五城目城(砂沢城)からの転戦です。雀館公園として整備されています。公園を一巡りして道を挟んだ体育館側にある古代井戸の写真を撮影しようとしたところでデジカメのバッテリーが切れてしまいました。前の週の研修で記録撮影に使ったあと充電をすっかり忘れてしまっていました。こんな時に限って予備のバッテリーも家に忘れてきてしまっていましたので、この後は、スマホでの撮影に切り替えざるを得ませんでした。
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2025/10/21 06:55
3連休の秋田ドライブでの攻城⑨ (2025/10/11 訪問)
五城目城(砂沢城)からの転戦です。雀館公園として整備されています。公園を一巡りして道を挟んだ体育館側にある古代井戸の写真を撮影しようとしたところでデジカメのバッテリーが切れてしまいました。前の週の研修で記録撮影に使ったあと充電をすっかり忘れてしまっていました。こんな時に限って予備のバッテリーも家に忘れてきてしまっていましたので、この後は、スマホでの撮影に切り替えざるを得ませんでした。
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2025/10/21 06:47
高屋城 香川県坂出市 (2025/09/07 訪問)
城びと未登録城です。
高屋神社参道から登っていきます。
道は付いていますがミカン農家さんが使用される農道なので歩いて行くのが無難です。
登ってすぐにミカン畑が広がり、農家さんが作業されていました。
挨拶し、城跡へ行く旨伝えると予想通り「何もないよ」と。
坂道は急ですが車も通る道なのでそんなに苦にはなりません。
ただ暑い🫠
城跡とされる場所にはやはり遺構は見られません。
しばし眺望を楽しんで下山しました。
帰りに先ほどの農家さん、昔は下の方には遺構があったと思う、とのお話しがありました。
冬に行ったら何か発見出来るかもしれません。
麓にある遍照院も城跡の一部だったようです。
この周辺の山は五色台と呼ばれています。
陰陽五行説が由来で色の名前が付く5つの山があります。
黃ノ峰には石積が特徴的な黃峰城(城びと未登録)、白峰山には81番札所の白峰寺、青峰には82番札所の根香寺があります。
また、五色台ビジターセンターからの瀬戸内海の眺望も素敵です。
【見どころ】
・城跡からの眺望
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2025/10/20 22:34
長篠・設楽ヶ原の戦い 真田兄弟・従士達の墓 (2025/10/05 訪問)
五反田川沿いの丘陵の中腹に真田兄弟の墓と、共に奮戦し討死した武田方の将士の墓があります。いろはかるたによると、ここは三子山というらしい。真田兄弟の二人は真田幸綱の長子・真田源太左衛門尉信綱と次男・真田兵部丞昌輝であの真田昌幸の兄にあたります。
設楽ヶ原の戦いでは馬場美濃守信春が最右翼に陣し、真田兄弟はその左側に陣していたようです。丸山激戦地では丸山と言う小高い丘を巡って佐久間信盛の部隊と馬場・真田の軍勢が激しい戦いを繰り広げたようです。
真田兄弟の墓の両脇に「設楽原を守る会」によって再建された鎌原筑前守之綱・常田図書春清・祢津甚平是広の墓が有ります。いずれも合戦で討死した将士で真田一族となんらかのゆかりがあると思うのですが詳細は不明です。AI先生に聞くといずれも真田氏に使える一族で関わりも深かったようです。たまに便利だわ・・AI先生。
丸山激戦地を西手に行って連吾川を越え、道沿いに南に下ると高森恵光寺快川の墓が有ります。甲州の恵林寺や信長の史料に設楽原で討死と記載のある人物で主従ともすべて討死したとされています。一説には初めの布陣は鳶ヶ巣山砦ともされています。
案内板には謎の武将とされていますが、武田家14代信重にルーツが有る家系で武田氏の一党にあたるようです。
県道21号線から雁峰山登り口を南に程なく行った新東近くの道沿いに米倉丹後守正継(重継)の墓が有ります。案内板によると武田方の智将で鉄砲の前面に「竹束を置く」のも米倉のアイデアだそうです。武川衆のリーダーで甘利信康の後見役も務めていたとのこと。合戦では連吾川上流部で馬防柵を破り半町ほど西の織田軍陣中で討死したそうです。
「くふう」と書くと「こう・ふ」と勘違いされてエラーがでます。なんなんじゃ、こっちのAIはダメダメじゃ
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2025/10/20 21:33
長篠・設楽ヶ原の戦い 樋口兼周の塚・鑓畑と武田軍退路 (2025/10/05 訪問)
設楽ヶ原の古戦場跡から五反田川沿いに北上して行くと真田兄弟の墓があります。途中、樋口兼周の塚がありました。ここは武田軍の退路に近く、樋口氏は退却の途中に討死した武田方の将士のようです。墓は元は鳥居田の中にありましたが、圃場整備でここに移されたようです。真田兄弟の墓所の近くは道が狭いので注意が必要です。
付近には武田軍の退路があり浅谷地区に「鑓(やり)畑」の地名が残っています。敗色が濃くなった武田軍は設楽ヶ原を脱出し五反田川沿いに北上し甲州を目指しました。槍や旗が残っていたとしたら、この辺りで追撃や落武者狩りがあったのかもしれません。
近くには水田から兜が見つかった「甲田」伝説が残っています。
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2025/10/20 21:01
長篠・設楽ヶ原の戦い 首洗池 (2025/09/28 訪問)
長篠の医王寺の陣の周りにはまだ見るべき箇所が有るかもしれませんよ。長篠山医王寺は永正11年(1514)に克補契嶽大和尚が開山となり創建されたとされています。戦国時代の寺は基本「城」なので守りに適した立地に築かれていると思います。
国道151号線・竹広の信号の北側に合戦の戦死者の首を洗ったとされる「首洗池」があります。当時はどれだけの大きさが有ったのかはわかりませんが、そりゃ池も真っ赤に染まると思います。主だった首だけでもかなりの数になりますからね。
池には八重のハスの花が咲き、彼岸花も咲いています。古戦場の周囲には武田軍の将兵の墓(供養塔含む)がたくさんあります。以前尾張の城めぐりをした際に城址碑ぐらいしか残ってない城が多く「お墓めぐり」をしているみたいだとボヤきましたが、古戦場ウォークは本当に「お墓めぐり」なんですわ。
まるで死地を求めるように散って行った武田軍の老将たちに思いをはせながら散策しますか。首洗池のすぐ西手の丘の上に本田玉発見地の標柱と岡部竹雲斎・岩手左馬之助胤秀の墓が有ります。いずれも武田方の武将と思われますが詳細が分からないんですわ。AI先生も分からないようですよ。
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2025/10/20 20:17
「あなたの人生を変えたお城は?」今年のCastle of the Yearのテーマはこれ!
毎年恒例、テーマに沿って推し城を伺うアンケートが始まっています。
https://shirobito.jp/article/2083
今年のテーマは
「あなたの人生を変えたお城」
です。
エピソードとともにぜひ、ご投稿お願いいたします。
抽選で「お城EXPO 2025」入城券をプレゼント!
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2025/10/20 18:47
アップデートしたくて… (2025/10/18 訪問)
岩手県の未投稿城はすでに解消しておりますが,ここはアップデートしないと気が済まないので,これにて「岩手県未投稿城解消」とさせていただきます。これでいちおう「東北地方未投稿城解消」となりましたが,たぶん青森県はtodo94さんが2城のアップデートをしないと気が済まないハズ…。
大梵天館ですが,しっかり整備されていて驚きました。クマもイノシシも通り過ぎるだろうと思われる徹底ぶりです。この日の宮古市の天気予報は曇りでしたが,登城時は雨。私が雨男ゆえ,魅力発信には至らないかと思いますが…。
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2025/10/20 08:04
武田軍陣地めぐり(大通寺山陣地・天神山陣地) (2025/06/21 訪問)
(続き)
武田軍は長篠城の周囲に多くの陣地・砦を構えて包囲していますが、まずは長篠城北側に展開する陣地へ。
大通寺山陣地(新城市長篠大通寺山)
大通寺背後の大通寺山には、武田信豊、馬場信房、小山田昌行らが2千の兵で布陣しました。草木が茂っていて遺構は確認できませんでしたが、頂部の広大な平坦地には多くの兵を収容できそうでした。麓の大通寺には、医王寺山本陣での軍議で武田勝頼に撤退を進言するも容れられなかった馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らが訣別の水盃を交わしたと伝わる井戸(大通禅寺杯井)があります。また、境内には文化財保存のため長篠城から移転した城藪稲荷社も祀られています。それにしても、瓢郭から大通寺山陣地までは直線距離でわずか250m、まさに目と鼻の先です。実際に現地に立ってみて、こんなところに鬼美濃に布陣されて落城しなかったというのが信じられない思いでした。
天神山陣地(新城市長篠碁石)
長篠荏柄天神社の鎮座する天神山には、一条信龍、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次らが2千の兵で布陣しました。下調べでは明瞭な遺構はないとのことなので、天神社の前の天神山陣地の説明板を確認したところで満足して引き返してしまいましたが、まだまだ先があったんですね。しんちゃんさんのように北尾根とまでは言わないとしても、せめて山頂までは行くべきでした。丸テーブルと椅子のある曲輪跡とか「展望」の案内板くらいは見ておきたかった…。
武田軍陣地めぐり、天神山陣地の次は医王寺山本陣に向かいます(続く)。
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2025/10/20 07:31
3連休の秋田ドライブでの攻城⑧ (2025/10/11 訪問)
双六館からの転戦です。五城目町森林資料館閉館時刻前にたどり着けそうだったので、赴くことにしました。五城目町森林資料館は無料で、林業の町としての五城目を良く知ることができました。帰宅してから日本鉄道旅行歴史地図帳を引っ張り出して、杉沢森林鉄道を確認してしまいました。遠方からも模擬天守が良く望めるこの城は、砂沢城という名の城で、麓の四渡園は城主の屋敷跡とのことです。
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2025/10/20 07:01
私有地すぎる (2025/08/15 訪問)
徳島道の土成IC近く、国道318号線から少し入ったところにあります。
皆さんのレポート通り石碑と説明板がありますが場所は私有地。
入っていくのも憚られていたのですがちょうど家から出てこられた方がいらしたので許可を得て写真だけ撮らせて頂きました。
この地の土豪、原田氏の居城です。
中富川の戦いで城主の原田久左衛門が長宗我部氏に討たれ廃城となりました。
【見どころ】
・民家敷地にある石碑と説明板
さすがに撮れ高が無いので近くの四国霊場をご紹介。
6番札所安楽寺 今でも宿坊があるお寺です
7番札所十楽寺 朱塗りの鐘楼門が特徴的です
8番札所熊谷寺 大きな仁王門があります
9番札所法輪寺 健脚祈願のわらじが多く奉納されています
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2025/10/20 06:10
秋の大阪お城巡り③:大阪城(豊臣石垣館) (2025/10/17 訪問)
大阪のお城巡りで一番行きたかった大阪城の豊臣石垣館へ。
現在残っている櫓や石垣、堀はすべて徳川時代のものだけど、大阪と言えばやっぱり太閤秀吉だから、豊臣時代の遺構がこうして目に見えることになったのは嬉しい限り。
算木積みの原形のような形状や転用石も含め様々な石材を使った野面積みの石垣は、徳川時代の進化した石垣と違って独特の味わいがある。
もちろん蛸石をはじめとする徳川時代の巨大な石垣は凄いけど、徳川セコいから嫌いだし笑
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2025/10/19 23:22
2025/10/19 22:58
2025/10/19 22:08
小雨の河村城 (2025/10/19 訪問)
https://www.yamakita.net/sightseeing/detail.php?id=19
「逃げ上手の若君」の主人公、北条時行と共闘する新田義興が1352年に足利尊氏の軍と対決⚔️河村一族と共にここ河村城を拠点に奮戦
しかしその翌年(1353年)、この城を捨てて退却したと太平記には記されている。尊氏の大軍および尊氏の神力(?)に耐えられなくなったと思われる
さらには盟友の時行が尊氏軍に捕えられ…竜の口で処刑される…それでも義興は折れずに潜伏および抵抗を続け…尊氏の死後まで生き続けたのだった👦
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2025/10/19 21:01
20万の大群に対抗した防衛力の城 (2023/03/02 訪問)
大学時代の友達3人で35年ぶりの旅行。
小田原住む友達に案内してもらいました。
博物館も併設しており、戦国時代の貴重な資料が見られました。
天守閣からは海や街並みを一望でき、絶景でした。
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2025/10/19 18:22
20年かけて完成した歴史 (2025/05/21 訪問)
彦根城は、城全体の保存状態が最も良く、江戸時代の 政治体制をあらわす「代表例」と言われてあるだけあってとても歴史を感じる佇まいでした。
ひこにゃんにも可愛らしく会えて嬉しかったです。
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2025/10/19 17:21
ブラック・ショーマン撮影地 (2025/10/18 訪問)
苗木城は高さ426mの高森山に築かれ、木曽川からの標高差は170m、天然の要害である立地に加え、むきだしの岩盤が露頭した独特な地形を利用した山城です。
苗木城は、木曽川を天然の水堀とし、山頂部に本丸、一段下がったところに二の丸、(二の丸御殿をはじめとした、政務に必要とされた勘定所などの施設が置かれた。)さらに一段下がったところに三の丸、(風吹門を守るための三階建ての大矢倉、厩、中間部屋、作事小屋などがおかれた。)戦国時代の山城によく見られる連郭式の縄張りですが、他に類例のない独特な城の姿は、苗木城が立地する高森山の地形に起因するところが大きいといわれています。
7年ぶり5回目の訪門を決めた理由として、先週、映画『ブラック・ショーマン』を鑑賞したおり、見覚えのある石垣、風景が何度か映し出されており(画像7枚目の笠置矢倉の石垣と眺望)、どうしても行きたくなったのが理由です。(眺望は加工されていましたが。)
苗木城に到着してからも、「ここに有村架純さんと福山雅治さんが来たんだー」って興奮しっぱなし、また、苗木城の石垣、野面積み、打込み接ぎ、切込み接ぎ、谷積みの石垣群も相まってもう、頭の中がパニック状態(#^.^#)。八大龍王の鳥居や帯郭などに行く通路が落石注意で通行止めになっているのに、乗り越え10m程行ったと「はっ」と我に返り辺りをきょろきょろしながら元に戻る始末でした。
7年ぶりに訪問し、かなり整備が進んでいる(一部通行不可)事と無料駐車場が有料駐車場に代わっていたことに驚きでしたが、苗木城に訪問中、有村架純さんが「この石垣を見て、この景色を見たんだぁ~」って本当、感動でした。苗木城、好きになってくれたかなぁ~
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2025/10/19 15:44
江戸城の鬼門。上野で何で?何で?散歩。 (2025/10/11 訪問)
お久しぶりです。本日も脱線注意報が出てますのでご注意ください。
無理やり「江戸城」にくっつけての投稿です。
学生時代の友達達に『散歩するから上野集合』の号令に、久しぶりに『上野』に行ってきました。
皆さんは上野って言ったら何を思い出しますか?
私は子供と行った『国立科学博物館』や『上野動物園』それから『アメ横』。あとは西郷さんの銅像くらいでした。
幕末が何となくしか分かっていないので、『何で?』な散歩記録にお付き合い下さい。
まずは西郷さんの銅像。次に彰義隊の墓を写真に写します。『何で敵同士がこんなに近くに、、、複雑な気分』が感想でした。
西郷さんの銅像は皇居近くに建立するはずでしたが、当時は反感が多く、戊辰戦争の戦地において薩摩藩が奮闘した上野が選出されたそうです。
その、戊辰戦争の後の彰義隊、戦死した方々は見せしめとして、そのままになっていたそうです。
何となく暗い気分になり、上野大仏様のお顔を見に行きました。たくさんの絵馬がかけてあります。そして、たくさんの外国の方が手を合わせていました。本当に本当に、平和になりますように。あと風邪ひきませんように。
この日は20℃に届かない雨。前日は半袖でも大丈夫だったのに、なんて話していたら、桜も間違えちゃったのか咲いている花がありました。写真⑨、寒そうです。
ブラブラした後、寒いからどこかでお茶しよーとアメ横方面へ。最後の写真の『三枚橋横丁』とあり、静岡県沼津市でお邪魔した「三枚橋城」と関連があるかと思いきや、江戸時代、不忍池から広小路を横切る忍川に3つの橋がかけられたそうです。
ちなみに、『三枚橋』は全国に地名が残っているようです。な~んだ勘違い。
私は東京都民ですが、端っこに住んでいるので、上野は遠足気分です。
外国の方々よりも、はしゃいで騒がしかったと反省をした上野散歩でした。
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2025/10/19 15:18
「江戸城天守を再建する会」ガイドが解説する「皇居東御苑散策ツアー」 11月29日(土)10:00~12:30 (2025/11/29 訪問)
集合場所:皇居東御苑大手門前内堀通り 参加費:一般:3.000円 会員:1.000円 江戸城御城印:500円
申込先:江戸城天守を再建する会事務局:電話:03-6423-1882 Mail:info@npo-edojo.org
振込先:ゆうちょ銀行:0120-9-578881 NPO江戸城再建 三井住友銀行光が丘支店:普通0851894
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2025/10/19 08:31
史跡めぐり (2025/06/21 訪問)
(続き)
帯郭に立てられている長篠城周辺散策マップを参考に、周辺の史跡めぐりも。
鳥居強右衛門の磔関連地
長篠城にまつわる史跡としては、鳥居強右衛門を抜きには語れません。磔の地を対岸に望む本丸にも多くの案内表示がありましたが、強右衛門が自らの命を投げうって援軍が来ることを城内に呼びかけたとされる地(弾正郭北側)には「呼びかけ」の伝承地の案内表示が立てられています。その結果、強右衛門は磔に処されますが、強右衛門の呼びかけに力を得た城兵は頑強に戦い抜き、設楽原での勝利へと繋がっていきました。その強右衛門磔死の地に石碑がある…と思っていたら、2度にわたって移設されていて、実際の磔死の地はJR飯田橋の東側だったようです。強右衛門の遺体は磔死の地近くの新昌寺に埋葬され、立派な墓碑が立てられています。強右衛門の墓所と並んで武田軍将士の墓が立ち並んでいますが、これらは新東名高速の整備に伴って戦国の陣没将士墓苑として移設されたものなんだそうです。
馬場美濃守信房の墓(新城市長篠西野々)
長篠の戦いでは多くの武田軍将士が命を落としていますが、長篠城から西に約500mの畑地の一角に馬場美濃守信房の墓があります。殿軍を務めた信房が討たれたのは豊川のもう少し上流の出沢地区とされますが、ここは信房の首を埋めた地なんだとか。私が土の城の面白さに目覚めるきっかけとなった古宮城を築いた鬼美濃の首塚とあっては、お参りせずにはいられません。鎮魂と感謝の思いを込めてしばし手を合わせてきました。
さかさ桑(新城市長篠市場)
馬場信房討死の地から豊川をさらに遡った小松集落には、武田勝頼が落ち延びる際に民家の庭に突き立てた杖から下方にだけのびる桑の芽が出てきたとする「さかさ桑」の伝承がありますが、このさかさ桑は近年に枯れてしまったことから、帯郭の一角に新しいさかさ桑が植えられています。杖から芽が出るというのは洋の東西を問わずありがちな伝承ですが、下向きの桑であることに何か意味はあるんでしょうか?
蟻塚(新城市長篠殿薮)
長篠城から北西に約300m、スギ薬局駐車場の北東部に蟻塚があります。長篠の戦いの戦死者を埋葬した地から蟻の大群が発生して村人を苦しめたことから、供養塔を立てて慰霊し蟻を封じたとのこと。あまりに多くの死者が出たため、不思議な出来事は死者の無念だとか祟りに結び付けて考えられたんでしょうね。
大手門(新城市長篠殿薮)
搦手門(新城市長篠冷田)
伝承云々とは異なりますが、蟻塚の近くに大手門趾の標柱が、大手門から東に約400m離れたところに搦手門趾の標柱が立てられています。明瞭な遺構が見られるのは本丸くらいですが、大手門から搦手門まで歩いてみると案外大きな城だったんだな、と感じました。
さて、長篠城に続いては、長篠城を包囲した武田軍の陣地をめぐります(続く)。
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