とらいじょう

虎居城

鹿児島県薩摩郡

別名 : 下之城、宮之城
旧国名 : 薩摩

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①	虎居城(川内川遊歩道より)
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トク

25【秀吉の九州平定をたどる⑥】島津歳久(豊臣秀吉暗殺未遂事件) (2026/07/16 訪問)

虎居城は薩摩郡さつま町にある、島津四兄弟の三男「島津歳久」の居城で、別名(宮之城)とも呼ばれています。

出水(いずみ)駅前から鹿児島空港行の南国交通バスに乗り40分、「宮之城駅(鉄道記念館前)」で下車しました(写真⑨)。ここには昭和60年まで国鉄宮之城駅があったそうでうす。そこから川内川(せんだいかわ)の川沿いを30分程歩いた、虎居城を眺める場所にある「宮之城歴史資料センター」に立ち寄りました(写真①②③)。ここでは、虎居城の模型や宮之城島津家の歴史などが、詳しく解説されています(写真④⑧)。また井伊直政が島津義久に宛てた、「早く上洛し家康殿に謁見するように」と催促した手紙など、貴重な資料も保存されており見る事ができました。

虎居城は蛇行する川内川が三方を囲んで、まるで島のようになっています(写真⑤)。この城はいったいどこから攻めたらいいのだろう🤔? 落とすのは相当難しいと感じました。歴史資料センターからさらに10分程歩いた「のびのび公園」からは全体が一望でき、新たに赤い橋が架かっていたので、渡れるかと思いましたが、まだ工事中で渡れないようです(令和9年3月頃から渡れるようになるそうです)。宮之城中学校側からも渡れないので、虎居城へは結局今は入る事はできません。よって川の対岸の公園から眺める事しかできず、橋が開通したら再度リベンジに来ようと思いました(写真⑥⑦)。

薩摩は島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)が固い絆で守っていました。しかし、九州の東から南下する豊臣秀長を、義久・義弘・家久の三人で、根白坂で迎え撃つも大敗してしまいます。この時、歳久は病のため根白坂には行けず、代わりに九州の西から南下する豊臣秀吉を、自分の居城である虎居城で迎え撃つ準備をしていました。しかしここで、根白坂で兄弟たちが大敗したとの報が届きます。

敗戦から20日後、川内の泰平寺に滞在していた秀吉に、義久は剃髪して訪れ、降伏を申し入れました(写真⑩)。佐土原城に籠るも藤堂高虎に囲まれていた家久も降伏し、これに続きます。飯野城に籠った義弘は徹底抗戦を唱えますが、義久に説得されその3日後に降伏します。最後に残ったのが歳久です。養嗣子の忠隣を根白坂で失ったせいもあり、秀吉を恨む歳久は、絶対に降伏するつもりはありません。

ならば秀吉は川内から大坂へ戻る途中に虎居城に立ち寄り、自らの大軍を見せつけ降伏の機会を与えようとします。しかし歳久は降伏どころか、乗っていた秀吉の籠めがけて何と矢を射かけ、暗殺しようとしました。矢はすべて籠に当たったようですが、秀吉は事前に察知し籠を乗り換えていたため無事で、暗殺は失敗に終わったようです。それでも秀吉は歳久を許し大坂へ戻りました。

しかし5年後の1592年、島津歳久の家臣「梅北国兼」が、肥後加藤領の佐敷城にて、朝鮮(文禄の役)へ出兵しようとしていた島津義弘の船団を襲って出兵を妨害するという事件が発生し、島津軍は朝鮮に遅参するという大失態を演じてしまいます。これに秀吉は大激怒! 裏で糸を引くのは歳久と決めつけ、当主義久に弟の歳久を討つよう命じます。実は国兼の背後には別の黒幕(伊集院忠棟)がいたようですが、歳久は弁明せず、兄義久の家臣に素直に討たれ亡くなりました。

歳久は自分のせいで島津家が危ない事を察知していたのですね。泣く泣く弟を殺した義久の気持ちは、いかばかりだったのでしょうか?

さらにその8年後の1600年、関ケ原の戦いで家康の首を狙うも失敗し、命からがら薩摩へ戻ってきた弟の義弘を、義久は命をかけて家康から守ろうとします。これは同じく弟だった歳久を秀吉から守れなかった兄としてのくやしさが、そうさせたのではないでしょうか?

話がまた兄弟話に脱線して長くなってしまい、申し訳ありませんでした。次からは、豊臣秀長が九州平定を終えてから亡くなるまでの、(最後の3年間)をたどって行こうと思います。次は大坂城に続きます。
 

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しんちゃん

島津歳久公最後の居城 (2025/05/09 訪問)

虎居城は川内川にヘアピン状に突き出ている丘陵上に築かれていました。宮之城中学校(高校?)も東ノ城とされる城址の一端で、先にオキタ城・シヲノ城・中ノ城と郭が続き、丘陵上に松社城とされる広い郭が有ったようです。本来は宮之城中学校の脇から続く道を通って松社城まで行けるはずですが、ゲートに鍵がかかっているので先に進めません。さつま町の文化財課に話を聞くと、国土交通省の管轄で城址公園化が進められているので、立ち入ることが出来ないとのことです。
花房山城や瀬平ノ城のような完全な「不発弾」ではありませんが、公園が完成するまで「不発弾」として扱わせていただきます。正直、いつになるか解らないけど、公園が完成したら訪問したいですね。とりあえず、東ノ城までに留めておきます。

虎居城は渋谷氏の城でしたが、1566年 城主渋谷良重が祝宴で妻の杓で寄っている時に、妻の懐剣で殺され渋谷氏は滅んだとされています。後の城主・島津歳久は豊臣秀吉の薩摩侵攻の際、家中一同が和睦に傾いた際に、兄弟で唯一抗戦を訴えました。
移動中の秀吉を悪路に誘い込み、家臣の本田四郎左衛門に秀吉の駕籠に矢を射かけさせますが、襲撃を予測していた秀吉は駕籠を空にしていたため難を逃れたそうです。後に秀吉の圧力から、やむをえず兄・島津義久は歳久に対し追討の兵を出し、歳久は中風の後遺症で腹を切ることもままならなかった為、石を懐刀と見立て、家臣・原田甚次に首を取らせたとされています。

鹿児島市吉野町の平松神社には島津歳久公と殉死者27名の墓石があります。虎居城が立入禁止とわかっていたら、ここに寄ってお参りをして来たのですが、少し残念です。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 大前氏
築城年 平安時代後期
主な城主 大前氏、祁答院氏、宮之城島津氏、北氏
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪[松社城・中の城・塩の城・東の城・おきたの城]、土塁
再建造物 碑
住所 鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城屋地城之口
問い合わせ先 さつま町役場
問い合わせ先電話番号 0996-53-1111