関ケ原の戦いの時、長宗我部盛親が陣を敷いたと伝わる場所へ行って来ました。南宮山東南の山麓に陣跡があります。麓の清水寺公園と栗原山の中腹の2カ所に説明板がありました。栗原山の中腹にある方が実際には陣があった跡のようです。主戦場である笹尾山付近とは間に南宮山があり、かなり遠くに陣を敷いたことになります。「やる気がなかったのか」と思っていましたが、小和田哲男先生のYou tube「戦国・小和田チャンネル」を見ているとここに陣を敷いたのは大垣方面に備えてのことだったようです。この地はかつて栗原山の山頂部から東山麓には大規模な栗原九十九坊跡といわれる広大な寺院伽藍が広がっていました。建武2年、足利新田の戦いで兵火に焼かれてしまいましたが、戦国時代には栗原右衛門尉義師が城として利用していたと伝わっています。今も削平地を多く残っていて、長宗我部盛親も陣城として利用したものと思われます。散策してみると寺の遺構か、城の遺構か、陣城の遺構かわかりませんが、切岸や土塁のような地形もありました。また、この地は竹中半兵衛重治の閉居の地とも伝わっています。永禄7年(1564)2月、半兵衛は稲葉山城に弟久作の病気見舞いと称して家臣十数名を率いて登城し、舅である安藤守就の軍勢と謀って斎藤龍興を追放しました。半年ほどで稲葉山城を退去した半兵衛が閑居していたのが、この地であったと伝わっています。木下藤吉郎が美濃攻略を目的に竹中半兵衛を口説き落とすため、あししげく通った地が連理のサカキ(長宗我部盛親陣跡)付近とされています。
県道215号線を垂井駅より南へ行くと、右手に長宗我部盛親陣跡などと書かれた看板があり細い道を登って行くと清水寺公園があります。獣除けの柵を開けて(もちろん閉めて)登って行くと長宗我部盛親陣跡へ案内する標識があり容易に陣跡へ行くことができます。それなりの山道ですが、途中、「ガンバレ もう少しだ」と書かれた標識が励ましてくれます。栗原山を登ってみましたが、遺構らしいものはありません。陣跡から栗原九十九坊跡付近が栗原城の跡ではないと思います。
未踏の関ケ原の陣跡を訪ねるために行って来ましたが、調べて見るとエピソード満載の地でした。
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