おおともべっかん

大友別館

大分県津久見市


旧国名 : 豊後

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①	大友宗麟の墓(キリスト教式)
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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第15回)津久見(大友公園:大友宗麟終焉の地) (2022/09/26 訪問)

(「臼杵城②」からの続きです)

臼杵城での戦いが終わった直後、大友宗麟は心労のため病に倒れ、津久見にある館で過ごします。そして翌年1588(天正15)年、島津義久が根白坂で豊臣秀長に致命的な敗北を喫し、その後に出家して秀吉に降伏したとの知らせを聞くと安堵し、「これで豊後と大友家(子の義統)は安泰であろう」と悟り静かにこの世を去りました(享年58)。

当初は、キリスト教式の墓(写真①)に葬られましたが、秀吉によりバテレン追放令が発せられると、義統は仏式に改葬します(写真②)。しかしその後荒廃してしまったとの事です。寛政年間(1800年頃)に、家臣の末裔の臼杵城豊が墓碑を新調しました。現在の墓碑は、昭和52年に、地元の有志によりキリスト教式の墓碑に再び改葬されたものです。その館や墓碑のあった場所は、現在大友公園となって整備されていました(写真③④⑤)。

大友宗麟は、一時は六か国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後)を治めた九州最大の大名でした。戦国大名として名を馳せた宗麟ですが、実は自分は幼い頃に跡目相続に巻き込まれ、当主となるために、父・母・弟を殺した事を最後まで後悔していました(二階崩れの変)。よって、本心では戦は好まず、フランシスコ・ザビエルと出会ってからは誰よりもキリスト教を愛し、キリシタンだけが暮らす戦のない平和な理想郷(ムジカ=MUSICA)の建設を夢見ていまいした。しかし、それは叶う事はありませんでした。

私は、大友公園を訪れてみました。JR日豊本線の津久見駅(つくみ)から徒歩30分の所にある小高い場所です。そして宗麟の墓地に立ち、ここから見える津久見湾を眺めてみました(写真⑥)。晩年をここにあった館で過ごした大友宗麟は、同じようにここからこの景色を見て、どのように自分の人生を振り返っていたのでしょうか? そしてどのような気持ちで、叶う事のなかったキリスト教の理想郷(ムジカ)の夢を見ながら、ここで亡くなって行ったのでしょうか?

次は「志賀親次のその後」(最終回)へ続きます。
 

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todo94

大友公園 (2019/07/20 訪問)

台風5号の強風域に入っている中、無事大分空港に降り立つことができました。雨が降っていたので、うみたまごで時間を過ごし、雨の日に風情のある2つの豊後一宮・柞原八幡宮と西寒多神社を回って昼食も摂ってから大友別館へと向かいました。津久見は雨が上がっていました。大友公園となっていて、遺構は残っていませんが、大友宗麟が最晩年を過ごした地とのことです。折角ですので、久しぶりに大友宗麟の墓にも足を伸ばしてみました。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 大友宗麟
築城年 天正9年(1581)
主な城主 大友宗麟
遺構 消滅
住所 大分県津久見市大友町(大友公園)