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しんちゃん

ナイス富士 (2024/12/29 訪問)

足柄城は足柄峠沿いに築かれています。自動車でのアクセスは良く、駐車場も完備されており、すぐに城址に入ることができます。大森氏によって築かれ、北条氏綱・北条氏康によって改修が施されました。周囲にはたくさんの支城が有ります。
豊臣秀吉による小田原攻めの際には城番として北条氏光がいましたが、氏光は山中城落城後に主力を連れて小田原城に退き、足柄城はたいして抵抗もせず、あっさり落城してしまったようです。ちょっと残された守備の兵が気の毒だわ。
一の郭からアクセスできますが、城址碑の周辺から、いきなり富士山が良く見えます。いいですね~ 他にも城址の至る所から富士山が良く見えます。これは山中城と並ぶ富士見の城ですわ。

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しんちゃん

今城 今城塚古墳 (2016/05/22 訪問)

高槻市の国指定史跡・今城塚古墳は戦国時代には城として利用されました。古墳を城にするとはけしからん・・周囲に堀も有るし使える物は何でも使うのが戦国時代らしいですな。戦国流利再来(リサイクル)というやつですな。
第26代継体天皇の陵墓説もあるようですが、宮内庁から陵墓参考地の指定を受けておらず一般人の立ち入りが可能です、入っとけ入っとけ。織田信長が三好家を攻めた永禄11年(1568)に城砦を築いたとされています。

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しんちゃん

虎渓山永保寺 (2022/04/05 訪問)

岐阜県多治見市にある虎渓山永保寺は紅葉の名所として有名ですが、春も中々良いです。咲いているのはシデコブシかな?永保寺の近くには野生のシデコブシの群生地があるようです。
永保寺は夢窓疎石(国師)が開山とされ、元翁本元がそれを受け継いだとされています。境内は国の名勝に指定され、観音堂と開山堂が国宝に指定されています。虎渓山の由来は中国廬山の渓谷とされていますが、夢窓疎石は廬山を訪れてはいないそうな。夢窓疎石は後醍醐天皇に国師号を下賜された後、入滅後も含めると七度も国師号を賜り、七朝帝師という別名もあるようです。
そんな偉い夢窓国師ですが庭造りも得意で天龍寺・西芳寺の庭園を手掛け、甲斐には恵林寺を開いたりしてます。

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イオ

【赤色立体地図かるた】 (2022/10/02 訪問)

山崎城 京への道を 阻む城
(やまざきじょう きょうへのみちを はばむしろ)

西から京に攻め上ろうとすれば、桂川・宇治川・木津川が合流する天王山と男山の間の湿地帯を越えなければならず、山崎城はその要衝を押さえる重要な拠点だったと考えると、天下分け目の合戦の舞台とされるのも頷けます。山崎の戦いの主戦場は東麓だったようですけどね。

…ということで、差替分から2城の投稿で計13城。今回は絵札がない上に読み札も半分なので、ひとつでも採用されれば御の字ですが…。ともあれ、これでかるた投稿も一段落。この間にまた溜まってしまった城めぐりの投稿に戻ります。
 

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赤い城

海上交通の要衝 (2025/07/21 訪問)

瀬戸内海に突き出る聖通寺山の山頂にあります。
北峰、中峰、南峰で構成され、北峰の平山は常盤公園として整備され、結婚式場が建っています。
駐車場の脇には平山城の石碑が立っていて中央には積石塚古墳が残っています。
瀬戸大橋や瀬戸内海を望む眺望は見どころです。
この駐車場がある場所には江戸時代後期、高松藩の砲台があったそうです。

中峰が本丸、本丸には鉄塔が建っています。
腰曲輪が付いていますがイノシシの罠が仕掛けられていて侵入は断念しました。
本丸下には石碑がありますが下草で隠れていました。
広い削平地の先には展望台があり、その先は尾根になっていました。

少し下った南峰にはゆるぎ岩があり、広い削平地になっています。
出曲輪だったとされています。
全体的に明確な遺構は見られませんが、瀬戸内海の交通の要衝で重要な役割を担った城であることはうかがい知ることができます。

尚、宇多津町にある78番札所の郷照寺は厄除けの寺として知られています。

【見どころ】
 ・北峰からの眺望
 ・本丸下の腰曲輪

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todo94

北海道&東日本パスで青森の城めぐり⑦ (2025/08/17 訪問)

島守館からの転戦です。説明板や案内表示は見当たりませんでしたが、トーダイさんの投稿や城郭放浪記さんのページを拝見してここで間違いないという確信は持てています。空堀遺構を確認することができました。トーダイさんも脚を伸ばされている庚申塚のあるあたりまで歩いてからここを後にしました。

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小城小次郎

日野江藩はあるが原藩は存在しない (2025/01/27 訪問)

原城に移転しなかった(できなかった)有馬家は実はずっと日野江藩で、松倉家は日野江から島原に移っているので原藩というものが存在しないことに今さらながらに気がついた。石垣の残り具合は意外なくらいによい。

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しんちゃん

万葉公園・足柄峠 (2024/12/29 訪問)

神奈川県と静岡県の県境にある足柄峠は東国と都を繋ぐ要路でした。古事記には日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路に、海神に身を捧げた弟橘姫を偲んで「あづまはや」と叫んだと記載があります。
奈良・平安時代に官道が通っており万葉集にも多くの足柄の歌が詠まれています。公園内には万葉集から抜粋した歌碑が立ち、ゆかりの植物が植えられています。この辺りは足柄城のすぐ近くで、坂田金時にゆかりのある場所も多くあります。

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平馬

北条流堀障子 (2025/09/03 訪問)

なんと言っても見所は障子堀になりますが、自然災害のせいか崩れている箇所が見られました。
それでも戦国北条氏の特徴である障子堀を現在も見ることができるので貴重な城跡です。

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「来し方行く末 天守見守る 洲本城」
(こしかたゆくすえ てんしゅみまもる すもとじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「石垣も 曲輪も盛り盛り 飯盛城」
(いしがきも くるわももりもり いいもりじょう)

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平馬

本丸からの景色 (2025/09/03 訪問)

石垣は全体的に崩れていますが、井戸曲輪がよく残っています。
本丸跡の物見台から見る小田原城下と相模湾は一見の価値があると思います。
駐車場には一夜城ヨロイヅカファームがあり地元野菜やスイーツが楽しめるようです。御城印もここで購入できます。
火曜日・水曜日が定休日です。

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しんちゃん

土肥氏館跡・城願寺 神奈川県湯河原町 (2024/12/29 訪問)

土肥館は神奈川県の湯河原駅から城願寺の付近に有ったとされ、湯河原駅には館址の石碑と土肥実平夫妻の銅像が立っています。実平は小早川氏の祖とされ、源頼朝の挙兵に早くから応じ、石橋山の戦いで敗れた頼朝がわずか主従七騎で落ち延びた時にも、共にいたとされています。その後も、宇治川の戦い・一ノ谷の戦いと源義経に従って戦い、その後は源頼範の進軍を支援したとされます。
城願寺は駅よりもやや小高い地にあり、境内には66基の墓石があり、土肥一族の墓所となっています。後世、石橋山の合戦の故事にちなんで七騎堂が立てられ、近くには実平お手植えとされる樹齢800年以上のビャクシンが立っていて、国の天然記念物に指定されています。

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しんちゃん

松田氏 (2024/12/30 訪問)

現地案内板によると松田城は旗矢沢、天神沢という二つの沢を天然の要害として利用した連郭式山城になります。本曲輪の前後に曲輪が設けられ、堀や土橋が残っているようですが、見た限りでは判別が難しいです。道沿いに曲輪らしき跡を確認できますが、城址に入ることは出来ないようです。
波多野氏の系譜である松田頼秀・顕秀・憲秀の時代に使われ、憲秀は小田原北条氏の筆頭家老であり、松田城にはその弟新次郎康隆の持城であったとされています。

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しんちゃん

出雲大社 (2013/10/05 訪問)

出雲大社は大国主大神を祀る神社で、伊勢市の伊勢神宮と並んで二大神社と呼ばれることもあります。創建については日本神話の国譲りの伝説に由来があり、大国主が出した国譲りの条件に従って「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」が築かれたとされています。境内は広く、参道もとても長いです。
神楽殿に架けられた大注連縄は長さ13m、重さ5.2トンにもなり、隣町の飯南町で造られ、数年に一度張り替えられています。三度近くまで寄って二度は参拝したのですが、一度スルーしています。なにしろ広いですからね。

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朝田 辰兵衛

ようやく… (2025/06/29 訪問)

みなさんの投稿を拝見して,ようやく工事が完了した確認がとれたので,スケジュールに組み入れました。暑かったのでサクッと撤収。道頓堀方面にはとても行く気になれませんでした…。

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トク

【宮本武蔵】(4)岩石城(小次郎伝説-その2) (2025/09/01 訪問)

宮本武蔵の続き(4)です。

小次郎の豊前説が残る「岩石城」を訪れました。

岩石城は添田町にある標高454mの頂上にありました。JR添田駅からまず見上げます(写真①)。駅から徒歩2時間ほどで山頂本丸まで登れるようですが、この日は1時間程登ったところで気温が30°を超えバテてきたので、山頂本丸まで無理して登るのは断念し、途中の展望台(標高200m付近)で折り返して下山しました(写真②③)。途中には模擬天守がありました(写真④)。またその下にある添田ジョイは温泉施設のようです(写真⑤)。

岩石城は、1158年に平清盛の家臣の大庭景観が築いたのが始まりとされ、戦国期には大友氏との争奪戦の末に大内氏が支配しますが、大友氏が奪い返し、さらに島津配下の秋月種実が奪って秋月氏の出城となります(本城は古処山城)。しかし豊臣秀吉の九州征伐で種実は敗北、豊前中津に入った黒田官兵衛の支配下となりました。登山口には豊臣との戦いで討ち死にした、種実の家臣の墓がありました(写真⑥)。

この山は、元々は英彦山(ひこさん)の山伏の修験場であったようで、この頃から添田の土豪の佐々木雅楽介(うたのすけ)の一族が住み着くようになり、その一族(流派)は山の名前から「岩流」と呼ばれていたようです。いかにも修験場というような気味の悪い岩もあり、ぞっとする雰囲気でした(写真⑦⑧)。

1587年豊前国に黒田官兵衛が入ると、城井城の宇都宮鎮房は、豊前は渡さぬと反旗を翻したため、鎮房は黒田長政に謀殺されてしまいます。雅楽介は種実や鎮房に従っていましたが、敗れた後は岩石山に籠り、その後もなかなか官兵衛には従わなかったようです。

関ケ原後の1602年には代わって豊前に入国した細川忠興の所領となりますが、この頃になると、雅楽介に代わり小次郎が一族の棟梁的存在になっていたようです。1609年小倉城が完成した後も、忠興はなかなか従わない岩流の一族には手を焼き、そこで何とか従わせるため、小次郎の腕前を高く評価しているので、小倉城の剣術師南役にならないかと誘いをかけ、一族を取り込もうとします。

この豊前説は、吉川氏の小説が発表された昭和10年頃にはまだ存在していなく、ここ最近になってこの地域の歴史背景や英彦山高田家文書の発見から、新たに浮上し始めた説のようです。さらに何とこれを機に、添田町役場には小次郎の銅像が昨年建立されました(写真⑨⑩)。添田町はこれで何か町おこしをしたいようです。添田町の像は岩国市の像とはかなりイメージが違っていました。若くてイケメンではなく、中年でたくましい感じの像でした。いったいどっちが本当の小次郎なのでしょうか🤔? 小次郎論争、これからもますます面白くなりそうですね!😱~。

次は、武蔵の生誕地とされる、播磨「高砂」に続きます。
 

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じゅんじん

桜とお城 (2025/04/07 訪問)

だいぶ木が伐採されました

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じゅんじん

新井白石 (2025/03/22 訪問)

小ぶりな模擬がよきです。

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じゅんじん

改修中 (2025/03/22 訪問)

高校もお城の一部で井戸や城門があります。

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