北九州続百名城巡りで、唐津城址・基肄城跡・久留米城跡7・水城・小倉城址の五城に行ってきました。
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2025/09/07 17:28
2025/08/31 11:23
小早川秀包 (2014/01/07 訪問)
これも古い写真になりますが久留米城の投稿です。本丸跡に篠山神社が建てられ周囲には高石垣が残っています。天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定後に小早川秀包が13万石で入り、近世城郭に改修されました。関ヶ原の合戦で秀包は西軍についたため改易となり、筑後32万5千石に封じられた田中吉政は柳川城に入り、久留米城は慶長20年の一国一城令により一旦、廃城になりました。
田中氏が無嗣子改易となった後、有馬豊氏が21万石で入り、久留米城に改修を施し居城としました。二度目の改修も大規模なものだったようで、秀包時代の久留米城も見てみたい気がします。
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2025/06/18 09:55
有馬氏250年の面影が残る城 (2025/05/11 訪問)
久留米城はJR久留米駅からブリジストン通りを歩いて15分の所にあります。現在は、本丸御殿があった場所に篠山神社が建ち(写真③)、二の丸・三の丸はブリジストンの国内最大級の工場になっています。北は筑後川に守られ(写真⑦)、本丸の南に大手門を配し(写真②)、さらに南に二ノ丸・三ノ丸が続くという縄張りとなっていました。
実質的な最初の築城者は、秀吉の九州平定後の1587年に入った、毛利元就の九男「毛利秀包」です(写真④)。しかし秀包は関ケ原の戦いで、立花宗茂・筑紫広門とともに関ケ原へ向かうも、大津城で京極高次に足止めをされ、わずか1日の差で本戦に間に合わず、その後家康より改易されてしまいます。
代わって関ケ原後の1601年、久留米は「田中吉政」の領地となりますが、吉政は本城を柳川城としたため、支城の久留米城は1615年の一国一城令で廃城になりました。
その後、吉政の子の忠政に嫡子なく田中家は断絶。1621年、柳川には立花宗茂が復帰し、久留米にはが丹波福知山より「有馬豊氏」が入ります(写真⑤)。豊氏は廃城となった久留米城を近世城郭へと再建していきます。本丸の周囲を六つの三重櫓で固め、特に巽櫓は天守代用としていたようです(写真⑧左)。二ノ丸・三ノ丸と城下町を整備し、有馬氏は幕末まで250年続きました。
帰りに同じく河川敷にある久留米百年公園にも立ち寄りました。こちらは静かな久留米城と異なり、久留米市がずいぶんとお金をかけ、多くの市民が訪れやすい市民の憩いの場に整備されていました(写真⑨)。ならば久留米城も、せっかく続100名城にも選ばれたので、できれば写真⑧に残るような櫓を復元して、もっと多くの人に久留米の歴史を伝えられるような場所に、整備してほしいなと私は思いました。
最後に西鉄久留米駅構内の「清陽軒」で、久留米とんこつラーメンをいただきました。さすが久留米の味! 濃コクでした~😋(写真⑩)。
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2025/05/23 12:01
ぐるっとひとまわり。 (2025/03/02 訪問)
吉野ヶ里公園から長崎本線と鹿児島本線を乗り継いで久留米へ。
そぼろ雨の中の見学となり、さてどういうふうにまわろうか……と思案しましたが、前回同様、現地に設置してくださっている【久留米城跡史跡めぐり】と【久留米城跡案内マップ】に沿うことにしました。
筑後川やいちばん好きな蜜柑丸の石垣も見渡せてよかったです。
朝田さん。
まさかホントに東横インからだったとは∑(゚Д゚)
【駅近くの高い場所】からの眺望だろうと思い、もしかして東横インがある?とGoogleマップを見てみたら……東口にある!!
でもまさかねーと思っていたのですが🎯だったとは!
小田原は近すぎて宿泊することはないと思いますので、貴重なお写真を見せてくださりありがとうございました。
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城地種類 | 梯郭式平山城 |
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築城年代 | 永正年間(1504〜1521) |
築城者 | 不明 |
主要城主 | 毛利氏、田中氏、有馬氏 |
文化財史跡区分 | 県史跡(久留米城跡) |
近年の主な復元・整備 | 毛利秀包、有馬豊氏 |
天守の現況・形態 | 層塔型三階櫓(巽櫓)[3重3階/1620年頃築/破却(廃城令)] |
主な関連施設 | 石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、石垣、横堀(水堀) |
住所 | 福岡県久留米市篠山町 |
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問い合わせ先 | 久留米市市民文化部文化財保護課 |
問い合わせ先電話番号 | 0942-30-9225 |