しらとりじょう

白鳥城

富山県富山市

別名 : 白鳥塁、呉服山城、呉服山陣城
旧国名 : 越中

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白鳥城址平面図
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おっちゃん

白鳥城址平面図 (2016/12/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:白鳥城 (2022/07/31 訪問)

大峪城からの転戦です。城山公園駐車場(36.698247、137.166063)に駐車しました。
ナビが指定したルートは工事中で通行禁止。現地でルートを捜し、呉羽ハイツに向かうルートなら行けることがわかりました。
城山公園駐車場に着いた時、FMとやま呉羽送信所横(駐車場手前)で工事してました。

築城年代は定かではないようですが、古くは1183年(寿永2年)源義仲の部将今井兼平が御服山に陣を張るなど要害として活用されていたようです。
1537年(天正6年)には神保八郎左衛門が居城としていたとも云われるが定かではないようです。
神保氏は越中国中央部に勢力を持った国人で、1543年(天文12年)頃に神通川を越えて富山城を築き、新川郡を支配していた椎名氏と対立していました。
1560年(永禄3年)頃から越後の上杉謙信は圧迫された椎名氏を援助して神保氏を攻め、1562年(永禄5年)神保長職は呉増山に立て籠もってこれに抵抗したが敗れて城を去ったそうです。
1572年(元亀3年)西から攻める一向一揆勢により落城しました。
1578年(天正8年)謙信死後、越中が織田信長の支配に入ると、佐々成政が富山城に入り白鳥城は引き続きその支城となりました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の佐々成政征伐では、秀吉の本陣が白鳥城に置かれ、白鳥城に籠もっていた前田氏の部将岡島一吉は南麓の安田城に出城を築いて移りました。 この頃に現在に残る縄張に改修されたようです。
佐々成政が降伏すると成政は新川一郡に減封となり、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増されました。
利家は越中三郡を支配するため守山城に前田利長、木舟城に前田秀継、増山城に山崎長鏡、白鳥城に岡島一吉、城生城に青山佐渡を置き、佐々成政に備えたそうです。
1587年(天正15年)佐々成政は肥後に転封となると、1597年(慶長2年)には前田利長が守山城から富山城に移り、岡島一吉は白鳥城から安田城へ移ったそうです。

「FMとやま呉羽送信所」の道路反対側が駐車場で、城山には遊歩道が設けられ公園として整備されています。
西側の階段を登ると「東出丸跡」があり下って少し行くと空堀があり、階段を登ると三の丸跡になります。
三の丸跡の西に二の丸跡があり、間に横堀があります。
本丸下の空堀の横に井戸が残っているようですが、ヤブが凄く確認できません。
本丸には土塁が残り、案内板、平面図看板や「天測点」があり、一段高い土壇は天守台跡のようです。東方に富山の市街地が眺望できます。
本丸の北側に本丸下郭があり、間に横堀があるようですが、ヤブが凄く確認できません。
本丸下郭の北西側の堀切(木橋がついています)の先に北二の丸があり、西側に土塁が確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=安田城に向かいます。

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じゅんじん

秀吉のお城 (2022/03/26 訪問)

佐々討伐のために秀吉が本陣としたお城です。ここで降伏した成政と対面したとか。風が強かったです。

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カズサン

越中城廻Ⅲ 佐々成政征伐秀吉の本陣 (2017/06/14 訪問)

 一昨年6月松倉城、魚津城初登城を終えて北陸道を通て富山ICを出てナビで白鳥城へ情報は城郭放浪記さん余湖図コレクションさんの俯瞰図を手元に探訪、登って直ぐの駐車場が数台くらいで北二の丸下に停め、北二の丸、本丸下郭、本丸二の丸、車を回して城址碑の有る大型駐車場へ、東で丸、展望台へ。

 賤ケ岳の合戦の後越中の佐々成政が秀吉に従わず佐々成政征伐を行い秀吉の本陣に白鳥城が置かれたと記されおり富山方面の眺望は素晴らしい。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 神保長職
築城年 天文12年(1543)
主な改修者 前田利家
主な城主 神保氏、岡島一吉・片山伊賀(前田氏家臣)
廃城年 慶長年間(1596〜1615)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸、土橋
再建造物 石碑、説明板
住所 富山県富山市金屋字笹山割、寺町字城乗、吉作
問い合わせ先 富山県埋蔵文化財センター
問い合わせ先電話番号 076-434-2814