(「臼杵城②」からの続きです)
臼杵城での戦いが終わった直後、大友宗麟は心労のため病に倒れ、津久見にある館で過ごします。そして翌年1588(天正15)年、島津義久が根白坂で豊臣秀長に致命的な敗北を喫し、その後に出家して秀吉に降伏したとの知らせを聞くと安堵し、「これで豊後と大友家(子の義統)は安泰であろう」と悟り静かにこの世を去りました(享年58)。
当初は、キリスト教式の墓(写真①)に葬られましたが、秀吉によりバテレン追放令が発せられると、義統は仏式に改葬します(写真②)。しかしその後荒廃してしまったとの事です。寛政年間(1800年頃)に、家臣の末裔の臼杵城豊が墓碑を新調しました。現在の墓碑は、昭和52年に、地元の有志によりキリスト教式の墓碑に再び改葬されたものです。その館や墓碑のあった場所は、現在大友公園となって整備されていました(写真③④⑤)。
大友宗麟は、一時は六か国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後)を治めた九州最大の大名でした。戦国大名として名を馳せた宗麟ですが、実は自分は幼い頃に跡目相続に巻き込まれ、当主となるために、父・母・弟を殺した事を最後まで後悔していました(二階崩れの変)。よって、本心では戦は好まず、フランシスコ・ザビエルと出会ってからは誰よりもキリスト教を愛し、キリシタンだけが暮らす戦のない平和な理想郷(ムジカ=MUSICA)の建設を夢見ていまいした。しかし、それは叶う事はありませんでした。
私は、大友公園を訪れてみました。JR日豊本線の津久見駅(つくみ)から徒歩30分の所にある小高い場所です。そして宗麟の墓地に立ち、ここから見える津久見湾を眺めてみました(写真⑥)。晩年をここにあった館で過ごした大友宗麟は、同じようにここからこの景色を見て、どのように自分の人生を振り返っていたのでしょうか? そしてどのような気持ちで、叶う事のなかったキリスト教の理想郷(ムジカ)の夢を見ながら、ここで亡くなって行ったのでしょうか?
次は「志賀親次のその後」(最終回)へ続きます。
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