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シャンシャン

夕暮れの米子城 (2024/10/11 訪問)

月山富田城とともに山陰を代表する山城である米子城。
麓にある桝形虎口をはじめ、山頂にある天守台・四重櫓台など見どころいっぱい!
天守台から見る夕暮れ時の大山や中海は絶景の一言!

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イタさん

城館跡は学校の敷地 (2024/10/17 訪問)

武蔵世田谷一帯を支配していた、足利市の流れをくむ吉良氏が、この地に移り住んだことが、蒔田城の始まりとされる。蒔田の城は「蒔田御所」・「蒔田殿」などと呼ばれていた。公園の一帯は馬場があったとされ、馬場の森(ばんばのもり)、馬場谷(ばんばやつ)と呼ばれていた。礼拝堂辺りが本丸跡で、南に天守台があったとされる。などが記されている。

城館遺構らしきものは確認できなかったが、学校周りを巡ると台地の先端に築かれていたのが分かる。学校正門脇に説明板があり、成美学園遺跡と呼ばれ、縄文時代から奈良時代の遺跡と載る。成美学園は、昭和59年の発掘当時の名を付けたようで、今は横浜英和学院となっている。南下の勝國寺に吉良家の供養塔がある。相国寺は吉良成高の建立と案内に載る。

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しんちゃん

南の郭は危険に見合うほどのものでは無い。 (2024/10/13 訪問)

「おすすめ出来ない城」土城の続き、主郭までです。北側にも郭があるようですが主要部は南にあると判断、そこには二段の扁平地(郭)があるようです。城址に入って目にするのが謎の石積らしきものです。遺構かどうかは不明ですが、このような石積が各所にあります。
尾根は城址の東側についていますが、その先はおそらく断崖絶壁です。草木が生えて来ていて見通しが悪いので安全な場所を選びながら尾根上を南に進みます。
そこから先は登りになっていて南の郭に続いています。東側(左手)をのぞくとそこは天然の断崖絶壁です。落ちたら大ケガです。フェンスで周囲を囲ってはいますが、主郭周辺は比高が高いので落ちたら大変です。ぶっちゃけ登るのは簡単ですが、大事なのは帰るときです。周囲は藪化しているので、うかつに西側に進むと先はコンクリの人口の絶壁です。
どうしても南の郭が見たいという方は、帰りのルートを確認しながら進んで欲しいです。おそらくピンクのリボンが帰り道を教えてくれるはずです。上まで登ると郭らしき扁平地があります。これが二段あるという南の郭の一段目ですが、残念ながらその先の郭は削られてコンクリートの断崖絶壁になっています。高所恐怖症の方は下をのぞかない方が良いですよ(そもそも来ない)。

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ぴーかる

東条城 (2024/09/23 訪問)

【東条城】
<駐車場他>東条城跡駐車場3台程
<交通手段>車

<見所>曲輪
<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅3城目。現地説明板(かなり細かく書かれている)を要約すると東条城は1222年頃、足利義氏は三河守護職となり3男義継が吉良荘東条を譲られ東条吉良氏の祖となります。12代持広は松平清康の妹を娶り清康が守山崩れで不慮の死を遂げた際には遺児の竹千代(家康の父・広忠)の親代わりとなり松平家を助けます。桶狭間の戦いの後は松平家康は信長と同盟したため、吉良氏・今川氏と戦い14代義昭の時に家康に攻められ落城します。落城後東条城は松平家が入城します。1581年松平家忠の時には無嗣な為に家康の4男忠吉が後嗣となりますが1607年に没したために城は廃城となりました。一方、吉良氏は関ケ原の戦い後に家康が13代義安の子・義定を旗本に取り立て高家吉良氏として再興します。ちなみに義定のひ孫にあたる人物が忠臣蔵で有名な吉良義央にあたります。
 城跡は比高の比較的低い丘城といった感じで、主要部は主郭、八幡社のある二の丸、主郭下段の三の丸の3つの曲輪で構成されています。主郭は広い曲輪で東隅に櫓台、東南端に搦手門枡形虎口跡、北東辺に大手門跡と礎石の残る物見櫓跡と石積み土塁跡があります。堀切が無く、表面観察では傾斜面に竪堀等の遺構が見られなかったので、すごい防御性がある城ではなかったように感じた。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

どのくらい危険か確かめに来た (2024/10/13 訪問)

土城は「江馬氏城館跡」を構成する遺跡の一つとして国の史跡に指定されています。城郭大系には記載が無く、一連の支城の中では最も北に位置し、高原川と跡津川が合流する牛首城山の尾根の先端に築かれています。
国道41号線の工事の際に城址の山肌が削り取られコンクリートが吹き付けられています。ただでさえ段階絶壁の要害なのに人手によってさらに危険度がマシマシです。この城はそういった意味で「良くない城」なんですよ。
todo94さんの投稿によると、滑落の危険がある恐ろしい城とのこと。やだやだ‥とりあえず自分の目で見ないと良く判断できないのでやってきました。なんとなく昨日の酒が残っているし、落ちたらやだなあ‥と思いながら車を安全地帯に留め、南端から眺めます。
とてもじゃないが進入できる雰囲気はないので、昌官忠さんの投稿にあったハシゴを探します。だいぶ雑草が伸びて藪化が進んでいますね。これは良くない兆候です。フェンスに頭をすらないように城址に侵入します。足を滑らしたり、危険な箇所に足を踏み入れると大変なことになるので注意深く尾根に取り付き南に進みます。

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しんちゃん

破城の痕跡 (2024/06/15 訪問)

出丸から三の丸、二の丸を経て本丸に向かいます。三の丸には破城の痕跡が痛々しく残っています。天端(上側)と隅部を崩す方式がとられています。江戸時代に「天草の乱」が起きた後、全国の戦国期の山城(特に石垣の残っている城)が念入りに破壊されたとする説があり、金山城の石垣もその時に崩されたのかも知れません。痛々しい姿ですが、部分的にでも残ってくれているのは有難いことです。
二の丸に向かう途上に「古城山払下げ記念碑」が立っています。江戸時代には兼山の地を治めた尾張藩の「お留山」となっており、明治時代には皇室の御料林(ごりょうりん)となっていたようです。昭和28年にようやく住民への払下げが行われたのですが、長い間人手が入らなかったことが城址の遺構を残すことになったと案内板には書かれています。
とはいえ、それ以外にも小里城など遺構を良く残す城もあることから、地元住民にも城址に対する理解のある人も多かったのではないかと考えます。結局、山城などの遺構が残り、それを訪問できるのは地元の方々の理解と協力があったからなのだと思います。
近年荒れ放題の城址を訪問するたびにそれを痛感します。たいてい道が倒木で塞がれていることが多いので(マイナーな山城を訪問することが多い)。

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朝田 辰兵衛

赤い城さんへ~続・激ムズなクイズ~

赤い城さん,大ヒントありがとうございました。広島城ですネ!
攻城時の撮影写真を確認しましたが,あのアングルの写真はありませんでした…<泣>。
水堀を撮影した写真でご勘弁のほどを…m(__)m

来年のコンプ予定は,東京都,山形県,神奈川県の順になるかと思います。山形県は天候次第で大幅に遅れる可能性があります。できれば,春先あたりから立て続けにいきたいと画策しております。

もし,彦根城だったら…
城びとスタッフのみなさんは歓喜したかと思います。10月20日に「びわ湖EXPO」なんで。
所用があって,丸岡に続いて行くことができませんが…<泣>。

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しんちゃん

出丸の石垣の奥の方も見るべき。 (2024/06/15 訪問)

金山城にやって来ました。といっても訪問したのは6月ごろ、紫陽花の咲いている時期です。金山城は中腹まで車で行けるので私は大堀切の周辺の空きスペースに車を置いて、そこから徒歩で城址に向かいました。
西の出丸が駐車場になっており、そこに向かう道には紫陽花が咲き誇り、周囲の眺望と合わせてなかなか良い景色です。
文禄8年(1565)織田信長は烏ヶ峰城を奪取し、家臣の森可成に与え、可成はこの城を金山城と称したとされます。現在の石積みの遺構は安土城の築城期と同じころに改修したと見られ、破城の痕跡が痛々しいものの、本丸周辺には見事な石垣が残ります。チャートの岩盤がむき出しになっており、この山自体がチャートの岩山であることを感じさせます。
駐車場となっている出丸にも見事な石垣がありますが、正直違和感を感じました。積方や色合い、石材などから後世の物と判断してほどほどに写真を撮って本丸に向かいました。あとで可児市の文化財課に確認したところ、私が見た部分は後世に積まれたものだけど、奥手の方に最も古い石垣が残っているそうです。しまった‥だまされた。これは四回目の訪問もありですね。
良い城は何回行っても新しい発見が有るものです。

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猫八郎

すぎてるのに (2024/10/11 訪問)

閉城時間過ぎにハァハァ言いながら本丸天守到着。
スタッフさんのご好意で入れさせて頂きました。
ありがとうございました┏○ペコッ

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:上野上村城 (2024/09/24 訪問)

三河上郷駅より10分弱歩き、県道239号線沿い城址看板付近(35.010871、137.137601)の榊原康政生誕碑付近に到着しました。
上郷護国神社、上郷区民会館一帯が城跡のようです。

説明板によりますと、応仁年間(1467年~69年)伊勢貞親の被官であった戸田弾正左衛門宗光により築城されたと伝えられています。
1475年(文明7年)宗光は次男・家光を残して渥美郡大津に移り、田原城を築いて田原城主となりました。その後、家光もほどなくして田原に移ったそうです。
1493年(明応2年)上野城に在った阿部孫次郎は寺部の鈴木氏、挙母の中條氏、八草の那須氏、伊保の三宅氏らと連合して松平親忠と井田野(岡崎市)で戦い、敗れて松平氏に服属しました。
その後、上野城には松平内膳正信定・子清定が在城しました。1545年(天文14年)清定は松平広忠と戦い、翌年に降伏し桜井(安城市)に蟄居の身となり、代わって酒井将監忠尚が入城しました。
1563年(永禄6年)三河一向一揆が起こると忠尚は一揆方に味方した為、隣松寺に本陣を敷いた徳川家康に攻められます。
1565年(永禄8年)一揆は鎮圧され、上野城は落城し忠尚は駿河に逃れたそうです。
その後家康により上野七人衆と呼ばれる在番が置かれたそうです。

上野上村城についた時間、辺りは暗くよく見えませんでしたので、上郷護国神社へは行っていません。
暗い中、頑張って写真を撮りましたが、ほとんど使い物になりません。。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先の近鉄四日市駅に向かう前に、一旦、金山駅に向かい荷物を取り出します。
本日の攻城徒歩=39341歩、攻城距離=27.53Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:松平氏館 (2024/09/24 訪問)

松平城から徒歩10分くらいで、松平東照宮鳥居付近(35.050335、137.260663)に到着しました。

築城年代は定かではないようですが、弘安年間(1278年〜1288年)在原信盛によって築かれたと云われています。
信盛が弘安年間に京より松平郷へ下向して館を築いたのが始まりとされるようです。

松平氏居館跡の水掘→松平東照宮→家康産湯の井戸の順番で廻りました。
松平郷館(資料館)は着いた時間が遅く閉まってました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上野上村城を目指す為、愛知県豊田市/おいでんバスと愛知環状鉄道を利用して、松平郷バス停から三河上郷駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:松平城 (2024/09/24 訪問)

松平郷バス停から徒歩10分くらいで、松平城登城口(35.046521、137.261647)に到着しました。

松平城は徳川家康の先祖に当たる松平親氏が、応永年間(1394~1427年)に築城しました。山麓にある松平氏館(現在の松平東照宮)の詰めの城として築かれたようです。
二代目の松平泰親が三男信光と共に岩津へ進出すると、次男信広の居城となりました。
廃城時期は諸説あり、ハッキリと分かっていないようです。

曲輪、土塁、横堀は確認しましたが、井戸には辿りつけませんでした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=松平氏館へは徒歩で向かいました。

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イオ

出張!お城EXPO in 坂井・丸岡城 & 丸岡古城まつり (2024/10/13 訪問)

出張!お城EXPO in 坂井・丸岡城に行ってきました。丸岡藩誕生400年を記念してお城EXPOと丸岡古城まつりが同時開催されるということで、2日目の開場直前に訪れましたが、すでに最寄りの駐車場は満車、霞ヶ城公園駐車場から歩いて登城しました。お城EXPOの会場は丸岡体育館。丸岡城をより多くの人に知ってもらいたいということでしょうか、入城無料なのが嬉しいところ。定番の日本100名城・続日本100名城パネル展のほか、北陸唯一の現存天守ということで現存12天守模型やお城の基礎知識の展示、城めぐり観光情報ゾーンも現存12天守の城が出展(宇和島城と松山城はパンフレットのみ)していました。

「丸岡藩誕生400年と丸岡城天守」記念展示では、様々な説明パネルや絵図、古写真だけでなく丸岡城の笏谷石の鬼瓦も展示されていました。中でも印象的だったのは明治以降の丸岡城天守についてのパネルで、民間に払い下げられた後に丸岡町に寄贈されて町の公会堂となり、城山も公園として整備されて、藩の権威の象徴としての天守から地域の人々に親しまれる「お天守」となったこと、昭和には旧国宝指定を受けて解体修理が行われるも、その完成からわずか6年後に福井地震により天守台ごと倒壊…。幸い地震による火災で焼失することなく部材のほとんどが遺っており、解体修理時の図面や写真が多く存在していたことから、国重文指定により国が費用の半分を負担し、残り半分を地元が全国からの支援を受けて負担することで天守台と天守が再建されたこと。現在見られる天守が福井地震からの再建であることは承知していましたが、自らも被災して困難な状況にあっても諦めることなく自分たちの「お天守」を再建しようと立ち上がった地元の人々がいたからこそ、こうして現存天守としての丸岡城に登城することができるんだなぁ…と考えると、パネルを見ながらちょっと感動してしまいました。

会場内をひとめぐりしたところで、イベントステージで丸岡城下の小学生による発表があるとのアナウンスがあり、ちょうどいいタイミングだしちょっと覗いてみるか、と軽い気持ちで入って行くと、客席最前列にはビデオカメラを構えた保護者らしき一団。ですよねー、と思いつつ(私も自分の子が出演するなら最前列でビデオを構えます)、邪魔にならないところに座って観覧させていただきました。丸岡城の北隣、二の丸跡から追手門跡の間に位置する平章小学校の6年生(城グループ)による丸岡城についてのプレゼンで、パワーポイントを使いこなし、パンフレットを作成し、寸劇あり客席への問い掛けありで、どうすればみんなによく伝えられるかいっぱい考えて、お城EXPOでの発表に向けて練習を重ねてきたんだろうな、と考えると、こんな見ず知らずのオヤジまで胸が熱くなりました…。さらに、平章小学校の5・6年生は毎年天守の清掃をしているとのことで、我々が綺麗な天守に登城できるのは地元の子どもたちのおかげでもあること、そうして子どもたちの曽祖父(くらい?)の世代が福井地震から天守の再建を果たした丸岡城を大切に思う気持ちは、世代を経て今の子どもたちにもしっかり受け継がれているんだなぁ…と考えると、またまた胸が熱くなりました。平章小学校6年生・城グループのみなさん、素敵な発表をありがとうございました。

体育館出口でアンケートに答えて丸岡城下町再生古地図のクリアファイル(城下町めぐりに活用できる優れもの!)をもらい、続いては、体育館東隣のふれあい広場での丸岡古城まつりへ。会場の周囲には模擬店やキッチンカー、おもてなしブースなどたくさんの出店があり、メインステージからは丸岡中学校・丸岡南中学校吹奏楽部による演奏が聞こえてきます(学園天国ノリノリです!)。出店を見て回っている中、お天守前公園で「霞ケ城の戦い」と題した綱引きが開催されるとのアナウンスがあり、そちらに行ってみると、鎧着初め式を終えたばかりの中学生と古城まつりを中心になって開催してきた親世代の対決で、鎧武者同士による綱引きを観るのは初めてでしたが、激闘の末、次代を担う中学生チームに軍配が上がりました。綱引きの後は、出陣式に続いて丸岡城歴代城主らによる越前丸岡武者行列がお天守前公園を出発。このまま武者行列について行って、ふれあい広場での丸岡藩有馬鉄砲隊による演武なども観たいところでしたが、この後の予定(とことん一乗谷)もあるので、ここまでで丸岡城を後にしました。小学生の発表に続いて小城小次郎さんが百口城主として登壇されることを思い出したのは一乗谷に向かう道中でした…。

ともあれ、爽やかな秋空の下、地元の人々が丸岡城を大切に思う気持ちを強く感じたお城EXPOと古城まつりでした。
 

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城① (2024/10/12 訪問)

鉄道の日を記念しての乗り放題パス、3日連続で使わなくてはならないのでこの3連休がうってつけ。自動改札対応でとても便利でした。普通列車を乗り継いで京都駅に到着したのは13時前。贅沢な昼食をとってから奈良線に乗り込みます。大勢の異邦人で混雑していましたが、ほとんどの方は伏見稲荷が目的のようでした。私は桃山駅で下車して向島城の説明板へと向かいました。かつては巨椋池に面した水城だったようですね。

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赤い城

あぁ、勘違い😅

朝田さん、失礼しました。
完全に早とちりでしたね。

来年のクリア、心待ちにしてます。
神奈川が先なのかな?

クイズですが彦根城ではありませんが100名城のひとつです。
もう1枚写真をどうぞ。
地下道を造った際に暗渠の跡が見つかったそうです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:古瀬間城 (2024/09/24 訪問)

見晴らしの丘バス停から徒歩15分くらいで、浄願寺の山門前(35.068721、137.199522)に到着しました。

1506年(永正3年)に松平弥三郎宗忠によって築かれたと云われています。
松平氏が高橋荘の寺部城主・鈴木氏を攻略するための拠点として築いたものとされ、足助城主・鈴木左京亮重政が一時ここを居城としたとも伝わっています。

浄願寺境内を奥にすすむと大平の門跡があり遊歩道へ続きます。
城址公園として整備されており、物見台風の展望台が建てられていますが、土足厳禁の割りには階段はきたない(一応、靴は脱いで登りました)。
小規模ながら曲輪、櫓台跡等の遺構が確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=松平城を目指す為、愛知県豊田市/おいでんバスを利用して、志賀町バス停から松平郷バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:寺部城 (2024/09/24 訪問)

桜城(城びと未登録 愛知県豊田市)から徒歩25分くらいで、守綱神社前(35.095153、137.170412)に着き、その後、城址案内板前(35.095820、137.171506)➡遊佐家長屋門(35.096010、137.173881)➡旧松本家長屋門(35.095180、137.173989)の準で巡りました。
守綱神社とその北にある公園が城址で、公園の階段入口付近に案内板が建ち、公園にはコンクリートの枠で囲んだ建物の礎石部分があります。
また、城内にあった書院「又日亭」は挙母城に移築現存しているようです。

寺部城の築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)鈴木重時によって築かれたと云われています。
鈴木氏は賀茂郡一帯を勢力に治めて松平氏に対抗したが、1566年(永禄9年)織田信長の家臣佐久間信盛に攻められ落城し、鈴木重教は矢並城へ逃れ、後に今川氏を頼って駿河へ落ちたそうです。
徳川家康(当時は松平元康)の初陣となる寺部合戦の舞台となった城として知られているようですが、そんな記述は案内板にはなかった。
江戸時代に入ると、尾張藩付家老で「槍の半蔵」の異名を持つ渡辺守綱が寺部陣屋を築き、以後明治まで渡辺氏が統治したそうです。

「信長の野望」の渡辺守綱は、武勇には優れているけれど政治と知略の数値が低かったと記憶していますが、尾張藩付家老には驚きです。
書院「又日亭」が、挙母城に移築現存しているようですが、自分が挙母城を攻城した時は知らなかった情報なので、見学できなかったのは残念です。
守綱神社とその北にある公園西側の土塁や礎石、井戸、渡辺家に仕えた重臣の遊佐家長屋門・土塀、旧松本家長屋門を確認しました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=古瀬間城を目指す為、愛知県豊田市/おいでんバスを利用して、豊田スタジアム東バス停➡見晴らしの丘バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:桜城(城びと未登録 愛知県豊田市) (2024/09/24 訪問)

新豊田駅から徒歩10分ちょっとで「桜城址公園」の石垣付近(35.084555、137.160035)に到着しました。
別名佐久良城ともいうようです。現在は桜城址公園として整備されており、隅櫓跡の石垣が残されています。

桜城は1604年(慶長9年)金谷城に10,000石で入封した三宅康長が、敷地が狭いうえに城下町を築く平地が必要だったため、現在の元城町に桜城を築いたようです。
じっさいには三宅氏は城持ち大名ではなかったため陣屋でした。その後に入封した本多氏も陣屋を使っていたようです。
その後、三宅氏は転封。何人か藩主が変わり、1749年(寛延2年)に挙母藩に内藤政苗が20,000石で入城。
1756年(宝暦6年)から大改築が開始されましたが、改築中に度重なる洪水の被害を受けたため、工事を断念して別の場所に七州城を築いて廃城となったようです。

街中の小さな公園ですが、インパクトのある高石垣です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=寺部城へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:多治見国長邸 (2024/09/24 訪問)

多治見駅から徒歩15分弱で、多治見国長邸跡(35.332910、137.129583)に着きました。

多治見国長(1289-1324)は、美濃国(岐阜県南部)の守護・土岐頼貞(ときよりさだ)の同族。
後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加するも、一族の妻の密告により計画が発覚します。
国長公の京都の宿所は六波羅探題の軍勢三千余騎により包囲されますが、わずか20人で勇敢に戦った末に非業な最期をとげたそうです。
これを「正中の変」といい、「太平記」などにも記されているようです。

多治見銀座商店街アーケード通りの脇に多治見国長公邸跡がポツンとあるだけです。
多治見国長公遺碑前に猫様が鎮座(守り猫かな?)してました。石碑や説明板等の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=桜城(城びと未登録 愛知県豊田市)を目指す為、多治見駅から電車(JR➡愛知環状鉄道)で新豊田駅に向かいました。

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しんちゃん

意外と見どころは多い。 (2024/06/15 訪問)

西出丸を訪問して御殿場までたどり着きました。ここには柱石か旗立石とされる謎の穴石が有ります。それほど規模の大きくない城址ですが意外と見所の多い城でもあります。御殿場の一段上に「葵の井戸」と呼ばれる井戸を備えた曲輪があり、そこから東上手に道が続いています。それほど大きな城址ではないので、ひとしきり訪問してみたいと思い、まずは東出丸に行き、西に折り返して本丸を訪問します。
本丸西側は大堀切とされていますが、大きすぎてピンときません。自分はここでひとしきり満足したので戻ることにしました。
次は久々の金山城です。三度目になりますが続百名城クラスの城はやはり見応えがあるので、楽しみです。

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