たかなししやかた

高梨氏館

長野県中野市

別名 : 中野城、中野小館、中野御館、高梨城、高梨小館、日野城
旧国名 : 信濃

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甚右衛門

飯山城から転戦 (2024/05/18 訪問)

飯山城から中野陣屋経由で転戦。堀や館の遺構だけじゃなく庭園の遺構も残っていますので、建物が無くても貴重な史跡。そばに見える鴨ケ嶽城か須田城かと悩んだ末に須田城に向かいました。

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カズサン

再訪高梨氏館別名中野小館とも (2023/06/19 訪問)

 中野陣屋・中野県庁記念館を終えて、東に約400m程の所に高梨氏館が在る、平成30年4月以来5年振りに立ち寄り再訪問しました。

 駐車場は南側に整備されて駐車場が有り利用した。トイレは館内に在り。

 昭和61年から平成4年に掛けて発掘調査の上、同成果を基に復元整備された高梨氏の中世方形城館跡東西約130m、南北約100mの大きさで周囲に土塁と堀を回らす。
 南側の堀と土塁、復元太鼓橋を眺めて大手虎口より入城、大手虎口は大変珍しい土塁で、元在った築地塀を土で覆い大土塁としたと築地塀断面図看板が虎口に在る、中に入り各解説板を見るがアルミ板の表示は風雪劣化により大変見ずらい。
 内部から東方向を眺めて、山々は鴨ヶ嶽城方向かな?、土塁周囲には木々が高く茂っている、発掘整備された庭園跡、井戸跡、建物跡は地表展示されている、東虎口と左右の土塁と堀を眺めて、南西角の土塁と堀を観察し西虎口に架かる橋を見て終了。
 夏場でも安心して探訪できる高梨氏館・中野小館です。
 

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朝田 辰兵衛

中野陣屋から徒歩圏内。 (2023/05/03 訪問)

高梨氏館は公園として地元住民に親しまれているようでした。うれしい反面,撮影タイミングには苦慮しました…<苦笑>。

おぉっ,赤い城さん,転勤ですか?
お互いの年代からすると,単身赴任?
先日のにのまるさんの「松江城クイズ」で,ご出身が出雲市と伺いましたので,ほぼ中間地点という中途半端な感があります。
どっちへ行くにも遠いという…。
新天地でのご活躍をお祈り申し上げます。
今後は「石垣」にも進化をとげるのでは…と推察します。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:高梨氏館 (2023/04/21 訪問)

福島正則館から転戦。館跡南駐車場(36.743978、138.376529)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、高梨氏によって築かれたと云われています。
高梨氏は清和源氏井上氏流の後裔を称していますが、古代東北の阿部氏の出とする説もあるようです。須坂市にある高梨氏館が発祥之地とされます。
永正年間(1504年〜1521年)の高梨政盛の頃に中野氏を降して中野に入部したとみられ、この政盛によって中野小館と詰め城である鴨ヶ嶽城が築かれたとみられています。
武田信玄が北信濃に兵を向けると、高梨氏は上杉謙信と連携してこれに対応しましたが、永禄年間(1558年〜1570年)初期頃には高梨氏は飯山城に逃れていました。
1561年(永禄4年)上杉謙信が関東に出陣して小田原北条氏を攻めていたとき、高梨氏は上杉氏の居城の越後国春日山城の留守大将を務めています。
同年に謙信の帰国後、川中島で武田氏と激突した際には高梨氏は上杉勢の先陣を務めています。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺の変で倒れると上杉景勝は川中島一帯を所領としました。
このとき高梨頼親は安源寺周辺の2,000千貫の地を安堵され、再び中野小館に帰ることができました。
1598年(慶長3年)上杉景勝が会津へ転封となると高梨氏もまた会津へ移り廃城となりました。

高梨氏館(中野小館)は鴨ヶ嶽城を詰め城とした方形単郭の居館です。周囲は土塁と空堀が巡っています。
現在は高梨館跡公園として整備されており、発掘調査で検出された門跡一棟、礎石建物跡五棟、掘立柱建物跡七棟、枯山水の庭園跡などが確認され展示されています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=中野陣屋に向かいました。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 高梨政盛
築城年 室町時代
主な城主 高梨氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 国史跡(高梨氏館跡)
再建造物 碑、説明板
住所 長野県中野市小舘1069-1
問い合わせ先 中野市生涯学習課文化財係
問い合わせ先電話番号 0269-38-3112