五反田川沿いの丘陵の中腹に真田兄弟の墓と、共に奮戦し討死した武田方の将士の墓があります。いろはかるたによると、ここは三子山というらしい。真田兄弟の二人は真田幸綱の長子・真田源太左衛門尉信綱と次男・真田兵部丞昌輝であの真田昌幸の兄にあたります。
設楽ヶ原の戦いでは馬場美濃守信春が最右翼に陣し、真田兄弟はその左側に陣していたようです。丸山激戦地では丸山と言う小高い丘を巡って佐久間信盛の部隊と馬場・真田の軍勢が激しい戦いを繰り広げたようです。
真田兄弟の墓の両脇に「設楽原を守る会」によって再建された鎌原筑前守之綱・常田図書春清・祢津甚平是広の墓が有ります。いずれも合戦で討死した将士で真田一族となんらかのゆかりがあると思うのですが詳細は不明です。AI先生に聞くといずれも真田氏に使える一族で関わりも深かったようです。たまに便利だわ・・AI先生。
丸山激戦地を西手に行って連吾川を越え、道沿いに南に下ると高森恵光寺快川の墓が有ります。甲州の恵林寺や信長の史料に設楽原で討死と記載のある人物で主従ともすべて討死したとされています。一説には初めの布陣は鳶ヶ巣山砦ともされています。
案内板には謎の武将とされていますが、武田家14代信重にルーツが有る家系で武田氏の一党にあたるようです。
県道21号線から雁峰山登り口を南に程なく行った新東近くの道沿いに米倉丹後守正継(重継)の墓が有ります。案内板によると武田方の智将で鉄砲の前面に「竹束を置く」のも米倉のアイデアだそうです。武川衆のリーダーで甘利信康の後見役も務めていたとのこと。合戦では連吾川上流部で馬防柵を破り半町ほど西の織田軍陣中で討死したそうです。
「くふう」と書くと「こう・ふ」と勘違いされてエラーがでます。なんなんじゃ、こっちのAIはダメダメじゃ
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