日本100名城

なごやじょう

名古屋城

愛知県名古屋市

別名 : 金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城、(那古野城)
旧国名 : 尾張

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名古屋城
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イオ

とことん名古屋城(二之丸) (2025/07/13 訪問)

(続き)

本丸御殿が将軍上洛時の御成御殿に改修されたことにより、藩主の住居と尾張藩政庁の機能は二之丸御殿に移り、二之丸が藩政の中心地になりました。二之丸御殿の建物は残っていませんが、北東部の御殿の庭園が二之丸庭園として整備されています。

大手馬出から二之丸に入ったところに、天守台石垣を築いた加藤清正の「清正公石曳きの像」が立てられています。御殿跡の二之丸広場には青松葉事件之遺跡碑や藩訓秘伝の碑が立ち、東南隅櫓と樹々の上に天守が覗いているのが見えます。搦手馬出には工事中で入れず、馬出外周の空堀沿いに進んだ先に、藩主の緊急時の脱出路として設けられた埋門がある…にはあるんですが、草木が茂っていてよくわかりませんでした。埋門の先は立入禁止だったので、その先の南蛮練塀は遠目に見ることができたのみです。北東隅には二之丸東北隅櫓の櫓台が遺っていました。

二之丸の庭園は当初の中国風から、江戸後期に栄螺山や権現山などの築山、南池、6つの茶屋などを配した回遊式の大名庭園に改修されています。明治には陸軍の練兵場や兵舎に改変されましたが、発掘調査により確認された南池や暗渠が公開され、御茶屋「霜傑」は平面復元、「余芳」は保管されていた部材を用いて元の位置に再建されています(2026年公開予定とのこと)。

二之丸の南半分には御殿のほか馬場や弓道場が設けられていたようですが、現在は愛知県体育館が建っていて遺構はなさそうなので、東門を出るとそのまま二之丸東門に向かいました(続く)。

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イオ

とことん名古屋城(西之丸) (2025/07/13 訪問)

(続き)

御深井丸から鵜の首を抜けて西之丸へ。西之丸には江戸期に6棟の米蔵が置かれていましたが、うち三番蔵と四番蔵が外観復元により再建され、本丸御殿障壁画をはじめとする名古屋城所蔵品を展示し、名古屋城の情報を発信する施設・西の丸御蔵城宝館として公開されています。写真撮影はできませんが、本丸御殿で見た障壁画の本物を見ることができ、なかなか見応えがありました。また、六番蔵についても発掘調査で確認された礎石が再現されています。

築城前からあるというカヤの大木を見上げて、いったん正門から退出。正門の位置にはかつて大手にあたる西之丸榎多門の櫓門があり、空堀の土橋北詰の二之門とあわせて枡形を構成していました。現在は二之門は失われていますが、榎多門枡形の石垣は遺っています。正門は名古屋離宮の頃に江戸城から移築された蓮池門が空襲で焼失したのを戦後に再建したものです。

正門から再入城し、本丸の全景を眺めつつ二之丸のほうに歩き出したところで、向こうから見覚えのある人影が…。「千田先生!?」 思わず声をかけてしまってから、こっちはテレビや講演で見覚えがあっても先生は私のことなど知るわけないんだから…と後悔しましたが、そんなことは馴れっこなのか、すれ違いざまに軽く手を挙げて一礼して去っていかれました。お急ぎのご様子でしたのに失礼いたしました。

さて、空堀越しに二重三階の西南隅櫓を眺め、本丸南辺の空堀沿いに東へ。本丸表門から土橋を渡ったところには大手馬出が設けられていましたが、西側の堀は埋め立てられて西之丸とつながってしまっています。馬出東側の空堀を覗いて二之丸へ。本丸空堀越しには二重三階の東南隅櫓が聳え立っています。こちらも貴重な現存三階櫓ですが、白壁の漆喰が一部剝がれているのが気になりました(昨年7月時点)。今はもう修復されているのかな…(続く)。
 

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イオ

とことん名古屋城(御深井丸) (2025/07/13 訪問)

(続き)

不明門から本丸を出ると、土橋の両側に本丸北辺の空堀が続いています。堀底からだと天守台はかなりの高さがあります。天守台石垣の隅部は算木積みで積まれていて、北東隅には肉眼では分かりづらいものの「加藤肥後守内小代下総」の刻銘石も見られます。土橋を渡るとまずは塩蔵門から。門の石垣は刻印の宝庫で、いろんな種類の刻印が探すまでもなく見つかります(矢穴も)。西に向かう道沿いには戦後の天守再建の際に移設された天守礎石が列んでいます。その近くには出雲地方の古墳の石室も移設されていましたが…名古屋城とどういう関係があるんでしょうね?

御深井丸は深井(ふけ)と呼ばれる低湿地を木材で埋めて築かれた曲輪で、北西隅には三重三階の西北隅櫓があり、現存する日本最大の三重櫓です。清須城の天守を移築したとされ清須櫓とも呼ばれています。内部は通常非公開なので、いつか特別公開の折にまた来たいものです。陸軍時代の弾薬庫は、乃木希典が赴任していたことにちなんで乃木倉庫と呼ばれており、空襲前に本丸御殿の障壁画や天井絵を乃木倉庫に移していたため、焼失を免れたのだとか。その他、御深井丸には4つの茶席(一般公開無し)があり、御深井丸展示館には愛知の郷土玩具などが展示されていました。広場ではちょうどおもてなし武将隊の演武が行われていました。この日の出演は加藤清正、豊臣秀吉、徳川家康の3名と陣笠2名で、途中からでしたがついつい最後まで観てしまいました。

御深井丸と西之丸をつなぐ土橋のあたりは鵜の首と呼ばれ、御深井丸側には枡形土塁が遺っています。土塁に登って見渡すと、高石垣の天守台の上に大天守が雄大にそびえ立っていました(続く)。
 

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イオ

とことん名古屋城(本丸) (2025/07/13 訪問)

(続き)

湯殿書院を出ると、まずは先ほど素通りした本丸表門(南門)から。大手にあたる本丸表門は二之門(高麗門)と一之門(櫓門)により枡形を構成しており、二之門は現存しているものの、一之門は空襲により焼失し門柱の礎石が見られるくらいです。

本丸東門も表門と同じく一之門と二之門からなる枡形門でしたが、いずれも空襲により焼失し、一之門跡には門柱の礎石が遺り、二之門跡には二之丸東門の二之門が移築されています。枡形石垣の巨大な鏡石は清正石と呼ばれていますが、この石垣を築いたのは黒田長政であり、加藤清正は無関係のようです。旧二之丸東二之門を出た先の搦手馬出には工事中のため進めなかったので、本丸東辺の空堀を眺めて引き返し天守へ。

大天守は五重五階・地下一階の層塔型で、二重二階・地下一階の小天守と橋台でつながる連結式です。金鯱と銅瓦が目立ちますが、大天守に近づいていくと改めて「でっかいな〜」と実感。木造復元できるに越したことはないけど、いつまでも解決しないのなら現状に耐震補強でいいから中に入りたいな(最上階からの眺望が見たい)、とも。そして天守台の下から見上げると、大天守だけでなく小天守も充分に大きいことに気付きました。大天守がでか過ぎるので並ぶと大きく見えないんでしょうね。天守台の石垣石には矢穴や刻印だけでなく、空襲の影響と思しき焼け跡も見られます。

本丸御殿の上台所(の一部)を改装したミュージアムショップでお土産を買って、本丸御殿南庭の焼け跡から移植された御殿椿を眺めつつ、常に施錠されていたという不明門から本丸を出て御深井丸に向かいます(続く)。
 

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概要

織田氏が今川氏から奪った居城の上に、徳川家康が大坂城を包囲するために築いたとされている。家康は天下普請を命じて多くの櫓や城門を設け、最大級の近世城郭を完成させた。三重三階の御深井丸西北隅櫓(清洲櫓)や、現存姫路城天守の3倍以上の容積で再建された天守などが、そのスケールを今も感じさせる。

城郭情報

城地種類 梯郭式平城
築城年代 慶長14年(1609)
築城者 徳川家康
主要城主 徳川氏
文化財史跡区分 国特別史跡(名古屋城跡)、国重要文化財(櫓3棟、門3棟)
天守の現況・形態 連結式層塔型[5重5階地下1階/1612年築/焼失(空襲)]、連結式層塔型[5重5階地下1階/1959年再/鉄骨SRC造外観復元]
主な関連施設 復元天守、本丸御殿、門、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、櫓3棟、門3棟、庭園、石垣、横堀(水堀)
住所 愛知県名古屋市中区本丸1-1
問い合わせ先 名古屋市民経済局名古屋城総合事務所
問い合わせ先電話番号 052-231-1700