久留米城はJR久留米駅からブリジストン通りを歩いて15分の所にあります。現在は、本丸御殿があった場所に篠山神社が建ち(写真③)、二の丸・三の丸はブリジストンの国内最大級の工場になっています。北は筑後川に守られ(写真⑦)、本丸の南に大手門を配し(写真②)、さらに南に二ノ丸・三ノ丸が続くという縄張りとなっていました。
実質的な最初の築城者は、秀吉の九州平定後の1587年に入った、毛利元就の九男「毛利秀包」です(写真④)。しかし秀包は関ケ原の戦いで、立花宗茂・筑紫広門とともに関ケ原へ向かうも、大津城で京極高次に足止めをされ、わずか1日の差で本戦に間に合わず、その後家康より改易されてしまいます。
代わって関ケ原後の1601年、久留米は「田中吉政」の領地となりますが、吉政は本城を柳川城としたため、支城の久留米城は1615年の一国一城令で廃城になりました。
その後、吉政の子の忠政に嫡子なく田中家は断絶。1621年、柳川には立花宗茂が復帰し、久留米にはが丹波福知山より「有馬豊氏」が入ります(写真⑤)。豊氏は廃城となった久留米城を近世城郭へと再建していきます。本丸の周囲を六つの三重櫓で固め、特に巽櫓は天守代用としていたようです(写真⑧左)。二ノ丸・三ノ丸と城下町を整備し、有馬氏は幕末まで250年続きました。
帰りに同じく河川敷にある久留米百年公園にも立ち寄りました。こちらは静かな久留米城と異なり、久留米市がずいぶんとお金をかけ、多くの市民が訪れやすい市民の憩いの場に整備されていました(写真⑨)。ならば久留米城も、せっかく続100名城にも選ばれたので、できれば写真⑧に残るような櫓を復元して、もっと多くの人に久留米の歴史を伝えられるような場所に、整備してほしいなと私は思いました。
最後に西鉄久留米駅構内の「清陽軒」で、久留米とんこつラーメンをいただきました。さすが久留米の味! 濃コクでした~😋(写真⑩)。
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