虎居城は薩摩郡さつま町にある、島津四兄弟の三男「島津歳久」の居城で、別名(宮之城)とも呼ばれています。
出水(いずみ)駅前から鹿児島空港行の南国交通バスに乗り40分、「宮之城駅(鉄道記念館前)」で下車しました(写真⑨)。ここには昭和60年まで国鉄宮之城駅があったそうでうす。そこから川内川(せんだいかわ)の川沿いを30分程歩いた、虎居城を眺める場所にある「宮之城歴史資料センター」に立ち寄りました(写真①②③)。ここでは、虎居城の模型や宮之城島津家の歴史などが、詳しく解説されています(写真④⑧)。また井伊直政が島津義久に宛てた、「早く上洛し家康殿に謁見するように」と催促した手紙など、貴重な資料も保存されており見る事ができました。
虎居城は蛇行する川内川が三方を囲んで、まるで島のようになっています(写真⑤)。この城はいったいどこから攻めたらいいのだろう🤔? 落とすのは相当難しいと感じました。歴史資料センターからさらに10分程歩いた「のびのび公園」からは全体が一望でき、新たに赤い橋が架かっていたので、渡れるかと思いましたが、まだ工事中で渡れないようです(令和9年3月頃から渡れるようになるそうです)。宮之城中学校側からも渡れないので、虎居城へは結局今は入る事はできません。よって川の対岸の公園から眺める事しかできず、橋が開通したら再度リベンジに来ようと思いました(写真⑥⑦)。
薩摩は島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)が固い絆で守っていました。しかし、九州の東から南下する豊臣秀長を、義久・義弘・家久の三人で、根白坂で迎え撃つも大敗してしまいます。この時、歳久は病のため根白坂には行けず、代わりに九州の西から南下する豊臣秀吉を、自分の居城である虎居城で迎え撃つ準備をしていました。しかしここで、根白坂で兄弟たちが大敗したとの報が届きます。
敗戦から20日後、川内の泰平寺に滞在していた秀吉に、義久は剃髪して訪れ、降伏を申し入れました(写真⑩)。佐土原城に籠るも藤堂高虎に囲まれていた家久も降伏し、これに続きます。飯野城に籠った義弘は徹底抗戦を唱えますが、義久に説得されその3日後に降伏します。最後に残ったのが歳久です。養嗣子の忠隣を根白坂で失ったせいもあり、秀吉を恨む歳久は、絶対に降伏するつもりはありません。
ならば秀吉は川内から大坂へ戻る途中に虎居城に立ち寄り、自らの大軍を見せつけ降伏の機会を与えようとします。しかし歳久は降伏どころか、乗っていた秀吉の籠めがけて何と矢を射かけ、暗殺しようとしました。矢はすべて籠に当たったようですが、秀吉は事前に察知し籠を乗り換えていたため無事で、暗殺は失敗に終わったようです。それでも秀吉は歳久を許し大坂へ戻りました。
しかし5年後の1592年、島津歳久の家臣「梅北国兼」が、肥後加藤領の佐敷城にて、朝鮮(文禄の役)へ出兵しようとしていた島津義弘の船団を襲って出兵を妨害するという事件が発生し、島津軍は朝鮮に遅参するという大失態を演じてしまいます。これに秀吉は大激怒! 裏で糸を引くのは歳久と決めつけ、当主義久に弟の歳久を討つよう命じます。実は国兼の背後には別の黒幕(伊集院忠棟)がいたようですが、歳久は弁明せず、兄義久の家臣に素直に討たれ亡くなりました。
歳久は自分のせいで島津家が危ない事を察知していたのですね。泣く泣く弟を殺した義久の気持ちは、いかばかりだったのでしょうか?
さらにその8年後の1600年、関ケ原の戦いで家康の首を狙うも失敗し、命からがら薩摩へ戻ってきた弟の義弘を、義久は命をかけて家康から守ろうとします。これは同じく弟だった歳久を秀吉から守れなかった兄としてのくやしさが、そうさせたのではないでしょうか?
話がまた兄弟話に脱線して長くなってしまい、申し訳ありませんでした。次からは、豊臣秀長が九州平定を終えてから亡くなるまでの、(最後の3年間)をたどって行こうと思います。次は大坂城に続きます。
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