周囲より高い丘に主郭があって、他にも郭や腰郭らしきものがありますが、いつの時代のものかはわかりません。三方を谷で囲まれているとされ、西側の道路は堀切らしいのですが北条氏家臣・松田氏の持城のよううですが少し拍子抜け。
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2025/09/06 10:52
2025/09/06 10:35
2025/09/06 07:26
北海道&東日本パスで下北半島の観光 (2025/08/18 訪問)
中市館攻略を終えて、8月17日の15時前に無事レンタカーを返却して、快速しもきたで下北駅を目指します。この日の午後、下北半島の付け根の部分に線状降水帯がかかり、大湊線内で運転見合わせが発生。70分を超える遅延が生じましたが、無事、ホテルにチェックインすることができました。そして18日はレンタカーにて仏ヶ浦を目指します。ツアーに申し込むなど、仏ヶ浦にこだわっていたのは、阿部龍太郎の「十三の海鳴り」に仏ヶ浦が登場していたからなのです。昨年11月に蠣崎城を攻略した際に出来たら足を伸ばしたいと思っていましたが、全くもって無謀な心づもりでありました。今回は、佐井港から仏ヶ浦遊覧船を利用しました。年季の入った遊覧船で料金は3000円。佐井港の最寄りの城は田名部城だと思いますが、仏ヶ浦に最も近い城びと登録城は蠣崎城になりそうです。仏ヶ浦では浸食されやすい凝灰岩の造形の綾を思う存分堪能することができました。むつ市を起点にしてのレンタカーですので、下北半島内をまだまだ巡ることができます。本州最北端の大間崎(まぐろ丼は行列を前にあえなく断念)、新島襄寄港の地碑、尻屋崎灯台と存分に、前日の大雨が嘘のように快晴に恵まれた下北半島を味わい尽くすことができました。レンタカーを返却した後、大湊駅まで歩いて向かう途中では、斗南藩士上陸の地碑もチェックすることができました。
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2025/09/06 06:02
2025/09/06 05:42
2025/09/06 05:21
2025/09/05 23:17
2025/09/05 22:50
2025/09/05 22:41
【赤色立体地図かるた】
「果てて尚 勇ましき哉 高取城」
(はててなお いさましきかな たかとりじょう)
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2025/09/05 21:05
水郡線で城めぐり② 赤館(福島県棚倉町) 立花宗茂も入った城 (2025/06/17 訪問)
棚倉城から北に徒歩30分ほど進んだ赤館公園付近が城址です。
JR磐城棚倉駅から徒歩20分、赤館公園に駐車場、トイレもあります。
駐車場の所に説明板が設置されています。山頂の主郭を中心に階層式になっており、切岸や腰曲輪が良好に残っています。主郭からは棚倉城や棚倉の街並みを一望することができます。
説明板には、公園の北西側にも遺構がある情報が記載されていましたが、伐採工事を実施していたようで、道路より北側の見学は断念。
赤館公園から下る道沿いには、初夏ということもあり少し見づらかったのですが、竪堀の遺構らしきものもありました。
赤館の歴史は、かなり濃密です。棚倉城が築城されるまで、この地域の中心的なお城でした。戦国時代は、白河結城氏と南郷に進出した常陸の佐竹氏との争奪戦の舞台となりました。戦国末期には佐竹氏が赤館を領有し、赤館を南郷の拠点にして、伊達政宗との戦いに臨んでいたようです。
佐竹氏が関ケ原の戦いのあと、出羽移封すると、立花宗茂が城主となります。立花宗茂が柳川に復活を果たすと、丹羽長重が入り、麓の棚倉城が築城され、赤館城は廃城となったようです。
棚倉城からも比較的近く、白河へ向かうバスも赤館跡のそばを通るみたいですので、棚倉に向かう際はぜひ寄ってみてください。
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2025/09/05 20:55
水郡線で城めぐり① 棚倉城 築城400年!! (2025/06/17 訪問)
茨城の水戸と福島の郡山を結ぶローカル線の水郡線に乗って、沿線の福島県のお城を巡ってきました。
水郡線沿いは、実は私の地元でして、高校時代に通学でよく水郡線を利用していたのですが、福島県側には、あまり行ったことがなかったので、今回行ってみました!!
最初に棚倉城です!!
JR水郡線 磐城棚倉駅から本丸跡まで徒歩10分ほどです。白河市からもJRバスが磐城棚倉方面に運行されているので、そちらでもアクセス可能です。本丸内と追手門跡付近の二ヶ所に駐車場があります。
磐城棚倉駅から本丸に向かいたいところでしたが、まずは駅の北東側にある長久寺へ。
長久寺の山門は、棚倉城二の丸南門が移築されたものです。棚倉城で唯一現存する建築物で、城址からも徒歩圏内ですのでおすすめスポットです。
長久寺の移築門から本丸に移動。本丸跡は亀ヶ城公園として整備され、高い土塁と水堀が残されています。本丸の南の追手桝形を出ると、大きなケヤキの木があります。
ケヤキの東側は、追手門跡にあたり、説明板が設置されています。発掘で追手門の礎石が発見されており、盛土をして遺構を保護しているようです。
追手門そばの土蔵は、2025年が築城400周年ということで、臨時の観光案内所になっています。土蔵の脇には、棚倉藩主ゆかり阿部家の阿部正備の茶室があります。
追手門跡を見学していたところ、案内所の方にお声をかけていただき、ご厚意で施錠してあった阿部正備茶室の内部も見学させていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
その後、土蔵内の案内所で棚倉城の詳しい説明もいただきました。土蔵内には棚倉城の本丸の模型も展示されています。多聞櫓が本丸を囲んでおり、模型からも、かなりの規模の城郭だったことが伝わりました。
また棚倉城の二の丸西側には、鉢巻石垣が残されていますが、令和3年(2021)2月と令和4年(2022)3月の二度の福島県沖地震で崩落被害が起きたようです。現在は修復工事が行われているため、今回の見学は見送りました。今年度は石垣の解体作業が行われ、令和10年(2028)の復旧を目指しているようです。修復が完了したら改めて見学に伺いたいと思います。
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2025/09/05 20:07
阿弥陀尾砦 (2024/12/29 訪問)
古楢尾砦を北上して行くと東西の分岐があり手前に段々の平坦地があります。これが阿弥陀尾砦で、土塁や堀などの遺構は残っていませんが、およそ三段の郭を合わせると、それなりの広さが有りました。西に向かうと丹土尾砦で、東に向かうと山伏平に向かうようです。
足柄城を散策してからけっこう時間が過ぎてきたので、だんだん暗くなってきています。今回の訪問はここまでにして引き返しました。
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2025/09/05 19:50
2025/09/05 19:36
足柄城・足柄の関 (2024/12/29 訪問)
足柄城自体はけっこうコンパクトなのですが、支城は多いのですね。全部は無理だけど、せっかく来たので幾つか訪問してみよう。
その前に足柄の関の写真もちょこっと。足柄の関は昌泰2年(899)に設けられ、通行には相模国の国司の発行する過所(通行手形)が必要でした。「源平盛衰記」には治承4年(1180)に土屋宗遠が甲斐に越えるとき「見れば峠に仮屋打て(中略)夜半の事なれば。関守睡(ねむ)て驚かす」と書かれているようです。
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2025/09/05 18:50
イオンモール神戸南…🏢 (2025/06/29 訪問)
イオンモール神戸南に涼みに来たワケではありません。結果して「涼んでしまった…」というのが正解のようです。たぶん…<笑>。
神戸市営地下鉄海岸線の中央市場前駅から,イオンモール神戸南へは直結です。商業エリア内を通過させていただいて,反対側に抜けると兵庫運河。兵庫運河の対岸に碑とパネルがあります。
また,イオンモール神戸南3Fに出土品の展示がありますので,お忘れなく。
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2025/09/05 18:46
多治見修道院 (2022/04/05 訪問)
多治見修道院は岐阜県多治見市にあるカトリック神言修道会の修道院です。とても雰囲気の良い教会で春は桜がきれいです。老朽化により2025年に解体の方針が出されましたが、多治見市が耐震調査の費用負担に動いているようです。なんとか存続を。
敷地内でブドウを栽培しており、地下にはワインの醸造、貯蔵設備があります。施設の人達がワインの製造に関与していて、ここを訪問した際には必ず買って帰ります。地域に根差した良い教会なので、今後も残り続けて欲しいですね。
入口の扉は風で急に閉まることがあるので、挟まれないように注意が必要です。
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2025/09/05 11:28
【宮本武蔵】(5)米田天神社(武蔵生誕の地) (2025/06/04 訪問)
宮本武蔵の続き(5)です。
宮本武蔵生誕の地と言われている、播磨高砂へ行ってきました。武蔵も謎多き人物で、生まれた場所も
① 美作宮本説(岡山県美作市宮本)
② 播磨高砂説(兵庫県高砂市米田)
③ 播磨宮本説(兵庫県太子町宮本)
と3つも説があり、どれも100%正しいとの決め手は現在もありません。
武蔵が書いた五輪書には自らの生まれは語っていません。しかし子の伊織が父の武蔵から聞いた事を書き残したとされる「小倉碑文」には父は播磨の生まれと刻まれており、伊織が加古川の泊神社に寄進した棟札の記述からも、高砂説の信憑性が一番高いのではないかと現在は言われているようなので、私は高砂を訪れました。
武蔵の幼名は「弁之助」。父の田原家貞は、ここ高砂に住む赤松氏の流れをくむ地侍であり、弁之助はその次男であったとされています。後に養子とした伊織は武蔵の実兄である田原久光の子で、同じくここ高砂の同じ家で生まれたようで、伊織が寄進した泊神社の棟札にもそう記しています。
JR山陽本線「宝殿駅」から徒歩20分の所にある「米田天神社」に行ってきました。そこには生誕の地碑がありました。ここが宮本武蔵の生家があった田原家跡地のようです。他にも数々の石碑が立っていました。1584年ここで生まれたた弁之助は、幼い頃どんな暮らしをしていたのでしょうか。探してみましたが石碑とそこから100mほどの西光寺で幼い頃遊んだと言われているようです。そして川を挟んだ加古川の泊神社で発見された、米田天神社を改築するため御神体を泊神社へ移す時に、伊織が泊神社に寄進し納めたという棟札に書かれた記述が決め手となり、生誕地論争でここが一歩リードしているようです。
弁之助3才の頃、母の「お政」が亡くなってしまいます。養育できなくなった父の家貞は長男の久光を後継ぎに残し、次男の弁之助を美作の竹山城の家老「平田無二(通称:新免無二斎)」の元へ養子に出します。養子に出されてからは「たけぞう(武蔵)」と名乗るようになったようです。平田家は足利義昭に剣術を指南した事もあるという名門の家系でしたが、後継ぎ(男子)がいませんでした。幼いたけぞうは父の無二斎の道場で想像を絶する厳しい剣術の稽古に明け暮れ、これが彼の人生に大きな影響を及ぼす事になります。
次はその、たけぞう(武蔵)が少年期を過ごした、「竹山城」を訪れます。
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2025/09/05 11:05
南の丸Ⅱ郭探訪は不可? (2025/02/25 訪問)
南の丸Ⅰ郭の続です。
南の丸Ⅰ郭を終えて南側に続く南の丸Ⅱ郭へ、少しは伐採整備されて見易く探訪が出来る事を期待して、南の丸Ⅰ郭西端のスロープ虎口より南の丸Ⅱ郭へ降りますが、2号堀・堀切内部の西側東側の竹林と倒竹で中央以外は探訪見学困難、南の丸Ⅱ郭へは若干虎口に登り周囲を見渡しますが、倒竹、灌木などで進入困難、浜松に在住して60年近く成って居ますが、今だ南の丸Ⅱ郭には進入できず観察見学が出来て居ません、以前は畑に成って居たような記憶が有るのですが良くは判りません、なので南先端の1号堀・堀切も確認できていません。
何時か整備見学出来る様に成ったら見学したいと思っています。
見学できる範囲で、南の丸Ⅰ郭と南の丸Ⅱのスロープ虎口付近、南の丸Ⅰ郭南土塁下切岸、2号堀・堀切中央部の堀底、南の丸Ⅱ郭北虎口、人踏道に若干登って周囲の確認をして切り上げました。
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2025/09/05 10:28
南の丸Ⅰ郭 (2025/02/25 訪問)
今年の2月25日、冬枯れ、草刈、灌木伐採などの整備がされて遺構、石垣、土塁、堀切が見学確認しやすく成って居るだろうと冬の晴天時出掛けました。
二俣城は南の尾根に南の丸Ⅰ郭、南の丸Ⅱ郭と続いています。
南の丸Ⅰ郭は南土塁下に腰巻石垣と西端に石垣が残って居ります、以前には蔵屋敷とも呼ばれていました、郭内部は草刈されて居ました、南土塁上にも登り、二の丸土塁と切岸を眺めました。
この後南の丸Ⅱ郭に続きます。
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2025/09/05 07:07
北海道&東日本パスで青森の城めぐり⑧ (2025/08/17 訪問)
風張館からの転戦です。国道454号の倉石郵便局の交差点の向かいに中市城址入口の大きな案内が立っています。川を渡って少し進むと説明板が立っていてその近くから城内に入っていくことができました。主郭の辺りは日当たりが良いため夏草の繁茂が凄かったのですが、林間はそれほどでもなく、堀切、横堀、切岸などの遺構を楽しむことができました。ここから八戸駅に戻ればなんとかレンタカー返却時刻の15時に間に合います。15:14八戸発の快速しもきたに乗り遅れたら大変ですから。という訳で、未投稿物件の奥瀬館を取りこぼすこととなってしまいました。かなりの奥地に位置しているので仕方ありません。北海道&東日本パスは9月30日まで使えるので9月のシルバーウイークに再チャレンジしてみたいと思います。
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