吉田城の総構の面積は通説では84万平方キロメートルに及ぶそうです。84haということですね。広いっちゃ広いけど、思っていたよりは狭いのかもしれない。江戸城は別格として大阪城の総構の総延長は8km以上あるので400haは有ると思う(2×2km)。
大阪城は10万人の浪人を擁して戦った実績が有るから400haあれば10万人以上は籠城できるだろう。名古屋城は大阪夏の陣で豊臣家が滅んでしまったので総構の計画が中断されたらしいが、本来は東は矢田川、西は枇杷島川(庄内川か?)、南は古渡まで含めてかなりの広さになる予定だったらしい。
総面積は5000haくらいあるらしく、それだと江戸城の倍以上になってしまうので、どこまで本当なのか分からないが、実際の江戸時代の名古屋城の総構の広さは100~150haくらいだと思う。
以前、いろいろ詳しい人達に聞いてみたところ彦根城の総構は400haほど有るようで、大阪城に匹敵する広さがあったようだ。関ヶ原を含めて東近江周辺は東西の要衝なので江戸時代はここに大軍を集め、西から攻めてくる敵を迎え撃つつもりだったのかもしれない。
実は関ヶ原全体が山岳陣地の様相を帯びていて、ここに大軍を駐留(籠城)させることも出来るのだが、関ヶ原の合戦での西軍の敗北で、要衝としての関ヶ原の価値は江戸時代には低下していたようだ。
推測も含むが、南宮山などが野戦砲陣地として注目されるのは日清戦争前後のころになると思う。それに関しては、またどこかで投稿したいと思います。
なんにせよ東海道の要衝としての吉田城は少し中途半端に思えなくもない。実際、日本はヨーロッパに比べて艦船や大砲の技術が大幅に遅れていて、近世城郭もガラパゴス的な産物と言えるので、あまり砲撃戦に向いていない。とはいえ大砲などが普及していない江戸時代初期であればこれで十分だったのかもしれない。
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