虎居城は川内川にヘアピン状に突き出ている丘陵上に築かれていました。宮之城中学校(高校?)も東ノ城とされる城址の一端で、先にオキタ城・シヲノ城・中ノ城と郭が続き、丘陵上に松社城とされる広い郭が有ったようです。本来は宮之城中学校の脇から続く道を通って松社城まで行けるはずですが、ゲートに鍵がかかっているので先に進めません。さつま町の文化財課に話を聞くと、国土交通省の管轄で城址公園化が進められているので、立ち入ることが出来ないとのことです。
花房山城や瀬平ノ城のような完全な「不発弾」ではありませんが、公園が完成するまで「不発弾」として扱わせていただきます。正直、いつになるか解らないけど、公園が完成したら訪問したいですね。とりあえず、東ノ城までに留めておきます。
虎居城は渋谷氏の城でしたが、1566年 城主渋谷良重が祝宴で妻の杓で寄っている時に、妻の懐剣で殺され渋谷氏は滅んだとされています。後の城主・島津歳久は豊臣秀吉の薩摩侵攻の際、家中一同が和睦に傾いた際に、兄弟で唯一抗戦を訴えました。
移動中の秀吉を悪路に誘い込み、家臣の本田四郎左衛門に秀吉の駕籠に矢を射かけさせますが、襲撃を予測していた秀吉は駕籠を空にしていたため難を逃れたそうです。後に秀吉の圧力から、やむをえず兄・島津義久は歳久に対し追討の兵を出し、歳久は中風の後遺症で腹を切ることもままならなかった為、石を懐刀と見立て、家臣・原田甚次に首を取らせたとされています。
鹿児島市吉野町の平松神社には島津歳久公と殉死者27名の墓石があります。虎居城が立入禁止とわかっていたら、ここに寄ってお参りをして来たのですが、少し残念です。
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