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しんちゃん

今川氏の城で石垣を残す珍しい城。 (2024/06/29 訪問)

奥池ケ谷城は今川氏の城と考えられていますが、詳細ははっきりしません。14世紀に築かれたとする説もありますが、今川氏関連の城では珍しい石垣(石積)が残されていることから、戦国時代にも使用されていたと思われます。
静岡の城の中でもかなりの山奥にある城で、石上城から移動してきたのですが、天候が優れず、警報が出ていて県道が封鎖されていて、たどり着くのに難儀しました。山道でなく国道を使うべきだったのですが、時間の都合でショートカットしようとしたのですね。
県道でいい所まで来れるので、そこからの比高は90mほどです。
登り始めほどなくすると浅い堀切があり、石積を備えた東側の郭に到達します。そこから主郭を目指して西に向かって登っていくと幾段の郭や浅い堀切を経て主郭に到達しました(たしか)。
西側にも城域が広がり、破城の跡らしき痕跡と崩れた石積が有りました。なんとなく謎の多い城です。

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しんちゃん

ハイキングコース (2024/09/29 訪問)

曽根城は標高180m、比高180mの位置にある山城です。賀田湾に面した位置にあり、主郭の周辺の展望所からは湾を一望することが出来ます。案内板には、かつてこの地を治めた曽根弾正によって築かれたとされ弘治年間(1555~1558)近江国の佐々木字右衛門正吉は曽根に来て曽根弾正と号し、近郷八ヶ村を統治したとされています。
山上への道は比較的緩やかで、ハイキングコースになっているようです。山上の尾根に取りつくと東に城域が広がり、緩い堀切の先に橋のかかった深い外堀があります。その先には大きな石がゴロゴロしており、主郭を経由した先に北側から西に迂回するルートが有り、途中に展望台や鯨石があったと思います。

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しんちゃん

テスター持参が推奨(なんて城だ) (2024/09/28 訪問)

阪内城は阪内川の上流、標高300m比高140mの山頂に築かれています。北畠一門坂内氏の城とされ「坂内御所」と称していたとされ、城山の西麓に「御所」の地名が残り、幼稚園のある場所が平時の居館であったとされています。
この城は2回目なので「城びと」の投稿は読ますに来ています。ゲートの先に電気柵の様な物がありますね。いい感じはしませんが、ストックでツンツンしても電流は流れていない様子。とりあえずストックでひょいっと広げてくぐって入ります。北上して行くと右手に城域に入る道があるのでここから侵攻。入ってすぐの所に扁平地があり、さらに登って行くと南に見張の郭のような場所が有り、北に主郭への道が続きます。主郭の周辺は岩盤らしきものがむき出しになっていて、なんともいかつい。なんとなく加工痕のようなものも見られます。
この上が主郭。‥そうそう、いつも電流が切れている保証はないのでテスターを持ってくるといいですよ(笑)。

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ぴーかる

本證寺 (2024/09/23 訪問)

【本證寺】
<駐車場他>駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>本殿・堀
<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅4城目。現地説明板によると本證寺は鎌倉時代後期の創建とされ、室町時代には岡崎市の上宮寺・勝鬘寺とともに三河三か寺と呼ばれる浄土真宗本願寺派の有力寺院になっていました。1563年に松平家康の家臣が守護不入権を犯したことが発端となり三河一向一揆が起こりました。一揆は翌年に終結しお坊さん達は家康領から追放されます。1585年に本證寺は赦免され江戸時代に本證寺が再興されます。
 境内に残る多くの建造物が江戸時代の建立で境内が国史跡に指定されています。特に本堂の大きさと立派さは見応えがあり、本堂内の天女の欄間には見惚れます。当時は外堀と内堀があり位置は戦国時代のままだそうですが、形状は江戸時代に伽藍形式に合う幅広の形式に改変したようです。外堀は現在は埋めたてられています。
 戦国時代の城郭寺院としての遺構はあまり見られなかったが、江戸時代初期・中期に建立された建造物や水堀は史跡としての見応えがありました。本證寺城の御城印2種類が庫裏玄関にて販売されていますので購入しました。また安城市歴史博物館には本證寺の鬼瓦や出土品の展示物が多くあります。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

鹿に遭遇。 (2024/09/28 訪問)

大河内城は阪内川に矢津川が合流する丘陵上に築かれています。「伊勢国司記略」には伊勢国の国司・北畠満雅が北朝方の足利軍との戦いに備え、弟の顕雅をこの城に籠らせて以降、その子孫は代々この城を拠点とし、大河内御所を称したとされます。
永禄12年(1569)に織田信長が侵攻して来た際に、伊勢国司北畠具教はこの城を拠点として立て籠り対峙し、信長の次男・信雄を養子に迎え家督を譲ることで和睦しました。
城址は比高40mほどの平山城で大手は北に付きますが、南の搦手から入ります。二の丸の背後を迂回し馬場を経由して直接本丸に取りつきました。ちょっと行儀が悪かったかもしれません。本丸の背後(西側)には堀切を隔てて西の丸が有ります。個人的には西の丸の方が雰囲気が有って好きです。途中で鹿に遭遇しましたが、速攻で逃げられました。う~ん、鹿肉が食べたくなってきたな‥。

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しんちゃん

石塁と隅櫓台 (2024/10/13 訪問)

金森宗貞邸は金龍寺の境内に築かれていたとされています。金森宗貞は茂住、和佐保銀山の開祖とされる人物です。元々は越前の商人で糸屋彦次郎宗貞といいましたが金森長近に抜擢され、その功績から「金森」の姓を賜ったとのことです。
屋敷跡の西側は高原川に面する断崖になっており、四方には高さ3mほどの石塁を配し、上に高塀をかけ隅部に櫓が建てられていたようです。
また国道41号の改修に際し、北東側の石塁に変更が加えられたとのことです。

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朝田 辰兵衛

赤い城さんへ~正解して安堵です…~ (2024/10/12 訪問)

赤い城さんの激ムズクイズに正解できて安堵しました…<笑>。とても良い問題だったと思います。
まだ確定はしていないですが,来年の計画に「鯉城」を組み入れようかな…?
そうそう,檜原城はすでに攻城済。浄福寺城は来月の予定に組み入れてます。雨男なので,晴れることを願ってます。

さて,豊島氏館ですが,王寺駅からアクセスされる方が多数なんですね。私は,赤い城さんと同様に,王子神谷駅からとしました。
というのも,竹芝港で予約と下見を済ませ,ホテルにチェックインしてからの移動です。宮城氏館とセットということを考えると,どちらかは日没後となりそうな予感がしました…。最近,めっきり早く日が落ちるようになってきたので…。
『豊島氏館は「寺」で,閉門しそう。宮城氏館は「神社」なので,終日開放だろう…』という予想から,豊島氏館を先回りするための判断です。神社仏閣城の多い東京都でカラダに染み付いた経験値です。
結局,この判断は見事にハマりました✌

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しんちゃん

三木氏の冬の城。かつては飛騨一国を手中に収めるも。 (2024/10/12 訪問)

桜洞城は三木大和守直頼か、その祖父である久頼による築城と伝わります。とある煩悩の登城目録さんの投稿にもある通り、冬の寒さを避けて住むための「冬城」とも呼ばれたそうです。
桜谷公園の駐車場から橋を渡って、右手(西)の石段を登った先の丘陵が城址なのですが、この石段、なかなか急です。初見では「ほんとにこの階段?」といったのが正直な感想です。
階段を登った平地一帯(畑地)が城址で、標柱のある林の中の堀切や石積は外側の守りだと思われます。
戦国時代、三木自綱(姉小路頼綱)はこの地域では最大の勢力を誇り、上杉謙信の死後は本格的に織田信長に従い、同盟を強めたとのことです。頼綱は長男・信綱や弟・鍋山顕綱に謀反の嫌疑をかけ殺害し、天正11年(1583)ごろには飛騨一国を手中に収めるほどに勢力を伸ばしましたが、織田信長の死後に起こった羽柴秀吉と柴田勝家・織田信孝との戦いでは柴田側の佐々成政に味方し、秀吉方の金森長近に攻撃を受けます。息子の秀綱は松倉城落城の際、落ち武者狩りに会い殺害され、頼綱は隠居城の高堂城を攻められ朝廷からの勧めもあり降伏したとのことです。

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しんちゃん

三木氏の山城 (2024/10/12 訪問)

宮地城は応永年間(1394~1427)に京極氏の代官・三木正頼の城であったと伝わり、戦国期にも三木氏が滅亡するまで三木氏の城であったようです。宮地神社の裏にある山の頂部に築かれ、尾根沿いに道が続いています。比高は130mほどですが、傾斜は緩やかで楽に登ることが出来ます。外堀に続いて郭があり、内堀を経て山頂部の主郭に到着します。
主郭には御嶽神社が祭られ、堀切と郭以外には目立った遺構は無いようです。

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カズサン

【美濃 太閤山砦】岐阜県羽島市 南美濃未踏の城探訪2/7太閤山砦 (2024/10/14 訪問)

 竹ヶ鼻城跡、羽島市歴史民俗資料館を終えて北西に約1.4km程の所に在る、秀吉の小牧長久手戦、竹ヶ鼻城水攻めの本陣跡/見張場と言われてる太閤山砦を訪ねる。

 住所:岐阜県羽島市福寿町間島2丁目91(城郭放浪記の指示ポイント)
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップに依る。
 駐車場:無し、道幅で通行量の少ないグーグルマップ太閤山砦跡史跡マークの前に一時路駐(35°20'03"N 136°41'37"E h=0m)

 グーグルマップの史跡マーク「太閤山砦跡」には案内板「間島太閤山跡」と石碑「史蹟 間島太閤山跡」が並んで立っている。
 そこより北に進み八幡神社の鳥居を潜り参道が北へ小山には一段上がって拝殿、更に一段上がって本殿と八幡神社が鎮座してる、参拝して周囲を見学確認、拝殿西側に黒御影石の石碑、表には間島太閤山と刻まれて裏面には史蹟の由来が刻まれる。

 歴史は案内板によると、天正12年(1584年)5月、秀吉の小牧長久手戦時、竹ヶ鼻城水攻めで本陣/見張場跡で幅は40m四方、高さ6m程あったが現在は取り壊され畑に成っている。
 太閤の一夜堤は確認して居ませんが、羽島市歴史民俗資料館HPの竹ヶ鼻城のページによると、太閤山砦(間島太閤山)から西へ半円を描いて、松山、本郷、各村を廻って南は江吉良で逆川堤に接続する、長さ約2.6kmの長堤、高さ6~7間(10.8~12.6m)、幅は14~15間(25.2~27m)で竹ヶ鼻城を囲んでいた。
 城主の不破源六は信雄、家康の救援使者を送るも援軍が現れず天正12年6月10日秀吉の申し出を受諾し無血開城と成り、城主不破源六は伊勢長島の信雄の城へ撤退した。

 丁度時期的には稲穂が黄金色に実り、稲刈りの時期でした。
 

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イタさん

伊予殿根(宅間上杉城館跡)横浜市港南区 (2024/10/17 訪問)

 横浜市港南区のHPに拠れば、山内・犬懸・扇谷・宅間の四上杉氏の中で、宅間上杉氏が永谷に根拠地をおくようになり、宅間氏の子孫である上杉乗国が永谷の地に城を築いたとされています。城がどこであったかは正確には分かりません。しかし、永野小学絞のあたりに伊予殿根(いよとのね)という地名が残り、乗国の子の憲方が伊予と呼ばれていたようで、伊予の殿様の屋敷か館があった所ではないかと言われています。
 永谷天満宮・貞昌院の辺りには環濠の跡があリ、背後の丘陵には人工的に削平したと思われる跡もありました。そのため、付近一帯は宅間上杉氏に関わる武将が築いた城跡ではないかと考えられています。戦国時代には宅間上林氏は小田原北条氏に仕え、北条氏が没落した後は徳川家康の旗本として保土ケ谷に移るようになりました・・・。と載っている。

永野小学校の向かいが高く上永谷緑地になっており、台地端らしく高低差は感じられる。緑地は広場になり、端に東屋が建つ。南端の先は急斜面で竹藪などになる。広場周囲は、竹藪など以外民家が迫っている。城館跡はここで合っているか心配なまま訪問終了。

直線で南東に300メートルの場所に永谷天満宮がある。ここは菅原道真公の自作の神像3体のうち、1体を祀る。上杉乗国が明応2年(1493)に社殿を造営し、御神体を安置したと載る。鳥居前に水路・池?があり、これが環濠の跡かな?。行かなかったが、社殿の右か山頂部へ行けそうで、注連縄は張ってあるが。斜面などは上杉城館跡より、よほど城跡らしく見える。社殿まえからは城館跡が眺められる。

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城② (2024/10/12 訪問)

JR乗り放題なのに来た道を戻るのが嫌で近鉄線を利用してアプローチしました。咋岡神社がその故地になります。城址碑の向かいの標柱はフィルムがはがれかかっていて、咋岡神社の説明板の文字も半ば消えかかっていました。かすかな土塁と濠跡だという用水路が残りますが、山城国一揆の故地だと思うとありがたみがじわじわとわいてきました。

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赤い城

暗渠

朝田さん正解、広島城です。

城南通りの地下道に暗渠の跡が展示されています。
立ち止まる人は少ないですが・・・。

天守のある城は建物や石垣で満腹になりそうですが周囲を歩くと意外なところに遺構ありますよね。
なかなか全部は見切れないですが。

東京は来年とのこと、桧原城や浄福寺城は遺構も良好なので冬がおすすめです!

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:願証寺 (2024/09/25 訪問)

長島城から徒歩10分くらいで、願證寺前(35.091536、136.705152)に着きました。

願証寺の創建は1501年(文亀元年)蓮淳(蓮如の6男)によって開かれたのが始まりのようです。
当地方の一向宗の最大の拠点として寺運も隆盛し、寺領は100,000石以上とも言われ周辺領主からは半独立状態だったようです。

1570年(元亀元年)織田信長の一向宗弾圧を発端に多くの門徒だけでなく周辺の豪族や信長によって稲葉城(岐阜城)を追われた斎藤龍興なども呼応し大一揆が発生しました。
周辺は複雑な水路が廻る天然の水城で、周囲には大小様々な砦や出城があった為、織田信興や滝川一益が敗れるなど織田軍は攻めあぐねていました。
1571年(元亀2年)織田軍5万の軍勢が3方に分かれて長島に侵攻するものの大きな戦果を挙げず退却、退き様に一揆勢に襲撃され被害を出しています。
1573年(天正元年)信長は2度目の大攻勢をかけ周辺の砦などを落として侵攻したものの、またしても責めあぐね、前回同様に引き際に襲撃され大きな被害を出しています。
1574年(天正2年)信長は3度目の大攻勢ではほぼ全軍の7万とも8万とも云われる大軍を長島に集結させ、九鬼水軍での海上閉鎖や大鳥居城や篠橋城の兵糧攻め、屋長島城や中江城の火攻め、降伏者の惨殺など凄惨な戦を繰り広げ、長島一揆勢を一掃しています。
寺は大破していましたが、1583年(天正11年)に村井新町に再興され1634年(寛永11年)には通寺として祐泉寺が創建、承応年間(1652~1654年)に誓来寺に1876年(明治9年)に願証寺に寺号を改称しています。

寺跡は明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んだそうです。
現在は石碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=浜田城へ行く為、電車で近鉄長島駅から近鉄四日市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:長島城 (2024/09/25 訪問)

近鉄長島駅から徒歩10分ちょうとで、蓮生寺大手門前(35.093779、136.701124)に着き、その後、長島中部小学校説明板前(35.092373、136.698899)に向かいました。

長島城の起源は、1245年(寛元3年)に藤原道家が館を築いたことにさかのぼるそうです。
その後、1482年(文明14年)北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。
1570年(元亀元年)一向宗・願証寺の住職・証意(蓮淳の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりました。
その後、織田信長によって攻略されたのちは、滝川一益の居城となりました。
「賤ヶ岳の戦い」後、織田信雄の居城となりますが、1586年(天正13年)の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移っています。
江戸時代に入ると、菅沼氏が20,000石で当地に封じられ、長島城を改修し藩庁として用いました。1621年(元和7年)菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となります。
1649年(慶安2年)久松松平家の松平康尚が那須藩より10,000石をもって入り、長島藩が再興されます。
1702年(元禄15年)には、4代将軍家綱の生母の弟増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より20,000石で移され、以後8代続き明治維新に至ります。この間に城郭は順次拡大されたが、天守は築かれませんでした。
1872年(明治5年)廃藩置県と共に廃城となりました。

蓮生寺の大手門、長島中部小学校で説明板を確認しました。
深行寺にある奥書院については、時間の都合で見学を諦めました。
攻城時間は移動も含め15分くらいでした。次の攻城先=願証寺には、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:茂福城 (2024/09/25 訪問)

近鉄富田駅より徒歩15分弱で、城址跡前(35.000381、136.643305)に着きました。

茂福城は越前朝倉氏のもとにいた平貞冬が築城した城です。貞冬は築城当初は朝倉氏を名乗り、のちに地名から茂福氏を名乗っています。
茂福氏は1560年(永禄3年)に羽津城の田原氏と争い、神戸氏の援軍もあり勝利しています。

近鉄沿いに城址があり、案内板や城址碑が立っていました。
電車が頻繁に通るのでタイミングを合わせ、城跡と一緒に電車を撮影しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長島城へ行く為、電車で近鉄富田駅から近鉄長島駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:萱生城 (2024/09/25 訪問)

暁学園前駅から徒歩10分くらいで、暁高校外来者駐車場付近(35.033059、136.602010)に着きました。

1571年(元亀2年)に始まった伊勢長島一向一揆の鎮圧に先立って、1568年(永禄11年)に織田信長軍本隊の先鋒隊として派遣された羽柴秀吉・瀧川左近の連合軍により萱生城は攻撃を受けました。
当時の城主は、北勢三家衆の勢力頭として、近隣の大矢知経頼、伊坂(現伊坂ダム付近)の春日部太郎右衛門などの土豪を従えて活躍していた春日部俊家であったそうです。
織田連合軍は中村地内(学園向いの丘陵)に陣を布き、対峙し5年間も奮戦しましたが、1573年(天正元年)の総攻撃により、炎上落城しました。
その際、女人衆が身を投じた井戸が「髪のびの井戸」だそうです。

萱生城は現在、暁学園暁高校、暁中学校敷地となっています。
通学時間帯で生徒の皆さんが色んなルートで通学されていました。
高校北側の少し高くなった所に「髪(け)のびの井戸」が残り、「萱生城殉難者供養碑」等の石碑、説明板が建てられています。
ちなみに、三岐鉄道三岐線はICカードは使えません。キップ購入が必要です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=茂福城へ行く為、電車で暁学園前駅から近鉄富田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:菰野城 (2024/09/25 訪問)

ホテルでの朝食前に菰野城を攻城しました。
中菰野駅より徒歩5分くらいで、案内板/石碑前(35.011522、136.508920)に着きました。その後、隅櫓跡案内板前(35.011678、136.508028)➡菰野藩邸案内板前(35.012908、136.508687)の順番で巡りました。

1601年(慶長6年)ひしがた丹波守雄氏によって築かれました。それ以前は滝川一益時代の代官所跡であったそうです。
ひしがた雄氏は織田信長・信雄に仕えた雄久の長男で豊臣秀吉に仕えて3,000石の所領がありましたが、秀吉没後のに徳川家康と本多正信が画策した「幻の家康暗殺事件」の容疑者として父雄久に連座して改易となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦直前に罪を許された雄氏は、徳川家康の命で加賀の前田利家の説得にあたりその功で菰野12,000石を与えられ大名に列したそうです。

初代雄氏の時代の菰野陣屋は滝川一益時代の代官所跡を修築した程度で、雄氏は主に京の屋敷に住んでいましたが、織田信雄の娘八重姫を正室に迎えるにあたって「堀もないような城の主には娘をやれない」といわれ二日間昼夜兼行で堀を設けてたという逸話が残っているそうです。
陣屋の建物と城下町は二代雄高の時に整備されました。また幕末の1868年(明治元年)には堀と二重の隅櫓を整備しました。

菰野陣屋跡には現在、菰野小学校が建っており、小学校の南側道路脇に案内板と石碑が建っています。
遺構はほとんど残っていないようです。
城門が金蔵寺と光徳寺に移築され現存しているようですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=萱生城へ行く前に、一旦ホテルに戻り朝食を食べる為、電車で中菰野駅から近鉄四日市駅に向かいました。

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歴史案内活動のご案内【10月20日(日)10:00~12:30】 (2024/10/20 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

躑躅ヶ崎館跡こと武田氏館跡にみそなわす武田神社では
そろそろ来月の七五三を控えて親子連れの参拝客が訪れるようになります。
神符授与所では千歳飴が並び、晴れ着姿の子供たちがおもちゃや飴を手にして境内を歩くのは
見ていると微笑ましい光景です。
ところが、甲冑姿に面頬で目元まで覆うEこと上田は
子供ばかりか大人にも泣かれ逃げられ怖がられるナマハゲ的存在。
それでも近づいてくれる子供たちも少しはいるのを嬉しく思ってます。
そんな10月、武田神社では当隊による歴史案内活動を行います。

日時:10月20日(日)10:00頃~12:30頃
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門

❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは原則無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天延期の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。

今回のガイドは局長・大塚與左衛門が行います。
皆さんのご来訪も楽しみにしています。
(E)

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シャンシャン

夕暮れの米子城 (2024/10/11 訪問)

月山富田城とともに山陰を代表する山城である米子城。
麓にある桝形虎口をはじめ、山頂にある天守台・四重櫓台など見どころいっぱい!
天守台から見る夕暮れ時の大山や中海は絶景の一言!

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