坂元城の北側、三の丸跡の一部には大條家茶室「此君亭」が昭和7年に大條家から移築され、庭園も整備されています。庭園の入り口には大手門が残されており、周辺には土塁が見られます。大手門は三間一戸の城門形式ですが、扉や壁面は欠損しています。屋根は本来、切妻造・茅葺で有ったようですが、現在は瓦が葺かれています。現在二の丸跡にある坂元小学校は元々は三の丸跡に有りましたが、明治13年(1880)に現在の位地に移転されています。
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2025/05/23 01:03
大條家茶室「此君亭」三の丸跡 (2025/01/01 訪問)
坂元城の北側、三の丸跡の一部には大條家茶室「此君亭」が昭和7年に大條家から移築され、庭園も整備されています。庭園の入り口には大手門が残されており、周辺には土塁が見られます。大手門は三間一戸の城門形式ですが、扉や壁面は欠損しています。屋根は本来、切妻造・茅葺で有ったようですが、現在は瓦が葺かれています。現在二の丸跡にある坂元小学校は元々は三の丸跡に有りましたが、明治13年(1880)に現在の位地に移転されています。
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2025/05/17 09:58
坂元要害 (2025/01/01 訪問)
坂元城は亘理郡一帯を治めていた亘里氏の家臣「坂本三河」が元亀3年(1572)に築いたとされています。天正19年、亘里氏が涌谷に移ると、坂元氏もそれに従い、以降 後藤・黒木・津田と城主が替り、元和2年(1616)に大條宗綱が伊達政宗より城を拝領して以来、明治維新までの252年もの間。大條氏の居城となっています。
人里近くにあるものの城址は当時の面影を比較的良く残しています。本丸は坂元神社、二の丸は坂元小学校となり、さらに北側には三の丸を備えていました。本丸と二の丸は直に接し、周囲は水堀で囲まれていたようです。縄張りを見ると北に備えを置いているように見えますが、北は仙台になるので、なんじゃこりゃといった感じです。要害とはいえ、どう見ても立派な城で、うるさい徳川幕府が存続を許していたのが不思議です。本丸の西側に大堀切が残り、その西の山中には大條氏の墓所があります。
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2025/04/14 17:11
茶室工事完了 (2025/04/09 訪問)
昨年訪れた時は残念ながら見ることができなかった茶室工事が完了してました。
案内板によりますと
天保3年(1832)伊達家28代伊達斉邦が重臣大條道直に与えた茶室です。
拝領当時は仙台川内(東北大学川内キャンパス付近かと)大條家屋敷に建築。
明治21年仙台支倉へ移築。
昭和7年坂元要害三の丸跡に移築。
仙台城大手門は戦災で焼けたことを思うと移築により生き延びた茶室。
解体保存の話も出ていた様ですが修復保存になった様です。
今回の修復は使える部材は極力使用している様です。
大手門は元は茅葺き屋根だった様ですが茅葺き職人が居なくなり
現在の瓦屋根になった様です。
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分類・構造 | 平山城 |
---|---|
築城主 | 坂本俊久 |
築城年 | 元亀3年(1572) |
主な城主 | 坂本氏、大條氏 |
廃城年 | 明治2年(1869) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀)、門 |
指定文化財 | 町史跡 |
住所 | 宮城県亘理郡山元町坂元字館下 |