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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城① (2024/10/12 訪問)

鉄道の日を記念しての乗り放題パス、3日連続で使わなくてはならないのでこの3連休がうってつけ。自動改札対応でとても便利でした。普通列車を乗り継いで京都駅に到着したのは13時前。贅沢な昼食をとってから奈良線に乗り込みます。大勢の異邦人で混雑していましたが、ほとんどの方は伏見稲荷が目的のようでした。私は桃山駅で下車して向島城の説明板へと向かいました。かつては巨椋池に面した水城だったようですね。

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赤い城

あぁ、勘違い😅

朝田さん、失礼しました。
完全に早とちりでしたね。

来年のクリア、心待ちにしてます。
神奈川が先なのかな?

クイズですが彦根城ではありませんが100名城のひとつです。
もう1枚写真をどうぞ。
地下道を造った際に暗渠の跡が見つかったそうです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:古瀬間城 (2024/09/24 訪問)

見晴らしの丘バス停から徒歩15分くらいで、浄願寺の山門前(35.068721、137.199522)に到着しました。

1506年(永正3年)に松平弥三郎宗忠によって築かれたと云われています。
松平氏が高橋荘の寺部城主・鈴木氏を攻略するための拠点として築いたものとされ、足助城主・鈴木左京亮重政が一時ここを居城としたとも伝わっています。

浄願寺境内を奥にすすむと大平の門跡があり遊歩道へ続きます。
城址公園として整備されており、物見台風の展望台が建てられていますが、土足厳禁の割りには階段はきたない(一応、靴は脱いで登りました)。
小規模ながら曲輪、櫓台跡等の遺構が確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=松平城を目指す為、愛知県豊田市/おいでんバスを利用して、志賀町バス停から松平郷バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:寺部城 (2024/09/24 訪問)

桜城(城びと未登録 愛知県豊田市)から徒歩25分くらいで、守綱神社前(35.095153、137.170412)に着き、その後、城址案内板前(35.095820、137.171506)➡遊佐家長屋門(35.096010、137.173881)➡旧松本家長屋門(35.095180、137.173989)の準で巡りました。
守綱神社とその北にある公園が城址で、公園の階段入口付近に案内板が建ち、公園にはコンクリートの枠で囲んだ建物の礎石部分があります。
また、城内にあった書院「又日亭」は挙母城に移築現存しているようです。

寺部城の築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)鈴木重時によって築かれたと云われています。
鈴木氏は賀茂郡一帯を勢力に治めて松平氏に対抗したが、1566年(永禄9年)織田信長の家臣佐久間信盛に攻められ落城し、鈴木重教は矢並城へ逃れ、後に今川氏を頼って駿河へ落ちたそうです。
徳川家康(当時は松平元康)の初陣となる寺部合戦の舞台となった城として知られているようですが、そんな記述は案内板にはなかった。
江戸時代に入ると、尾張藩付家老で「槍の半蔵」の異名を持つ渡辺守綱が寺部陣屋を築き、以後明治まで渡辺氏が統治したそうです。

「信長の野望」の渡辺守綱は、武勇には優れているけれど政治と知略の数値が低かったと記憶していますが、尾張藩付家老には驚きです。
書院「又日亭」が、挙母城に移築現存しているようですが、自分が挙母城を攻城した時は知らなかった情報なので、見学できなかったのは残念です。
守綱神社とその北にある公園西側の土塁や礎石、井戸、渡辺家に仕えた重臣の遊佐家長屋門・土塀、旧松本家長屋門を確認しました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=古瀬間城を目指す為、愛知県豊田市/おいでんバスを利用して、豊田スタジアム東バス停➡見晴らしの丘バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:桜城(城びと未登録 愛知県豊田市) (2024/09/24 訪問)

新豊田駅から徒歩10分ちょっとで「桜城址公園」の石垣付近(35.084555、137.160035)に到着しました。
別名佐久良城ともいうようです。現在は桜城址公園として整備されており、隅櫓跡の石垣が残されています。

桜城は1604年(慶長9年)金谷城に10,000石で入封した三宅康長が、敷地が狭いうえに城下町を築く平地が必要だったため、現在の元城町に桜城を築いたようです。
じっさいには三宅氏は城持ち大名ではなかったため陣屋でした。その後に入封した本多氏も陣屋を使っていたようです。
その後、三宅氏は転封。何人か藩主が変わり、1749年(寛延2年)に挙母藩に内藤政苗が20,000石で入城。
1756年(宝暦6年)から大改築が開始されましたが、改築中に度重なる洪水の被害を受けたため、工事を断念して別の場所に七州城を築いて廃城となったようです。

街中の小さな公園ですが、インパクトのある高石垣です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=寺部城へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:多治見国長邸 (2024/09/24 訪問)

多治見駅から徒歩15分弱で、多治見国長邸跡(35.332910、137.129583)に着きました。

多治見国長(1289-1324)は、美濃国(岐阜県南部)の守護・土岐頼貞(ときよりさだ)の同族。
後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加するも、一族の妻の密告により計画が発覚します。
国長公の京都の宿所は六波羅探題の軍勢三千余騎により包囲されますが、わずか20人で勇敢に戦った末に非業な最期をとげたそうです。
これを「正中の変」といい、「太平記」などにも記されているようです。

多治見銀座商店街アーケード通りの脇に多治見国長公邸跡がポツンとあるだけです。
多治見国長公遺碑前に猫様が鎮座(守り猫かな?)してました。石碑や説明板等の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=桜城(城びと未登録 愛知県豊田市)を目指す為、多治見駅から電車(JR➡愛知環状鉄道)で新豊田駅に向かいました。

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しんちゃん

意外と見どころは多い。 (2024/06/15 訪問)

西出丸を訪問して御殿場までたどり着きました。ここには柱石か旗立石とされる謎の穴石が有ります。それほど規模の大きくない城址ですが意外と見所の多い城でもあります。御殿場の一段上に「葵の井戸」と呼ばれる井戸を備えた曲輪があり、そこから東上手に道が続いています。それほど大きな城址ではないので、ひとしきり訪問してみたいと思い、まずは東出丸に行き、西に折り返して本丸を訪問します。
本丸西側は大堀切とされていますが、大きすぎてピンときません。自分はここでひとしきり満足したので戻ることにしました。
次は久々の金山城です。三度目になりますが続百名城クラスの城はやはり見応えがあるので、楽しみです。

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しんちゃん

土岐氏の伝承。 (2024/06/15 訪問)

鶴ヶ城は中央自動車道に沿った側道沿いにアクセスできます。諏訪神社に車を留めさせていただき歩いて登城道に向かいます。尾根沿いに周遊路を歩いて裏天神山城→天神山城と訪問することが出来るようですが今回は鶴ヶ城のみとさせていただきます。
築城者としては土岐光衡(もしくは頼兼)とする伝承も有るようですが詳細は不明です。現地の案内板には天正10年(1582)2月の織田氏と武田氏の合戦の際に織田信長・信忠父子もここに入り、武田氏攻略の兵を出したと記載が有ります。
城址碑の有る場所から城域に入り、二の木戸・腰曲輪・西出丸を経由して進むと居館跡と推測される御殿場に出ます。そこから東に回り込むようにして本曲輪を目指します。

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小城小次郎

壮大な城に建物ぎゅうぎゅう (2024/02/19 訪問)

山全体が城塞化された巨大城郭全体を見れば流石は長宗我部氏の本拠と唸るが中心部は曲輪いっぱいに建てられた建物が連なりかなり窮屈だったように見える。この窮屈さも本拠地移転の一因となったと言ったら考えすぎか。

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ぴーかる

萱生城 (2024/09/23 訪問)

【萱生城】
<駐車場他>城跡のための駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅2城目。萱生城は文治年間(1186~1189年)に一帯を支配した春日部氏の春日部宗方が築城したとされます。1568年に北伊勢に侵攻した織田信長によって攻撃を受け後に落城しました。
 現地は学校法人になっているので私も正門前だけを撮影し、先達の投稿で朝明川の対岸からの撮影が良かったので行って撮りました。撮影ポイント<35.034922,136.603661>堤防上まで車で行けます。車転回できます。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

斎藤道三の隠居城。西側には畝状竪堀がある。 (2024/06/16 訪問)

鷺山城は斎藤道三の隠居城として有名な城です。城郭大系によると文治年間に新羅三郎義光四代の孫(原文まま)、佐竹常陸介隆義の子、秀義が美濃国山田郷に地頭職を与えられ居住したのが始まりとされています。戦国期には美濃国守護の弟・頼芸が居住し、頼芸が兄の頼政を追放し守護に納まってからは革手城に入り、天文3年(1534)大桑城に移ったようです。
頼芸の下で実験を握っていた斎藤道三は主君を追放し、天文17年に稲葉山城を嫡子・義竜に譲り鷺山城に隠居しました。鷺山城は周囲に対し独立した丘陵上に築かれ、小規模ながらも充実した遺構を備えています。鷺山公園の登城道は北に付いており、北の太子堂のある郭から尾根上に二手に郭が伸びています。
大堀切を隔てて南に主郭があり、西側には畝状竪堀があり、大堀切から道が続いています。この城に来るのは二回目ですが畝状竪堀が有るのは初めて知りました。来てみるもんですね。

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しんちゃん

ゴルフ場の雰囲気はあまりなし。 (2024/06/16 訪問)

堂洞城の周囲はゴルフ場になっているようです。でもあまり、気にせずに見学することが出来ました。城址に関してはあまり印象に残ってないです。主郭の南に浅い堀が有る以外は特に遺構は残っていないようです。
堂洞城は堂洞峠に築かれていたとされています。遺構はあっさりしていますが、なかなか激しい戦いのあった城のようで、永禄8年(1565)城主・岸勘解由信周は斎藤氏に従いこの城に籠って織田信長の軍勢と戦ったそうです。戦いは6時間に及び、長男信房は討死し、信周は妻と共に自害して果てたそうです。

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朝田 辰兵衛

赤い城さんへ~激ムズなクイズ~

ちょっと自信はないですが…彦根城の腰巻石垣かなと思います。同アングルの写真がないのでなんとも…なんですが,こんなキレイな腰巻石垣は数えるほどしかないと思います。石垣だけなら松代城の雰囲気を漂わせているのですが,写真の雰囲気から「腰巻石垣」と判断しました。
いかがでしょうか…?

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しんちゃん

比良城 佐々成政の城の物騒な伝説 (2024/06/16 訪問)

比良城は愛知県名古屋市西区比良の光通寺の一帯に築かれていたとされます。「信長公記」首巻には(小城では)比良城ほど良い城は無いと聞いていた織田信長が、その近くの蛇池に大蛇が住むという伝説を聞いて、確かめに赴いたついでに比良城にも寄る予定でいたと書かれているようです。
その際に佐々氏家臣・井口太郎左衛門が信長暗殺を企てますが、信長は比良城に寄らず清州城に帰ったために未遂に終わったとのことです。真偽のほどは定かではないのですが、成政の父・成宗の意図によるものなのか興味深いところです。
城址の遺構は残っていませんが、境内に「佐々成政城址」の立派な城址碑があり、脇に佐々成政の供養塔も立てられています。

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カズサン

南美濃未踏の城探訪1/7竹ヶ鼻城 (2024/10/14 訪問)

 秋日好天続きで急ぎ未踏の空エリア南美濃の城探訪へ、浜松より高速を飛ばし岐阜羽島ICを出て北に約2km程の竹ヶ鼻城へ初登城しスタートを切りました。

 駐車場:羽島市歴史民俗資料館駐車場を利用。
 参考資料:城郭放浪記さん古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 城郭風建物の羽島市歴史民俗資料館が故地に成り、西側の道側に案内解説板と「史蹟 竹鼻城本丸之趾」石碑が並んで立っている、西側には立派な東本願寺竹鼻別院が建ち、門前横にはお城地蔵菩薩立像が建立されている、この地蔵は竹鼻城玉砕の風雪忘れ去られた戦没者の供養をと、昭和に入り町内某氏が供養塔建立発起したが戦時下の情勢悪化で中断、戦後町内有志でこの意志を継ぎ昭和25年お城地蔵菩薩を建立したと案内板に記載されている。

 朝8時半に着きました、歴史民俗資料館は9時より開館でしたが係りの方が出勤しており早めの入館と成りました、入館料大人300円、丁度1階の企画展示室ではこれから訪ねる八神城の「八神城と毛利氏」題して企画展示が令和6年10月5日~12月15日まで開催中でした。
 清和源氏を祖とする名家毛利氏、当代の提供を受けてこの展示となった、八神城の江戸期絵図と立体模型、毛利氏系図では八幡太郎源義家からの系図が展示、古文書、古文書写真写し、菩提寺金寶寺に在る歴代城主の墓の写真など展示。
 尚展示の資料は「八神城と毛利氏」展示会の案内パンフレットとA4の配布資料のみ、係りの方に今回の展示の小冊子を訪ねましたが無いとの事で残念がって居ましたら、展示会が終了後に羽島市歴史民俗資料館のHPにアップするそうです。

 又2階の資料展示室の奥角に「竹ヶ鼻城」の展示がされて居ます、ここも秀吉の水攻めが小牧長久手の戦い時あった様で、一夜堤の跡地を示す石碑の写真展示3ヶ所(竹鼻町今町、市営斎場前、羽島郵便局前)。
 関ケ原の戦いでの前哨戦で東軍と戦い落城炎上した旨の解説がなされています。
 尚帰宅後に羽島市歴史民俗資料館のHPを開くと「竹ヶ鼻城」の解説説明がA4で4~5頁ほどの解説が掲載されいました。

 また、羽島市歴史民俗資料館には映画資料館も併設されて2階には懐かしい映画ポスターが貼られて美空ひばり、大川橋蔵などの人気俳優を久しぶりにポスターで眺めました、映写機などの機材も展示、視聴室も併設で鑑賞会も有る事でしょう、昭和の時代を内蔵してる異空間でした。

 行き帰りに竹鼻町の狭い道を通り抜けましたが古き良き時代を彷彿させる伝統的建物群が連なって居ました、良い街並み家並みです。
 
 この後は約1.4km程北西の一夜堤秀吉本陣の太閤山砦を目指します。
 

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朝田 辰兵衛

赤い城さんへ…

赤い城さん,勘違いさせてスミマセンm(__)m
東京コンプは来年を計画しており,まだ10城ぐらい残しております。
とりあえず,大島上陸4番目ということでした…。
来月,多摩エリアを散策するつもりです。
にのまるさんの庭荒らし…?
さらに,東京都立中央図書館で「江戸城で暮らす展―中奥・大奥―(10/26~11/10)」が開催されており,
行ってみようかと思ってます。入場無料です。

クイズの写真は,パッと見で思い当たりません。
水堀の中に…ですよね?
ちょっと考えてみます。

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赤い城

朝田さん、東京都クリアおめでとうございます😊

晴天の大島、気持ちよさそう!
三原山など見どころも多いので次行けるとしたらじっくり見学したいですね。

さて、通常ならにのまるさんからクイズがあると思うのですが最近拝見していないので僭越ながら。

東京の城ではありません。。。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:大留城 (2024/09/24 訪問)

高蔵寺駅北口バス停から徒歩30分くらいで、子安神明社入口(35.258599、137.027292)に着きました。

1546年(天文15年)将軍・足利義輝の家臣・村瀬氏が領地内に館を築いたのが始まりのようです。その子・村瀬作右衛門が城主といわれています。
1584年(天正12年)に起きた「小牧・長久手の戦い」では城主・村瀬作右衛門は羽柴秀吉側に味方しましたが、池田恒興、森長可らとともに討死したため、そのまま廃城となりました。
現在城址には子安神明社があり、城址碑が建てられています。

神社に入った正面に土塁、その上に祠と城址碑があります。東側と本殿裏側に空掘が残っているようですが、よくわかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=多治見国長邸を目指す為、電車で高蔵寺駅から多治見駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:大草城 (2024/09/24 訪問)

名鉄バスの大草北バス停から徒歩10分くらいで、白山神社参道入口/登城口(35.291040、136.989110)に着きました。

岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えた西尾式部道永が、文安年間(1444年〜1449年)に築いたと云われています。
その後、岩倉織田氏の家督争いのために西尾氏がこの地を離れ美濃へ移ると、1548年(天文17年)頃に廃城となったようです。
大草城は白山神社一帯に築かれていたようです。

白山神社境内の石碑と案内板を確認しました。
土塁や空堀らしき遺構は見ましたが、確証はありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=大留城を目指す為、大草バス停から名鉄バスで高蔵寺駅北口バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:上末城 (2024/09/24 訪問)

名鉄バスの高根バス停から徒歩20分くらいで、石碑案内板前(35.298050、136.961380)に着きました。

足利将軍家の末裔と伝わる落合将監勝正によって、文明年間(1469年〜1487年)頃に築かれたと云われています。
勝正の子、落合安親は織田氏に仕え、1584年(天正12年)の小牧長久手合戦で秀吉方となり、池田恒興が率いた三河中入り隊の道案内をしていましたが、徳川家康に敗れ、廃城となりました。

現在城址には土塁や空堀が一部残っているそうですが、外から見てただの竹藪なので、中には入らず案内板と石碑、ちょこっと見える土塁を確認しました。
また城の南西にある陶昌院に安親の墓があるようですが、時間の都合で行ってません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大草城を目指す為、上末バス停から名鉄バスで大草北バス停に向かいました。

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