みんなの投稿

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いんげん丸虫

安宅勝山城 和歌山県白浜町 (2024/12/30 訪問)

標高211m
山頂に主郭、2曲輪があり、3方の尾根を
複数の堀切で防御してます。
この城の最大の特徴は東尾根の石積みの
ある5重堀切ですね。
経年変化によるものか破壊によるものか
かなり崩れてしまってますが、圧巻です。
川の土手際に車を停め、看板のある場所
からピンクテープを頼りに登りました。
足元は悪く、昔の梅の収穫用のレールを
跨ぎながら登城します。

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駿府城

駿府城跡天守台発掘調査現場見学会を開催しました!

12月14日(土)に、駿府城跡天守台発掘調査現場にて、「駿府城跡天守台発掘調査現場見学会」を開催しました。
当日は約500名もの方々に参加いただき、歴史ファンや地元の方だけでなく、県外からも多くの方が参加されました。
見学会では、新たに発見された清水御門の仕切石垣(城内を区切るために設けさせた石垣)や普段は公開されていない特別エリアを見学いただきました。
特に好評だったのは、実際に発掘調査に携わった調査員による現場解説です。石垣の構造や調査の方法について、専門的な視点でわかりやすく説明が行われ、参加者からは次々と質問が寄せられていました。

通常の見学ゾーンや発掘情報館「きゃっしる」は年中無休(年末年始を除く)・無料で見学できます!発掘情報館「きゃっしる」では、駿府城跡の調査で発見された貴重な資料や情報が展示されており、大人も子供も楽しめる内容となっています。ぜひお越しください。
ご来場いただいた皆さん、ありがとうございました。

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イオ

御座候

チェブさんの「今川焼」を何と呼ぶか問題ですが、うちのあたりの夜店の屋台では「回転焼」や「大判焼」をよく見かけます。「今川焼」は大学生の頃に東京都内で初めて目にしたように思います(名称自体は知ってましたが)。関西では「御座候(ござそうろう)」とも呼ばれますが、これは一般名詞というより固有名詞(会社名・商品名)であって、絆創膏を「バンドエイド」「カットバン」「リバテープ」と呼ぶようなものでしょうか。

さて、その御座候、関西の百貨店やショッピングモールなどあちこちに出店しており、父がよくお土産に買ってきてくれたので子供の頃から馴染みがありましたが、姫路の会社だと知ったのは ほんの6年前、姫路城の下調べをしているときのことでした。以来、姫路城に登城した際にはいつも家族に御座候を買って帰っています。赤あん(小豆)、白あん(手亡豆)の2種類あってそれぞれ110円(税込)。私は赤あん派ですが、どちらも美味しいですよ。JR姫路駅構内にも山陽百貨店にもお店がありますので、姫路城のお土産にどうぞ。

…そういえば、あまりに当たり前に買っているものだから御座候の写真って撮ったことなかったな。まぁ見た目は普通に回転焼なんですが(笑)

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todo94

元日の攻城⑤ (2025/01/01 訪問)

毛呂氏館からの転戦です。さほど距離は離れていませんが、毛呂山町から坂戸市に入ります。赤い城さんの投稿を拝見して西坂戸運動場の駐車場を利用させていただきました。チェブさんの投稿にある通り、「土塁はどこだ」状態です。説明板の縄張図にははっきりと土塁が巡っているんですけれどもね。

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ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【城域4:曲輪群[4-3]】
<登城路>麓に最も近い曲輪群で、登城口は聖護院宮墓地の正面右手の崖をよじ登れば曲輪群の南端に入れます。聖護院宮墓地へは<35.032576, 135.797845>から北へ狭い道が伸びています。全ての曲輪群を巡る方がいらっしゃれば、ここから攻めるのがベターかと思います。

<見所>堀切・竪堀・曲輪群
<感想>北東方向に伸びる尾根上を削平した10程ある連郭の曲輪群でこの区画だけで1つの城塞くらいの規模があります。曲輪群には堀切が4か所あり南端・中心・北端、中心の大堀切の北側が主要部の曲輪と思われその曲輪の北側の4か所です。堀切土橋の遺構が良く残っています。曲輪群は南から東側に長升形の虎口、曲輪の真ん中に竪土塁の堡塁があり、西側から上がってくるスロープ状の虎口を防御しています。中心の大堀切の南側に東斜面に落ちる大竪堀が見応えあります。中心の大堀切の北側が主要部であった感じで、段々がくっきりしています。「京都府中世城館跡調査報告書」の縄張り図の8番の倒木が多い曲輪が主郭であろうかと思いました。北端は大きい堀切土橋になっていて、土橋から東に曲がって尾根を登り切りると曲輪群[4-2]に繋がります。曲輪群[4-2]は単独でここだけ特異な雰囲気をもつ曲輪群ではあるがこの曲輪群[4-3]とほぼ繋がっているため互いに連携していたと思われます。この曲輪群[4-3]は将軍山城の導入部を守る最前線の曲輪群という印象を受けました。なかなかの見応えです。次は曲輪群[4-2]の投稿です。

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トク

新大河ドラマ

昨日、新しい大河ドラマ「べらぼう」見ましたが、これ初代蔦屋の話だったんですね(知りませんでした~)。福岡にも蔦屋の本屋がたくさんありますが、これでルーツを知りました。そうだったのかという感じです🤔。

一方で本日NHK-BSで新しく始まった再放送の大河ドラマ「独眼竜政宗」も見ました。以前見た憶えがあるものの、ずいぶん前で忘れてしまっていたので、新鮮な気持ちで見る事ができました。「伊達政宗」の人生には興味があったので、一年間見続けようと思います。そしていつかは伊達政宗の居城(仙台城、米沢城)へも行ってみたいなとも思いました。

来週はこのような名言があるそうです・・・
「梵天丸もかくありたい」
トクもかくありたい・・・🤔?

とりあえず地元「ぎりょう」さん、おめでとうございます😊(笑)。

P.Sチェブさんへ・・・福岡にも今川焼ありますよ!
(ドラえもんのドラ焼きに似ています)。
 

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いんげん丸虫

安宅八幡山城 (2024/12/30 訪問)

標高82m
八幡山神社に看板があり、駐車スペース
もあります。
登城道は整備されていて10分も登ると
素晴らしい遺構を堪能出来ます。
カッコ良い堀切、明確な曲輪と段差のある
切り岸、大きな横堀と時間の経つのを忘れて
しまいます。

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チェブ

今川焼とたい焼き (2025/01/03 訪問)

お城EXPO城のある、横浜みなとみらい近辺で買い物をして中華街へ行く予定でしたが、あまりお腹が空いていないのて、「小田原城」までドライブしました。

ちょっと脱線します。
「今川焼くらいならたべられる」と相方。
「今川焼より、たい焼きのがいいな」と私。
「どこが違うの?」と相方。
どこが違うって、よく分からないけど、たい焼きの方が食べたい
のです。
今川焼は各地、呼び方が違うようで
大判焼、回転焼、御座候と私には馴染みのない呼び方がありました。
「小田原城」近辺でお正月だし出店があるのではないか、と向かうと5時に閉門。
間に合いませんでした。出店もありません。

「小田原城」は天守閣は入城できませんが公園は入る事ができます。ライトアップされた天守や門は幻想的でした。
写真では空が明るく写ってますが、真っ暗です。
そして寒くなり、たい焼きも今川焼も忘れて熱々ラーメンを食べましたとさ。

皆さんの地域では今川焼を何と呼びますか?
今川焼vsたい焼き、このどーでもいい戦いのおかげで幻想的な「小田原城」を見上げる事ができました。

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しろりん

広島市のシンボル (2025/01/03 訪問)

日本100名城の一つで、原爆ドームと並ぶ広島のシンボルにしてランドマークです。江戸時代よりの城は石垣を除いて原爆ですべて破壊され、写真や古図面を元に再興された内部コンクリート製の外観復元天守です。内部は見学しやすいように階段の上り下りの仕切りや見学順路も決められています。それぞれの階層は広島城の歩み、城下町広島の発展と暮らし、甲冑や刀・太刀等の武具のコレクションを展示する資料館となっています。こんなに多くの刀剣や鍔のコレクションはそんなにないと思います!
お正月は城内にたくさんの露店が並び大勢の人で賑わっていました。復元とは言えお城が市民のシンボルになっている街はいいなと思いました。

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トク

秋月藩成立400年記念特別展 (2024/12/04 訪問)

昨年末ですが、秋月藩成立400年記念特別展(写真⑩)を見る目的で秋月城を訪れました。ちょうど紅葉が最盛期でもあったので、とても楽しむ事ができました。

秋月城を築城した秋月藩初代藩主「黒田長興」は、黒田長政の長男で福岡藩52万石を継いだ黒田忠之の弟にあたります。秋月の地5万石を父より分地され、幕府に願い出て秋月藩を立藩します。しかしここで天草島原の乱が起き、長興は徳川家光の命で黒田の軍勢として出陣しました。この杉の馬場で出陣式があったそうです(写真⑥)。そして多大な戦効を上げ家光から絶大な信頼を得て行きます。またその子の長重は、長崎警固や朝鮮通信使の饗応役などの要職を長年務めるなどして徳川綱吉から信頼され、秋月藩は幕末まで存続する事ができました。そんな藩の歴史や貴重な資料などが公開展示されていました(館内撮影不可)。

黒門と紅葉のコントラストは、やはりとても映えて綺麗でした(写真①)。他にも長屋門(写真④)や茶屋(写真③⑤)の紅葉や、旧藩主館跡に建っている秋月中学校などもレトロな校舎でおもしろかったです(写真⑦)。また堀からの石垣(腰巻)と土塁を組み合わせた高さは10mほどもあり、この上にさらに塀や櫓があったので、平城でありながら防御もかなりのものであったと推測されます。石垣は野面積から一部角を砕いた打込接へ移行する過渡期のような乱積で、布積に近い所も一部見られました。また櫓の隅部は算木積で積まれ、一部扇勾配もありました(写真④⑧⑨)。杉の馬場は春には一面の桜の道ができるので、今度はその時期にも訪れてみたいと思いました(写真⑥)。
 

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平井城 (2024/12/01 訪問)

車/晴

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POYO58

写真撮りにくいNo.2 (2025/01/02 訪問)

朝田さん、コメントありがとうございます。やはり皆様にもそのようなお困りごとがあるようですね。大平砦は特に撮影が大変そうです。なんなら小学校の前なので不信感に思われそうですね‥

淀城ですが、前回の投稿の続きとなっています。
本丸探訪後、水堀沿いを歩いてみようと思ったら、柵やら店やら駐車場やらで塞がれてしまい、なかなか辿り着けませんでした。カズさんの投稿を見ると駅のホームから撮っていらしゃったようですが、その写真がたぶんベストフォトスポットだと思います。ちなみに僕はその後駅へ戻らなかったので撮れませんでした…

淀城の今残る水堀は半分以上が埋め尽くされてしまったのでなかなか貴重なものだと思います。多聞櫓台も結構綺麗に見えました。
また北西の隅櫓台石垣の上には標柱が立っていました。石垣は荒々しい野面積みでしょうか?

でもやっぱり写真が撮りにくいのでもしよかったら水堀越しに写真が撮れるところを設けて欲しいのと、もしすでにあるのならば、その案内板などを設けて欲しかったです。淀城の水堀越しの写真は皆様の投稿も見ながら、楽しみたいと思います…

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イオ

越前若狭お城フェス (2024/10/14 訪問)

(続き)

福井城は6年ぶりの再訪です。この日は福井城、中央公園、ザ・グランユアーズフクイの3会場で越前若狭お城フェスが開催されていました。まずは福井神社から内堀越しに艮櫓台、巽櫓台、坤櫓台を眺めつつ本丸外周を一周。この日はお城フェスのイベントとして内堀遊覧のEボートが出ていました。

御廊下橋から山里口御門を抜けて本丸へ。本丸の西辺には(北辺にも)雁木が長く続いています。天守台へと上って行くと、お城フェスのイベントとして福の井の覆いが開けられていて水汲み体験をすることができました(お湯がまだ湧いてなかったので県産茶のふるまいは受けられませんでした)。天守台の周囲を回りつつ、西側の中央公園を見渡すとお城フェスの模擬門やテントがいくつも立てられていました。

お城フェスの中央公園会場をざっと見て回ると、ザ・グランユアーズフクイ会場へ。福井県内を中心に、北陸や岐阜、滋賀など近隣のお城のブースが出展していて、中でも福井県内の城は城びと未登録の城もいくつかあるなど地元ならではの出展でした。お昼前には福井を発たなければならなかったので、じっくり見て回る時間は取れませんでしたが、いつか訪れる日のためにパンフレットはたくさんもらってきました。

以上で福井遠征完了ですが、前夜にはご当地グルメのソースカツ丼を食べました。一乗谷から福井に入り、ホテルから徒歩圏内のヨーロッパ軒総本店へ。福井でのソースカツ丼発祥の店だけあって30分ほど並んで入店しましたが、薄めのカツに特製ソースが絡んで待っただけの甲斐がある美味しさでした。
 

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いたち

高石垣は想像以上に高かった (2025/01/05 訪問)

1月5日に攻城しました。大手門には門松が飾ってありお正月気分を味わって、少し得した気分でした。訪問者も殆ど居なくて、ゆっくり散策できました。天守は小さいながらも、柱な梁に時代を感じられ、木造建築を堪能しました。

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todo94

元日の攻城④ (2024/01/01 訪問)

竜ヶ谷城からの転戦です。昼食を済ませてから、長栄寺へと向かいました。長栄寺山門脇に標柱が建っており、その横の坂を上っていくと寺の背後の林の中に木の板の表示がありました。思っていた以上に空堀をはっきりと視認することができました。

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T-Shionoya

大草城 信長時代最後の織田家の城 (2024/12/09 訪問)

国土地理院の識別標高図で堀と土塁が確認でき、興味のあった愛知県知多市の大草城。

伊勢湾の東岸、矢田川の北の比高10m程度の段丘の縁に築かれた城。
矢田川河口部の大野湊は水軍基地でもあり、伊勢湾海上交通の拠点の1つであったとのこと。

大野城からの移転にあたり1581年に信長の弟の織田長益(後の有楽斎)が築城を開始。しかし翌年の本能寺の変により工事が中断された未完の城。
それでも長益は館を築き1586年まで住んでいたとのこと。

現在、三の丸は宅地化されているものの、本丸と二の丸は堀と土塁が明瞭に残り小さな模擬天守が立つ大草公園。
また航空写真を確認すると、少なくとも1980年代までは三の丸北側の堀と土塁の痕跡が残っていたようである。

個人的には東側の入城口から水堀を北に進み巨大な土橋から徐々に南へ向かうルートがお勧め。
樹木が多いが、残る土塁は高く厚みがあり強固な印象。
模擬天守1階の小さな展示場で大草城の学習ができ、今は廻縁に出ることも可能。
展示資料(尾張藩作成の古城絵図)によれば、三の丸北東部に枡形虎口を装備していたとのこと。

また三の丸の堀について調べていたところ、気になる場所があり本日急遽再訪問。予想以上の高さの盛土は土塁の跡でしょうか。
石垣は存在しないものの"織田"のブランド力を感じた気がする、私の城郭巡りの189城目でした。

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朝田 辰兵衛

不審者に疑われてるであろう場面… (2024/12/24 訪問)

POYO58さんへ…
不審者に疑われてるであろう場面はいくらでもあります。ケースバイケースですが,サクッと撮影してウロウロしないで立ち去るっていうのが,市街地では一般的なのかな…?
ムダに他人の足を止めてしまうので。
公園系は,朝方とか夕方のほうがシャッターチャンスが多いです。うまくいかないこともありましたが…。ま,そんなことも思い出として心のアルバムに収めてください。人間的に懐の深い器を形成するための絶好のチャンスととらえて。
私有地であれば,「目的を伝えて挨拶すること」が必須だと思います。私有地でなくとも,ボランティアで整備に携わっておられる方もいますので,こちらを注視しておられる方がいましたら「目的を伝えて挨拶すること」を心がけてください。
最近の投稿では…
todo94さんの「斎藤氏館」,私の「岡崎城」「畑谷城」なんかは参考になると思います。

大平砦ですが,ここは奥沢小学校となります。
最初から,サクッと撮影してウロウロしないで立ち去ると決めて乗り込んでいます。他の方の投稿を参考に,自分で撮影ポイントを決めて秒で立ち去るという感覚です。

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城とマスク

新春南総里見八犬伝の旅 (2025/01/02 訪問)

滝田城の後はアジフライ定食を食べて館山城に移動しました。南総里見八犬伝の資料などを見学しお城周辺を散歩して来ました。八犬伝の映画を観たばかりだったので凄く楽しめた旅でした。

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城とマスク

南総里見八犬伝 (2025/01/02 訪問)

去年映画の八犬伝を観たので行って来ました。駐車場から徒歩20分ぐらいの所に伏姫と八房のブロンズ像がありました。
山道を沢山歩いたので館山に移動してアジフライ定食を食べに行きました。

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ぴーかる

まるごと将軍山城

【まえがき】
<駐車場他>三井のリパーク北白川東小倉町終日550円に駐車しました。近いのは登城口の日本パブテスト病院、土日祝は終日700円。北白川児童公園に公衆トイレあり。
<交通手段>車

<思い立ったらすぐ行きたい>
現在8代将軍足利義政からの足利将軍のお勉強(大したものではありません)をしていて、城びとの登録城の京都市東山の山城を攻めようと色々と調べていると、どうも将軍山城はとんでもない大規模城郭(各々別々の城や東山新城とは別城との説もあるが)だと知って、これは丸1日くらいかかる予定で攻略(結局、日を分けて丸2日かかった)をしました。先日行った中尾城・東山霊山城を先に攻略し、今回将軍山城は12/8と翌週の12/15に完全攻略をいたしました。ご興味のある方は是非お付き合い下さい。

<これからの投稿の説明>
将軍山城は城郭放浪記さんのサイトを見て「京都府中世城館跡調査報告書」を知り、それを確認しました。城跡は山脈に広く分布・点在していて報告書では城域1~4までに曲輪群を区分けしています。私もこの縄張り図を基に城跡巡りを実施して、区画ごとに全13回程に分けて投稿をしたいと思います。自分でもどれくらいになるか分からないくらい大作になるかと思います。投稿順は下記の城域の攻略(行った)した順番、または行きやすい順に行います。
城域1:主郭ゾーンの曲輪群で主要部と東・南・西に尾根曲輪群がありますので4つのゾーンに分けて投稿します。
城域2:4つの曲輪群に分けられ[2-1][2-2][2-3][2-4]曲輪群の区画分けをしています。
城域3:曲輪群が1区画あります。
城域4:3つの曲輪群に分けられ[4-1][4-2][4-3]曲輪群の区画分けをしています。

<お城の歴史>
将軍山城は北白川城とも呼ばれ、1520年に管領の細川高国が築城しました。高国は足利将軍の家督争いの中で当時は事実上京都を押さえたトップの権力者となり、翌年の1521年に亀王丸(足利義晴)を擁立し新将軍にした人物です。その後足利義晴が1546年11月に細川晴元と対立する中で「将軍山城を改修し入城」、1550年には義晴は今度は三好長慶との対立のなかで2月に中尾城を築城、4月に「北白川にも城塞を築く」とあります。足利義輝の代では1558年、朽木から入京する際に将軍山城に入り、北白川の戦いでは将軍山城は三好軍と争奪戦を繰り広げます。1570年には明智光秀が浅井、朝倉軍・延暦寺を牽制するために入城したとあります。

<将軍山城と将軍足利義晴・義藤(義輝)父子の私的意見> 
 将軍山城(北白川城)は足利義晴・義藤父子の代に最も関わりが深く、細川晴元や三好長慶との争いでこの城に入城して戦い敗れると城を焼いて比叡山と尾根続きになっているため比叡山から近江坂本へ避難(六角氏の庇護があるため)して、坂本ではちょっとヤバイと更に北の堅田や朽木に避難する。勢力が盛り返してきたり、京都の支配者の権勢が減退してきたら坂本から将軍山城を改修入城して入京を試みるパターンが多いです。三好長慶も将軍を弑逆できるはずはないので、将軍山城・中尾城・霊山城のある東山は完全制圧するのではなく、将軍が近江へ出たり入ったり出来るルートとしてわざと緩めにしていたかと感じます。
 足利義晴は生誕から死去するまでほとんど京都に入れなかった将軍ですが、京都では慈照寺(銀閣寺)を拠点に将軍山城を改修、晩年には病を押して中尾城を築城し念願の入京を果たして将軍親政を行いたいと志した人物でもあります。最後は近江の穴太で死去(自刃したとも)しますが、足利義輝が足利将軍の中では最も人気がある?(ゲームか何かで?)感じますが、私は足利義晴の壮絶な人生に感じ入りました。足利義輝は満10歳で将軍職を引き継ぎ父の義晴と共に少年時代を近江や東山での避難生活を過ごして、父義晴の意志や薫陶をよく受けていた(砕けた言い方だとコミュニケーションが多かった)と思います。足利義輝が三好長慶と和睦後に入京し権勢を上昇させ将軍親政を短い間だけでしたが果たせたのも義晴の教えがあったのかもしれないと思ったからです。

<写真>
写真なしでは寂しいので今回は登山口の大山祇神社と聖護院宮墓地を載せました。

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