所に見られました。 
 説明板が無くなってますが、脱落した説明板·縄張り図は、峠番屋·茶屋脇の説明板枠のうしろに立てかけてありました。番屋の脇の説明板枠は本来は、木ノ芽峠城の説明板が取り付けてあるはずですが、何処へ?
 観音丸城の脇の道を鉢伏城に向かって登って行きます。スキー場からのアスファルト舗装道から分岐するコンクリート舗装道が鉢伏山山頂まで続いていると他サイトにありましたが、分岐すぐの道の傾斜に恐れをなして歩いて鉢伏城に向かうことにしました。
 赤色立体カルタの投稿イベントは夏枯れ対策にも良かったですなあ。

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シェル

会津への関門 (2025/06/18 訪問)

 水郡線で郡山に到着後、郡山で一泊。翌日は進路を西に変え、磐越西線で会津方面に出発!!
 猪苗代で途中下車し、猪苗代城を初訪問してきました。
 猪苗代駅から徒歩20分。バスの場合は、猪苗代駅前から会津バスに乗り、亀ヶ城入口で下車し、城址の駐車場まで徒歩5分です。
 猪苗代城は猪苗代氏の居城として知られ、摺上原の戦いでは、蘆名氏から伊達氏へ内応し、蘆名氏の滅亡のきっかけをつくったことでも有名。一国一城令発布後も、会津藩の重要拠点として存続。戊辰戦争では、会津藩の城代が猪苗代城の建物を焼き払って、若松に退却し城の役割を終えたようです。
 亀ヶ城公園の東側の駐車場側の大手から登城。石垣や雁木、桝形虎口、土塁、空堀が整備され残されていました。二ノ郭には、野口英世の胸像があります。夜に見たら、ちょっと怖いかもしれないです。本丸跡は黄色のブタナの花が一面に咲いていました。本丸の北側からは、磐梯山や鶴峰城を望むことができます。
 猪苗代城と堀切を挟んで北西にある鶴峰城は、一城別郭の構造になっています。
 鶴峰城は、猪苗代城と比べると未整備の部分もありますが、空堀や土塁、物見櫓台が良好に残っていました。猪苗代城と鶴峰城の間の堀切は規模が大きく、迫力がありました。

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沖村城 (2025/09/20 訪問)

 織田信長の筆頭家老であった林秀貞の居城跡です。城びとには未登録の城址です。石碑には林通勝邸跡とあり以前は通勝という名前とされていましたが、秀貞が最近では正しいとされています。遺構はありません。石碑の裏に説明文が彫ってありましたが、わかりにくく読むことは断念しました。
 信長公記によると信長が生まれた時、4人の家老が信長に付けられ林秀貞が筆頭家老になっています。ちなみに2番目は平手政秀でした。しかし、若い頃の信長の振る舞いを危惧したのか、信長を廃して弟の信勝(信行)の擁立する動きを見せましたが、弘治2年の稲生合戦(本人は不参加)で信長に敗北。許されて、その後も織田家家老の地位にありました。華々しい戦いの記録はなく所領も増えていませんが、行政官としてはそれなりに働いていたようです。天正8年になり突然織田家追放になります。理由は昔、信勝の謀反に加担したからなどとされています。追放された後は京都や安芸に移住し2ヶ月後に亡くなりました。
 
 名鉄西春駅より徒歩15分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

エレガンス・・? (2025/01/06 訪問)

千本城は建久8年(1195)に那須資隆の十男・為隆によって築かれたとされます。為隆は那須与一宗隆の兄で千本氏の祖になりました。
本丸に羽黒神社が祀られており、二の丸まで車で行くことが出来たと思います。比高110mの山城とはいえ傾斜は比較的緩いです。
遺構は残っており、本丸の周囲や二の丸には土塁が残っています。
本丸の南には馬出があり、その先に二の丸、家臣屋敷跡の曲輪があります。血生ぐさい謀殺劇の舞台となった城の割には、城址自体の雰囲気は泥くさくなく、むしろエレガンス(・・?)な感じさえします。とはいえ防御を疎かにしているわけでは無く、折曲がり虎口や堀切などを多用してちゃんと造りこんであるようです。

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しんちゃん

遺構が良く残っている。 (2025/01/06 訪問)

城址周辺についたときは、まだ比較的明るかったのに、入り口を探してあちこちうろうろしているうちに、暗くなって来てしまった。ちょっと残念だ。でも遺構は良く残っている。本郭が南東隅にあり、東と南を川で守られている。西に向かって二郭・三郭が続き周囲に土塁と空堀が残っている。北側に四郭がありこれが一番広い、かつては堀で守られていたようだ。
三郭跡に民家が有るが、ここの入り口も虎口のようになっている。

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しんちゃん

中山道大井宿 明治天皇大井行在所 (2021/11/28 訪問)

大井宿は中山道69の宿場の内、江戸から数えて46番目の宿場町です。美濃路の中では最も賑わい、全国でも9番目ぐらいの盛況ぶりであったようです。敵の侵入を防ぐために道を直角に曲げて有り、これが大井宿には6つも有り「枡形」と表現されています。
大井宿の旅篭であった伊藤家は明治3年の明治天皇の巡行の際の宿泊所となり当時の座敷(御座所)や風呂場・厠などがそのまま残っています。隣接する長屋門は大井宿本陣の北門とも、岩村城から移築された物とも言われています。

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イオ

とことん?松山城(天守群) (2025/05/17 訪問)

(続き)

加藤嘉明が建てた天守は五重だったとされますが、松平定行が三重3階の層塔型天守に改修しています。小天守をはじめとする他の天守群は不審火で焼失したのを戦後に木造復元したものながら、再建から50年を経て国有形文化財にも登録され、違和感なく連立式天守群を構成しています。

本来は玄関多門櫓が天守群への入口でしたが、現在は大天守地階の穴蔵から入城します。大天守1階から内門の櫓部分を通り、玄関多門櫓の武者走りを抜けて北隅櫓へ。2階に上がってみると狭間や突き上げ窓が天守枡形や搦手側に狙いを定めています。南隅櫓に続く十間廊下の東辺には加藤嘉明や松平定行ら歴代城主の鎧兜、久松松平氏に伝わる刀槍が展示され、西辺の狭間には火縄銃体験コーナーが設けられていました。南隅櫓の2階には上がれませんでしたが、階段のある南西隅には狭間と石落としが見られます。多聞櫓を抜けると小天守に至ります。小天守南東隅の石落としは他と違って床板が開けられています。小天守2階からは大手側を見渡すことができ、着見櫓と呼ばれていたのも納得です。さらに一ノ門の枡形や天守枡形をも眼下に収め、まさに本壇防衛の要衝ですね。そして小天守から筋金門の櫓部分を通って大天守へ。

大天守1階の外周は武者走り、内側は敷居と鴨居で区画された居室になっていて、居室は棹縁天井で畳を敷ける造りになっています。層塔型天守のため2階も1階とほぼ同じ構造ながら、武者走りの幅が狭くなり、四方に狭間を備えた破風があるところが異なっています。居室には床の間も設けられていました。3階も同様の構造ですが、四方に開けた窓からは360度遮るもののない眺望が広がっています! 東は午前中に訪れた湯築城(と道後温泉)、西は眼下の天守枡形越しに搦手側、南は眼下の小天守越しに大手側と山麓の官庁街を見渡し、大いに見応えがありました。
 
さて、本壇を出た後は紫竹門から搦手側に行きたいところでしたが、他の面々は天守群を見学し終えると当然のようにロープウェイ駅に行ってしまったので、搦手側はまたの機会にしてリフトで下山し、大街道近くのホテルに向かいました(続く)。
 

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しんちゃん

天神山陣所の北の遺構 (2025/09/15 訪問)

天神山陣地の二つ目の郭の北の坂を下って行くと医王寺の方へ道が続いている。天神山周辺には遺構が無いとされていて、このまま医王寺に向かうのが通常のルートのようだ。
でも、それじゃつまらん。せっかく城めぐりをしているのに普通の人達と同じ考え方で、同じようなコースで城めぐりをしていてどうする。俺はAIじゃないんだ、他人と同じなどまっぴら御免ですわ。
そんなわけで尾根沿いに北上していくと、堀跡らしいものがある。その上には尾根を削って簡易的な郭を作った陣地がある。こんなの関ヶ原の山の中で見たことがあるなあ・・また変なものを見つけてしまったのか?
ピンクリボンが有るし、知る人は知るスポットなのかもしれない。尾根を削って陣地を作るのは合理的。そもそもこの医王寺という寺はとんでもない天然の要害の場所にある。周囲の沢を内堀とし、周辺の尾根や丘陵を陣所としている。大通寺山陣地の配置を見ると、周辺の丘陵も陣所かもしれない。さらに西側の尾根を天然の土塁として、郭も複数設けてある。
急ごしらえとはいえ、医王寺を中心としたれっきとした土の城に見える。
勝頼のプランとしては高所よりこの巨大な土の城郭で長篠城に圧力を加え、早期の降伏を引き出そうとしていたのではなかろうか。周囲の五つの砦からも圧力がかかり、長篠城兵のプレッシャーは相当のものだっただろう。それがまさか、スネーモンのあの一声でひっくり返されてしまうとは・・勝頼くんもツキが無い。

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