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しんちゃん

国衆・中小路氏の居館(居城) (2013/09/07 訪問)

案内板によれば開田城は戦国時代に活躍した国衆の一人、中小路氏の居館(居城)とされ、土塁の一部が残っています。
一辺約70mの方形の郭の周囲に幅約6.5m、高さ約2mの土塁を巡らし、さらに外側に幅約8m、深さ約1mの堀を巡らしていたようです。
虎口は南西に着き外側へ張出す特徴を持っていたようです。

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しんちゃん

ぴーかるさん 尼子十旗・尼子十砦制覇 おめでとうございます。 (2015/10/22 訪問)

というか、お疲れ様でした。私は以前、尼子十旗と十砦の区別が良く付いていませんでした。あまり山陰の城には食指が動かなかったのですが、ぴーかるさんの投稿を見て、尼子氏の城にも興味が湧いてきました。島根の城と言うと必然的に尼子氏の城が多くなってくるわけですか。

データフォルダ復旧しました。I・O・DATAの後付HDDとバッファローのものだとHDD自体は共通であったようです。基盤とコネクタが同じなので本体が無事なら、いろいろ復旧の方法はあります。二つの基盤が同時に故障した原因は不明ですが、この暑さがコンデンサに影響したのでは?と考えています。
以前同様の症例でブルーレイを復旧したことがあるので、ひょっとしたら・・まあ、直って良かった。
古いデータから増山城の写真を探していたら、五箇山の写真が出てきたので掲載させていただきます。「籠の渡し」は江戸時代に五箇山で塩硝を作っていたので、人が容易には入れないようにするためだと案内に書かれていたと記憶しています。

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ぴーかる

尼子十砦制覇 (2025/06/07 訪問)

【亀遊山城】島根県安来市伯太町
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑前の農道に小型車の小さい以下なら停めれる。
<交通手段>車

<感想>尼子十砦制覇旅2城目。亀遊山城は和田氏が在城した城のようです。城びと未登録の城で、おそらく当初は北にある豊岡城が尼子十砦と考えられていたか(ここだけ未登録がおかしい)と思われます。伯太川が西に流れていて、当時は湿地帯の中にある丘陵地を城塞化した城だったのではないかと推察します。現在は周辺は田んぼ、丘陵地の中心に幹線道路が通っているため東西に分断されています。東西どちらも光現寺の墓地となっているために外観と城跡碑を撮影して終了としました。3月に北にある豊岡城に行ってこれで尼子十砦制覇かと思いきや、帰宅して調べたらどうも「亀遊山城かも」という思いになり、居ても立ってもいられなくなって今回日帰り制覇旅をしました。これにて尼子十旗・十砦を制覇できました。走行距離616㎞無事走破。
<満足度>◆◇◇

この旅から現在まで城巡りには行っていません。夏の休止中🍉ですのでしばらく城巡りの投稿はお休みです。皆様の投稿を拝読して楽しみます。涼しくなってから活動再開です。

<尼子十砦マイベスト>
1位 勝山城:毛利氏が月山富田城攻めの陣城として改変されているようですが、「守り」としての畝状竪堀群は尼子氏か毛利氏どちらかの築造ではあり、圧巻の見応えでした。主郭の石垣跡、堀切、大土塁のある方形曲輪、登山道の竪土塁、全てが見応えありました。

2位 高尾城:尼子氏の城郭には珍しい連続大堀切は圧巻です。城郭の面積ほぼ堀切ではないかと思うくらいの堀切渡りは散策楽し。

3位 安田要害山城:城郭寺院と一体化した城跡は登山道から楽しめます。比高のある山頂の主要部は綺麗に整備されていて、眺望が良く、守りの要、要害の城でした。

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トク

【赤色立体地図かるた】 (2025/08/02 訪問)

「球磨川に 打ち勝ち復興 人吉城」
(くまがわに うちかちふっこう ひとよしじょう)

【祝!人吉城完全復旧🙌】
待ちに待った人吉城歴史館が復旧!(写真①)。あみりんさんの投稿を拝見して知り、いてもたってもいられず、猛暑の中を行って来ました。情報ありがとうございます。

2020年7月九州南部豪雨で球磨川が氾濫、濁流は堤防を越え人吉城は完全に水没しました(写真②③)。歴史館は屋根の下まで水泥につかり、相良氏の貴重な数百年間保存され続けてきた家宝や資料も、水泥に浸かってしまいました。あれから5年、歴史館以外は昨年復旧を終えていましたが、ついに最後の歴史館も復旧です。家宝や資料の修復は相当大変だったと思います。私は正直「無理かな」と思っていたので、あきらめずに努力された関係者の皆様には頭が下がる思いです。本当にお疲れ様でした。でも安全のため6~9月の増水時期に家宝はまだ展示されないとの事、よって今回は見られませんでした(ガク!)。10月に出直しです。100名城スタンプも歴史館入口受付前に移されていますので御注意下さい。

その代わり「謎の地下室」は見学する事ができました(ラッキーです!)。川より3m高いにもかかわらず水量が一定に保たれているのは不思議です。ここは藩主へ逆らい「御下の乱」を起こした相良清兵衛の屋敷跡の地下だそうです。井戸だけでなく抜け穴か何かのからくりがこの奥にあるのでしょうか? いまだ謎が解明されていないようです(写真⑤⑥)。

また跳ね出し石垣復旧のための解体工事中に、新たな発見がありました。ここは江戸時代初期「相良長毎」により石垣(下半分)が積まれ、その上には当時は塀がありました。しかし1862年に城下であった寅助火事の時、火の粉が飛んできて塀やその奥の御殿まで焼失するという大惨事となりました。石垣の上に御殿は再建されたのですが、再び燃える事を防ぐため、この上には再び塀ではなく4m石垣を高く積み増して、かつ跳ね出しをつける事で防火機能を高めたされていました。今回その積み増しした境目の部分から、焼けた地層が発見されたそうです。これで寅助火事が本当にあった事が、資料以外でも証明されたという事でした(写真④⑤)。

帰りに少し足を延ばし人吉駅まで行ってきました。駅前には引退した「SL人吉」が展示保存されています(写真⑩)。JR肥薩線に復旧の目途が立たず、運転や整備のできる人もいなくなったため、SL人吉号は昨年現役引退しました。今はここで静かに展示保存されています。こちらもお疲れ様でした。
 

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todo94

三連休2日目の攻城⑦ (2025/07/20 訪問)

曲野城からの転戦です。この日最大の収穫はこの城でした。「お知らせ」の記載に「県内の中世の城郭として保存状態も良く重要な遺跡」とありますが、全くその通りだと思います。規模の大きい内堀は、湿地の部分も多かったのでかつては水濠だったのかもしれません。吉川弘文館の「九州の名城を歩く~熊本・大分編」には、小西行長による築城の可能性という記載がありました。

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小城小次郎

前川本城にも細かいところが似ているような (2024/12/01 訪問)

公園と小学校になっているので期待しないで訪ねると、周辺に意外と遺構があることに気付いて驚喜する。遺構のスケールや雰囲気が前川本城の細かい部分とよく似ているのは、同じ砂金氏に関わる城だからなのだろうか。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

信長が 野望果たして 安土城
(のぶながが やぼうはたして あづちじょう)

説明不要ですね。
訪問は城びと登録前なので「行った」城ではないです。
また行きたい城のひとつです。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2021/05/02 訪問)

「鯛めしと ふくめん・じゃこ天 宇和島城(たいめしと ふくめん・じゃこてん うわじまじょう)」

宇和島グルメをリズムよく並べてみました。どれも食べたことありませんが…<泣>。そもそも,コロナ禍の最中に行ったもので…。

※赤い城さん,こちらこそすみません。吉田郡山城で被ってしまうとは…<汗>。そうそう,小田原城は再度かまぼこネタで笑わせていただきました。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2021/10/08 訪問)

「結束す 三矢の訓 郡山城(けっそくす みつやのおしえ こおりやまじょう)」

三矢の訓はあまりにも有名。城好きでなくとも知っています。「安芸」や「吉田」を謳う必要もないと思います。それよりも五七五のリズムを重要視しました。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

オオタニサンの 礎見てきた 花巻城
(おおたにさんの いしづえみてきた はなまきじょう)

朝田さんの作品と被りましたがやっぱり花巻はね~。
本丸は行ってないですが大手門跡の市役所と花巻東高校には行きました。
しかしメジャリーガー2名輩出とはは凄いですね😃

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2021/07/08 訪問)

「警護すは 津軽海峡 松前城(けいごすは つがるかいきょう まつまえじょう)」

前回の投稿からアップデートしました。「前」だけにこだわりました…<笑>。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2018/03/17 訪問)

「軍神も うなった絶景 七尾城(ぐんしんも うなったぜっけい ななおじょう)」

とりあえず,謙信がらみは早めにいっておきます。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

三矢の訓 折れない力を 吉田郡山城
(みつやのおしえ おれないちからを よしだこおりやまじょう)

城びと登録前の登城、写真も撮ってないのでまたいかなきゃ、の城です。
毛利元就の三本の矢のエピソードは後年の創作のようですが三子教訓状という書状もあることから毛利家の結束を促す教訓として言い伝えられています。
Jリーグのサンフレッチェの語源でもあります。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

津和野城 見下ろせば蒼く 細い河
(つわのじょう みおろせばあおく ほそいかわ)

未登城ですが行きたい城です。
さだまさしさんの「案山子」に出てくる城跡はここ。
歌詞をパクリました🙏
この歳まで親孝行できてないこと、後悔しても取り戻せないです。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

小田原城 やっぱりお土産 かまぼこだ
(おだわらじょう やっぱりおみやげ かまぼこだ)

100名城かるたでは読み札採用頂きありがとうございました😊
讃岐に移住してなかなか行けなくなりましたがまた行きたい城です。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2013/12/15 訪問)

「猫好きが 城好きに進化? 備中松山城(ねこずきが しろずきにしんか びっちゅうまつやまじょう)」

はたしてそれは進化と呼べるのだろうか? 変化、退化? 近年城好きも増加の傾向にあり、メジャーな大人の趣味になりつつあるのではなかろうか。ただ、人気のない山の中をウロウロしてたり、学校の周りをウロついていると「普請者」扱いされるかもしれませんが。
怪しい・・実に怪しい・・ニンニン。 
お城EXPOの忍者コーナーの「忍び足体験」では非常に優秀な成績でした。日頃の城めぐりの賜物だと思います(どんな?)・・
目指すは「天下普請」の城びとですな。

案1-2・・「猫好きと 城好きが集う 備中松山城」
案1-3・・「猫好きと 城好きホイホイ 備中松山城」
案2・・「さんじゅーろーに 会いに行きます 備中松山城」
さんじゅーろー=備中松山城なので、さんじゅーろーだけでも良さそうだ。松山城知らなくても「さんじゅーろー」知ってる人、多そうだし。ちなみに松江のお城EXPOのグッズコーナーで見た「さんじゅーろー」のイラスト、仕事猫にそっくりだと思ったら「くまみね」氏に描いてもらったんだそうな。買っときゃ良かったかな。

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岡崎城公園150年のあゆみ (2025/08/02 訪問)

 岡崎城公園開設150周年記念企画展「岡崎城公園150年のあゆみ」が岡崎城の三河武士のやかた家康館で開催されていることを城びとのイベント情報で知り行って来ました。岡崎城址は廃城後、明治8年9月に岡崎公園として開設され令和6年12月に岡崎城公園と改称されています。廃城となってからの歴史ですので、あまり期待してはいませんでしたが、興味深い事柄もあり楽しく見学しました。
 この日は「岡崎城下家康公夏まつり第77回花火大会」の開催日であり、その準備が進んでいました。岡崎城址も立ち入り禁止区域が多くあちこち回れません。暑い日でもありさらりと散策してきました。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2025/01/05 訪問)

「釣鐘は 弟の御下がり 花巻城(つりがねは おとうとのおさがり はなまきじょう)」

花巻城の南西、市役所の前に時鐘堂があります。かつては二の丸に有ったとされ、正保3年(1646)に本城である盛岡城から移されました。鐘楼は昭和の時代に再建されたものですが、釣鐘は南部時代のものです。
盛岡城は慶長年間に近世城郭として完成するので、花巻城の方がだいぶ「お兄さん」になります。でも、キメツだとお館様が年齢関係なく隊士達を「子供」と言ってるし、本宮先生の「天地を喰らう」だと、どう見ても関羽の方が劉備より年上なのに貫禄が有るということで長兄になっています(たしか・・)。その理屈だと盛岡城が花巻城のアニキになってしまうけど・・
花巻城の始まりは戦国時代の享禄年間で、ヘタをすると前九年の役のころの城柵にまで遡ります・・そんな古い「お城」にアニキ~とか呼ばれるのもシュールすぎるわ。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2025/01/19 訪問)

「水の手は 大池なのか? 高天神城(みずのては おおいけなのか たかてんじんじょう)」
トクさんの投稿にもあった高天神城の水の手、現在井戸曲輪には「かな井戸」と呼ばれる井戸があり、搦手の道中には三日月掘があります。掛川市の文化財課に聞いてみると、いろいろヒントはくれるけど、はっきりとは教えてくれない。何度か時期を変えて訪れてみると城の斜面からどんどん水が流れ出して来てる、古大井川の運んだ高天神礫層で形成された高天神城は非常に水はけが良く、籠城には不便な要因になっているようです。
二の丸から大量の瓶が発掘され、内容物の付着等無かったことから水瓶だと想定されています。おそらく麓の大池が重要な水場だったと思われ、近くの沢や三日月池、大池から水を運んで蓄えていたものと思われます。
「第二次高天神城の戦い」での三月には井戸や沢からは水が取れなかったと思われ、大池の堰を破壊されたのが落城への致命的な要因になった可能性はあります。江戸時代に書かれた古地図には大池跡には水は残っておらず、南東に池があることから、そちらの方に水が流れて行ったのではないかと思います。
大池は現在溜池として復活していますが、誰も来ないので近づかない方が無難だと思います。

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しんちゃん

明治まで五層の天守があった。 (2016/01/17 訪問)

亀山城は天正5年(1577)明智光秀によって丹波攻略の拠点として築かれました。本能寺の変の後は小早川秀秋(羽柴秀俊)によって修築が行われ、慶長15年(1610)岡部長盛の代に天下普請により近世城郭として完成しました。
明治に撮影された古写真には五層の層塔型天守が写っています。亀山は縁起の良い名なので、城びとにも同名の城が七つあります。江戸時代の人にとっても紛らわしかったようで寛永9年(1632)幕府により丹波亀山城の天守の破却を命じられた堀尾忠晴が間違って伊勢の方の亀山城の天守を解体してしまったのは有名な話です。
しかもその翌年、忠晴は34歳くらいで亡くなってしまいます(何があった?)。天下を目前に控えた主君を殺した光秀が築いた城で有りながら、五層の天守を備えた近世城郭として残り続けたのは数奇な運命だったと思います。そんな経緯で存在した天守だったので出来る事なら残っていて欲しかったですね。

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