春の長崎天草を巡る旅、最後(13城目)は「福江城(石田城)」です。
10:10発のフェリーに乗りたいため、早朝7時にホテルをチェックアウトして出港までの3時間、福江城をぐるりと1周して散策しました。港の反対側にあたる城の西側には搦手門が残っていました(写真②③)。
石田陣屋は焼失した江川城に代わり、福江藩2代藩主「五島玄雅」により1638年に築かれました。唐津藩主「寺沢広高」が設計したそうです。
異国船が出没するようになったため、福江藩は1806年に異国船防衛を理由に幕府に築城の許可を願い出ましたが許可されず、1849年「五島盛成」の代になりようやく許可されました。しかしいざとなると財政難で築城には石田陣屋を改修するなどして節約しますが、それでも14年かかり1863年にようやく完成し、江戸幕府最後に築城された城となりました。しかし明治の廃城令で、わずか9年しか存在しなかったようです。
9時の開館になったところで歴史資料館に入り(写真④⑤)、スタンプを押して中を見学しました。福江城は三方を海に囲まれた海城だったようです。その模型がありました(写真⑥)。という事は🤔・・・今ある外堀は、当時は海だったという事ですね。
現在の福江城は五島高校の敷地になっています(写真⑦)。ここの生徒たちは堀と石垣に守られて勉強しているという事になります(何とうらやましい)。でも石垣を見てちょっと不思議に思いました。隅部は切込接ですが、それ以外は全て丸っこい石です。それもわざと丸く削っている感じです。しかも城全体全てがこのような石垣です。幕末に築かれた他の城は全てが切込接できっちり隙間もなく削られた石なのに、なぜ福江城は丸い石にしたのか疑問でした。海城だったので波に耐えられるよう(波の力が分散されるよう)わざとこのような丸く削った石を積んだのでしょうか🤔?(写真⑧)。
歴史資料館を見学し終えて、徒歩10分の福江港まで歩きました。港の入口には常灯鼻(常夜灯)がありました。当時の灯台です。ここも荒波にも耐えられるようにか、やはり丸い石の石垣で作られていました(写真⑨)。散りゆく桜と、咲いていた五島椿がとても綺麗でした(写真⑩)。
最後にフェリーからの帰路の景色をお伝えして終わろうと思います。
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