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しんちゃん

ツイた (2025/06/28 訪問)

佐世城は尼子氏の家臣・佐世氏によって築かれました。尼子十旗ではないのですが、8代清宗は12万石を有する、かなり有力な家老であったようです。地元の老人達がゲートボールをやっている公園の裏手の高台が城址であり、比高もそれほど高くありません。
侍屋敷や物見櫓跡を経由して井戸跡の標識のある郭にたどり着きます。この上の郭が頂部で城址の説明や佐世氏の系譜の書かれている案内板がありました。
縄張り図を見ると南西側も城址の様なので、ちょっと覗いてみることに。ゲートボール場からそのまま道が続いていますが、すこし藪化している。東側の城址のある丘と堀切を挟んで向かい合っています。
立入禁止とも書いてないので入って見たら何か踏んだ。フンだ・・しかも柔らかいやつだ。道の真ん中に落ちているし熊のモノだと思った。
実際、この周辺は熊の痕跡が多い。春先からあちこち辺鄙な所を回って、熊が人里のすごく近くにいることを実感していた。案の定、今はあちこちで熊と人とのトラブルが絶えない。熊対策は環境省じゃムリだろ・・
ただ、ここで踏んづけたモノは、ひょっとすると熊以外のモノかもしれない。さっきのゲートボール場で会った爺さんたちの顔が脳裏に浮かんでくる。まさかとは思うが・・野生動物のモノなら仕方が無いで済ますことが出来るが、人のは無理です。
次の日のお城EXPOの武将ガチャでは「桔梗」さんをゲットできた。運がついたのだろうか・・靴を洗わなかったら「ガラシャ」さんをゲットできたのかも。でもやっぱり無理だ・・

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朝田 辰兵衛

🦌がしかもおるなぁ… (2025/06/28 訪問)

上陸してすぐの感想は「🦌がしかもおるなぁ…」ですが,それ以上に訪日インバウンド客の多さにウンザリしました。ところが,宮尾城に向かうのは私ひとりという現実…。世界遺産強し。
猛暑でしたが,雨よりは良かったです。

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イタさん

主郭の土塁・建屋跡などがよく整備されている (2025/08/26 訪問)

 国指定遺跡の館跡で、広範囲が史跡指定範囲になっている。見学したのは主郭部分と東郭のみだったので、範囲内の家臣団屋敷跡、北郭、北西郭に遺構があるのか分からない。西入口のトイレ横の部屋にパンフレットが置いてある。パンフレットに拠れば、15~16世紀に営まれた有力武将の居館跡で、武田信虎の弟・信友が勝沼衆を率いてこの地を拠点としていたと資料がある・・・。館跡の縄張は3期に分けられる事が判明しています。第2期が発展期で、3期では主郭の外堀・外土塁を埋め立て、屋敷を建てるなど防衛機能を失うような改変がなされ・・・。整備の目標は第2期を目標にしている・・・とある。
 主郭の北は果樹畑、東郭の南半分は県立ワインセンターが建っている。主郭の東門跡、東から北に繋がる堀、圧巻の土塁を堪能できる。説明には無いが、主郭の北側土塁の内側に浅いが堀状の凹みと土塁が見られる。郭内は発掘調査結果の建物跡、石組み水路・排水・水溜が整備されている。

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しんちゃん

金閣寺・北山鹿苑禅寺 (2013/09/22 訪問)

金閣寺で有名な北山鹿苑禅寺の寺名は室町幕府三代将軍・足利義満の法号「鹿苑院殿」に由来があるそうです。法号とは仏門に入った者に与えられる名称になりますわ。しかし、義満公にしろ武田信玄にしろ若い時分から、さんざん悪さしておいて、何故に仏門に入るのだろうか?
みなさんプライベートジェットで地獄行きだと思うのだが、本気で極楽に行けると思っていたのかな?
まあ実際に天国・地獄があるなんて誰にもわからん事だし、地獄行きの相場も実際に行った者じゃないと解らない。案外、賄賂をいっぱい渡せば極楽に行けたりして・・極楽に行ってみたら悪い奴ばかりだったりして・・それじゃ今の世と変わらんぞい。
足利義満が京都の「室町」に屋敷を置いたことから足利政権は室町幕府の名称で呼ばれるようになりました。城というよりは御所だったわけですが、義満が開祖として建立した金閣寺は西園寺を改修したものとされ、山荘の規模は御所に匹敵し、政庁の機能を有していたようです。実際にここで義満が政務を司り、院政も行っていた事を考えると、金閣寺も城郭の類であると言えるかもしれません。
ほじくってみると、いろいろ出てくる・・人間はイケズだが京都は奥が深い。

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しんちゃん

岸和田城 (2013/09/08 訪問)

案内板によると建武元年(1334)楠木正成の一族和田氏が、「岸」と呼ばれていた当地に城を築いたのが岸和田城の名の由来と書かれています。また岸和田氏によるものとする説もあるようです。
戦国時代には岸和田細川氏や三好勢の城として使われ、畿内の戦乱によって城主が幾たびも変わりましたが天正11年、羽柴秀吉が根来・雑賀・粉河などの一揆への対応を強化すると翌12年には小牧・長久手の戦の隙を付いて3万の一揆勢力が岸和田・大津を襲い「岸和田合戦」が行われました。天正13年、秀吉は岸和田城に入り貝塚の緒城を落とし、根来攻略の後に小出秀政を岸和田城に入れ、秀政によって城の近世化が行われていったようです。その後も城主は変わって行きますが、寛永17年(1640)に岡部宣勝が入って以来は明治維新まで13代続きました。
文政10年(1827)雷による火災で五層の天守が焼失し、昭和29年(1654)に三層の復興(模擬)天守が鉄筋コンクリートで建てられました。
文政の焼失後に幕府に天守復興願いが出されていて、その時のプランが三層の天守に二層の小天守というものでしたが、結局三層の大天守のみが復興(模擬)での再建となったようです。
岸和田城は何度か訪れていますが、写真は一番古い物になります。

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しんちゃん

和歌山城 (2013/09/08 訪問)

和歌山城は天正13年(1585)に豊臣秀吉の命で弟・秀長が築城し家臣の桑山重晴を城代として置きました。この時には南東部の岡口門を大手門としていました。慶長5年(1600)浅野幸長が入ると、大手を一の橋の門に代えましたが岡口門は引き続き重要な門として使われ続けました。改修を受けたりして、創建時とは形状も異なっていますが空襲でも焼け残った旧藩時代の数少ない貴重な遺構となっています。
土塀には銃眼を石で囲った珍しい狭間が設けられているようです。

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しんちゃん

立花城の端城? (2025/05/10 訪問)

まだ福岡県の城が一つ残っていたので、ここで登録しておきます。はかた自動車教習所の北西の丘陵上が城址で東西のピークに郭があるようです。西の離れた位置にあるピークは出丸か物見か?
まずは東側の郭を訪問してから西側に行きました。おそらく西側が主郭では無いでしょうか。多少藪化が進んでいますが、散策にはそれほど支障は無いです。解りにくいですが、主郭の西側に堀切の跡があり、その先にも郭があるようです。主郭は古墳跡と見られ、南にも尾根上に郭があり、そこにも古墳と城址碑があるようです。どうやら、古代の聖地を城址に転用しているようです。
訪問時には情報が少なく、全部は見切れていません。それほど登城に苦労はしないので再訪する機会があれば行ってみたいんですけどね。

周辺には駐車場は無いけど、近くの公園に車が留めて有ったので、そこを使わせてもらっています。

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しんちゃん

長浜市・豊国神社 (2014/05/17 訪問)

浅井家が滅ぼされた後、湖北が羽柴秀吉の知行地になり長浜城と城下町が築かれました。楽市楽座や地租税の免除で商業も繁栄したようです。慶長3年(1598)太閤秀吉が逝去すると地元の人々によって豊国神社が建てられました。
江戸時代になると太閤の神格化が禁じられ、神社も取り壊されてしまいました。寛政5年(1793)「えびす宮」として建築許可を取り再建し、明治になり晴れて豊国神社に復帰しました。
その経緯で祭神は豊臣秀吉の他に加藤清正・八重事代主えびす宮・木村重成となっています。なぜか木村重成もいる・・ついでに真田親子や大谷さんもいると良かった。
境内には加藤清正由来の「虎石」がちょこんと置かれています。虎石の由来は清正の幼名虎之助になるそうです。すごい幼名だ。

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小城小次郎

鯱の門 (2025/01/26 訪問)

佐賀城は本丸が享保年間に焼け二の丸が天保年間に焼けたことで本丸が再建される。鯱の門はその時のもので天保9年完成だとか。不完全な枡形に見えるのは櫓門に正対する土塁が消滅しているからだそうだ。なるほど。

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しんちゃん

唐人駄場遺跡 (2018/01/05 訪問)

唐人駄場遺跡は土佐清水市から足摺岬に向かう途中の台地上にあります。250を超える花崗岩の巨石は古くから「唐人石」と呼ばれストーンサークルの様な物もあるようです。足摺半島の先端近くの海岸段丘には縄文時代早期から弥生時代にかけての石器や土器のかけらなどが出土し、古代の人々との生活や祭祀との関連も考えられているようです。
現地の案内板には、自然が古代の人々に与えたビルであり、物見とか城塞ではなかったかと書かれています。真偽はともかく、これらの巨石群が見る者の想像を掻き立てるのは間違いないと思います。

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todo94

北海道&東日本パスで青森の城めぐり② (2025/08/17 訪問)

田子館からの転戦です。2km程離れている最寄り駅の目時駅はIGR岩手銀河鉄道と青い森鉄道の境の駅になっています。私はレンタカーでアプローチしましたが、北海道&東日本パスはIGR岩手銀河鉄道と青い森鉄道も乗り放題になっています。国道4号で小館と大館は分断されており、個人の宅地、畑となっている小館の方が城の趣は感じられますが、大館の方に説明板は建っています。

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しんちゃん

国司館跡・紀貫之邸跡 (2018/01/05 訪問)

高知県南国市比江にある国司館跡は48代目の国司・紀貫之の邸宅跡とされています。邸宅跡の南側一帯が国衙の跡とされ、邸宅跡には「古今和歌集の庭」が隣接しています。32首の和歌を草木を眺めながら楽しむことが出来そうです。
早朝訪問なので写真が暗いです。ちょっと雰囲気が足りないですね。

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しんちゃん

戸隠神社 (2015/08/30 訪問)

戸隠神社は長野県長野市の戸隠山周辺におわします。主に5つの神社から成り、宝光社・火之御子社・中社・九頭龍社・奥社の順に参拝して行きます。
奥社には「天岩戸」の神話で知られる天手力雄命が祀られており、古くからの地主神である九頭龍大神が天手力雄命を迎え入れたという形式を取っているようです。中社には知恵の神である天八意思兼命(オモイカネのこと)が祀られ、火之御子社は天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っています。
宝光社ではオモイカネの子・天表春命(あめのうわはるのみこと)を祀っています。参考までに、奥社の創建は紀元前210年と言われますが、九頭龍社の創建はもっと古いとされています。
なんにせよ、奥社に向かっていく杉並木は荘厳な雰囲気に満ち溢れています。

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しんちゃん

城山稲荷 (2024/12/30 訪問)

ようやっと今井砦の石碑に到着。わかりにくい~
城は標高87mの尾根上に築かれ、南北約300m 東西約200mの規模を有したそうです。城山稲荷は南端に築かれ、北側に堀跡が残っています。以前訪問した山の上も城址の一部だったのであれば、無駄ではなかったのかも。
とはいえ目立った遺構は残っていないようです。あと、立ち入り禁止の管理区域があるので、周囲の散策は無理そうだ。

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しんちゃん

シロガネーゼはおらんが、シロ(城)アルーゼ  (2025/01/07 訪問)

といっても城(館)址だけどね。国立自然教育園から白銀迎賓館のあたりまでが城址とされています。
応永年間(1394~1428)に南朝に仕えていた雑色柳下上総介と云う者が居住し、白金長者と呼ばれる富豪になったとされています。寛文4年(1664)に高松藩主松平讃岐守がここを下屋敷に使用していました。明治時代には海軍の火薬庫が置かれ、土塁などの形状も変更を受けているようです。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2018/05/02 訪問)

「秀吉が 時代を拓く 山崎城(ひでよしが じだいをひらく やまざきじょう)」

実はこの城、以前に訪問しているんだけど写真が消えてしまいました。けっこうデータフォルダって壊れるんですよ。こないだも2台同時に壊れてあせりました。暑さが原因で基盤が死んだのが原因みたいで、あの手この手でデータを吸い出すことが出来ました。
ただ以前に破損したデータは戻ってこないんですね。
秀吉に関わる城なので再訪したいのですが、なかなか現状厳しい。暑くても良いので城攻めに行きたいねえ。

「天王山 勝者が築く 新時代(てんのうざん しょうしゃがきずく しんじだい)」

「太閤の 天下取りへの 飛躍の城(たいこうの てんかとりへの ひやくのしろ)」・・城名がない・・
山崎城は秀吉が大阪城へ入るまでの間、居城としていました。まさしく飛躍の城だと思います。

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dougen

2021.2.27登城 (2021/02/27 訪問)

京王線千歳烏山駅の東側にある烏山神社が烏山砦跡となります。

なお、比定地は神社の東側のウテナ本社ビル(南烏山2-31-26)付近と2か所となります。

いずれも遺構らしい遺構も無く、解説板も設置されていませんので、往時を偲ぶことも困難です。

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dougen

2021.2.20登城 (2021/02/20 訪問)

天神山城址の仙川を挟んだ向かい側にあるその名も新川・島屋敷通りという団地が島屋敷跡となります。

遺構は残っていませんが、地図で見ると仙川を水濠とした縄張りを偲ぶことができます。

また、解説板も設置されています。

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トク

【宮本武蔵】(2)島田美術館 (2025/08/26 訪問)

宮本武蔵の続き(2)です。

まず武蔵の資料が数多く残され展示されている、熊本市内にある「島田美術館」へ行ってきました(館内撮影不可)。熊本城そばの桜町バスターミナルから[U4-1]城西校北行に乗り15分、終点で降りた場所にありました(写真①④)。

武蔵は晩年を熊本で過ごします。ここには古美術研究家の故「島田真富」氏が収集した、武蔵ゆかりの品々が数多く展示保存されています。最も有名な復元された晩年の肖像画・島原の乱出陣図・13才の肖像像・枯木鳴鵙(もず)図・愛用の名刀「無銘金重」・二天記(写本)・武州伝来記(写本)、巌流島での木刀・五輪の書(レプリカ)などが展示されており、じっくりと拝見させていただきました。それを写真でお伝え出来ないのが、とても残念です。AJさんも訪れられた事があるようですね。今でも立体入場券もらえましたよ!(笑)(写真③)。

特に「枯木鳴鵙(もず)図」には、繊細で鋭い武蔵の眼力を感じました。また晩年の肖像画の復元には相当苦労されたとの説明がありました(写真②の原画)。今の我々は、あたりまえのようによく目にする絵ですが、400年も経っていたので原画はかなり傷んでいたようです。修復の様子の写真や実際の修復された原画を見ると、よくここまで修復できたなと感動し、関係者の方々の執念を感じました。

ではこれから宮本武蔵という人物の人生を追って、私もここから [武者修行] の旅を始めようと思います。十数回のシリーズになると思いますが、もし御興味ある方に読んでいただければと思います。またよろしくお願いします。

では武蔵の最大のライバルである、小次郎の伝説が残る場所からまず始めていきます。次は(岩国城)に続きます。
 

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赤い城

山口県庁 (2025/07/13 訪問)

山口県庁が城址で駐車場も利用可能です。
旧山口県庁舎は重要文化財、旧県会議事堂は県政資料館となっています。
表門は現存、枡形があり、周囲には水堀が残っています。
堀の石垣には当時のものと昭和のもの、新旧の石組みが見られます。
東側には石垣や砲台跡もあり、砲撃戦を想定した城であったとされます。
とはいえ、表向きは館でした。
しかし実際には稜堡式の八角形の縄張を持っていてどう見ても城であったと言えます。

【見どころ】
 ・現存の表門
 ・水堀
 ・東稜堡の石垣

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