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石垣めぐり (2025/02/06 訪問)

 高石垣は迫力があり宇喜多氏、小早川氏、池田氏それぞれの石垣が残っていて楽しませてくれます。

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しんちゃん

土合館 (2024/09/16 訪問)

土合館は八丁目城と縁の深い城館で、八丁目城の支城とも見られ、本城である八丁目城が西館と呼ばれ、土合館は東館と呼ばれます。実際には八丁目城に劣らぬ規模と縄張りを持っており、八丁目城と合わせて奥州街道の守りを担っていたと思われます。
現在は土合館公園となっており、紫陽花の名所でもあり主郭には神社が祭られています。周囲に郭が残り、土塁も各所に残っています。北西の出丸らしき郭には観音様(?)が祭られ周囲を見渡すことが出来ます。八丁目城主の清野遠江守の父・備前守の隠居城ともされ、伊達家の内乱の末、敵対する伊達晴宗が勝利したため八丁目城と共に落城したと思われます。

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宇喜多直家 (2025/02/06 訪問)

 久しぶりの岡山城です。2022年11月3日に天守閣がリニューアルオープンしてからは初めての登城となります。天守閣内は岡山市出身の磯田道史先生が監修された展示となっていていました。最近登城したと思っていたのですが、記録を見ると前回の登城は平成の頃でした。
 旭川の西の丘陵地にあり、南北朝時代には石山城と呼ばれていた砦が存在していました。戦国時代には金光宗高の居城となっていましたが、1570年(元亀1)これを宇喜多直家が滅ぼし居城としています。息子の秀家が豊臣秀吉の全面的協力のもと新城の築城と城下町を整備しました。天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているという興味深い設計となっていますが、土台になった岡山の丘の地盤にあわせたためといわれています。戦災で焼失したのは残念ですが、外観は戦前のとおりに復元されています。梟雄として有名な宇喜多直家ですが、没落した身からのし上がった器量は尋常ではなく経済の重要性も理解した人物であったと思っています。宇喜多直家、秀家父子を大河ドラマにしようという運動もあるようです。

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しんちゃん

総社長尾氏 (2025/02/02 訪問)

蒼海城は上野国府跡の周辺に築かれていたとされます。現在は開発が進んで、雰囲気はだいぶ変わってしまったのではないでしょうか。長尾氏らしき武者のレリーフのある神社の近くに「御陵神社と長尾氏由緒」と表題のついた案内板があります。
永享元年(1429)上野国守護代・総社長尾氏の長尾忠房によって築かれたとされています。

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しんちゃん

松陰先生寓奇処 静岡県下田市 (2025/02/01 訪問)

唐人お吉が身を投げたお吉ヶ淵から南西に程なく行ったところに温泉情緒漂う街並みがあり、そこに松陰先生寓奇処があります。
嘉永7年(1854)3月18日、米国のペリー一行を負って吉田松陰・金子重輔は下田に到着し岡村屋に宿泊しました。当時皮膚病を患っていた松陰は温泉での治療のために蓮台寺を訪れ、地元の医師・村山行馬郎と知り合い、しばらく村山邸にごやっかいになったとのことです。
二階の松陰先生隠れの間も見学することが出来、ここで米艦にいかにして便乗してやろうか思案を巡らしている松陰さんの姿を想像しました。付近には松陰先生湯治場の看板がかかった家屋があります。

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しんちゃん

対面石八幡神社 (2025/02/01 訪問)

静岡県清水町の八幡神社には源頼朝と義経が対面を果たした際に腰かけたとされる対面石があります。治承4年(1180)10月、富士川の合戦の為に頼朝は出陣し、この地で奥州より駆けつけてきた義経と涙ながらに対面を果たしたとのことです。
近くの智方神社には後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王の御陵があります。なぜ鎌倉から離れたこの地に?とは思いますが神妙にお参りしてきました。

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しんちゃん

付加価値古戦場 (2024/09/16 訪問)

瀬戸川館跡は現状公園で案内板と「史跡伊達成実陣地瀬戸川館趾」の石碑が立っています。城址としては見るべきところは、ほとんどありませんが天正13年11月17日に伊達政宗と佐竹・蘆名らの連合軍が戦った人取橋合戦の際に伊達成実の陣地になっています。

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ぴーかる

転送したら写真全滅だった件

 イオさんの投稿を拝読して写真全滅になってしまった事、心中わたしもよく分かります。超へこみますよね。
 私は撮影したSDカードを原始的なのですがパソコンを通して大容量のUSBにコピーして編集しています。昨年和歌山の投稿の時からパソコンの調子が悪く、城廻りを終えて、帰宅後に写真を転送編集しようとSDカードを挿した瞬間、パソコン表示に「デバイスが・・・・」と出て、SDカードを害して中の写真がアクセス出来なくなってしまって、結局全滅の憂き目に。昨年夏に和歌山の時と、実は年末の将軍山城の2日目、先日鳥取県の市場城・会下城他に行った時の合計3回全滅してしまって、これはもう無理~となり、先週パソコンを買い換えました。
 近場だったらまだ再訪できますが、百・続百名城の残りが遠方ばかりとなったので、これで写真消えたらマジ泣く(>_<)ってなります。
予期せぬ不具合、操作ミス、気を付けたいです。

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チェブ

空堀散歩。 (2025/01/04 訪問)

「臼井城」の後、印旛沼を渡り「師戸城」へ。
「師戸城」は「臼井城」の支城です。
「臼井城」は近くのお寺を案内したナビ。「師戸城」は『千葉県立印旛沼公園』の入口で案内を終了しました。
公園入口から駐車場への坂道は、土塁横を登っているような雰囲気です。
1月4日、誰もいないかと思ったら駐車場の半分位、埋まってました。
駐車場から右方向に進みます。
途中、土塁だーと方向変換。もう、縄張り関係なく歩く通常進軍。
途中、橋から空堀を眺めると、堀底が散策路として整備されているのを見ました。では、堀底を歩こうと堀底入口(?)を探します。

印旛沼が見えます。グーグルで印旛沼を見たら不自然な形です。
眺めていても不自然な形は確認できません。
昔の人は空から見ていないのに『琵琶湖』が琵琶の形をしていると、なぜ分かったのだろう?
小さな印旛沼の形も分からないのに。
家族連れが遊んでいて、おばちゃん1人、仁王立ちで印旛沼を眺めていたら怖かろうと思い移動。

堀底入口(?)を見つけ、土塁上からの攻撃を想像しながら、右左に交わしながら進軍しました。

駐車場には自販機もあります。
真冬なのに、冷たい飲み物を選ぶほど、静かにはしゃいでしまった「師戸城」攻めでした。

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栃木西方城

パネル展示「西方城跡」を開催します!! (2025/02/06 訪問)

 令和7年(2025)年2月6日(木)~3月16日(日)の期間、栃木市文化課文化財係による道の駅にしかたキララ館にてパネル展示「西方城跡」を開催します!!西方城跡の魅力がぎゅっ!とつまったパネル展や西方城跡の解説動画もあわせたわかりやすい展示となっております。
 道の駅にしかたにお越しの際はぜひお立ち寄りくださいね♬♪お待ちしております!!

主催:栃木市文化課文化財係
日時:令和7年2月6日(木)~3月16日(日)
会場:道の駅にしかたキララ館(栃木県栃木市西方町元369-1)
入館無料

お問い合わせ
栃木市文化課文化財係
〒328-8686
栃木市万町9-25栃木市役所4階 文化課
TEL:0282-21-2497 FAX:0282-21-2690
栃木市文化課H.P
https://www.city.tochigi.lg.jp/soshiki/57/

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イオ

三度目の正直…ならず (2024/11/23 訪問)

龍泉寺城は嶽山城とも呼ばれ、南北朝期に楠木正成が楠木七城のひとつとして築いた城で、室町中期には畠山義就が籠って嶽山城の戦いの舞台となり、その後も畠山氏の内紛の際に活用されましたが、戦国前期には廃城となったようです。

嶽山の頂部が城跡とされますが、地表面に城郭遺構は無く発掘調査でも検出せず、ホテル裏手のテニスコート脇の藪を抜けたところに石碑と説明板が立てられているのみです。

嶽山の南東中腹には城名のもとになった龍泉寺があり、往時は根小屋的に活用されていたものと思われます。城としてはあまり見るところがないので龍泉寺を見学してみましたが、推古天皇の命により蘇我馬子が創建したと伝わる古刹で、鎌倉期には23の坊院を擁し隆盛を誇るも、城に組み入れられたため南北朝期から戦国期の戦乱に巻き込まれて伽藍の大半を失い、現在は国重文の八脚門と国名勝の庭園がかつての威容を伝えるのみ…とのことで、確かにちょっと寂れた雰囲気がありました。

ところで、実は龍泉寺城は3度目の登城で(またかよ…)、2年前に最初に登城した時は、テニスに興じる人たちの不審者を見るような視線に耐え切れずテニスコート脇の藪に突入できませんでした。せめてニッポン城めぐりのリア攻め記録だけでも…とポチしてみると、テニスコートの奥ではなく北西方向に位置情報が設定されています(城びとの位置情報も同様です)。北西方向に何があるんだ? と思って行ってみると、バンガローが建ち並ぶキャンプ場の奥に広大な嶽山展望所が開けていました。嶽山に立て籠もった畠山軍が練兵場としたと伝わる千畳敷跡でしょうか。展望所の名の通り大阪平野を一望できる場所でもありました。千畳敷(たぶん)は思わぬ収穫でしたが、やはり石碑と説明板を確認しないままでは…ということで再訪を決定。

再訪したのは昨年1月、前回の反省を踏まえてテニスコートの脇でなく西側から山中を突っ切るようにして石碑と説明板に到達。それだけでは物足りないので龍泉寺も散策して、さあ投稿! と思ったら、仁王山城と同じく初回登城時の写真が全て消えていました…。展望所(千畳敷)の写真も撮り直したいし、どうせ近くの仁王山城にも行くんだから、とこちらも3度目の登城を決意。

3度目のこの日はテニス客はいなかったのでテニスコート脇から藪を突破して石碑と説明板を再確認し、本題の展望所に向かったところ、キャンプ場に差し掛かったところに立入禁止の表示が…。2年前はこんなのあったっけ? と思って周囲を見回すと、展望所へと続く道もロープで閉ざされています。…あぁ、なんてこったい。このためだけに来たというのに。立入禁止では再訪しても仕方ないので展望所の写真抜きで投稿しますが、龍泉寺城は三度目の正直ならずでした。
 

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赤い城

土佐七雄のひとり、本山氏の居城 (2025/01/26 訪問)

十二所神社の鳥居脇に案内板があり、ここから登ります。
墓地を過ぎ進んでいくと遊歩道に合流します。
途中竪堀を見あげながら整備された遊歩道を登ると削平地に到着、発掘調査も行われているようです。
この曲輪群には後世、森林測候所が設置されたり、太平洋戦争後の射的場として転用されるなど石垣は当時の遺構では無いようです。

頂上部には三段の曲輪が連なっています。
見晴らしも良く、主郭には石碑が立っています。
主郭背後は急峻な切岸となっていて大堀切とされます。
ここから西側に竪堀が落ちています。
さらにここから南側に少し進んでいくと浅い堀切が残り、この辺りまでが城域のようです。

本山氏は一時、長宗我部氏の岡豊城を落城させるなど勢力を伸ばしましたが、その後は長宗我部氏の傘下に入りました。
本山城は江戸時代には天守も構築され、近世城郭として続きましたが、一国一城令で廃城となりました。

本山町の市街地には平時の居館であった本山土居もあります。
江戸時代には藩主の宿泊所として利用され、石垣が残っています。

【見どころ】
 ・主郭背後の急峻な切岸
 ・西に落ちる竪堀
 ・南側尾根の浅い堀切
 ・主郭付近の石積
 ・主郭部からの眺望

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小城小次郎

二田物部神社との関係性 (2024/04/28 訪問)

三島谷城の別名は長岡市三島谷との境にあるからだが柏崎市西山町側の二田物部神社との関係が深いようなので二田城の呼称を優先した(二田物部神社の神官は三島氏なのでややこしいが)。眺望抜群の気持ちよい城だった。

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しんちゃん

雪の沼田城 (2025/02/02 訪問)

伊豆を一周したあと、関東をぐるぐる回って沼田まで、昼は城びとの城めぐり! 夜は「ニッポン〇めぐり」の攻略! 
体が持ちませんぞ! 
この日は109城攻略で「無双の剛の者」の異名をゲット! ふふ・・1日百城回りながら、リア攻めもやっているアホはそういないだろう。久々の沼田城ですが、最強寒波の余波か雪でした。さぶい・・でも、いい。雪の沼田城も悪くない。
しかし、松本城とか沼田城とか、真田の一族は寒い所ばかりに行かされますね。雪が好きなのかな?

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しんちゃん

蘆名氏にやられまして。 (2024/09/17 訪問)

新宮城は会津新宮城跡として国の史跡に指定されています。建暦2年(1212)。佐原義連の孫・横須賀時連(新宮氏)によって築かれたとされています。室町時代には新宮氏は同族の芦名氏と争い、応永27年(1420)に新宮城は落城し、新宮氏は越後に逃れ、後に蘆名氏によって滅ぼされたそうです。
県道336号ぞいの城址碑のあるあたりがかつての本丸の南東部で、わずかに堀の跡を見ることが出来ます。かつては本丸の周囲を二重の堀に囲まれ、二の丸・三の丸が有ったようですが、今では遺構をほぼ見ることが出来ません。なにより、国の史跡なのに案内板が見当たらない。

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しんちゃん

会津は米どころ。 (2024/09/16 訪問)

安子島城は安積伊東氏の庶流・安子島氏によって築かれたとされています。戦国時代には主家である二本松氏が伊達氏の圧力で二本松城から退去すると、安子島祐高は伊達氏に従いますが、天正16年2月に伊達氏から離反し蘆名氏に従いました。
やがて伊達氏が蘆名氏と合戦に及ぶと、伊達氏に翻意する勢力が相次ぐ中、籠城し伊達氏に抗しますが、圧倒的な兵力差にやむを得ず降伏し、城兵の助命を条件に開城し、会津に落ち延びたそうです。
それだけしぶとく伊達氏に抗った安子島城ですが、今は田んぼに石碑が残っているだけでした。せめて異常気象にめげずに豊作で在ってほしいと願うばかり。

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しんちゃん

愛宕館と八幡館 (2024/09/16 訪問)

八丁目城は愛宕館と八幡館から成り、北の愛宕館が本曲輪とされています。大堀切の先、南にある丘陵が八幡館で南曲輪とも呼ばれていて、二の丸の役割を果たしているようです。八幡館の北側は藪化してますが、土塁が残っていて腰曲輪もついています。

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イオ

三度目の正直 (2024/11/23 訪問)

南北朝期に楠木正成が築いたとされ、南朝方の城として高師泰の攻撃を受けています。戦国期には畠山氏の内紛に際して、天野山金剛寺の建物を城に転用したとする史料があります。「大阪府中世城館事典」によれば比定地は3か所あり、城びとの位置情報の地が有力のようですが、詳細は不明です。

廣野神社の駐車場から神社にお参りして登城開始。車道から細い山道に入って少し行くと、右手に堀切らしきものがあります。さらに行くと右手に削平地が広がっていて、Googleマップにある日の谷城跡と思われます。日の谷城の東側は谷になっていて、北側には細い尾根が続いていました。日の谷城から切通状になった山道を下って行くと、左手に削平地があり、道沿いに水をたたえた井戸があります。Googleマップによればここが仁王山城跡のようです。仁王山城を抜けて西へ続く山道は土橋状になっていました。

「河内長野市古城址調査報告書」では仁王山城を日の谷城に比定しているようですが、私としても、すぐ近くに2つの城が併存し、日の谷城から下ったところに仁王山城(の主郭)があるというのはどうも違和感があるので、日の谷城とされるあたりが仁王山城の主郭で、井戸のあたりが水の手曲輪と考えるほうがしっくりくるかな、とも。

ところで、実は仁王山城は3度目の登城で、2年前に最初に登城した時は日の谷城の削平地と堀切くらいしか見付けられず、ぴーかるさんの投稿で井戸の存在を知り、井戸を確認してから投稿しようと思って再訪したのが昨年1月のこと。日の谷城周辺は前回見ているので、井戸周辺の写真だけ撮ってさっさと撤退し、さあ投稿! と思ったら、初回登城時の写真が全て消えていました。写真は外付のHDDとSSD、撮影したSDカードの3か所に保存しているんですが、勘違いと偶然が3つ重なってまさかの全滅…。やむなく写真を撮るためだけに3度目の登城となりました。ちきしょうめ、もう二度と来ねえぞ!(笑)
 

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朝田 辰兵衛

蕨こそひらがな表記じゃね❓ (2024/12/21 訪問)

さいたま市をひらがな表記する前に,蕨市こそひらがな表記じゃね❓
ま,蕨市は全国で一番面積の狭い市だそうです。さほど面積の広くない埼玉県でも見落とされたか…。ってなことを調べているうちに,蕨を漢字で書けるようになってしまいました…<笑>。
蕨城は,パシフィコ横浜へ行く前に途中下車で立ち寄りました。個人的に埼玉県の攻城は途中下車率高いです。
蕨城は水堀が見どころかな…癒しになっていると思います。

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ランフランコ

#35 高取山城 (2025/02/01 訪問)

石垣の造形美が素晴らしい。日本三大山城とか日本最強の城とかののぼり立ってました。

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