おおともべっかん

大友別館

大分県津久見市


旧国名 : 豊後

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①	大友宗麟公園
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トク

【大友宗麟】(13)宗麟終焉の地(最終回) (2025/12/19 訪問)

大友宗麟、臼杵城からの続き(13)最終回です。

宗麟終焉の地、大友別館を訪れました。大友別館は、津久見駅から南へ徒歩10分の所にあり、大友公園として整備されていました。公園からは津久見市街が一望できます。この景色が、宗麟が最後に見た景色かと思うと、とても感慨深いです。またそこからさらに20分程へ歩いた場所には宗麟の墓があり、宗麟公園となっています。

臼杵城を何とか守り抜いた宗麟ですが、その直後に心労からか病となり、臼杵から10km南の津久見にあるここ大友別館にて養生します。そして1年後、島津軍が根白坂で豊臣秀長に敗れ、島津義久が剃髪して川内の泰平寺にて秀吉に降伏し、宗麟の子の義統には豊後一国が安堵されたと聞くと、安心したのか静かにここで息を引き取ったそうです(享年58)。

一時は九州六ヵ国の守護も務め、九州最大の戦国大名であった宗麟も、わずかな家臣に見守られながら、静かにここで惨めな最期を迎えたのかと思うと、何とも言えない虚しさを感じました。

宗麟の辞世の句は発見されていませんが、重臣筆頭である立花道雪は、高良山でこのような辞世の句を残していました。

  異方に 心ひくなよ 豊国の
  鉄の弓末に 世はなりぬとも

これは豊後の国が戦場になろうとも、決して主君(宗麟)を裏切り寝返ってはならぬと家臣たちを戒めたものです。立花道雪は高城川・耳川の戦いの直前、筑前立花城で病に伏せ、龍造寺氏が背後を脅かしていた事もあり、戦に参陣する事はできませんでした。もし百戦錬磨の道雪が参陣していたら、道雪が宗麟を戒め、重臣たちをもまとめ、大友軍は一枚岩になれたでしょう。さすれば数に劣る島津軍に負ける事も無く、宗麟がここで惨めな最期を迎える事も無かったかもしれない・・・🤔。などとまたいつものようにネバたらばかりを考えてしまいました。

以上で「【大友宗麟】の生涯をたどる旅」を終わります。全13話、長々と読んで頂きありがとうございました😌。
 

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カズサン

宗麟最終の城館、現在は大友公園 (2025/10/30 訪問)

 佐伯城を十分に堪能、念願の雛壇石垣も確認し終えて、隣接市津久見市に在る大友別館を目指す、東九州道佐伯ICから津久見ICを経て地道約2~3km程の大友公園駐車場到着。公園内にトイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 津久見市民図書館南東の通りを北東方向に進むと左手に小さく大友公園の指示板、左折して突き進むと終点に駐車場有り(33°04'15"N 131°51'59"E h=20m、10数台は可能)、大友別館・大友公園は三段の段丘構造、駐車場からⅠの階段Ⅱの階段を登って頂点の曲輪へ、黄金瓦櫓風の展望台が建っている、北側を展望すると港、湾、入江、工業地帯が見える。段丘の城壁護岸はコンクリート、コンクリートブロック積み、段丘二段目の南側には立派な壁画で津久見市の情報を描いているのかな?モニュメントか?北側には岩盤を切削したような切岸?堀切?の様な遺構が見える。
 説明板によると、大友宗麟は天正15年(1587年)この地大友別館で享年58歳で亡くなったと記されてる。
 大友公園の説明板に大友宗麟の歴史、大友公園の空撮写真と遺構図が掲示されていましたので写真投稿します。

 又私は訪ねて居ませんが大友別館の南方約1.2km程(直線)に宗麟公園が有り宗麟の墓が在るそうです。(住所:津久見市津久見4173)

 サラッと大友公園を見学して次の大分市の大友氏館・復元庭園を目指します。
    

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しんちゃん

大友公園と宗麟公園 (2025/05/05 訪問)

大友別館は大友宗麟の晩年の居館とされ、大友公園が居館跡とされています。小高い場所にあり、展望台からの眺望は良好ですが、遺構などは残っていません。南西に1kmちょっと行った場所に有る宗麟公園には大友宗麟の墓があります。
堂宇のある日本式の墓は寛政年間(1789~1801)旧家臣の末裔・臼杵城豊により改葬されたもので、キリスト教式の墓碑は昭和52年、上田保氏を発起人とする「大友宗麟公顕彰会」によって磯崎新氏の設計で整備されたもののようです。

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第15回)津久見(大友公園:大友宗麟終焉の地) (2022/09/26 訪問)

(「臼杵城②」からの続きです)

臼杵城での戦いが終わった直後、大友宗麟は心労のため病に倒れ、津久見にある館で過ごします。そして翌年1588(天正15)年、島津義久が根白坂で豊臣秀長に致命的な敗北を喫し、その後に出家して秀吉に降伏したとの知らせを聞くと安堵し、「これで豊後と大友家(子の義統)は安泰であろう」と悟り静かにこの世を去りました(享年58)。

当初は、キリスト教式の墓(写真①)に葬られましたが、秀吉によりバテレン追放令が発せられると、義統は仏式に改葬します(写真②)。しかしその後荒廃してしまったとの事です。寛政年間(1800年頃)に、家臣の末裔の臼杵城豊が墓碑を新調しました。現在の墓碑は、昭和52年に、地元の有志によりキリスト教式の墓碑に再び改葬されたものです。その館や墓碑のあった場所は、現在大友公園となって整備されていました(写真③④⑤)。

大友宗麟は、一時は六か国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後)を治めた九州最大の大名でした。戦国大名として名を馳せた宗麟ですが、実は自分は幼い頃に跡目相続に巻き込まれ、当主となるために、父・母・弟を殺した事を最後まで後悔していました(二階崩れの変)。よって、本心では戦は好まず、フランシスコ・ザビエルと出会ってからは誰よりもキリスト教を愛し、キリシタンだけが暮らす戦のない平和な理想郷(ムジカ=MUSICA)の建設を夢見ていまいした。しかし、それは叶う事はありませんでした。

私は、大友公園を訪れてみました。JR日豊本線の津久見駅(つくみ)から徒歩30分の所にある小高い場所です。そして宗麟の墓地に立ち、ここから見える津久見湾を眺めてみました(写真⑥)。晩年をここにあった館で過ごした大友宗麟は、同じようにここからこの景色を見て、どのように自分の人生を振り返っていたのでしょうか? そしてどのような気持ちで、叶う事のなかったキリスト教の理想郷(ムジカ)の夢を見ながら、ここで亡くなって行ったのでしょうか?

次は「志賀親次のその後」(最終回)へ続きます。
 

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 大友宗麟
築城年 天正9年(1581)
主な城主 大友宗麟
遺構 消滅
住所 大分県津久見市大友町(大友公園)