時間がなくて、
楽市から眺めただけ。
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2025/09/18 22:49
2025/09/18 21:35
大通寺山陣地 「盃井戸」決別の水盃 (2025/09/15 訪問)
長篠城と医王寺の間の丘陵に達磨山大通寺はあります。創建は応永18年(1411)とされ長篠城の本丸を見下ろす位置に有り、北背後の丘に馬場信房、武田信豊(信繁の子)、小山田昌行の三将が陣を張った大通寺山陣地があります。なかなかの広さは有りますが、土塁などの遺構は見当たりません。
本堂の東裏手に「盃井戸」があり、案内板もあります。医王山本陣で軍議を終えた後、決戦回避を主張して受け入れられなかった信房は死を覚悟し、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らを自らの陣所に招き、泉の水を馬柄杓で汲み寄せて別れの水盃を酌み交わしたとされています。
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2025/09/18 21:25
2023年11月に主郭の秋葉社の変更アリ❢ (2025/09/14 訪問)
2023年11月に主郭の秋葉社が,祠化されていました。東屋のような建物も撤去。合わせて,朽ちていた「比志の城山」の標柱,立てかけてあった古木も撤去されていました。一瞬,景色が変わってしまったように思いました。
ただ,東郭付近から眺望する主郭までの曲線ラインは変わっておりません。このラインが見どころだと思います。
登城口は,古城盛衰記さんが攻城されていたポイントより,約30m山側から入りました。古城盛衰記さんが攻城されていたポイントは,もはや草木が鬱蒼と生い茂り,とても危険と判断しました。
アクセスは,韮崎駅前ニコリから電動レンタサイクル利用で。新府城攻城以来の利用です。当時と比べるとスペックが上がっており,とても驚きました。下り坂でペダルをこいでいない時は,バッテリーが簡易充電されます。往路はグイグイとバッテリー残量が減っていきましたが,復路ではほとんど減らず。これでさらに標高の高い源太ヶ城攻城にも使えるメドが立ちました。
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2025/09/18 21:12
長篠城・馬場信房公の墓 (2025/09/15 訪問)
長篠城の本丸には長篠城を取り囲む武田軍の五つの砦の案内板があります。長篠・設楽が原周辺は昔、ひとしきり訪問したことがあります。長篠城の包囲戦から設楽原の合戦の遺構を合わせるとかなりの数になります。せっかっくなので、周れるだけ周ってみようかな・・暑いけど。本丸の北側に二の丸跡、西手に弾正郭があります。弾正郭は私有地の様なので、少し近づいてから引き返しました。近くには鳥居強右衛門の「「呼びかけ」の伝承地」の案内板があります。武田軍と豊川の対岸から呼びかけていたのかと思いきや、こんな本丸の近くまで来ていたのか。武田軍も長篠城を落とすまで、あと一息という所だったようだ。
鳥居強右衛門が「援軍は来る!」と言わずに開城していたら歴史はどう変わっていたのだろうか?
長篠城の西側にほどなく行ったところに馬場美濃守信房(信春)の慰霊碑があります。信房の墓と思っていたが慰霊碑だったのか。遺骸は設楽の資料館の信玄塚の下に眠っているのだろうか? それとも・・?
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2025/09/18 20:40
城址碑 (2024/12/31 訪問)
武熊城は延文年間(1356~61)に大掾氏の一族である石河望幹によって築かれたとされています。後に江戸氏が水戸城に入ると江戸道重が入り武熊氏を名乗りました。天正18年(1590)佐竹氏が江戸氏を滅ぼすと、翌年には佐竹氏の重臣・東義久が入りました。慶長7年(1602)佐竹氏が出羽秋田へ移封になると水戸徳川家に受け継がれ、慶安4年(1651)に千派湖の干拓を行った際に武熊城も廃城になりました。
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2025/09/18 18:00
鐙坂側の見栄えだけではない (2025/08/11 訪問)
本丸にある天守ー多門櫓ー二重櫓の配置が特徴的で、建物こそないものの、案内板や舗装をヒントに当時の姿を想像すると良いと思います。
また、天守台の石垣やその対面の石垣は堀底側から見られるのでお見逃しなく。
本丸の枡形の石垣も、少し改変されているのですが、多めに残っていますので、どのような形の枡形だったのかを想像するのが面白かったです。
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2025/09/18 08:05
とことん?松山城(東雲口~本丸) (2025/05/17 訪問)
関ケ原の戦いの功により伊予国20万国を与えられた加藤嘉明が築いた城で、勝山の頂部に本丸、南西麓に二之丸と三之丸を配し、日本三大平山城に数えられています。加藤嘉明の会津転封により入城した蒲生忠知が無嗣断絶となると、大洲藩預かりを経て松平定行が入り、久松松平氏が16代続いて明治を迎えました。
地元のとある集まりの旅行で湯築城(と道後温泉)に行った後は松山城にも。大手道を登っていきたいところでしたが、城好きでもない他の面々を歩かせるのも申し訳ないので、東雲口からロープウェイでの登城です。山上の長者ケ平は東側への備えとして設けられた曲輪ですが、ロープウェイ・リフトの駅と駅前の広場として整備され遺構は見られません。
長者ケ平から少し行くと、目の前に聳える本丸石垣! 立ち止まって惚れ惚れと見上げる私を置いて一行はどんどん進んで行きます。お前ら…この素晴らしい高石垣を見て何とも思わんのか!? 急いで後を追い、太鼓櫓の扇の勾配の石垣を横目に戸無門をくぐったところで振り返ると、戸無門の向こうに太鼓櫓、さらに奥には小天守と南隅櫓が覗いています。筒井門で待ってくれていたので、先行して筒井門を抜け、隠門から背後に回り込んで驚かせるなど、隠門の仕掛けを体感しました。
太鼓門を抜けると本丸北側の本壇まで本丸広場が続いています。売店前の井戸は深さ44.2mにも及び、築城時に本丸の谷部を井戸として残して埋め立てたものなんだとか。本丸西辺の石垣は屏風折れになっていて、復元された馬具櫓越しに本壇の天守群から搦手側の乾門、乾櫓が見渡せます。本丸広場を北に進むと本壇の天守群が近付いてきました(続く)。
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2025/09/18 07:04
犬千代ルート (2025/08/08 訪問)
日比津城からの転戦で東山線の高畑駅から徒歩で7分くらい。
権現公園や隣接する富士大権現天満天神宮のあたりが城跡です。
周囲は住宅地で遺構は残りません。
ただ、公園は周囲より一段高くなっていてなんとなく城を感じます。
天神宮の境内には前田利家生誕地の大きな石碑があります。
生誕地は諸説あるようですが・・・。
城跡周辺には犬千代ロードのタイルがあります。
これに沿って荒子観音へ足を伸ばしました。
本堂は前田利家が再建したとされています。
早朝なので開門前、塀の外からのお参りになりました。
そろそろ戻らないと、と帰りはあおなみ線の荒子駅から。
ここの駅前には利家の銅像があります。
まさに犬千代ロードでした。
【見どころ】
・前田利家生誕地の石碑
・利家を想像して歩く犬千代ルート
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2025/09/17 20:24
不忍の滝 (2025/09/15 訪問)
もっくる新城で「熊カレー」を食って長篠城に来ました。私「城キチ」なので3か月以上、城攻めをしていないと死ぬんですよ。いや、まじで体調を崩しかけて来たので無理やり出てきました。おかげで少し調子が戻って来てます。
残暑が厳しい・・というかめっちゃ暑い。残暑ってレベルじゃなく普通に暑い。やはり残暑は10月なのか・・秋はどこじゃ?
今まで気づかなかったけど本丸から滝が見える。不忍の滝と言うのだが本丸から滝が見えるとはなかなか乙な眺めだ。麓の沢は「矢沢」といって医王寺から流れてきているらしい。
本丸には鳥居強右衛門の標識が複数立っている、大河ドラマにも出ていたし(太り過ぎ)、大分の中津城にも展示があったし、豊川の赤塚山公園にも顕彰碑が立っていたりする。すっかりヒーローじゃん。でも実際は毛もじゃのオッサンですぞ・・赤いし
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2025/09/17 19:58
今川城 慶寿寺 (2021/02/23 訪問)
静岡県島田市の慶寿寺は1345年(貞和元年)に今川範氏が京都・泉涌寺から南江和尚を招いて開山したとされています。境内には範氏公の墓があり、なぜか赤穂浪人の大野九郎兵衛の墓があります。大野は討ち入りに参加しなかった為「仮名手本忠臣蔵」では悪役扱いをうけているようです。
慶寿寺の本堂の裏手の山の入り口には「今川城址」の標柱が立っています。遮るものもないし、お邪魔させていただきました。堀らしきものと複数の郭が見られますが土塁などは無かったと思います。最高所は古墳のようになっていたと当時のメモには記載があります。見張台のようなものだったのかな? まあいたってシンプルな造りのようです。武田軍に改造されたら、どんなふうになっていたのかな?
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2025/09/17 12:11
2025/09/17 09:32
鯉淵城 (2024/12/31 訪問)
茨城県水戸市鯉淵町にあった鯉淵城は江戸通高の次男・重道によって築かれたとされます。重道はここで鯉淵氏の祖となりました。
重要文化財中島家住宅の裏側に土塁や堀などが残っているようなのだが、畑地の中にぽつんと浮かんでいて近づくことが出来ない。他にも集落には土塁などが残っているようなので、遠景で撮影。この遺構もだいぶ崩されてしまっているようだ。
居館跡の遺構も残っているうちに公開してもらえるとありがたいんだけど。
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2025/09/17 08:04
観光程度にひとめぐり(平面表示区域~丘陵部) (2025/05/17 訪問)
(続き)
道後公園南部では発掘調査に基づく復元がなされていますが、家臣団居住区とされる西側は武家屋敷や土塀など立体復元、上級武士居住区とされる東側は庭園の池や土坑(ゴミ捨て穴)が平面表示により復元されています。内堀の東側は丘陵部の岩肌が庭園の様相を呈していて、なるほど東側を上級武士居住区としているのも頷けます。
平面表示区域から大手門に向かう途中には遮蔽土塁が設けられ、大手からの視線をさえぎり上級武士居住区への侵入を阻んでいます。公園東部はグラウンドやゆうぐ広場に改変されているので、主郭部と思しき丘陵部に上りました。比高わずか31mの丘陵ながら展望台からは周囲を一望でき、松山城天守もすぐ近くに見えます。展望台のある頂部は本壇、北側下段は杉ノ壇と呼ばれていますが、江戸期の絵図によるもので往時の呼称は不明とのこと。丘陵部は公園として整備されていて城郭遺構は見られません。杉ノ壇では発掘調査で鍛治炉や礎石列、堀切が確認されていますが、いずれも埋め戻されているようです。
丘陵部を下りて道後温泉に向かう道中に、湯釜薬師と呼ばれる石造湯釜が祀られていました。宝珠の「南無阿弥陀仏」の文字は河野通有の依頼により一遍上人が刻んだものなんだとか。そして道後温泉駅前の坊ちゃんカラクリ時計を見物して、私以外の一行にとっての本題である道後温泉本館に到着。約90分もの寄り道に付き合わせてしまいましたが、それなりに楽しんでもらえた…かな??
特に城好きでもない一行に付き合わせていることもあり、観光程度にひとめぐりしただけでしたが、四国有数の観光地・道後温泉のすぐ近くに中世の土の城がこれほど見事に遺っていようとは! とはいえ、まだまだ外堀外周を一周してみたいし、猫の足跡のある皿も土塁展示室も見逃してしまったので、またの機会を楽しみにするとしましょう。
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2025/09/17 01:06
清水の次郎長ゆかり (2022/01/08 訪問)
静岡市清水区は私の生地であります。なので次郎長通りには なじみが深いのでありますな。清水の有名人・次郎長親分(山本長五郎)は幕末から明治にかけての侠客で実業家です。任侠と言っても当時は町の顔役の様な物で、山岡鉄舟や榎本武揚らとも昵懇の間柄でもありました。
徳川慶喜公の隠居後の知己であり、慶喜公が清水に釣りを楽しみに来ている時はボディーガードを引き受けたりもしてました。
今の「反社」の皆様とは、いろいろな意味で相違があるようです。
清水の梅蔭禅寺に次郎長・大政・小政らの墓所が有り、次郎長の銅像が鎮座しています。全国で侠客の銅像が有るのはここだけみたいですな。梅蔭禅寺には次郎長親分の資料館が有り、次郎長にまつわる様々な展示を見ることができます。侠客の資料館があるのも、たぶんここだけだと思いますよ。
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2025/09/17 00:37
方ノ上城 静岡県焼津市 (2021/02/23 訪問)
案内板によると方ノ上城は狼煙台を備えた山城で、南北朝初期の延元年間(1336~40)阿倍城主・狩野介貞長により築かれたとされています。明応2年(1492)今川氏親によって改修され今川軍の遠江進撃への連絡拠点として監視や警備を行っていたとされています。
今川家の内紛である「花倉の乱」では花倉城と共に落城したとありますが史料にある方上城が当城に当たるかどうかははっきりしません。
山頂から下がった郭に「狼煙台跡」の標識が立ち岩が転がっています。山頂にも狼煙台跡の標識はありますが、ここの石輪は地元の有志によるもののようです。
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2025/09/17 00:10
民家前の碑は見つけづらいです…👀 (2025/07/11 訪問)
民家前の碑は,一度通り過ぎて振り返ったらありました。文字も見えづらいので,スルーしがちだと思います。碑のある民家西側の用水路は,堀跡と思われます。高木八幡宮にパネルがあるのは,民家への配慮ではないかと思います。
にのまるさんへ…
駆け込み50城,おめでとうございます。中城城の上五の句,変えましたでしょうか…?「空と海」だった記憶が…。
私の勝連城の上五の句が「空と海」なので,にのまるさんの中城城,私の勝連城が採用されるとおもしろいな…と思ってました。
中七の句まで聞かないとお手つきで【1回休み】の危険性が…!
ダブル「たかとりじょう(高取城/鷹取城)」の楽しみが消滅してしまったので,アソビ心もひとつ消滅していたところ。
9/13~16まで遠征中でしたので,こんなタイミングでスミマセン…m(__)m
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2025/09/16 22:43
豊川 (2025/09/15 訪問)
新城城は豊川の北側にある切り立った崖上に奥平信昌によって天正4年(1576)に築かれました。長篠城に代わって新たに築かれたが既に石田の崖上に「新城(しんじょう)」があったので、新城城となったとも言われています。
新城小学校の南に堀と土塁の一部が残っており、石碑が土塁の上に立っているが、ここからではニッポン城めぐりのリア攻めは出来ない。土塁を下って校庭にすこし近づくとリア攻めは出来たが、平日にはやらない方が良いだろう。石碑も校庭に近いし、訪問は休日にした方が良いと思う。再訪になるので豊川方向から城址を見上げてみた。地元の人が川遊びをやっている・・。この近くは桜淵公園のようだ。
新城が天領になった後、慶安元年(1648)に菅沼定実が陣屋を構えて明治に至っている。定実は桜淵公園に桜を植え始めた人物らしい。
地元への功績は大きいのではないだろうか。
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2025/09/16 20:06
伝・信玄公 撃った場所・撃たれた場所 (2025/09/15 訪問)
野田城に隣接する法性寺から階段を登って行くと武田信玄が撃たれたという場所にたどり着きます。案内板には元亀4年(1573)野田城を攻めていた信玄は、毎晩城内から流れてくる笛の音にここで聞きほれており、そこを鳥居半四郎という鉄砲の名手に狙撃され、その傷がもとで間もなく亡くなったと伝えられていると書かれています。野田城内には本丸から信玄を狙撃したと伝わる場所に案内板が立っており、当時の銃の性能や空気抵抗の大きそうな丸い弾丸で良く当たったものだと、伝承ながらも感心したりします。
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2025/09/16 19:46
由比本陣 (2022/01/08 訪問)
静岡市の由比本陣は江戸時代に由比家がその管理を任されていました。今は由比本陣公園となり、向かいにある正雪紺屋(しょうせつこうや)は慶安事件で有名な由比正雪(1605~1651)の生家とされ、その屋号が付けられたとされています。公園内にある由比本陣記念館「御幸亭」は明治天皇が三度御小休された本陣の離れ座敷を復元しており、小堀遠州作と伝わる庭園と山岡鉄舟が命名した庭園「松榧園」があります。
また、公園内には東海道広重美術館があり、浮世絵師・歌川広重の「東海道五拾三次之内」「木曽海道六拾九次之内 中津川」など約1400点などの作品を収蔵しています。
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